ふたたび、豊橋へ(その1) 〜鹿と兎の十三夜 | かんながら

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旅の記録です

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令和2年10月28日。

明治神宮鎮座百年を前に、天皇皇后両陛下、上皇上皇后両陛下、秋篠宮様が明治神宮を参拝された。

 

運よく3回ともお出ましに遭遇。

 

これは、何か、ある。

今までも天皇陛下が来られたところに遭遇したことがあったが、今回は空気が全然違う。

御代がわり、を感じた出来事であった。

 

 

その日、おじさんとの待ち合わせで原宿駅に行ったら、ちょうど秋篠宮さまが参拝を終えてお帰りになるところなのであった。

おじさんが運んできた?

 

 

伊勢平氏おじさんは最近、ときどきわたしに対して過去の自慢話以外の話をするようになった。

そしてわたしに餌を与えるように何か呟くことがある。

 

「ウチの先祖があの辺の一宮からヨメをもらってる」

「あの辺って尾張?」

「いや、もう一方の」

「ふーん」

 

スルーして飲んでいたが、突然仙骨が動いた(わかる人にしかわからないと思う)。

iphoneを取り出して検索したら、三河国一宮は「砥鹿(とが)神社」だ。

 

砥鹿神社?

 

 

あ!なにわの審神者(さにわ)が昨日だか「行ったことないか?」と聞いてきたやつだ。

 

 

しかも「とが神社」が分からなくて検索したら、なぜか「男鹿」が出て、真山神社のなまはげ伝承館 のことを話して、

秋田の古四王(こしおう)神社の宮司さんに超絶お勧めされて参拝したことを話して、

あのあたりの様子を報告したら、

 

「それは平家や」

 

ってつぶやいたのだ。

結構この短いやり取りすら、あとでいろいろ出てくるのだが。

 

 

 

「そこ、ちょうど聞かれました」。

 

 
もちろんわざわざ行くつもりはなくて、ヨギの治療師と朝ミーティングの電話で、普通に人間社会の問題について話ををしていたが、人間社会のあれこれに首を突っ込んでいる場合ではない。
 
昨日陛下、上皇陛下、秋篠宮さまとお会いできたばかりだし。
何かが呼んでいる。
 
 
ここはやっぱり豊橋だ。豊橋は新幹線乗ったらすぐ。ひかり号だと新横浜の次。所要時間は1時間ちょっと。
そういえば、ヨギの治療師も豊橋出身だったな。
人類みな兄弟。
 
今この目で確かめてこよう、と思って新幹線。
 
準備してたら安いんだけどな。GO TOトラベル。
突然思いつくからちっとも安くない。
 

 

 

 

途中富士山。これは幸先いい感じ。

 

 

無理やり丸くしたような雲が浮かんで不思議な感じ。

なんなの、この雲。ボールみたい。

 

 

三河国一宮 砥鹿(とが)神社。

 

とが、って咎(とが)、って連想するんだけど、わたしだけ?

 

 

伊勢平氏おじさんが言わなければきっと来なかったし、なにわの審神者(さにわ)がこのタイミングで言っていなければ来なかった。

やはり、きている。

 

鹿。

 

しかも、明日は「鹿(しか)」と「安曇(あづみ)」、「天皇のいたところ」の関係を教えてくださった、やんごとなきお方に会う予定。

 

 

 

 

森の感じが明治神宮に似ててすごく好き。

 

かぜが吹いて、木々の間を光が満たして、とてもいい感じである。

 

 

 

手水舎がきれいに整えられていた。

 

 

榊も素晴らしい。

 

 

まず二宮。恵比寿さん。

一番人気。

もともとはここになかったみたい。確かに海からちょっと離れてるんだよね。

川のそばではあるんだけど(根拠はないが、このあと呼ばれる御津(みと)神社なのではと思った次第)。

 

 

 

 

昔はもっと提灯あったとか。

 

 

本殿。

御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。

 

 

とが、って読めないよな。

 

でも、絶対に「鹿」と関係ある。

伊勢平氏おじさんは、鹿と月が大好き。

そして縁のあるところはそのふたつの要素どちらかが入ってる(浦和の波うさぎのゆくえ)。

たぶんもうすぐ恵比寿も出てくるよ。事代主。重要なのは、婿入り先の方だけどね(三島溝咋)。

本人は気付いてないらしい?霊能者だかなんかに言われたっていうんだもの。

なんで?ご自分で言ってるけど?

 

 

志賀、滋賀、鹿とつくところは、安曇族の地。

わたつみ。

 

 

大きなさざれ石

 

 

菊の御門。

 
 
鹿。
今来てる鹿は、春日大社。
東大寺。奈良だよね、
 
春日大社の宮司さんはお墓に入るときにはもれなく藤原姓になるときいたんだった。
ちょうど談山神社の鎌足の墓と言われる山でみた藤原家の墓に南無妙法蓮華経と書かれてたと伊勢平氏おじさんにみたまま報告したら、えらい食いつきようだった。
 
 
 
緑豊かな素敵な場所だった。
 
 
玉のような雲は層状にほどけてきた。
不思議。
 
奥宮に向かう。
はじめに山の上に降りて、里宮に降りてきた、ということになっている。
 
 
 
氏子さんこの話によると、道に迷った人を助けたのが草鹿砥(くさかど)氏。
里宮
 
 
なにわの審神者(さにわ)の調べでは、
 
「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。
 
式内社砥鹿神社の社家が後世に草鹿砥氏(くさかべうじ)を名乗ったことや、丹波道主王の一族という系譜からも、日下部氏や磯部氏が国造族の氏と考えられる
らしい。
 
砥鹿神社の秘伝となっているご祭神は「朝廷別王」、豊川市八幡町上宿にある全長100mに及ぶ巨大な前方後円墳「船山一号墳」こそ、朝廷別王の墳墓?。
そちらの方は分からず。
 
 
 
 
正一位。
愛知県では、豊川稲荷、吉田神社などがある。
守見殿神社は、大己貴命の和魂を祀る。
こちらは赤土の粘土とダイダイの汁を混ぜて作った印を押すらしい。
 
なんとなく、雰囲気は少彦名神。薬の神様、って感じがしたんだけど。
 
 
 
 
 
境内には天の磐座がある。
 
 
アラハバキ神社。
後ろの磐座を見て思い出したんだけど、丹内山神社とかの雰囲気と似てるんだよね。
東北の神社みたい。
大黒様と恵比寿様が二柱仲よく並んでいる御神像も東北でよく見た。
何か関係があるのだろうか。
 
大宮氷川神社で、大湯祭(大湯祭へ)のときに授与される。
 
 
 
オーブすごい。
 
 
 
当直の神職さんに、教えてもらった「兎足(うたり)神社」と「御津(みと)神社」
砥鹿神社も難読だけど、うたりも、みとも絶対読めない。
 
 
でも結局聞いているのは「いい飲み屋」。
 
兎足(うたり)神社。
夜でも行こうと思った。なんと言っても十三夜。
 
なにわの審神者(さにわ)が「今日は月や」というので。
 
兎だから月ってなんとなく思う。もちろん、神職さんに聞いてもスルーされたが。
 
境内の灯籠に「波うさぎ」の印を発見。
波うさぎといえば、浦和の波うさぎのゆくえからも繋がってる。
 
さすが伊勢平氏おじさん。
いよいよ本丸に近づいてきたか。
 
おじさんは、月にすごく反応する。
「月読様!!」って嬉しそうに手をあわせてるのだから。
 
 
御津(みと)神社に行けなかったので、とりあえず、豊橋泊に。
GO TOトラベルはありがたい。アパホテルは3000円ほど。
しかも1000円分の地域限定クーポン付き。
 
 
 
直会は、焼き鳥をお持ち帰り。
神職さんに聞いておいて正解だった。
つくねがふわふわして美味しかった。
 
 菟足神社と徐福伝説

 今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬 莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、 始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者) を連れ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわか っていない。
 ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、 わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような菟 足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
一熊野に渡来した徐福一行は、この地方に移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。・豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えがある。・牛窪記〔元禄十年(一六九七)頃成立〕には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎泛舟、此国湊六本松ト云浜ニ来ル。…中略…徐福ガ孫古座郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏者多シ…」とある。二菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。 菟足神社県社昇格記念碑(大正十一年十二月二十二日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は…中略…雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御誨のままに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり…」と記されている。三菟足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。 古来菟足神社の祭事には、猪の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十二羽を供えている。 以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修 験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を 往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。