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前回、まめに本を読み始めた話を書きましたが、
面白いと読んだ深夜特急も、途中で老子や史記に目を向けながら挟みつつも、最終巻まで来てしまいました。特にじっくり行ったり来たりして読み進める老子の途中に取り入れるにはうってつけで、旅行気分の楽しさを覚える本でしたが、ふと、こうしたノンフィクション小説は、きっといつまでも作者にも記憶に残る、素晴らしい記録になるのではないかと思い始めました。
更に、決算の準備書類や経産省からの経済活動調査を入力している最中に、Amazon Musicから学生時代に人生初の海外旅行で聞いた曲が流れてきた。
初めてハワイと言う異国に旅行をしたのが20歳。何も知らない自分にとっては、外国の紙幣を使う事がとても新鮮で、しかし本当にこんなおもちゃのような物が使えるのだろうか?と不安だらけで始まった旅行だったからこそ、たかが1週間後には相当なショックを受けて帰って来たものです。
そんな私が、21歳になった秋にはアメリカ、しかもオクラホマ州オクラホマシティと言う大陸のど真ん中に立っているとは考えもしなかった。
経緯は色々ありますが、この1年で一番よく聞いていたのが、このColor Me BADDと言うグループのアルバムでした。渡米後もホームステイ先で聞いていると、ホストマザーの一人息子(ジェフ)が私に、Color Me BADDは僕のハイスクールの先輩なんだと言う話で、親近感が湧いたのを思い出しました。
その後は日本人が殆ど居ないフロリダ州の田舎町に引っ越しをしたアメリカ生活の約3年間、その間も時々聞いていたので、30年近くも昔のことながら、当時の心境が蘇ってきます。
音楽とは、そういうものなんですよね。良し悪しではなくて、その人にとっては人生のその時の気持ちを焼き付けた代えがたいものだったりします。
懐メロなんて、初めて聞く人には何が良いのか分からなくても、一緒に過ごした人それぞれには、思い出す物語があるんですね。
私は、旅行に行くと新しい曲を聞くようにしています。
通りすがりでユタ州の田舎町を走っていた時、ふと立ち寄ったアンティークショップでJAZZのCDを夫婦で買った事もありました。
何年も経つと薄れる旅の記憶ですが、音楽が覚えていてくれる。
そうです。
前置きが長くなりましたが
記録として残す意味も含めて、特に学生時代の海外生活を書いていこうと思ったのです。
外国には興味があるけど、不安で怖くて行けない、と言う人も多いようなので、この海外旅行がままならない時期だからこそ、いざその時に背中を押せるような話が書ければと思っています。
今までとは異なって、毎回続いていく話なので、休み休み、興味の無い箇所は飛ばし飛ばし、読んで頂ければ幸いです。
私の初の海外旅行は20歳のオワフ島。ホノルルのある、いわゆるハワイ。
元々はアルバイト先では皆が海外旅行を経験している人が多かったために、行っておこうと言う軽いノリで決めただけなので、海外ならどこでも良かった。
若いなりの「話に参加できれば」と言う程度でした。
典型的な簡単なハワイ旅行だったにも関わらず、私にとっては映画で見たアメリカがそこにある事が信じられなくて、いちいちショックを受けておりました。
レストランで食べたパクチー、グアバジュース、歩道に設置された新聞の販売機。
どれも試してみたいものの、手持ちのドル紙幣が嘘のように思えて、買い物がなかなか出来なかったし、レンタカーを借りてもヘッドライトの点け方が変わらなくて、ヘッドライトはデザインなんじゃないかとさえ思うほど、一日目はあまり身動きが取れなかったのです。
ようやくドライブできるようになってから行けた、タンタラスの丘から見たオアフ島の夜景。これは本当に息を飲む絶景でした。
日本に使われる白い光ではなく、オレンジ色の光が島全体を静かに照らし、実に幻想的でした。雑誌を買い込んで下準備して行ったものですが、見るものに圧倒されるばかりの1週間の旅行はあっと言う間です。
帰国後、急に日常に引き戻されます。
しかし実は、以前に自宅の車をぶつけ、その修理代はローンを組んでいたのが終わり、ようやく 学生<アルバイト の比重から解放された時でもあり、なんとなく楽しい大学生活が待っている気もしていて楽しい時でもあったのですね。
帰国後、父に言われた「アメリカに行かないか?」と言う誘いを断るほど、ハワイは楽しかったけど、せっかくの大学生を満喫したい気持ちが先に立った。
少しして、兄が私にこう言うのです。
「アメリカに行くんだって?」と。
幾たびも押し問答しているうちに、納得せざるを得なくなってきた。
実は、兄は中国の四川省の成都からの留学を終え帰国したばかり。
どんなに想像しても、現場を見なければ分からない。その一言です。
特別、大学を卒業しても将来の進路を決めていた訳でもない。
一番は、自分の中の大きなコンプレックスが渡米の道を選んだと言えるかも知れない。
私の場合は、幼児の頃に公園で事故に合い、うまく言葉が話せない事で、冷やかしの度に劣等感に変わり、ずっと悩んできた。
小学校に上がると、習い事に電車やバスを乗り継ぎ、一人で2年間、永田町に通った事もあった。自宅ではこっそり押し入れで言葉の発声練習を繰り返すような日々もあった。
正直に言えば、そう見せていないだけで、今もそのコンプレックスはある。
しかし、これはみんな持っているもので、くよくよするほどの事でもない。
ましてや、こうして五体満足に生きている事自体に感謝するべきなんですよね。
しかし、学生時代はまだ多感な時期だったからこそ、渡米と言うタイミングで「自分をリセットできる転機になる」かも知れないと考えてみた。
アメリカに行けば、私を知る人は誰も居ない。急に別人のように振舞っても、誰も違和感は持たないし、もしかして英語の方が日本語より上手く発声できるかも知れない。
そして20歳の夏、オクラホマ州オクラホマシティに渡米、まもなく21歳の誕生日を迎えるのです。
オクラホマ空港まで直行便はない。
一旦、ダラスに向かい、ローカルに乗り換える必要があったものの、何となく落ち着きがあって無事にオクラホマ空港に着く事ができ、更にはホームステイ先のホストマザーが車で迎えに来てくれていたので、全くと言うほど苦労することなく到着する事が出来た。
ホストマザーの後を導かれるように空港の玄関を出たのです。
ロシアでは空が落ちてくる、と言う言葉を過去に聞いた事があったのですが、全く意味が分か
らなかった。
オクラホマの空は、どこまでも澄んだ青い広い空で、まるで包まれているような驚きで思わず足がすくみそうになりました。
その迫力に圧倒されたと言う意味では、ロシアの空も似た感覚なのかも知れない、と今になると思うのです。
今もそうですが、農場だらけの平原が広がる州ですから、大陸を感じずにはいられません。そんな空があって当然ですね。
日本に居るとイメージが湧きにくいのですが、現地でTwister(ツイスター)と言う映画が話題になり、ダッジラムやボイジャーが日本で流行ったりしたのはこの渡米の1年後ですが、まさしくこの映画の通りセスナで肥料が散布されるような雄大な牧場が広がる地域です。
その後は、当時は90年代前半ですから、大体みんなが想像するアメリカのままです。
前がどっちか分からないような四角いセダンに乗り込んで、ホームステイ先に向かい、1か月。近所から銃声を聞いて部屋で丸くなっていたり、夕方の薄暗い時間には、歩くだけで怪しそうな車が付いて来るから散歩は朝夕の通学だけ、食費を払っていると言っても、晩御飯は簡単なステーキとポテトチップス。これと言って何となく想像していた日々です。
それでも、こんな日常に知らなかったちょっとした文化の違いはあるものです。
例えば、ホストマザーが高校まで子供の送り迎えしている家庭でしたが、ある時、私の学校が終わる時にも迎えに来てくれました。
先に近所の子供達も乗っていて、帰り際に順番に降ろして帰るようになっています。
近所の子を降ろしてバイバイと言っても、なかなか車が出ません。運転しているホストマザーはじっとその子を見ていて車を動かそうとしません。
何を見ているんだろうか、と私も見ているうちに、この子は家に入ってパタンとドアを閉めました。そして初めて、車を動かし始めたのを見て、そういう事か、と納得したものです。あとの乗客も同じです。
かと言って、この年になって、アメリカのディーラーに行って車の契約をするようになって分かる事がありますが、いつも契約の後に振り替えるともう誰もない、と言う文化も持ち合わせている国でもあります。
同じ人間でも日本とは大きく意識が異なり、彼らが快適に感じる事が自分自身もそうだったりしたものです。
次回は、ホームスティを出る事になります。