渡米 その4 | パワカンのブログ(輸入車個人輸入代行)

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日本 アメリカ 人と車。日本の将来を考えます。

いつもご覧頂きありがとうございます。

 

衆院選から一か月が経ちます。

この3年間、色々な事があったにも関わらず、いつもと変わりがない結果を見て、妙に律儀な日本人らしさと変化を恐れる島国の風習を実感しています。

日本は時代に乗って変わる事が出来るのでしょうか。

 

輸入したポルシェの加速騒音の音量を下げるべく、先月から長い作業が続いておりました。

なかなか静かにならない、と言う話を聞いては居りましたが、リアエンジンともなるとメカニカルノイズと排気音の合唱で相当苦労をしておりました。ともあれ、試験も無事に合格し、国内登録の目途がたったところで、ブログの更新をしております。

 

さて、留学のその後の続きを書きたいと思います。

1994年の秋も終わる頃、日本に一時帰国をしたのでした。翌年の5月にフロリダの大学に入学するための準備です。ちょうど渡米して1年が経過したところです。

準備と言うか、まず実家に戻り入学時期までアパレル業の仕事を手伝う。

年末に掛けて忙しいと言う事もありますが、学費のスポンサーですから、手伝うのは当然。高校一年になった時、初めてのアルバイトで勤めた新橋駅のロッテリア。その面接で、「お小遣いを貰わないと約束すれば雇ってやる」と言われて以来、そういうものと染みついていたのかも知れないです。

そんな訳で、実家の仕事を手伝いながら、自分が日本で使えるお金とアメリカでの少しでも

足しにするお金を工面するために、空いている時間を時給が高いアルバイトに費やす事にします。

実家の仕事をしている朝9時から夜6時まで時間を外す

条件を満たす仕事を探しておりました。

そんな時にたまたま手紙が届きました。

私が渡米を決める際、ちょうどニューヨークから絵の勉強から帰って来た方に励まされたことがありました。

その方が、乃木坂で個展をやるから是非来てくれと言う知らせでした。

そのついでもあり、六本木に金魚と言うショーパブのウェイターの面接を受ける事にしました。ショーは夜から始まり、夜中に終わる。すぐに支度すれば終電で帰れるし時給も1,500円位で条件的に良かったんですね。

 

当日、乃木坂の画廊に挨拶と進捗状況の報告を兼ねて向かいました。

この方は父や兄弟が政治や芸能の世界にあるにも関わらず絵描きを志していたので、相当なプレッシャーもあったものと思います。それが個展を持てたと言うのは、私にとっても心強いニュースでした。

他にも応援して下さる方々から感性哲学の本など頂いたりして、妙に?熱くなっていた頃でもあったんですね。

六本木「金魚」のアルバイトも決まり、5月までの日本生活が始まります。

「金魚」では、店長さんにはフロリダの大学の入学時期には渡米したいと言う事情を説明して仕事をさせて頂きましたが、あとは他言無用と言う事にしていました。

21歳にもなって大学を目指すフリーターと言う事で、相当白い目で見られていた感じがありました。アルバイトしているのは皆大学生だった事もあってか、年下の彼らに「3浪してまで行くほどのものじゃない」と皮肉を言われることも度々です。

あまりにもしつこいから、「自分は大学に居た、それを辞めて留学するんだ、そのためにお金を貯めて準備をしているんだ」なんてことを口を突いて言ってしまいそうな時もありましたが、言ってしまうと何かが崩れ去りそうな気もしていて口には出せませんでした。

じっと心に秘めている事で、そのエネルギーが持続することってありますよね。

あまりペラペラと口に出すタイプでも無く、どちらかと言うと無口な性格だったのもあったのかも知れないです。

「金魚」での仕事は片付けまでいると終電が無くなってしまうので、当初は途中で帰る事にしていましたが、帰りにくい時が出てくる。夜中2時を過ぎた時は、仕方なく歩いて帰るのですが、割り切って夜中の恵比寿、品川を散歩のつもりで帰ったら、6時間も掛かり、家に着くとそのまま仕事と言う時もありました。

それから、ラストまで仕事する時は自宅の車で行く事にしましたが、当時は路上駐車が当たり前の時代だったので、コインパーキングなどは殆どありませんでした。六本木では路上駐車は二重駐車にも関わらず、殆ど止められるスペースがなかった。その昔のディスコ(今でいうクラブ)全盛期ほどではないにしても、駐車場所を見付けるのは一苦労したものです。

何度か車で行ったものの、やっぱりこれはこれで大変です。

かと言って、終電のあるうちにと言って途中で帰るのも悔しくて、居心地の悪い上に更に険悪なムードになるのが嫌で、まっすぐ速足で帰れば3時間、と頑張った時もありました。

最終的には、六本木の交差点に今は無きArby‘sと言うファーストフードがあり、2時間程度の深夜の清掃スタッフと言うのがありました。始発まで仮眠休憩可と書かれていて、これが丁度よかった。こんな事をして日本でアメリカ生活の足しにとチマチマとお金を貯めておりました。その間に、フロリダから願書を取り寄せては返送していたのですが、3月に入学許可書が届きます。渡米に関して初めに書いたI-94と言うものが入手できた訳です。

早速「金魚」の店長さんに話をして退社します。「修練と時」が終わります。

家財道具はオクラホマにあります。そこからフロリダに引っ越し、アパートを借りるまでを考えると、のびのびして居られません。「金魚」で最後の給与を受け取り、4月にはあのオクラホマに再渡米をします。

日本に居る間、アメリカのディスカウントストア「WAL MART ウォールマート」についての本を読み、始まりはオクラホマ州キングフィッシャー(Kingfisher)と言う町から始まった事を知った時、一度この町を見てみたいと思っていました。

なので、先ずオクラホマ渡米後はすぐに車を買いに行きます。

1,500ドルを更に引いてくれて1,300ドル。当時は日本円で11万円です。

ダークグリーンの84年FORD BRONCOⅡと言う車。フルサイズのブロンコを小さくしたエクスプローラーの元祖ですね。リペイントされていて外観はとても綺麗でしたが、メーターは2-3回転していると言われたものです。つまりオドメーターは5桁なので10万マイルで0に戻ります。概算で30-40万キロ走っている計算ですから、10万円ちょっとと言うのは安いように思えますが、日本なら距離を考えれば値段が付けられないレベルですね。

それでも、これがよく走ってくれたのです。

早速この車で当時キングフィッシャーの町まで行ってみた。都市から離れた町だからこそ、ディスカウントストアとして成り立ち、全米一の企業にされたと本に書かれてはいましたが、数えるほどしか信号機がないこの小さな町から、こんな大企業が生まれただなんて信じられない、と言うのが率直な感想でした。とは言え、創始者のサム(サミュエル) ウォルトン氏の父親の農業が困窮、幼少期にはミズーリ州に引っ越しをしています。その後、アーカンソー州のニューポートと言う町で店を持ち、同州ベントンビル ロジャースでWAL MARTとしてディスカウントストアの開業を果たした。

1号店は西にオクラホマ州境、北にミズーリ州境があり、その分岐点にアーカンソーの町です。私が渡米した時の大統領は、ビル クリントン(ウィリアム ジェファーソン クリントン)で全米一の田舎町(州)から出た大統領と呼ばれたほどです。

一度、アーカンソー州の州都リトルロックに行った事がありますが、都会のイメージではあったし、全体的に見ても全米一の田舎町と言うには大袈裟な気はします。アメリカは都市部を外れれば大田舎ですから。

 

余談ですが、ビル クリントンと言う名前は何処から来たのか不思議に思う人もいるかも知れません。例えば、キャサリンを短くしてケイトやケイ、エマニエルはメニー、などはよくなりますね。しかしクリントンに関しては、ビルと呼べる名前が見当たりません。説は色々あって調べると色んな話を見かけますが、ウィリアムをビルと呼ぶ習慣があるようです。例えば、ウィリアム ヘンリー マッカーティ。誰の事か分かりますか?

ビリー ザ キットの本名だそうです。

日本でも、久子(ひさこ)さんをチャコさんと呼びますね。そういうものでしょうか。

 

話を戻して、ウォールマートがディスカウントストアとして営業を開始した経緯として、「都市部から離れた町に住むことでの日々の買い物に要する半日の無駄」を解消したかった事が最大の理由だそうです。

なるほど、サム ウォルトンが都市部に住んでいたら、ウォールマートは無かったかも知れません。

 

 

さて、車をゲットしたし、友人宅に預けてあった荷物を積み、エンジンオイルがポタポタ垂れるので、1リッター(1クオート)ボトルのエンジンオイルを2ダース買い込んで、いざ2,500km、フロリダに向けて出発です。

初めての渡米から1年半が経過したところですが、私の中では今までにない本格的な海外生活が始まる予感がしていました。

日本での半年近い生活のストレスの反動もあったのかも知れません。

 

それでは、

今日はこんな所で、次回に続きたいと思います。