オクラホマ留学 その後1 | パワカンのブログ(輸入車個人輸入代行)

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いつもご覧頂きありがとうございます。

引き続き、学生時代の留学の話を書いてみようと思います。

 

前回は、オクラホマシティに到着、ホームステイが始まったところまでの話を書きました。

ホームステイをして1か月ほどで10月、私は21歳の誕生日はアメリカだったんですね。

ちょうど29年前の今頃、日本を離れてアメリカの地で何が何だか分からないまま生活が始まったところです。

後ろから不審な車が付いて来たり、銃声を聞いたりと言う怖い思いは初日からありました。

とは言え折角来たのだから、中古の自転車を手に入れて行動範囲を広げました。

アメリカでは自転車と言うとマウンテンバイク、中古で20ドル、日本のいわゆる「ママチャリ」は存在しません。中古品は自転車に限らず、衣類も家電も銃でも何でも中古品ならPAWN SHOP(パウンショップ)と言われている店があちこちにあります。

コーディロイのジャケット、アディダスのカントリーも買ったのを思いだしますが、

どれも数ドルの世界で、見ているだけでも面白いのです。

パウンショップ

https://goo.gl/maps/t2K7R5mdQAxHtFTD8

 

一通り身の回りに必需品が揃い、言葉を除けば不便の無い生活が始まります。

家ではCDを聞いては歌詞を書きだす練習を続けたものですが、日常ではなかなか聞き取れない。ランチにマクドナルドに行くと持ち帰るかどうか聞かれるわけですが、この「IN or OUT?」が分からない。何度聞いても分からない。まさかカウンターで持ち帰りなんて聞かれるとも思っていないので、思わず「YES」と言ってしまう。こんな簡単な英語が分かるまで数か月も掛かったりもするのです。

 

オクラホマに行ってショックを受けたのは、日本人がとても多いと言う事でした。

1-2才年上の人が多く、マスターコース取得の留学生がこんなに居るもんだと驚いたものですが、これがマイナーだと思っていたオクラホマでもそうなのかと少しガッカリ、半分は安心したものです。1か月を過ぎ、何となく慣れてきたころ、私は急にホームシックになりました。朝、目が覚めたら夢だった、なんて事を祈って眠った事もありました。そんな時は他の日本人の存在はありがたくなるものです。

学校が休みの日は日本人の寮で集まる事が多く、お互いに面白い話で何となくストレスを発散できたりしました。

 

渡米後2か月が過ぎ、ホームシックも解消したころ、ふと疑問に思うようになりました。アメリカに居ながらにして日本と同じような生活をしている自分にです。。

マスターコースを修得に来ている人たちは、あくまでも目的は卒業、私はまた修士課程を終えに渡米した訳ではない、と言う事。

これからの3年間、自分には何が出来るのか、と考えると、そうのんびりしていられない気がしてきたのです。36か月の間の、海外生活に慣れるまでの3か月は、10%近く費やす計算です。

ホームステイから出よう、と決心をしました。

ホームステイは1か月単位なので、2か月を過ぎ、3か月目の延長を止める事にしました。

机の引き出しに入れていた600ドルが無くなっていた、と言う事件もあって、なんとなく長居無用と言う空気もありました。家とは言っても部屋の鍵は掛けるべきでした。

後から知ったのですが、この家にホームステイした他の日本人留学生も同じ経験をしていたのです。やっぱり日本人の甘さでしょうか。

 

決めたアパートは220ドル位。当時のレートで20,000円弱。

学校から近い、安い、と言う理由で決めたアパートでした。

日本でアルバイトをしていた時は、1,000円の時給だったので、父の言っていた通り、日本の大学に通うより、学費に生活費を含めても決して高い金額ではなかったのです。

アパートになれば、自炊生活が始まるので、今までより更に安く済みます。

例えば、サーロインステーキ約220g(1/2ポンド)がスーパーで2枚200円もしない、さすが牧草地帯。鶏肉ならドラム1ダース(12本)で1ドルちょっと、150円位のものです。1日3食300円位で食事出来てしまう訳です。

小学生から中学生まで、ボーイスカウトをしていたのもあってか、料理は苦にならない性格だったので、あっという間に冷蔵庫に食材が並びました。

家具電化製品は付いていたので、買ったのは炊飯器だけ。

これもPawn ShopでNationalの小さい炊飯器を5ドルで買ったのを覚えています。

この炊飯器は帰るまでの3年間、壊れることなくほぼ毎日動いてくれました。

白米はスーパーに「錦」と書かれたスティック米。ポロポロのご飯ですが、準備次第で不満のないご飯にもなります。

洗濯はアパート内にあるランドリーで、昼夜問わず、敷地内で事足ります。

とにかく出来る事は自分でするように生活を変えていきます。

 

93年当時住んでいたレンガ風のアパートは今も変わりなく、左右に4棟存在しています。

唯一、当時のペンシルバニアアパートメントから、ビンテージアパートメントに名前が変わっています。

https://goo.gl/maps/9aBM1415mZJQBqNv7

 

周囲では、車を買い始め、日本人は百万円を越える人も居ますが、殆どは数十万円なのに対して、中国、台湾、香港、東南アジア、中東の留学生は数百万円の新車を買う、育ちの違いにちょっと意外でした。

日本人留学生は日本に帰って就職する、今のうちに海外を知っておきたい、と言う性格の留学が多かった。

そんな私も紛れもない後者でしたが、外国の留学生は、世界で仕事をしたいと言う感覚で来ていた事からも、生まれた国の違いがはっきり見えてきた気がしたのでした。

例えばその時、香港はあと少ししたらイギリス領から中国に返還される時期でした。台湾にとっても常に中国が気になる存在だし、今も昔も東南アジアも中東も不安定この上ない訳で、自分の国で生きる危機感がとてつもなく強い。

日本ではあまり感じなかったことですが、同じ土俵で生活すると外国事情がしっかり見えてくるものです。

アメリカのような外国人達が建国したような国にいると、日本の単一民族の甘さと言うか、無知というか、更に身が引き締まる思いだったりしたものです。

 

外国で初めて年を越しましたが、年末年始に休む日本とは違い、アメリカは1日休んですぐ学校が始まるため、メリハリが付かないんですね。

それでも、何もない町なのに年末のクリスマスの飾りつけは盛大だし、休むとなると徹底的にどこもやっていない。昔の日本の元日のようでした。

こんな年末年始を経験し、学校が休みのシーズンになると日本に一時帰国します。

理由は実家のアパレル業の手伝いです。これからの進路をどうするのか、と言う報告も兼ねて、と言う事もありますが、惰性的なアメリカ生活を見直す意味もあったのかも知れないです。この一時帰国時に決めた事は、再度渡米をしてオクラホマ州から引っ越しをする、と言う目標でした。とは言え、学生として何かしらの学校に属していない限り、ビザを取得する事は出来ません。これが無いと短期旅行でアメリカを訪れる事しか出来ない。

オクラホマに戻ると、予め目星を付けていたいくつかの大学を訪問します。もちろん、入学費や自分の語学力もさることながら、自分の興味の向く学部のある大学をいくつか決めておりました。フロリダ州、ジョージア州、テネシー州にある3つの大学。レンタカーを借りて回ったところ、フロリダ州のある短期大学に自分の可能性が見えた気がしたのでした。

最終的には簡単な理由ですが、治安が一番良かった、と言う事です。

元々はSOCIAL WORKと言う科目が充実していると言うのが3校の共通点でしたが、SOCIAL WORKとは何ぞや、と言うと何を読んでもイマイチぴんと来ない。だからこそ試してみたいと言うのが本音ですが、これを大前提にはしたくなかった。思ったものと違うからと言って、また方向転換はしていられない訳です。

計算尽くよりは、単純にこの町に住んでみたい、ここが好き、と感じる大学に行こう、と言う「勘」で決めた方角が自分を深められる事ってあります。

ジョージア州の大学はサバンナと言う歴史ある所でしたが、大学横の飲食店に入ってみると、ゴミで足の踏み場もない、と言う状況で、しかもドアを開けて入った途端、みんながギョロッ!と振り向いて怪しげな空気を感じた事もありました。

途中の道では、交差点で停まっていた車に突然パトカーが駆け寄り、警察官が運転手を引き釣り出す光景、州都アトランタのオリンピック前の異様な盛り上がりと緊迫状態がありました。

 

テネシー州はナッシュビル。ロックンロールのメッカと言うか、みんな愉快な感じでとても良かったですね。流石に州都だけあって、大都市な上に南部の血があって、治安に関しては相当心配だったりもしました。

 

そんな中で、フロリダ州のパナマシティと言う町は、とても小さい海沿いの町です。人混み

とは無縁で、高速道路も無く、大きなビルもない。白い砂浜が雪に見え、エメラルドグリーンの海を見て目を疑ったほど。大学は橋をくぐった湾に沿った静かな環境にあって、他とは全く真逆のイメージでした。問題の治安が気になりました。

夜になって、ダウンタウンや町を走ってみると、人気のない道を普通に人が歩いているではないですか。オクラホマでは夕暮れになると外には出られなくなったのに、22時になっても人が歩いている。もう少しドライブしようと人気のない道を車で走っているとHAPPY COATと言う小さい店が出てきた。

どうやら日本食の店らしく、まず入ってみようと思った。

大体、アメリカのこういう店は、アジア人経営の「なんちゃって日本食屋」なのは承知の上なので、割り切って入ったら、意外にも60歳前後の日本人夫婦のお店でした。

フロリダ州マイアミ近くから越してきたそうでフロリダ歴は10年以上。吉田さんと言う、いかにも職人気質のオーナーで口が悪い。

「こんな田舎町には何もない」そんな話の中で、殆ど日本人も見かけないと言う。居ても「年寄り」しかいないと。初めは自分達の事を言っているのかと思ったら、この町にはミリタリーがあるために、アメリカ人と結婚した日本人の奥さん達は数えるほどだけど居る、と言う事が分かった。

だけど、この吉田さん夫婦はみんなとは仲が悪いらしく、あまり突っ込んだ話までは出来ませんでした。

考えれば、同じ州内とは言え何故1,000キロ以上離れたマイアミから越してきたのか、10年前まではどこに居たのか、何故みんなと仲が悪いのか?気になるのはさておきます。

色々と見聞きした結果、この町に引っ越しをする事に決め、オクラホマに戻ります。

約4,000kmの長いドライブでしたが、まだまだアメリカのほんの一部をドライブしたに過ぎません。

 

 

大学に入学となると、新たに!-20と言うものが必要になります。

旅行者ではなく、米国で勉強するためのF1ビザと言うものを取得するために必要な入学許可のようなものです。

その為には、TOEFL(英語力)のスコアを上げなければなりません。

と言う事で、この大学の入学を視野に入れて、勉強を始めました。

半年ほどでしょうか、無事にオクラホマの大学の英語クラスも卒業、TOEFLも230と、もしかして今の基準とはスコアが異なるかもしれませんが、当時はこれでフロリダの大学の入学条件が整いました。当時はGULF COAST COMMUNITY COLLEGE(州立短大)でしたが、今はGULF COAST STATE COLLEGEと変更になっているようです。

https://www.gulfcoast.edu/admissions/admissions-international-students/index.html

 

あとは願書を取り寄せて、I-20の発行を待つことになりますが、セメスター制と言って、入学時期が4期あります。

翌年5月の入学に向け、また一旦日本に帰国する事になります。

 

オクラホマに渡米した後を駆け足で説明しましたが、勿論ずっとアパートに閉じこもって勉強していた訳ではありません。次回はこの帰国までの体験談を書いてみたいと思います。