安曇の庭に誘われて(安曇野から丹後へ番外編2) 〜 金沢から明治神宮、そして宇部空港へ | かんながら

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旅の記録です

 
白山から最終の新幹線で帰京。
旅の荷物を作り直して、そのままいざ出発。
金沢から帰り着いたその日の朝6時の明治神宮。
 

 

 

 

今日は新嘗祭。

 

 

 

今年は百年祭でも奉納されてたけど、この野菜の船をみると、新嘗祭がきたって感じる。

 

 

 

回廊にも。

羽田空港まで電車で行くと1時間ちょっと。

早朝のバスだとたったの30分。

 

明治神宮でのお詣りは外せないから余裕を持ってリムジンバス利用。

 

 

 

 

この景色みるとやっぱり映画「天気の子」の原点に帰る。

 

 

 

 

しろくまさんが入院した病室からみえた景色と同じ景色。

「また明日ね」ってこの景色をみながらひとり歩いて帰った道。

 

 

部屋に帰って落ち着かなくて、毎晩狂ったように部屋を片付けた。

 

 

主人公の女の子のお母さんは、この景色が見える病室に入院してて、そのとき彼女は鳥居をくぐり、「稲荷の御用」をするようになる。

そういえば、宝徳山稲荷神社に行った日(伏見から長岡へ)もこの景色をみてたのだ。

あの頃は、ちょうどここから5分のところに住んでいた。

 

そして「天気の子」の主人公の男の子の方の名前は「ほだか」である。

 

穂高神社。

安曇族の本丸。

そして、鹿。

 

この旅のスタートは安曇野だったけど、稲荷の御用なんだな、やはり。

新嘗祭だしね。

 

 

 

 

もうクリスマス仕様。

Suicaのペンギン。東京って感じする。

 

 
羽田空港でラウンジの窓から富士山見えた。
窓際の席がいっぱいで、写真を撮るのに立ち止まったら、不思議そうな顔をして振り返られた。
「富士山見えますね」って言ったら、驚かれた。気づいてなかったみたい。
 
こんなに目立つ美しいものも、目に入らないみたい。
人間は、自分が意図しているものしか、知覚しないようにできている。
 
 
 
座禅するヨギの治療師は、「無になる」ことが大切って言うけど、それは、牛を連れているときのことだと思う。
牛は欲望(本能)に振り回されて寄り道をする。
 
 
牛がいなければどこに行くのも、何をするのもなんの制限もなく自由なのだ。
 
 
「無になって」しまったら、どこに行くのだ?
 
 
わたしはどこにも行けなかった。
8年も。
思えばもっともっと長く。
生まれてから、ずっと。
 
 
そして誰かの牛になることで、安住の場所を得たと思ったが、ある日突然放り出された。
 
 
 
だから、福田高規先生がいう「理想と目的をハッキリさせる」とか、
内観」って大事なのだ。
 
 
牛がいなくなったときの自分のありよう。
 
 
それが「一体でありながら、個々別々」で、
「1→2→3→2’→1’」の、「2’、1’」のあり方なのかな、と今のわたしは思っている(謎)。
 
きっと、以前の記事を(わたしの中のせめぎあい)書いたときには、まるでわからなかった景色が、この旅で少しみえてきたような気がする。
 
それは、「一瞥(いちべつ)」に過ぎないのであるが。
 
 
(つづく)
 
安曇野で内観研修ができます(東京での1日内観もあり)