イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。セキセイインコ青
 
 




讃岐の出土

スイジガイと考えられているのレリーフ

銅製

我々は南から来たんだと、、、
 
 
 
 

 
 
 
 
 

長尾は何のしっぽ?⑪のつづきです。

にやり

 
 
探検してると、〇〇尾とか、尾がよくでてくるように思います。
例えば、石清八幡宮、長寺、張など
 
菅原道真さんの友、明印さんの長尾寺
屋島の戦いへ向かう源義経が前を通ったであろう長尾寺
村上天皇の血筋と妄想の静御前、その母、磯禅師が得度の長尾寺
 

長尾寺はしっぽ関係では気になりまするビーグルしっぽ猫しっぽ牛しっぽ熊しっぽ黒猫しっぽ

 

 

長尾寺流れ星御詠歌
「あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名を唱えよ」
山鳥の尾。
なぜ山鳥の尾?うーん
 
 
 
 
本道はいづこ・・・叫び
 
大阪~奈良の長尾街道(ながおかいどう)は、大仙陵古墳(伝、仁徳天皇陵)から奈良葛城の長尾神社への道です。
 
讃岐の富田茶臼山古墳から阿波の那羅そして葛城は、大きな古墳から葛城、似てます。グラサン
 
 
讃岐にも「長尾街道」があり、脇道ばかりですが妄想探検中です。グラサン
 
 
讃岐の常盤橋~長尾寺の長尾街道(ながおかいどう)とは、
江戸時代に高松藩によって讃岐(高松)五街道として制定された旧街道(高松藩街道)のひとつ。
香川県道10号高松長尾大内線の旧道にして前身。
江戸時代当時、玉藻(高松)城外堀に架けられた常磐橋を起点とした、四国八十八箇所第87番札所長尾寺への東讃地域東西より延びる参拝道路の性質を持つ旧街道。
 
 
前回、千葉県鴨川市広場にある広場古墳群の北方のお寺、日蓮宗 本山 小松原山 鏡忍寺。そのグーグルマップのお寺の書き込みに「波の伊八のお墓は10年ほど前に生家に移転したと知った。」とあるのを見つけた。
この「波」、「伊」、「八」とイ探センサーにかかる字。
波といえば、海神
伊といえばイの国
八といえば、八面山、八幡、源氏、源満仲、神山町の悲願寺

 

波の伊八(なみのいはち)とは、
江戸時代後期、主に房総各地で約50の寺社に作品を納めた宮彫師。
本名は、武志伊八郎信由
江戸中期には、欄間を飾る彫刻が流行し、躍動感ある波を表した欄間が見事で、異名で呼ばれる。
1751年または1752年に安房国長狭郡下打墨村(現・千葉県鴨川市打墨)で生まれ、没年は1824年と伝。
伊八は、下打墨村で名主を代々務めた武志家の5代目。
10歳の時から彫刻を始め、躍動感と立体感溢れる横波を彫って以来、作風を確立し、同世代に活躍した葛飾北斎『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」などの画風に強く影響を与えたといわれ、没するまで意欲的に作品を造り続けた。
「波裏」へ影響を与えた可能性を唱えたのは「波に宝珠」と呼ばれる伊八の欄間がある848年~851年に円仁によって創建されたと伝わり江戸幕府から朱印状を与えられていた行元寺(千葉県いすみ市)の元住職で、旧千葉県立安房博物館の館長だった市原淳由。
その作風は、五代目伊八(高石伊八朗信月:明治23年-昭和29年)まで200年にわたって、房総南部の社寺を中心に欄間彫刻などに作品を残した。

 

安房博物館の館長だった市原さんが「波裏」への影響を唱えたことは、不思議な縁があるとイ探は感じた。
これまでの探検で、市=虹=龍=蛇=亀=鰐。
原=海。
葛飾北斎の「浪裏」、波の裏に意味を感じてしまう。
裏=浦
鸕鶿草葺不合尊が生まれたとの伝承のある屋島の麓の鵜の羽大明神が鎮座する地、「浦生(うろ)」
浦島太郎をもなんとなく思う。
亀を助けて竜宮城へ

 

 

 

 

波=海=海神=龍=鰐

鰐の裏

「波に宝珠」の行元寺は、江戸幕府から朱印状。

イ探は、徳川家康(讃岐東照宮)は山王信仰で剣山を見つめ、龍=鰐だと妄想している。

 

讃岐東照宮

 

松平頼重+龍+犬。松平頼重:讃岐国高松藩の初代藩主。高松松平家の祖。水戸藩2代藩主徳川光圀(水戸黄門)の同母兄

 

 

まさに、海神鰐の方が、「波に宝珠」の作品がある寺の方で、伊八に興味をもっていたとなる。物申す

ファンタジーじゃがのオエー

 

 


1578年の国府台合戦で、現在の千葉県市川市の城が落城した際、白猿に導かれた兄弟が南無谷に落ち延びたという。

兄は鹿野山へ、弟は下打墨村塚廻に住み、武石家を名乗ったと言われている。

武石家の家系図の雁皮紙は関東大震災で焼失。

千葉常胤の三男で、里見氏家臣である武石胤盛の流れを汲む可能性がある。
 
白猿に導かれたとは、白=霊的、猿=猿田彦大神(フナト神、クナト神、道祖神、庚申の青面金剛)
つまり、イ探的には四国限定の阿波神山のフナト神に導かれたんだと。
フナト=船戸=立入禁止
 
おふなとさんは、1神+子12神=13神
なんだな。
 
 
 
ふぇ?!びっくり
 
13
十三(とみ)
富田山(阿波の眉山)
讃岐の難破の富田茶臼山古墳(妄想の仁徳(難波)天皇陵)につながった!ゲロー
 
 
千葉氏が阿波神山の神に導かれたなんだな。
と、勝手に妄想暴走しときます。ドンッ
 
 
 
 
千葉常胤(ちば つねたね)とは、
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。千葉氏第3代当主。
千葉氏を豪族から御家人の地位まで登らしめた千葉氏中興の祖といわれる。
常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。
在地領主=武士の政権・鎌倉幕府の創設に努力し、これによって子孫発展の基礎を築いた。
まさに関東の在地領主=武士と鎌倉幕府の御家人の、典型。
 
 
「胤」(たね)
つまり、「種」だよね
子種
 
 
種子庚申塔 真顔
 
ふと感じたのは、
千葉氏の胤とは天村雲命の子「天種子命」の尾を表すのでは?
 
 
 
 
 
 
出生は、桓武平氏良文流千葉氏の一族。
父は下総権介・千葉常重。上総広常とは又従兄弟。
平安時代末期における下総国の有力在庁官人。
官途名は千葉介(ちばのすけ)。
 
1130年6月11日、千葉氏の祖である父・平常重は所領の「相馬郡布施郷」を伊勢神宮に下総相馬御厨として寄進しその下司職となっていた。
しかし、保延2年(1136年)7月15日、下総守・藤原親通は、相馬郡の公田からの官物が国庫に納入されなかったという理由で常重を逮捕・監禁し、常重から相馬郷・立花郷の両郷を官物に代わりに親通に進呈するという内容の新券(証文)を責め取って押領してしまう。
これに康治2年(1143年)に源義朝(頼朝の父)が介入し、常重から相馬郡(または郷)の証文を責め取った。だが義朝は伊勢神宮の神威を畏れて天養2年(1145年)3月、それを伊勢神宮に寄進する避文を提出した(責め取った証文が圧状とみなされて、伊勢神宮側から寄進の拒否をされたため)。

こうした事態に対して常重の跡を継いだ常胤は、久安2年(1146年)4月にまず下総国衙から官物未進とされた分を納め相馬郡司職を回復し相馬郷についても返却を実現する。
常胤は8月10日に改めてその支配地域を伊勢神宮に寄進し、その寄進状が残っていることからその間の事情が今に知られることになる。

すでに天養2年(1145年)の源義朝による寄進があったが、常胤は「親父常重契状」の通り、伊勢内宮神官に供祭料を納め、加地子・下司職を常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じこれが承認された。
このことについて義朝の行為は紛争の「調停」であったとする見方もあるが、常胤の寄進状には「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とあり、常胤にとっては義朝もまた侵略者の一人であることが判る。
 
 
 

千葉氏といえば、妙見信仰の星紋。
妙見信仰は、北極星を神格化したもので、日本の密教では妙見菩薩として崇められている。
この菩薩は、天空から人々を見守り、方角を示し、運命を司る神として信仰されてきました。
 
 
千葉氏が妙見菩薩を千葉氏宗家(成胤とその子孫)及び一族の守護者を強調する主張(“妙見説話”)を完成させたのは、頼胤の時代の説あり。

[胤] イン・たねとは、
血すじ。血すじを受けたもの。
如意輪観音像とは、原則として全て坐像または半跏像で、立像は少ない。片膝を立てて座る六臂の像が多いが、これとは全く像容の異なる二臂の半跏像もある。六臂像は6本の手のうちの2本に、尊名の由来である如意宝珠と法輪とを持っている。日本における如意輪観音の作例のうち、大阪府河内長野市寺元にある高野山真言宗の遺跡本山、701年、役小角が開創し、当初、心寺と称し、808年、
空海が北斗七星を勧請した・観心寺本尊像は六臂像の代表作。右第1手は頬に当てて思惟相を示し、右第2手は胸前で如意宝珠、右第3手は外方に垂らして数珠を持つ。一方、左第1手は掌を広げて地に触れ、左第2手は未開敷蓮華(ハスのつぼみ)、左第3手は指先で法輪を支える。西国札所、開基(創立者)大友与多王の滋賀県の天台寺門宗の総本山・園城寺(三井寺)、ご詠歌:「いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖」

北斗七星は、北極星を見つける印
空海は、北極星を見つけたくて北斗七星を呼んだのではないか?
北極星とは!?


千葉氏は、妙見信仰を一族の守護と結束の象徴とし、特徴的な妙見菩薩像や星紋様を建築や文化財に残しました。妙見は武士の道においても軍神として活躍し、千葉氏は妙見信仰を全国に広がった一族結束の象徴として崇めてきました。この神々しい信仰は、千葉氏の歴史と文化に深く根付いており、その精神は星の紋とともに今も各地に継承されています。妙見信仰は、武士の心を正直に保ち、文武に励む姿勢を象徴しています。星に守られた武士の誇りと、和歌の道を究めた武将たちの歌も、この信仰の一環として伝えられています。
 
 
日本初の和歌といえば、
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」(byすさのお)
和歌=スサノオ≒ツキヨミ≒月
 
千葉 常胤(ちば つねたね)とは、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。桓武天皇を先祖とする桓武平氏、常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。関東の在地領主=武士の、そして鎌倉幕府の御家人の、一つの典型。千葉氏が妙見菩薩を千葉氏宗家(成胤とその子孫)及び一族の守護者を強調する主張(“妙見説話”)を完成させたのは、頼胤の時代の説あり。家紋:月星[胤] イン・たねとは、血すじ。血すじを受けたもの。
星神社。星神社は全国に沢山あるそうです。高知で有名なのは、三菱の創始者である岩崎弥太郎の生家の裏山に妙見山があり、弥太郎はよくそこの星神社まで登ってお参りしたそうです。弥太郎が1854年、江戸遊学に出かける際、星神社の社に「吾れ志を得ずんば、再び帰りてこの山に登らじ」という落書きをし、立身出世を祈願したそうです。御祭神は推定だが天之御中主神かな。

 

 

 

千葉常胤の胤とは、イン・たねとは、血すじ。血すじを受けたもの。

千葉氏の妙見信仰は北極星を神格化し、天空から人々を見守り、方角を示し、運命を司る神。家紋は月星。

方角を示すのは北極星。

大阪府河内長野市寺元の高野山真言宗の遺跡本山は、701年役小角が開創し、雲心寺と称し808年空海が北斗七星を勧請。

つまり、北極星を見つけるため。

星とは北極星。

西国札所、開基は大友与多王の天台寺門宗の総本山・園城寺(三井寺)

ご詠歌「いでいるや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖」

結城宗広は、やんちゃしてた鰐積をどつきあげ、鰐積をいじめていた百足(遠い親戚の忌部の百済王族)を葬り、お礼に鰐積の本拠の「竜宮」に招かれ、仏教の赤銅製の梵鐘をもらい宝光寺(延光寺)ともとれる三井寺(園城寺)に奉納している。

月はツキヨミ。

 

奥の細道の「・・・三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、・・・」とは、「三里に天津久米の誇りを保つより、伊邪那美の勢力範囲である倭(イの国)の月読命を最初に思う。今は、(大和に)譲り、ほかの人が居て、素戔嗚尊の影響が別の屋敷へ移って・・・

 

 

ツキヨミはスサノオと妄想。

スサノオの「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」日本初の和歌

 

白河は中世期には、小山氏の流れをくむ結城氏(白河結城氏)の所領。結城といえば結城宗広は、やんちゃしてた鰐積をどつきあげ、鰐積をいじめていた百足(遠い親戚の忌部の百済王族)を葬り、お礼に鰐積の本拠の「竜宮」に招かれ、仏教の赤銅製の梵鐘をもらい宝光寺(延光寺)ともとれる三井寺(園城寺)に奉納しているって妄想。その後榊原氏、諸松平氏、本多氏、阿部氏の親藩・譜代大名家が藩主として赴き、幕末には藩主阿部正外が江戸老中として諸外国との折衝役で難局を担った。阿部で引田、三輪、孝元天皇の皇子大彦命につながる。

 

 

ムラムラ妄想が絶頂にたっすると!

千葉氏の妙見信仰の月星とは!

 

 

 

月=スサノオ

星=北極星(航海の方角を示す)

星は素戔嗚尊

 

千葉氏=天叢雲の子・天種子命の末裔

 

 

千葉氏は、阿波の伊笠山に祭られる天二上命、

引いては、月読み素戔嗚尊の尾だ!

 

 

 

かな? たぶん、、、妄想では

 

朱砂の尾

 

 

長々長くなり申したので、今日はこの辺で。

 

ではまた。

グラサン