イの国探検隊ファンの皆様、アマでありカミでもある皆様こんにちは

 

 

⑩のヤマト奈良からのつづきで⑪伊勢三重です。

と言いたいところですが・・・

今回は、始点の阿多を出発して、終点の伊勢にたどり着く予定でしたが、前々回の道草「竜とそばかすの姫」風に思いっきり引きずられますゲッソリ

 

 

しかし、イ探は、そのラインを伸ばした先をも目指しております。

「神」阿多~伊勢のラインを一応たどっております。

悪しからずご了承ねがいます。(ペコリ)

ショボーン


参考画像

完全にイメージ

神仏習合

 左手は神社、右手は寺


 

前々回、竜とそばかすの姫風で、富士山(浅間山)とほざかせていただきました。

これで気になる事としては、

富士山は浅間山じゃないのか?と日頃思うこと。

富士山

富士信仰の神社は、富士神社じゃなく浅間神社。

 

浅間神社(あさまじんじゃ、せんげんじんじゃ)は、

「浅間」を社名とする神社。

主に富士山に対する信仰(富士信仰/浅間信仰)の神社。

系統としては、2つある。

①富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(浅間神)

②浅間神を記紀神話に現れる木花之佐久夜毘売命と見てこれを祀る神社


富士山は古くは「福慈神」・「不尽神」と記載される霊妙な神山・日本鎮護の神山。

しかし、奈良時代末から火山活動が活発化し、火山神(浅間神)としての信仰(浅間信仰)として全国に広がった。

「浅間(あさま)」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味する「あさま」は古称で、もう1つの称「せんげん」は中世以降から用いられたとされる。

浅間神と木花咲耶姫命が同一視されたのには木花之佐久夜毘売の出産が関係

(ニニギノミコトに不貞を疑われたコノハナサクヤヒメは、おなかに宿した子どもがニニギノミコトの子であるという証をみせるため、火を放った産屋で燃え盛る炎のなか、3人の男の子を生んだ)

 

中には木花之佐久夜毘売命の父神・大山祇神や、姉神・磐長姫命を主祭神とするものもある。それらを含めて全国に約1,300社の浅間信仰の神社がある

これらの神社は、富士山麓や山容が眺められる地に多く所在。

その中でも特に、富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。

のち、浅間神は神仏習合により「浅間大菩薩(本地仏:大日如来)」とも称された。

祭祀の特徴は、主要な浅間神社は
山中に祀られた山宮と麓の集落の里宮が対をなして祀られる。

これは、山宮が富士山を遥拝する場所、里宮は湧水池・湖沼周辺で鎮火を祈る場所であると解されている。

また、関東地方を主として多くの神社の境内には富士塚が築かれ、氏子らで富士講が形成された。

 

「延喜式神名帳」には、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々を祀る神社である「名神大社」として「浅間神社」駿河国甲斐国に記載がある。

名神(みょうじん)は、

神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号。

 

「駿河国富士郡 浅間神社」

名神大社。以下の一社に比定されている。
富士山本宮浅間大社(富士宮市)に比定。

駿河国一宮、旧官幣大社、別表神社。
この浅間大社は
文献上最古から確認されている神社、853年に名神・従三位。

初めから従三位という高位を授かるとは考えがたく、神名の成立はさらに遡る。

859年には正三位。
社伝では、垂仁天皇3年とされる創建から806年までは
山宮浅間神社で祀られ、同年、現在地に遷座。

なお、遷座先の地には、式内社・富知神社が鎮座し、湧玉(湧泉)池を祭祀していた。

この遷座は、

富士信仰が水の神「フクチ・フジ」信仰から火の神「アサマ」信仰へ転換したことを表す象徴的な出来事。

 

「甲斐国八代郡 浅間神社」

名神大社。

以下の三社が古社で、甲斐国一宮についても論社。
・浅間神社(笛吹市) - 旧国幣中社、別表神社
・河口浅間神社(南都留郡富士河口湖町) - 旧県社
・一宮浅間神社(西八代郡市川三郷町) - 旧村社

 

甲斐国に浅間神が祀られる経緯は、

『日本三代実録』に記され、
864年5月25日、富士山の貞観大噴火が始まり、大被害
・864年7月17日、噴火により八代郡の本栖海(本栖湖)と剗の海が埋没。
・864年8月5日、占いにより、噴火が起こったのは駿河国浅間名神における祭祀怠慢によるものとされ甲斐国でも祭祀するべきと下命
・865年12月9日、浅間明神が真貞に神がかりし、甲斐国に神社を定めることを求め浅間明神祠が祀られ官社。そして、勅により真貞を祝として甲斐国八代郡家の南に神宮を建てた。そして官社。
・865年12月20日、甲斐国山梨郡にも同様に浅間明神を祭祀

 

 

阿波徳島県の剣山登山ルートには、剣山表参道として開かれたクラシックルートとして、富士の池登山口があるようです。

見ノ越の道が出来るまでは、剣山信仰の修験道も兼ねていて、昔は信者さんが全国から集まっていたそう。

 

「瀬戸の島から」さんの記事によると、

剣山と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからのよう。

「祖谷紀行」によれば、旧名を「立石山」としている。

明治十二年六月龍光寺住職・明皆成が作った「剱和讃」の中は「帰命頂礼剱山、其濫触を尋ぬれば……一万石立の山なるぞ」とあって、「石立山」と呼ばれていたとします。

この「立石山」「石立山」は二字が逆になっていますが、同じ意味で、両方の名前で呼ばれていたのでしょう。「石立・立石」という呼称は、頂上の宝蔵石からきたものかもしれません。

 

また別の記録によると、この山はかつて「こざさ」とも呼ばれたと伝えます。
『異本阿波志』の「剣山……。

此山に剣の権現御鎮座あり、又、小篠の権現とも申す」「剣山小篠権現、六月十八日祭か……」
とあることから
「小篠」が「剣山」の別名のように使用されています。

権現という用語から、修験的要素がすでに入り込んでいることがうかがえます。
この山は、南に続く美しい稜線で結ばれる次郎ギュウがあります。
地元では、剣はかつては太郎ギュウと呼ばれ次郎ギュウと兄弟山で、それを伝える民話も残っているようです。

研究者は次のように考えているようです。
ギュウは笈で山伏の着用するオイズルのことであって、その山容が笈に似ている」
ここにも、修験者の影が見え隠れします。  

つまり、剣山の名で記されている史料が現れるのは、近世以降なのです。それ以前には、この山は別の名で呼ばれていたようです。


それでは、

江戸時代になって剣山と呼ばれるようになったのはなぜなのでしょうか

この山は室町時代以前には、一般の人が登る山ではなかったようです。

例えば、天文二十一年(一五五二)に阿波の修験者達が「天文約書」と呼ばれる約定書を結びますが、その一項に次のように記されています。

「一、御代参之事、大峰、伊勢、熊野、愛宕、高越、何之御代参成共念行者指置不可参之事」

この中に挙げられる霊山のうち、高越山が当時は阿波の修験道の霊山で代参対象の山であったことが分かります。ところが、ここに剣山はありません

山伏達が檀那の依頼で、登る山ではなかったのです。

 

「剣山開発」は、江戸時代になって始まったようです。
伊予の石鎚山の隆盛、四国霊場の誕生、数多くいた阿波の真言山伏の存在、そうした要素が阿波第一の高山である剣山を信仰と娯楽の面から世に出そうとする動きを後押しします。
剣山を修験者や信者が登る山に「開発」するために、動き出したのが
美馬郡木屋平村谷口にある龍光寺(元は長福寺)と三好郡東祖谷山村菅生にある円福寺のふたつの山伏寺でした。
剣の穴吹登山口の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。
登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。

そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。

この(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。

こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。

この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。

実は、龍光寺は享保二年(1717)に長福寺から寺名へ改称しています。

この背後には何があったのでしょうか?
もともと、長福寺は中世に結成されたとされる
忌部十八坊の一つでした。

古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。

忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。

江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。

しかし、修験に関する限り、高越山、高越寺の名門としての地位は存続していたようです。
 

そのような情勢の中で長福寺(龍光寺)は、木屋平に別派の剣山修験を立てようとしたのです。
これは、本山の高越寺の反発をうけたはずです。

しかし、「剣山開発」プロジェクトを進めるためには避けては通れない道だったのです。

そこで、高越寺の影響下から抜け出し、独自路線を歩むために、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名したと研究者は考えています。


奈良は存在し、比婆山(高越山)は那羅だった




修験者山伏達の好む
「龍」の字を用いる「龍光寺」への寺名変更は、関係者には好意的に迎えられ、忌部十八坊から独立宣言となったのかもしれません。

 

龍光寺の寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクするようです。
修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。

それまでの「石立山」や「立石山」は、単に自然の地理から出たもので、どこにでもある名前です。

それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。
この地方には「平家落人」と安徳天皇の御剣を頂上に埋めたという伝説があります。

これと夕イアップし、しかも修験の山伏達から好まれる嶮しい山というイメージを表現する「剣山」はもってこいです。

新しい「剣山」は、龍光寺によって産み出されたものなのかもしれません。

こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は年々隆盛になります。

 

このように剣山登山の歴史が、修験組織による剣神社(大剣権現)への参詣の歩みでした。
それは剣山周辺の地がさまざまの修験道と関係する地名・行場名を持つことでもうかがえます。

今に遺る地名を挙げると、藤の池・弥山・小篠、大篠・柳の水 垢離取川・不動坂・御濯川・行者堂・禅定場などがあります。このうち、藤の池・弥山・小篠・大篠・柳の水などは、大和の修験道の根本道場である大峰の行場、菊が丘池・弥山・小篠(の宿)・柳の宿など似ています

ここからは剣山の修験化が大峰をモデルにプラン化されたことをうかがわせます。

さらに研究者は踏み込んで、次のような点を指摘します

①「剣山」命名者が龍光寺を中心とする山伏修験者達であり、
②この「剣山」命名が近世初頭を遡るものでないこと
小篠などの命名から、この山伏達が当山派の醍醐寺に属したこと
 

醍醐寺

 

醍醐寺極楽寺

 

極楽寺の明印の友・菅原道真  明印説得得度の静御前と母磯禅師

 

極楽寺宝蔵院の明印法印が醍醐天皇の勅で男山相応の地に京都石清水八幡宮を勧請。南海道神讃岐国 寒川郡「神前神社」に比定論社・男山八幡神社。一郡一八幡のはじめとして創祀。

 

「仏法僧を北側で守護している毘沙門天=多聞天=金毘羅大権現」とは、南に守るべき中心がある。金比羅宮本殿から真南にたどり、徳島県の標高の高い位置だと仮に妄想すれば、祖谷(いや)地域。

 

 

 

明治初年、神仏分離令によって、修験の急速な衰退が始まります。
ところが、ここ剣山では衰退でなく発展が見られるのです。

修験者の中心センターであった龍光寺及び円福寺が、中央の混乱を契機として自立し、自寺を長とする修験道組織の再編に乗り出すのです。

龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。

そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげたのです。

 

剱和讃
帰命頂礼 剱山  其濫筋を尋ぬれば

南海道の阿波の国  無二の霊山霊峰ハ
元石立の山なるぞ  昔時行者の御開山
秋は弘仁六年の  六月中の七日なる
空海大師此に  登りて秘法を修し玉ふ
眼を閉て祈りなん  神と仏と御出現
殊に倶利伽羅大聖  大篠剱の御本地
愛染王は古剱乃  御本地仏と仰ぐなり
されバ秘密の其中に  剱すなわち大聖尊
此時空海石立の 山を剱と呼ひたまふ
一字一石法花経の   塚(大師の古跡なり
山上山下の障難を   除きたまへる事ぞかし
古剱谷の諸行場は  役の行者の跡そかし
中にも苔の巌窟には   龍光寺 大山大聖不動尊
本地倶利伽羅大聖は 無二同鉢の尊ときく
衆生の願ひある時は  童子の姿に身をやつし
又は異形にあらわれて   生々世々の御ちかひ
あら尊しや御剱の  神や仏を仰ぎなば
五日も七日も精進し  垢離掻川に身漱して
運ぶ案内富士の池  三匝行道する行者
合掌懺悔礼拝し   御山に登る先達
新客行者を誘ひてや   八十五町を歩きつつ
右と左に絵符珠数   唱る真言経陀羅尼
此の御剱の山なる   大聖尊の三昧池ぞ
踏しおさゆる爛漫の   梵字即ち大聖尊
壱度拝山拝堂を    いたす行者の身影の
形いつも離るらん   悪事災難病難を
祓ひおさむる御宝剱   六根六色備るを
唯真心のひとつなり   深く仰て信ずべし
 

龍光寺住職 明皆成誌
明治十二年六月  当山教会者へ授共す

 

 

今では、見の越が剣山参詣のスタートになりました。

「裏参道」が「表参道」にとって変わったと言えるのかも知れません。
見ノ越の円福寺の信者は、徳島県西部の三好郡・香川県・愛媛県・岡山県などの人々が多いようです。

高い山岳を県内にもたない香川県人が、祖谷谷経由で参拝を行っていた名残なのでしょうか

円福寺建設には香川県人が深く関与したようです。
一方
藤の池派には、本県東部の人々が多く、かつては先達に名西郡神山町出身者の多かったと云われます。

神山町は、剣山への玄関だっただけに修験活動も活溌だったようです。

 

 

富士山は浅間山を探検だが、

「富士」から剣山のことへの浅い妄想では、

 

剣山は、「立石山」「石立山」であり小篠山、大篠山。

室町時代以前には、一般の人が登る山ではなかった。

大峰、伊勢、熊野、愛宕、高越が本人に代わって神仏に参拝する代参可能な山。

剣山は無く、山伏達が檀那の依頼で登ることができる山ではなかった。

木屋平村の龍光寺(元は長福寺)と東祖谷山村の円福寺の山伏寺が、剣の穴吹登山口の八合目の藤(富士)の池に「藤の池本坊」を作り、剣山を修験者や信者が登る山に開発。

 

頂上でご来光を遥拝可能となり、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物に。

忌部神社の別当・高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ長福寺は、中世に結成の忌部十八坊の一つ(古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持つ忌部十八坊)

福の宇をもつ長福寺は、修験者山伏達の好む「龍」の字を用いる「龍光寺」へと改名は、確かに関係者には好意的に迎えられ、忌部十八坊からの独立宣言かもしれない。

 

「龍」を前面に出したい意思を感じる。真顔

 

表参道は、円福寺で三好郡・香川県・愛媛県・岡山県。

裏参道は、藤の池派で神山町。

 

剣山(立石山・小篠山)への裏参道に富士の池本坊を設けた理由は定かでないが、わざわざ(態々)「藤(富士)の池」と付けている。

裏参道とはいえ、一般の人が登る山ではなかったことを考えると、こちらが表ではなかろうか。グラサン

そして、山伏や修験者が神仏に祈願するとき,冷水や海水を浴びて身を清める垢離掻川に身漱してから案内役は「藤(富士)の池」(藤(富士)の池本坊)へ運んでいる。

 

 

 「瀬戸の島から」さんの記事を多用しました。ほぼほぼでした。

大変参考になりました。ショボーン


長くなりますたので、ここまでとします。

(富士山と浅間神社の話はどこへいったんじゃ!)

 

 

一応、いう〜ときますが、

 

ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

 

↓これ、このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!おーっ!

 

は、続いております。

これは、すっごい遠くまでの道草です。

 

 

ではまた。もぐもぐ