イノクニタンケンタイ雑用係の日月ホトトギスです。
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長尾は何のしっぽ?⑥のつづきです。
長尾寺はしっぽ関係では気になりまする
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高松とは伊邪那美とも妄想。
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18代履中天皇妃の兄、阿波忌部族の天富命の孫である鷲住王は、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、香川県善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。
飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂元神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」が残っている。
千葉県松戸市六高台1丁目15の高靇神社は、明治時代、旧小金牧を開墾した五香六実村の鎮守として創建。雨乞いのため出雲大社の龍蛇神を祀っていた。天台宗 登慶山 如意輪寺 持法院は、一説では、鎌倉時代初期に千葉常胤が如意輪観音像を、鎌倉の堂宇に安置。千葉氏は妙見菩薩を信仰し、家紋は日月。如意輪観音=妙見菩薩なのでは。その後、日本史上初の朝廷・後鳥羽上皇と武家政権・鎌倉幕府北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱・承久の乱が勃発したため、当地に移して萱葺き屋根の草庵を建て、藤の花を厨子に飾りたてて安置。この藤は富士ともとれるのでは。立石(石立)山であった剣山への裏であり表参道「藤(富士)の池」を勝手に思う。
如意輪観音像は、六臂で2つの手に如意宝珠と法輪とを持つ。一方、二臂の如意輪観音像とは、弥勒菩薩だな六臂で思うのが、三面六臂の藤原北家の興福寺の中心的でない位置に置かれる阿修羅像。阿修羅が如意輪観音なら阿修羅は孝元天皇、倭迹迹日百襲姫命の母かなとも妄想。
高靇神は、貴船神社の御祭神だよね。
富士山は浅間山を探検だが、「富士」から剣山のことへの浅い妄想では、剣山は、「立石山」「石立山」であり小篠山、大篠山。室町時代以前には、一般の人が登る山ではなかった。大峰、伊勢、熊野、愛宕、高越が本人に代わって神仏に参拝する代参可能な山。剣山は無く、山伏達が檀那の依頼で登ることができる山ではなかった。木屋平村の龍光寺(元は長福寺)と東祖谷山村の円福寺の山伏寺が、剣の穴吹登山口の八合目の藤(富士)の池に「藤の池本坊」を作り、剣山を修験者や信者が登る山に開発。
頂上でご来光を遥拝可能となり、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物に。忌部神社の別当・高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ長福寺は、中世に結成の忌部十八坊の一つ(古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持つ忌部十八坊)福の宇をもつ長福寺は、修験者山伏達の好む「龍」の字を用いる「龍光寺」へと改名は、確かに関係者には好意的に迎えられ、忌部十八坊からの独立宣言かもしれない。「龍」を前面に出したい意思を感じる。表参道は、円福寺で三好郡・香川県・愛媛県・岡山県。裏参道は、藤の池派で神山町。剣山(立石山・小篠山)への裏参道に富士の池本坊を設けた理由は定かでないが、わざわざ(態々)「藤(富士)の池」と付けている。裏参道とはいえ、一般の人が登る山ではなかったことを考えると、こちらが表ではなかろうか。そして、山伏や修験者が神仏に祈願するとき,冷水や海水を浴びて身を清める垢離掻川に身漱してから案内役は「藤(富士)の池」(藤(富士)の池本坊)へ運んでいる。
御殿を造った手置帆負命については、古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の一つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり 、末裔は(金毘羅宮が鎮座する)象頭山周辺の楠で船を造り、大麻山の麓に植えた麻から作った布で帆を張って、瀬戸内海を航行したと考える節もあるそうな。祭られる主な神社としては、安房神社(あわじんじゃ)、大麻彦神社がある。『古語拾遺』(807年)および『先代旧事本紀』(平安時代初期頃か)に記された阿波忌部の東遷説話が知られ、これによれば忌部氏遠祖の天富命(あめのとみのみこと:天太玉命の孫)は、各地の斎部を率いて良い土地を求めようと阿波地方(現在の徳島県)の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えた。
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空海の総本山善通寺の東を守る東の門社
酒部黒磨命については、神櫛王(武殻王)の四世孫である綾真玉の子、酒部黒麿は城山長者と呼ばれ、伝承が残る。神櫛王は、讃留霊王や武卵王(日本武尊の子)とされているが、讃留霊王は神櫛王が叔父との丸亀市の記載がある。また、讃留霊王は、石碑にもヒロインとあり女性との説がある。
国府は現在の南房総市府中付近に置かれ、古代末期から中世にかけて丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏などの武士団が活動し、平安時代末期には源頼朝の再起の地となる。鎌倉時代の守護は不明。
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①宇多の竜
仁徳天皇(難波天皇)を祭ってある若宮の場所に涼ヶ岡八幡神社建立の結城宗広の先祖の藤原秀郷、別名、俵藤太は、横柄な大蛇を退治したが、大蛇は「百足を退治してくれ」と懇願している。この頼られる感じからは、源頼朝、白河、陸奥、大友、結城(俵藤太)、は何か共通の背景を持っているように妄想する。そして、百足を退治したら、大蛇は竜宮へ招待して、宝、赤銅の釣鐘をプレゼントしている。赤い梵鐘は、鰐積と妄想の紀氏及び伴氏(大伴、大友)が政界から追い出された「応天門の変」以降、補陀落渡海を続けたと妄想の弘法大師空海の姪の子智証大師円珍の総本山の園城寺(三井寺)に奉納している。大蛇は竜宮の関係者。大蛇=竜。源、白河、陸奥、大友、結城、俵は、竜宮の関係!
東海道に属し、現在の千葉県南部。
阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命は、東国に土地を求め阿波の忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸し開拓を進めた。
そして、阿波忌部氏「阿波」の名をとって「安房」と呼ばれた。
律令制以前のこの地域には、阿波国造と長狭国造の2つの国造が置かれていた。(長狭は、「ながお」ともよむ。)
景行天皇は神櫛王の父。神櫛王墓は讃岐の屋島の合戦場の南側すぐ近くにある。佐藤継信の墓も脇にある。
天富命は、阿波忌部を率いて黒潮に乗り、房総半島南端に上陸し開拓を進め、現在の千葉県南部に安房国ができ、阿波と長狭(長尾)の国造があったということだな。
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結城といえば以前のブログの百足の話しからは、源、白河、陸奥、大友、結城、俵は、竜宮の関係!と妄想。
これに、丸氏、長狭氏、安西氏、神余氏、上杉氏も加わる感じか。
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