渡米 その7 フロリダ生活 台風と引っ越し | パワカンのブログ(輸入車個人輸入代行)

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日本 アメリカ 人と車。日本の将来を考えます。

雪の多い今シーズン、千葉-東京は大したことはありませんが、足元にはくれぐれもご注意ください。特にマスクをしていると酸欠状態になっているので頭が働いていない時があります。車に乗っても、なるべく外気循環を利用してください。日本は何気なく内気にしているので、眠気やぼーっとしてきたら気にしてみては如何でしょうか。

アメリカ車は外気循環設定をデフォルトとしているので、何でだろうと思われがちですが、こういう理由があるのですね。

 

さて、前回はフロリダに引っ越して半年に満たない間ですが、ボランティアをしてみたり、日本人と知り合ったりする機会を持つことができました。

オクラホマに居た時と異なるのは、外国人とも一緒に居る事で、日本人を含めても英語が会話の主体であった事でしょうか。日本人同士では日本語ですが、大体外国人も一緒におりました。

前回、ノブ、ナオ、マリと言う三人の日本人と知り合いましたが、マリの彼氏はウィリーと言うハワイアンで、とても優しくて面倒見の良い男です。

ティンドルAFBに勤める軍人ですが、肉体系と言うよりも知能型の職務についていました。

とは言え、体格はしっかりしていて体力もある男なので、文武両道のタイプでもあったので、よく私の車の修理やメンテナンスを付き合ってくれました。と言うより、アドバイスされることが多かったかもしれません。例えば、私の代わりに運転をしている時に、ドライブシャフト(日本ではプロペラ―シャフトと呼ばれます)のルーズさを指摘された事があります。そのうちと思っていたら、案の定ユニバーサルジョイント部(留め金)にヒビがあったのでしょう。走行中にこれが完全に外れ、下回りでシャフトが暴れ出し、叩きつけるような事がありました。こうなると止まれても動きません。AT車ならサイドブレーキが甘いとPレンジに入れても車は動いてしまう。坂道だったので、ハンドルを切ってタイヤで縁石に当てて止めるしかない。でも、この手法は基礎操作なのです。日本人はすっかり忘れているようですが、今も坂の多いサンフランシスコなどは、正常な車であっても、ハンドルを切って停車しています。

 

ところで、そんなウィリーですが、とても温和な性格でいつも「マリちゃんマリちゃん」とべたべたしてきた反面、彼女は男っぽい性格だったので一風変わった2人に見えたものです。そのウィリーにも男っぽい時はあったようです。前から気になっていた腕の大きな火傷の痕について聞いてみました。ここには大きなタトゥーが入っていたとか。10代には意外と無茶な事をしていたそうですが、タトゥーがあると昇進が限られるから、レーザーで消すしかなかったと言う事でした。アメリカではタトゥーは誰にも干渉されない当たり前の自由だと思われがちですが、実際にはこういう所でのリスクは耳にします。

最近でも、ロサンゼルスのディーラーであったことですが、夏にディーラーのセールスマンが、両腕にタトゥーがあるから長袖しか着れないとボヤいていた事がありました。大人になって後悔する人も結構いるようです。

片腕にFire もう一方にBlizzardを漢字で掘ったタトゥーがあると言って見せて来た。

それが実際には「火 氷」と書いてあって、自動販売機のHOT & COLDをイメージしたり、いつか消すな…と思うのは私だけでしょうか?

 

話は戻りますが、フロリダ パナマシティに落ち着いて、徐々に車の修理や釣りを満喫するようになります。暑い所なので、水温があがる、エンジンオイルの漏れが激しくなる、エンジンが掛からなくなる、エアコンもステレオも壊れている、日常に使用では快適とは言えない部分を自分で修理をするようになります。チマチマ直しているので、時間は掛かりますが、ちょっとずつ直せるようになってきます。

ただ、いつも直すのはアパートの駐車場と言うのは気が引けます。

そんな訳で、町も知ったことだし引っ越しを考えます。

よく釣りに行っていた桟橋があります。この桟橋は大学を挟んで反対側にあります。

距離にして50km位はあったと思います。当時はガソリン1ガロン99セント。つまり1L当たり25円の世界でしたから、のどが乾いたらガソリン飲めと言う時代。コストは気にする事はありませんでしたが、この桟橋に近い所に賃貸でコテージ風の建物を並べてありました。スタジオルームと言って、日本語ではワンルームの建物ですが、これが200ドル。車も家の前に止められるし、ビーチ通り沿いの海風が爽やかで、何よりお隣さんと壁一枚と言う事じゃないのが良かったんですね。それまでは夜に隣の部屋から漏れて聞こえる声で目が覚める事もしばしばでしたから。

 

大きく言えばフロリダ パナマシティですが、パナマシティを挟んで東にキャラウェイ、西にパナマシティビーチと言うエリアに分けられます。それまでのアパートも海沿いですが、いわゆるBayであって、今回のアパートの海はまた違った”広い”
に変わり、家賃も6万円から2万円と単純計算1/3です。エアコン、トイレ、台所の設備があるので、狭くても全然気にしません。更に、大学も若干近く、桟橋(ピア)も近い。なので、ワクワクしながらの引っ越しです。

 

右(東)のキャラウェイから左(西)パナマシティビーチへ。ハート形のポイントは大学です。

そして桟橋も近くて青に囲まれた明るい雰囲気のエリアです。

 

 

今も容姿変らず残っています、Bay Front Apartment. ここから引っ越し。

 

引っ越し先も健在。↓

覚えていた住所Gardenia streetですぐ出てきました。コテージも相変わらず。

黄色の矢印でマークしたコテージに住んでいました。

当時はコテージの敷地内は海の砂に囲まれていて、部屋の前に車を駐車していたのでよくスタックしていました。

現在はWalk Wayが出来ていますね。

 

100mほど歩けば海に出ます。同じ海でも全く雰囲気の異なるエリアです。

 

こういうのは気分が変わる大きな転換期にもなるものです。

これでボランティアをしていた店舗は大学より更に先になり、足も遠ざかります。

引っ越しと同時にSalvation Armyにどうしたものかと聞いてみたのですが、登録をしたまま、機会があればまた来て欲しい、と言う程度のものでした。

 

この引っ越しが秋頃で少し話が前後するのですが、その前にパナマシティに台風が襲います。ハリケーンはフロリダでは珍しくありません。ハリケーン(Hurricane)とか(タイフーン)Typhoonとか言いますが、一般的にはハリケーンです。規模の大小で変わるのでしょうか。この頃は10月、英語では“ハリケーン オポ”と名付けられました。10月の誕生石「Opal=オパール」の英語発音です。

風速は日本と表記が異なることもありますが、数字を見ても良く分からないんですね、台風の強さというのは。

テレビやラジオではやたらとevacuationを連呼するので、退避や避難と言う言葉と発音を覚えました。

ハリケーンはヒュラケーンと言う発音が近く、evacuationはイバキュエイション。ただ、いまいち警戒レベルが分からない。

一番大事な部分ですが、カテゴリーで言われても更に混乱するだけ。

スーパーで前もって買い物を済ませ、学校以外には出歩かない様にしようと少し警戒をしてみます。今日の夕方には台風が来る?と言う事で、午後は臨時休講のつもりで大学に行きます。

そこで自分の甘さを知る訳ですが、行ってみると大学には誰も居りません。

まさか台風?と思いながら、アパートに引き返す。何か物々しい感触があるのですが、日本ではこんな事は聞いた事がない。

行きに気付かなかった帰り道の店々のガラスにはべニヤ板やスコッチテープが貼られ、人通りも極端に少ない。慌ててアパートに引き返し籠城するしかありません。アパートに着くとすべての部屋の窓が同じようにベニヤが貼られています。出るときは背にしているので、これにも気づかなかった。食べ物はあるので部屋に籠るも不安はありませんが、今さらべニヤ板やテープは手配出来ない。ガソリンスタンドでさえ閉まっていて打つ手なしです。ガラスが割れたどうしようか。隣の部屋に避難できないか?と考えるも、駐車場には誰の車も停まっていない。要は、アパートから皆出てしまっている。となると、自分もここを出たい衝動に襲われます。窓ガラスのべニアは、誰も居なくなるための防犯の意味もある訳です。私はとりあえず必要なもの(パスポートや貴重品)を取りに部屋に戻ると共に、同じ大学の日本人留学生のナオからタイムリーに電話があり、彼も同じくアパートに取り残されていると言う。どこに避難しようかと話しているうちに、アパートの駐車場に海水が入ってきているではありませんか。このまま沈没する訳には行かない。その時に知るのです、1階が中2階の高さから始まるこのアパートにはその意味があったと言う事を。結局、ひとまず大学近くに住むナオのアパートに行き、ここも大学の湾にあるものの、少し陸が高く、入り組んでいるので、私の車を止めて、ナオの車で町を出る事にしました。最初はこういう時こそアメリカンSUVであって、スポーツカー(日産の240SX)の出番じゃない、と言うナオの主張でしたが、10万円と60万円の車です。高年式かつ価格に高い方が確実と言う話になってホッとした。

 

町を避難するのが昼過ぎなっていましたが、既に看板や信号が落ちて通れない道もある。赤信号を待っていると、標識が飛んできそうな恐怖を目の当たりにして、こんな時に誰もいない町で呑気に青信号を待つ、と最初はまだまだ危機感の乏しい日本人ぶりを発揮しておりました。大陸人の咄嗟の行動力には遠く及びません。

避難と言っても、どこ行く宛てはありませんから、南から来る台風なので、ひたすら北上するばかりです。

ラジオを聞きながらあとは予想進路から外れるしかない。北西に向かっていると言えば北東。内陸に入れば台風も落ち着きます。400km位内陸にあるアラバマ州のDothan(ドーサン)と言う小さな町にたどり着き1泊して翌朝引き返す事にします。しかし、どのモーテルも満室ではありませんか。見れば、ナンバープレートにはBayのエンボスが。パナマシティのナンバーの証です。更にDothanも危険だと言うラジオを耳にして、更に東に寄りながら北上し、ジョージア州のアトランタを目指す事にするのですが、見知らぬ一般道を600km走っているうちに、そろそろ引き返しても良いんじゃないか?と言う事で、帰路につく。

運転交代しながらでも、もう疲れたといったところですかね。どこかに1泊して帰れれば良いですが、自分の車もアパートも気になります。一刻も早く帰りたいので、明け方には町に着きたい。そう思う一心でした。

改めて書きますが、どこかで車を止めていれば?と思う人もいるかも知れませんが、駐車場などで停まって車内にいるには危険極まりない。日本のように路上駐車と昼寝などアメリカはご法度で、更には治安の悪いと言われたアラバマ州の見知らぬ土地で、誰が近くにいるかも分かりません。

例えば、携帯電話が鳴ったから、と一時的にでも車を寄せて話す、と言うのも今のアメリカでも非常識に思われるし、もちろん禁止です。今後旅行に行く時は気を付けてください。

時々見受けられます。脇に止めてナビゲーションを操作しようとする日本人的習慣を。

 

ようやく明け方、走っていたのは北から町に入れる唯一とも言える信号の少ない一般道(ハイウェイ)で、あと15分もしないで着くところ、まだ見渡す限り、森や林しか見えない所で大渋滞。渋滞と言うより、町が封鎖され、解除されるまで5時間位は止まっていたと記憶しています。みんな、道路で寝ていましたが、熱くなって来て車内に戻る、そんな太陽の位置でした。フロリダの10月はまだ暑いです。お陰で私もすっかりコンクリートの上で熟睡出来たものの、暑くて目が覚めた。同時に、喉の渇きが酷く、このままでは干からびそうなほど辛かった。考えてみれば、前日の台風上陸は10月5日、私の誕生日と一緒にやってきていた。気付いたのは数日後です。

とにかく、この間に町は電気、水道、レスキューやらミリタリーが一斉に集中して応急処置をしている訳ですね。規模によって政府が介入して、早期に平常化される。期待はしませんが、ちょっとだけでもこういう所は日本の地方自治体含め政府も見習ってほしいものです。

 

封鎖解除の直後は、我先にとなだれ込む車の数々を見て、幻滅したのを覚えています。誰もが自分の住まいや環境を心配するのは当然ですが、阪神淡路大震災の時、日本はどうだったかを考えると、日本人で良かったと思うひと時でもありました。

 

台風オパールの去った町は、至る所で電柱が倒れて道が通れない、家や車が飛ばされている状態でしたが、生活路や主要道路は通れるように処理されていて、電気や水も正常に使用でき、私の車もアパートも問題なく、相当ホッとしておりました。

全面復旧はもう少し掛かるとしても、生活には支障ないレベルです。

唯一残念だったのは、海沿いのコンドミディアムの土台の砂が洗い流されて骨組みがむき出しになって、ビーチに近づけない事や、白い砂が侵食され茶色い砂浜と共に、海藻などの漂着物で色が変わっていた事です。「(Most Beautiful Beach in the U.S.A.)全米で一番美しいビーチ」投票で選ばれたビーチだったので、白い砂浜とエメラルドグリーンに戻るには相当な時間が掛かるだろうなと思うと、もっとビーチを満喫すれば良かったと後悔したものです。更に桟橋は先端が破壊され、途中までしか行けなくなった。住んでいたアパートはキャラウェイだったので、釣り以外にビーチに行こうと言うのはあまり無かったんですね。

 

パナマシティに戻り、まず友達ともお互いの無事を確かめ合います。しかし、マリが意識不明で入院している、と言うではありませんか。

どこで何が起きたとか、どこの病院だとか、マリの住む家のおばあさんは教えてくれません。

おばさんは必死に祈るばかりで心の余裕が無かったようで、1日して回復した時にようやく連絡がありました。

彼女がひょっこり現れて説明を聞くと、てっきり台風の影響かと思っていたのですが、その予想は全く外れていました。

「アリに噛まれちゃった」と。

台風前日、庭の掃除をしていた時に、数匹のアリが上ってきて、チクッと感じたそうです。

気持ち悪くてすぐにシャワーを浴びたのが悪かったのか、そのまま卒倒、病院に運ばれたとか。直ぐに手当されたものの、意識不明のまま、台風当日を迎えたため、シェルターでその日を凌いだと言う事です。おばさん曰く、マリはもう助からないと思っていたそうで、「She must have gone…(もうダメだと思う」」とばかり言っていた。

日本で近年話題になっているファイアーアンツ(火蟻)ですが、日本ではその恐ろしさは見くびられているでしょう。私も最初に住んだ海沿いのアパートが決まった時、海沿いなのがうれしくて防砂林を歩いたことがありました。

歩き始めてすぐ、手の親指の付け根がチクッと感じて見てみると、「何だ、アリンコか」と軽くデコピンで飛ばした事がありました。ホントに小さいアリで少し赤い。デコピンで飛ばした後、何か付いているのでよく見ると、頭だけしっかり噛み付いて残っているではないですか。「ひゃ~執念深いなぁ」と思って散歩を続けるも、疲れていたのか、少し気分が悪くなり部屋に戻り休む事にしました。まさかアリとは思わなかったけど、それから噛まれたところがイボみたいに小さく固くなっていたので、まさかとは思っていた。

なので、マリの話を聞いた時、やっぱり!と合点がいった。更に3匹となると、致命的なのも頷けます。

 

それで、パナマシティニュース(ローカル新聞)にも、ハリケーンをシェルターで過ごした日本人としてまで記事にされる有様。

 

フロリダに引っ越してからというもの、若さゆえの浅はかな常識では付いていけない事ばかりで、それがある意味では新鮮で楽しくて仕方がなかった。

 

行動範囲を広げる意味でも、まずは安くて車の修理や整備ができるようなアパートはないかな、と言う思いが強くなり、パナマシティの西側のビーチに引っ越しをすることになるのです。

 

パナマシティから西へ向かう道は3本あります。フロントビーチロード、ミドル、バックビーチロード。私のアパートはフロントビーチロードから少し入ったところです。

引っ越しを終え、いつも海岸線を走るフロントビーチロードを利用していましたが、休みになると遠方から学生がこの町に遊びに来て盛り上がります。その時、このフロントビーチロードは大混雑します。ピックアップトラックのベッドに友達を乗せ、見知らぬ対向車(学生同士)と止まって会話したりするので渋滞になります。そんな事を知らない私は独り車で入って白けた空気が流れる経験をしているので、週末やブレーク時は使わないように心がけていました。特にスプリングブレークは酷いものです。

 

秋から冬にかけてはフロリダとは言え、パナマシティは常夏とは言えません。

Wikipediaからの引用で下に画像を貼り付けしています。

フロリダの形状をフライパンに見立て、その柄(取っ手)となる地方をパンハンドルと呼ばれます。日本で言うと、沖縄と九州の緯度の違いがあるでしょうか。ですから、それなりに寒くもなります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Florida_Panhandle

 

夜釣りできますが、海で泳ぐには寒い。フロリダで外交官をしている大沢さんと言う方が居て、ノブやマリの知り合いだと言う事もありトローリングに連れて行ってくれたりしました。プライベートビーチから自家用クルーズで沖まで行き、釣りをしたりできるのです。和食レストランHappy Coatのお客さんで近くに住んでいると言う事でノブも知り合ったと言う事です。マリは年配の日本人のコミュニティから聞いて知っていたと言う。

年配の日本人の方達は、基地に勤めるアメリカ人の奥様がたで、たどたどしい日本語を話す現地生活の長い方々なので、逆に日本の事を知りたい事もあって、色々とお世話をしてくれておりました。困ったことがあると丁寧に教えてくれるんですね。日本語と英語が混ざる会話なので、英語にも慣れる良いお付き合いにもなります。

 

ミシシッピ州にあるビロキシー(Biloxi)にあるカジノに行こうと数人で遊びに行った事もありました。その途中で夜に道に迷ったところで、ハワイ人のウィリーが近くの基地に車を寄せて道を尋ねた時、ヘッドライトを消灯しなかったがために、軍人である彼はかなり厳重に注意を受け、アメリカが車のヘッドライトに神経質な事を知るキッカケとなったのはこの時です。

 

(余談)ライトは照らすポイントは見えるようにしてくれますが、光の届かない暗闇は更に見えにくくします。今はLEDやHIDに変わりつつあり、暗いからと言ってヘッドライトを明るくする人も増えています。ただ、これは見えている物を更に照らしているだけで、その周辺の潜んでいるものを更に見えなくしているんですね。

例えば、部屋の電気を消した時には真っ暗でも、時間が経てば見えて来ますね。つまりそこそこの明るさがあれば、暗い物陰も見えてくるんですよね。何か暗いからと言って、ヘッドライトを明るくすると、周囲が真っ暗になって飛び出しそうな人影も見えなくなる。更に対向車が明るいと尚更で、歩行者の存在に気付かなかったと言うケースが増えています。

夜には目が見えなくなるのはやはり農耕民族の特徴なのでしょうか。

逆に騎馬民族の特性でしょうか、夜目の効くアメリカの人達は、これを大きく嫌う傾向にあるので、敢えてハロゲンを好んだり、メーカー純正のHIDも白くならない4000ケルビン付近で抑えています。また、アメリカでは純正以外のHIDをイリーガルとして、イギリスは原則HIDを禁止しています。霧の無い時にフォグライトの点灯も取り締まりされ、一般的に光の関する理解度が深い反面、日本は光に対する知識はまだ成熟していないようです。

バス、パトカーさえも、雨の日の無灯火、やたらなフォグライトに使用が日常です。

皆さん、ヘッドライトを明るくしたり、意味なくフォグライトを点灯したり上を向けたりしていませんか?対向車の視認を妨げない様にお願いします。

因みに私は夜目の効くタイプなので、最近の日本のヘッドライトのあり方に困る反面、アメリカに行くとほっとします。

(余談おわり)

 

話は戻り、ミシシッピ州のカジノに行くと、当時はスロットマシーンはそのままお金(硬貨)が出て来た時代です。遊ぶと言っても、私たちは5セント(5円)程度です。500枚当たって喜んでも、つまり500円です。増えては減って…を繰り返し、長い時間遊べますが、シーソーゲームに疲れ、友達にトイレ言って来るからと言って一旦席を離れてしまうと、数分後には何も無くなっています。数百円とは言えど、そこにあるのは現金ですからね。隙を見て誰かが持って行ってしまう。

あくまでも5セントなので、損をするも得をするも500円位のものですが。

今はバウチャーが出てくるので、それを持って違う機械に入れればまた遊べるし、退席も簡単です。また当時は機械式リールだったスロットマシーンも現在はデジタルに変わり、ボーナスゲームなども多彩にあるので、大きく当たる事もあります。

1セントで何気なく遊んだスロットマシーンで880ドル当たった事もあります。88,000円として88,000倍です。だからと言って、この時1ドル掛けていたら880万円になっていたか?と考えると疑問ですよね。ラスベガスではデニーズなのどのレストランにも本当の硬貨を使うコイン落としがあったり、現金に換えられるスロットマシーンなど、ガソリンスタンドにも置いてあるほど賭け事が普及していますが、このBiloxiではスロットマシーンを置いてあるレストランは見かけませんでした。

 

その他、急に意味も無くタラハッシー(Tallahassee)に行こうとなった事もあります。

タラハッシーはフロリダ州の州都です。デイトナビーチ、オーランド、キーウェスト、ましてやマイアミでもありません。日本でいう県庁所在地、

東京は新宿区、神奈川は横浜、千葉は千葉市、大阪は大阪市、北海道は札幌、と言うように、州都には何かあるだろうと考えてしまうものです。

これはアメリカ人も意外に知らない知識なのです。

例えば

ニューヨーク…ニューヨークシティ(ニューヨーク市)、テキサス…ダラス、カリフォルニア…サンフランシスコorロサンゼルス、テネシー…メンフィス、etcと思いがちですね。

おわかりですか?

ニューヨーク オルバニー

テキサス オースティン

カリフォルニア サクラメント

テネシー ナッシュビル

と言うように、地名に馴染みのない方も多いかも知れません。

オースティンは別としても、州都=観光地ではないのがアメリカでした。

 

話は戻り、タラハッシーに向かう途中、モーテルで一泊しようと言う事になりました。四人一部屋で安く借りる事ができました。

一旦、部屋にチェックインし、外に食事に行こうと言う事になり、電気やエアコンを消して部屋を出ます。そのうちの一人が部屋に戻り、電気を全て点け、出てきます。何で点けたのか聞くと、折角お金を払っているのだから、使えるものは使わないと勿体ない、と言う。

同じ日本人として悲しくなりました。だって誰も得をする人は居ないのです。得するどころか、経営者は少額でも損する訳です。他人の得を妬む、他人の損を喜ぶ、と言うか、この彼の言動は今も心に刻まれています。「そんなことしても誰も得する訳じゃあるまいし」と言うと、「子供の頃から家族でそうしていた」と言う答えが返って来て何も言えなくなる。

会話は日本語でしたが、一緒にいたスペイン人、ハワイアンにはどう映ったのだろうか。

 

必要ないのに、あるものは使う、と言う考え方ってどうなんでしょうか。

ホテルに滞在する際は、髭剃りも歯ブラシ歯磨き粉も用意していくし、チェックアウトの際は部屋の整頓とベッドを整理(布団、シーツは外して畳む)などして出るようにしています。

アメリカでもレンタカーでも借りると綺麗に洗車して返却したりもしていましたので、彼の言動には全く理解が出来なかった。

ただ、アメリカのモーテルはシャンプーもアメニティも付いていないケースが多いので、自分で用意していくのが常識的です。

もしシャンプーが付いていたら、彼は流すか持って帰るかしたのでしょうか。

それから私は彼との心の距離が出来るようになり、こうした外出は減ったように思います。

 

さて、州都タラハッシーに到着したものの、あまり観るものも無さそうだと言う事で、街中をドライブしていると、シビックセンターを通りがかった時、広場に白い三角の頭巾を被った白装束の集団が立っていた。そう、お分かりの方も多いと思います。

大きく掲げたプラカードにKu Klux Klan=クー クラックス クラン=白人至上主義 (略してK.K.K)と書かれているではないですか。

これにはゾッとしました。この車には日本人2人、アフリカ系黒人のスペイン人、ハワイ人の有色人種しか乗っていないので、思わず身をかがめてみたものです。皆が見た瞬間、身をかがめたのもあって、本当にKKKだったのか?と言う話になり、もう一度シビックセンターを遠目に見てみようと戻ったらもう誰も居なかった。やっぱりそうだったんだ…と言う事になって、意気消沈してパナマシティに帰る事になりました。この辺りでご飯を食べようなんて考えられないどころか、誰か付いてこないかと時々後ろを確認する臆病ぶりでした。

 

私の人生で真近にKKKを目撃したのはこの一度きりですが、当時は噂は聞いた事がありました。以前住んでいたオクラホマにも拠点があり、フロリダにもあると。更に、和食レストランHappy Coatも開店直前に壁にKKKと落書きがあったと。これに臆する吉田さん夫婦ではなかったようですが。

https://en.wikipedia.org/wiki/Ku_Klux_Klan

 

さて、フロリダに来て半年を過ぎ、それなりにパナマシティをエンジョイしてた訳ですが、早いもので渡米をして足掛け3年。目が覚めたら夢だったら…と思ったオクラホマ到着当時が昨日のようで、2年が嘘に思えます。実質日本に半年以上いたとはいえ、経過している年数に違いはない訳です。当初3年位はと思っていたのも残り1年足らず。光陰矢の如し、Time Flies, 焦らずにはいられません。

 

ここで急な転機が訪れますが、それはまた次回で書いてみようと思います。

 

今回もお読み頂きありがとうございました。

 

P.S. 昨年、近くに住む19歳の学生さんが、大学を辞め、カナダでのワーキングホリデイに挑戦すると話を聞きに来店されました。

先日も来店され、仕事も決まり、順調に貯金も進み、来年の今頃はカナダにいる予定で進んでいると報告を受けました。将来が楽しみです。