しかし、これだけでは、事件の動機や背景について何も語られていないに等しい。 男性同性愛者は被害を警察に届けられないと加害者たちが考えたのは、なぜなのだろうか。 彼らの認識については、次節であらためて取り上げるが、深夜の公園に同性愛者が集まり、襲われても警察に被害届を出せないだろうと考えた背景には、社会のなかにホモフォビアという意識が浸透していることがある。  ホモフォビアとは、一九七二年にジョージーワインバーグによってつくり出された概念である。 ワインバーグは、ホモフォビアについて「同性愛者と親密な関係になることへの恐怖であり、同性愛者の場合には自己嫌悪感として現れる」と述べ、その原因を「多くの西洋諸国で同性愛そのものが悪しきこととみなされ」、そのような態度がいまだ問題視されていないことにある、と記している。 つまり、ホモフォビアとは、同性愛者に対する嫌悪や恐怖心であり、病んでいるのはレズビアンやゲイの側ではなく、同性愛を嫌悪し恐怖する社会の側なのだ、とする概念なのである。  少年たちは、同性愛者であること自体がやましいことであり、それゆえに深夜の公園に集まり、被害を届け出ることができないと考えた。 このようなとらえ方こそが、同性愛そのものを異常や変態とみなす社会の反映であるといえるだろう。
企業のポリシー以外にも、職場での異性愛主義のあらわれとして、結婚して家庭をもつことを当然とみなす風潮がある。 異性に惹かれるのを自然とすることの延長線上に、結婚し、子どもをもつことが当たり前のこととされるのである。 これを「結婚・生殖イデオロギー」と呼ぼう。 このイデオロギーは、同性愛者だけでなく、結婚や子どもをもつことを選択しない異性愛者の生き方をも縛ることになるだろう。  職場における結婚・生殖イデオロギーは、同性愛者の日常生活にどのような影響を与えているだろうか。 以前、友人・知人の男性同性愛者たちに、職場のどんなことで困ったか、経験を尋ねたことがある・答えはヽ①恋愛・結婚について問われるヽ②同性愛者であると疑われるヽ 12③性風俗への誘いを受ける、がおもなものだった。  ①の恋愛・結婚について問われたときの対処は、同性のパートナーのことを「適当にごまかして話しているが矛盾しそうになることがある」「彼氏を彼女に置き換えて話しているが、結婚を考える相手ではないと言ったり、ときどき振られることにしている」というものである。 また、「年齢が高くなっても独身ということで同情されている」というものもあった。
「彼女」が教えてくれたこと 「自分は何者だろう」 そう考えることが多くなった。 「男のコが恋愛の対象」「男のコも女のコも恋愛の対象」「今は男のコが好きだけど、いずれ、女のコだけが恋愛の対象になる」 同性を好きになることについて全く情報のないボクは、この三つのうち、自分はど れなのか、わからなかった。    今の気持ちは同性が好き。 でも中学生のときに見た保健体育の教科書には「同性愛  は思春期の一過性のものでいずれ異性に恋愛の対象が移る」と書いてあった。 同性が  好きなことは世の中では受け入れられていない……。 どうしよう……。 考えても答え  は出ない。    性のあり方は、一人の人間の中に同性指向と異性指向が、あるパーセンテージで存  在しているという。 同性指向八〇パーセント、異性指向二〇パーセントといった具合。 しかし、あまりに「男は女を愛し、女は男を愛するのが当然」という「世間の常識」  が強すぎて、同性指向がかなり存在する人でも自分の気持ちに素直になれないという  現実がある。 それに追い討ちをかけるように「男は結婚して一人前」といった考え方もまだまだ根強い。 世間の「常識」によって、自分らしく生きられないというのは、なんと悲しいこと  だろう。 人は自分らしさを大切にして生きる権利が誰にでもあると思うのに。    そういった「常識」=「異性と恋をしなくちや」という考えはボクにもあった。 「みんなと同じでありたい」という感情は根強く体に染み込んでいる。    人はすべて違っている。 違うからこそ、魅力的なのだ。
今、こうして生活している空間とは全く違った、しかし現実と同じくらい大きな空間。 ドラえもんの映画で宇宙のどこかに地球と全く同じ星がある、という話があったが、まさにそんな世界を発見した感じだった。 そのIベージーページを見ながら、自39 分のつくるべきページをイメージしていった。 40  少しずつだが、画像の横に文章を入れるには「テーブル」という概念を使えば簡単  にできることも知ったし、デジカメを購入して作業も数倍早くなった。 やってみると  タイトルのロゴをつくったり、レイアウトをするのはワクワクして時間の経つのを忘  れて作業するほど。 そういえば高校の一時期「新聞委員」だったボクは、こういう作業が好きだったっけ。 お店のホームページづくりは順調に進んでいき、毎日新しいページを家族に報告できるまでになった。
聖セバスチャンは多くの画家の創作意欲を刺激し、おびただしい数の作品が存在する。 ボッティチェリやダリも描いている。  三島由紀夫はと言えば、一九六八年、自らが聖セバスチャンに扮し、若き篠山紀信さんに撮影させている。 矢は計三本で、わき腹と腹に一本ずつ、残る一本は何とわき毛に刺さっている! わき毛に矢が刺さっている構図のものは、私か見た限りにおいては一六~一七世紀のイタリアの画家、グイードーレーユによる『聖セバスチャンの殉教』と三島版だけだった。 レーユの構図を三島がまねたのだろう。 聖セバスチャンの裸体の一番重要な部分はわき毛であると、彼は誰よりもよく知っていたのではないだろうか。 田山花袋と「女の匂い」 女の性フェロモンの最有力候補はEST(エストラテトラエノール)である。 こちらについても、やはりサヴィ″クらの研究でほとんど証明されたようなものだ。  ESTは女の尿に多く含まれるが、ANDと同じように尿以外にも、あちこちから漏れ出ているとみてよい。  ちなみに性フェロモンについても、性ホルモンと同じことが言え、男の性フェロモンは男だけに存在するのではなく、女にもある。 その濃度などが違うのである(もちろん男の方が濃度が高い)。  女の性フェロモンについても同様で、女だけでなく、男にも存在し、濃度などが違うのだ(もちろん女の方が濃度が高い)。  このESTが男を欲情させることが示されている文学作品はないものかと探したところ、田山花袋の『蒲団』がどうもそのようだということがわかった。 学生時代にタイトルだけは習ったが(確か、自然主義文学の代表作品だと)、内容までは教えてもらえなかった。