ほぼ日刊5‐6 | ロンドンつれづれ

ロンドンつれづれ

気が向いた時に、面白いことがあったらつづっていく、なまけものブログです。
イギリス、スケートに興味のある方、お立ち寄りください。(記事中の写真の無断転載はご遠慮ください)

 

 

 

 

技術点じゃなくて芸術点のことでいうと、
羽生さんは自分の表現について、
どんなふうに考えていますか。
という糸井さんの質問に、羽生さん。
 
なんですかね‥‥
自分で分析しきれてるわけではないですけど、
たぶん、見た人が自分で考える
「余白」がつくれることが
重要
なんじゃないかと。

観た人が考えることのできる「余白」と答えた。

 

 

私もこのブログで何度も書いているが、「アート(芸術)」と呼ばれるものは、すべて「見る人・観る人」という受け手を想定し、受け手の受け取り方を含めて、初めて完成すると思っている。

 

それが音楽であろうが、絵画であろうが彫刻であろうが、バレエであろうが演劇であろうが、作り手がいて、演者がいて、それを見る人がいて、見てもらって初めて、作品として完成するのである。

 

自分が作ったり演じたりしているのが楽しくて、人に見てもらわなくても構わない、芸術を作り出した自分と作品だけがあればいい、というのは、ただのマスターベーションだ。

 

自分の作り出した作品が、他者という受け手に何を渡したか、何を感じさせたか、そこが欠落していては、芸術とは言えないと私は考えている。

 

そういう意味で、競技会でのフィギュアスケート選手たちの演技の多くは、まだ芸術の域にたっしていない、と感じるのである。

 

「僕の、私の演技を見てください!なにか感じてください!」という叫びを感じるような演技をして見せるスケーターは本当に少ないのである。 そのレベルに達していないのだ。「ノーミスの演技を」することに一生懸命すぎて。 それは、自分のための演技である。だから、人の心を動かさない。たとえ、ミスのない演技をしたとしても。

 

羽生さんが「伝えるための余白」といったが、そもそも実際のところ、伝えたいメッセージを持たない競技者が多い。 何かを伝えたいという気持ちが受け手に伝わったとき、はじめて受け手は感動することができるのだ。そしてそれには、確かな技術が必要だ。確かな技術に裏打ちされてこそ、雑音なくストーリーがこちらに入ってきてメッセージが伝わるのである。

 

羽生さんが「水槽」と言ったのには驚いた。私もこのブログで、「アイスリンクは綺麗な金魚が泳いでいる金魚鉢みたい」と書いたことがあるからだ。6分練習など、ちょっと高い席から見ていると、本当にそう思うのだ。

 

限られたスペースで優雅に泳ぐ金魚たち。そこに描かれる世界は、見ている人それぞれの想いや経験やバックグラウンドで、それぞれに少しずつ違った景色に見えているのだ。受け手の自由に、受け手の感性も足し算して完成する芸術。

 

同じ演技でも、観客という受け手の文化的背景や知識、経験、個人の感性、そういったものが加味されて、一人一人が違った作品として体験する。それが、芸術というもの。だから、作品の解釈も感想も、多様であってよい。

 

羽生さんの言う「余白」がなければ、ギチギチで押しつけがましく、受け手はアップアップしてしまってそこに自分の感性の入り込む隙間はないだろう。

 

糸井さん、そこへ坂本龍一さんをぶっこむ。

 

いわく、坂本さんは「メロディーでも、リズムでもなく、音の質っていうところが一番探せないんだって言ってて、そっくりですよね、さっきの余白や表現の話と」

 

それにフォントで答える羽生さん。やっぱり視覚的なんだな。

 

「どせいさんのフォントで書かれてることばと、普通のフォントで書かれたことばだと、伝わり方がぜんぜん違う」 う~ん、わかんないぞ、どせいさんのフォントってなんだ?ふふふ。

 

そして4回転ジャンプの話へ。

 

ジャンプは採点の基準が明確だから、みなジャンプに集中する。しかし、4回まわれば皆同じかというと、それは違う。羽生さんは、ジョニー・ウイアのジャンプのランディングの姿勢が美しい、という。

 

「あのランディングがあるからこそ、彼の表現したいことが、ジャンプでぶつ切りにならないで、音楽に沿ったままぜんぶつながっていける。たぶんそれがジョニーさんが目指した芸術性で、ぼく自身も目指したいものなんですね。ただ、それを難しいジャンプでやろうとすると本当にたいへんで。」

 

そう、そうなんです。ランディングの姿勢を美しく保つことは、大変な努力がいる。しかし、それはジャッジのつけるスコアには反映しない部分なのだ。そこにこだわり続けること、それが

「演技の質」になるし、見ている人の感性に訴えかけるものになる。

 

まだジュニアだったころのカナダのローマン・サドフスキー選手と、GPFで同じリフトに乗り合わせた時、「あなたのジャンプのランディングの姿勢が好き。すっきりと背中と首がそっていて、フリーレッグが美しく高く上がっているから」と言ったら、ものすごくうれしそうな顔をして、サンキューと言っていたのを覚えている。

 

それは、彼もコーチもプライドをもって譲れないところだと思うのだ。ジャンプで転倒しがちな彼だが、成功した時のジャンプは大変に美しい。しかし、ジャッジはそこまで見てスコアをつけているわけではない…。実に残念だが。 

 

しかし、ファンの目は節穴ではない。実は、ファンは、そういう「質の高い」演技をする選手につくのである…。ジャッジがどんな点数をつけようと、たとえ転倒があろうと、人気のある選手は、実は質の高い、そして余白のある、私たちに何かを届けようとしてくれる演技を見せてくれるスケーターなのだ。

 

 

羽生選手が目指したのは、アーティスティック面だけではない。TES, つまり技術点を得るための高難度のジャンプを入れつつ、PCS、演技構成点、芸術点も高めたいという、究極のフィギュアスケートを求めつづけていたのだ。 

 

彼が世界中にファンがいる理由は、『勝てる選手」だからだけではない。2度の金メダリストだからだけではないのだ。 なによりも、彼の演技は、見ている人の胸に訴えかけ、心をつかむ何かがあるのだ。 つまり芸術的な質の高さがあるのだ。

 

「ぼくには自分が表現したい世界っていうものがしっかりとあって、それを出したいんだけれども、誰かの価値観に委ねられるものだけじゃなくて、いわゆるわかりやすい難しさ、普遍的な点数、みたいなものも同時に手に入れて勝ちたい、って強く思っていた」という羽生さん。

 

それをプロになった今も求め続けているのだ…。美しく見せるだけではなく、難易度の高い技術も保ち続けたい、という渇望が。

 

そう、フィギュアスケートは、確かに点数を競い合う競技スポーツだ。しかし、同時に芸術、アートフォームでもあるのだ。 それを両立させている選手は、実は少ない。

 

 

 

ああ、5と6の感想を書こうと思ったのに、5だけでこんなに長くなってしまった…!

 

6は、まさに、私にとって「そうそうそうそう!」という話なので、また別途書くことにします!