イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。
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長尾は何のしっぽ?⑪のつづきです。
長尾寺はしっぽ関係では気になりまする
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この「波」、「伊」、「八」とイ探センサーにかかる字。
波といえば、海神
伊といえばイの国
八といえば、八面山、八幡、源氏、源満仲、神山町の悲願寺
波の伊八(なみのいはち)とは、
江戸時代後期、主に房総各地で約50の寺社に作品を納めた宮彫師。
本名は、武志伊八郎信由
江戸中期には、欄間を飾る彫刻が流行し、躍動感ある波を表した欄間が見事で、異名で呼ばれる。
1751年または1752年に安房国長狭郡下打墨村(現・千葉県鴨川市打墨)で生まれ、没年は1824年と伝。
伊八は、下打墨村で名主を代々務めた武志家の5代目。
10歳の時から彫刻を始め、躍動感と立体感溢れる横波を彫って以来、作風を確立し、同世代に活躍した葛飾北斎『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」などの画風に強く影響を与えたといわれ、没するまで意欲的に作品を造り続けた。
「波裏」へ影響を与えた可能性を唱えたのは「波に宝珠」と呼ばれる伊八の欄間がある848年~851年に円仁によって創建されたと伝わり江戸幕府から朱印状を与えられていた行元寺(千葉県いすみ市)の元住職で、旧千葉県立安房博物館の館長だった市原淳由。
その作風は、五代目伊八(高石伊八朗信月:明治23年-昭和29年)まで200年にわたって、房総南部の社寺を中心に欄間彫刻などに作品を残した。
安房博物館の館長だった市原さんが「波裏」への影響を唱えたことは、不思議な縁があるとイ探は感じた。
これまでの探検で、市=虹=龍=蛇=亀=鰐。
原=海。
葛飾北斎の「浪裏」、波の裏に意味を感じてしまう。
裏=浦
鸕鶿草葺不合尊が生まれたとの伝承のある屋島の麓の鵜の羽大明神が鎮座する地、「浦生(うろ)」
浦島太郎をもなんとなく思う。
亀を助けて竜宮城へ
波=海=海神=龍=鰐
鰐の裏
「波に宝珠」の行元寺は、江戸幕府から朱印状。
イ探は、徳川家康(讃岐東照宮)は山王信仰で剣山を見つめ、龍=鰐だと妄想している。
讃岐東照宮
松平頼重+龍+犬。松平頼重:讃岐国高松藩の初代藩主。高松松平家の祖。水戸藩2代藩主徳川光圀(水戸黄門)の同母兄
まさに、海神鰐の方が、「波に宝珠」の作品がある寺の方で、伊八に興味をもっていたとなる。
ファンタジーじゃがの
1578年の国府台合戦で、現在の千葉県市川市の城が落城した際、白猿に導かれた兄弟が南無谷に落ち延びたという。
兄は鹿野山へ、弟は下打墨村塚廻に住み、武石家を名乗ったと言われている。
武石家の家系図の雁皮紙は関東大震災で焼失。
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種子タイプの庚申塔が表すのはこの命のことでは?
こうした事態に対して常重の跡を継いだ常胤は、久安2年(1146年)4月にまず下総国衙から官物未進とされた分を納め相馬郡司職を回復し相馬郷についても返却を実現する。
すでに天養2年(1145年)の源義朝による寄進があったが、常胤は「親父常重契状」の通り、伊勢内宮神官に供祭料を納め、加地子・下司職を常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じこれが承認された。
千葉氏といえば、妙見信仰の月星紋。
妙見信仰は、北極星を神格化したもので、日本の密教では妙見菩薩として崇められている。
[胤] イン・たねとは、
血すじ。血すじを受けたもの。
如意輪観音像とは、原則として全て坐像または半跏像で、立像は少ない。片膝を立てて座る六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は6本の手のうちの2本に、尊名の由来である如意宝珠と法輪とを持っている。日本における如意輪観音の作例のうち、大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の遺跡本山、701年、役小角が開創し、当初、雲心寺と称し、808年、空海が北斗七星を勧請した・観心寺本尊像は六臂像の代表作。右第1手は頬に当てて思惟相を示し、右第2手は胸前で如意宝珠、右第3手は外方に垂らして数珠を持つ。一方、左第1手は掌を広げて地に触れ、左第2手は未開敷蓮華(ハスのつぼみ)、左第3手は指先で法輪を支える。西国札所、開基(創立者)大友与多王の滋賀県の天台寺門宗の総本山・園城寺(三井寺)、ご詠歌:「いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖」
千葉氏は、妙見信仰を一族の守護と結束の象徴とし、特徴的な妙見菩薩像や星紋様を建築や文化財に残しました。妙見は武士の道においても軍神として活躍し、千葉氏は妙見信仰を全国に広がった一族結束の象徴として崇めてきました。この神々しい信仰は、千葉氏の歴史と文化に深く根付いており、その精神は星の紋とともに今も各地に継承されています。妙見信仰は、武士の心を正直に保ち、文武に励む姿勢を象徴しています。星に守られた武士の誇りと、和歌の道を究めた武将たちの歌も、この信仰の一環として伝えられています。
千葉常胤
千葉常胤の胤とは、イン・たねとは、血すじ。血すじを受けたもの。
千葉氏の妙見信仰は北極星を神格化し、天空から人々を見守り、方角を示し、運命を司る神。家紋は月星。
方角を示すのは北極星。
大阪府河内長野市寺元の高野山真言宗の遺跡本山は、701年役小角が開創し、雲心寺と称し808年空海が北斗七星を勧請。
つまり、北極星を見つけるため。
星とは北極星。
西国札所、開基は大友与多王の天台寺門宗の総本山・園城寺(三井寺)
ご詠歌「いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖」
結城宗広は、やんちゃしてた鰐積をどつきあげ、鰐積をいじめていた百足(遠い親戚の忌部の百済王族)を葬り、お礼に鰐積の本拠の「竜宮」に招かれ、仏教の赤銅製の梵鐘をもらい宝光寺(延光寺)ともとれる三井寺(園城寺)に奉納している。
月はツキヨミ。
奥の細道の「・・・三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、・・・」とは、「三里に天津久米の誇りを保つより、伊邪那美の勢力範囲である倭(イの国)の月読命を最初に思う。今は、(大和に)譲り、ほかの人が居て、素戔嗚尊の影響が別の屋敷へ移って・・・」
ツキヨミはスサノオと妄想。
スサノオの「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」日本初の和歌
白河は中世期には、小山氏の流れをくむ結城氏(白河結城氏)の所領。結城といえば結城宗広は、やんちゃしてた鰐積をどつきあげ、鰐積をいじめていた百足(遠い親戚の忌部の百済王族)を葬り、お礼に鰐積の本拠の「竜宮」に招かれ、仏教の赤銅製の梵鐘をもらい宝光寺(延光寺)ともとれる三井寺(園城寺)に奉納しているって妄想。その後榊原氏、諸松平氏、本多氏、阿部氏の親藩・譜代大名家が藩主として赴き、幕末には藩主阿部正外が江戸老中として諸外国との折衝役で難局を担った。阿部で引田、三輪、孝元天皇の皇子大彦命につながる。
ムラムラ妄想が絶頂にたっすると!
千葉氏の妙見信仰の月星とは!
月=スサノオ
星=北極星(航海の方角を示す)
星は素戔嗚尊
千葉氏=天叢雲の子・天種子命の末裔
千葉氏は、阿波の伊笠山に祭られる天二上命、
引いては、月読み素戔嗚尊の尾だ!
かな? たぶん、、、妄想では
朱砂の尾
長々長くなり申したので、今日はこの辺で。
ではまた。