イの国探検隊ファンの皆様こんにちは
前回⑤-1の続きです。
前回、久米氏、武内宿禰、日本で一社の式内社伊射奈美神社、高千穂、毘沙門天、庚申を思わせる猿飼、宇宙の根源の神。
イの国妄想が膨らむ言葉が並びました。
この桜八幡神社の見つめる先
歳神様と隋神門を結ぶ延長には何があるのか!
さらに探検です。
↓
四国の山地をさらに進みます。
伊勢丸神明宮
旧物部村の伊勢丸(いせまる)に、かつて一世を風靡した神明宮「伊勢丸様」があったとのこと。
県内では珍しい神明造の社殿、元亀2(1571)年に伊勢神宮から分祀されたという。
縁日は出店や奉納相撲など大変賑やかなものだったらしい。
香美市の情報を元にすると
物部町伊勢丸の神明宮(伊勢丸様)は、県内では珍しく神明造の社殿。
社殿自体は大きくないが、伊勢神宮(三重県)の内宮や外宮に似せた建築様式。
伊勢丸様の起源は、元亀2年(1571)、伊勢神宮から分祀して、坂本兵部、丞が背負って帰る途中この地で病死。子息の秩父大夫が安置したのが始まりと伝えられている。
お伊勢様は、天照大神を祭神とする皇室の神社。
神明造とは切妻造(屋根の形状が開いた本を伏せたような造り)で、幅が広く奥行きが浅い構造。白木柱は掘立式で千木が高くそびえ、屋根は茅葺きで鰹木を載せている。
全ては伊勢神宮に似せている。
日本人のルーツの一角をなす弥生人のDNAは、揚子江下流から発掘された人骨のものと一致することから弥生人とは、水稲栽培技術を持った揚子江下流の中国人が、新地に渡ってきたもの。
蘇州付近でジャポニカ米(日本で多く栽培されている品種)が生産されている事実は、これを傍証するものではないか。
立ち返って伊勢丸様の神明造。この建築は、東南アジアに見られるような丸太を組んでヤシ葉で屋根を葺いた高床式の住居に似ている。
また『史記』には、揚子江の周辺に古代タイ語系の言葉を話す人たちがいたという記述がある。
日本人の先祖とは、朝鮮半島や中国から弥生人が渡来し、さらには東南アジアからも海人と呼ばれる先祖神を崇拝する民族がやって来て、自然神を崇拝する人たちに先祖神崇拝を移入したものでは…。
八島、「大山積神」は「渡し大神」で「姫神」、「百済国から渡来した海神」。
三島の大山祇神社の立地は、航海の「山あて」と船材で海神と山が結び、「ミ」が「神霊」で「オオヤマツミ」。
チワン族。
チワン語は漢・チベット語系のチワン・トン語族チワン・タイ語分支に属、三国時代の俚人や僚(獠)人が祖先では。
↓
木船大明神
直接的な情報がないが、高知市には、こんな神社が、
葛木咩(かつらぎひめ)神社(跡地)
(高知市布師田)
祭神 葛城襲津彦命妃命(葛城襲津彦命の妃)
(高魂命の妃 「土佐國式社考」)
神社は、かつては南国市岡豊高校の西側に鎮座していた。旧村社。
式内社・土佐國土佐郡 葛木咩神社に比定される古社だったが、社屋の老朽化で、昭和47年に国分川対岸に鎮座する葛木男神社に合祀。
創祀年代は不詳。
木船大明神とも葛城木船大明神とも称されていた。
葛城 襲津彦(かずらき の そつひこ)は、
生没年不詳:4世紀末から5世紀前半頃と推定。
記紀等に伝わる古代日本の人物。
武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされる。
履中天皇(第17代)・反正天皇(第18代)・允恭天皇(第19代)の外祖父。
対朝鮮外交で活躍したとされる伝説上の人物であるが、「百済記」の類似名称の記載から強い実在性が指摘される。
「古事記」
通常の用字法では「葛木」と表記されるべきところ、仁徳記・履中記では「葛城」と好字に改められている箇所あり、これは蘇我馬子が「葛城臣」を称したため。
また、孝元天皇-武内宿禰-蘇我石河-蘇我氏という系譜を記しているのに対して、「日本書紀」ではそれを記していない。
また、欠史八代の皇居と御陵は蘇我氏の勢力基盤である葛城・高市地域に集中。これは「欠史八代や武内宿禰の系譜が推古朝において蘇我氏の手によって形成されたからである」と考えられるが、「蘇我石河宿禰」は蘇我倉山田石川麻呂によっての創作。
讃岐には、「木熊野神社」があり、この木=紀。
「紀熊野神社」と同じ。
つまり、紀の国の熊野神社を表している。
じゃ、こちらは木船=貴船!?
貴船神社?
貴船神社(きふねじんじゃ)とは、
京都市左京区鞍馬貴船町にある神社。
式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。
旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約450社ある貴船神社の総本社である。
地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」という。
水神である高龗神を祀り、古代の祈雨八十五座の一座とされるなど、古くから祈雨の神として信仰された。
水の神様として、全国の料理・調理業や水を取扱う商売の人々から信仰を集めている。
[本宮]
本殿 - 祭神:高龗神(たかおかみのかみ)。
2007年(平成19年)に改築。
庭園「天津磐境」 - 1965年(昭和40年)に重森三玲により作庭された石庭。
龍船閣。
龗神(おかみのかみ)
または、淤加美神(おかみのかみ)は、
日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれた。
火之迦具土神 (ヒノカグツチノカミ)
[摂末社]
白髭社 - 祭神:猿田彦命
牛一社 - 祭神:木花開耶姫命
川尾社 - 祭神:罔象女命
鈴鹿社 - 祭神:大比古命
祖霊社 - 祭神:氏子の祖霊
[結社(ゆいのやしろ)(中宮)]
本宮と奥宮の中間の場所にある。その立地から中宮(なかみや)とも呼ばれる。
縁結びの神として信仰。以前は、境内の細長い草の葉を結び合わせて縁結びを願っていた。
本殿 - 祭神:磐長姫命
天の磐船 - 「磐長姫命の御料船」として1996年(平成8年)に奉納された船形の自然石。
和泉式部の歌碑
「もの思へば 沢の蛍も わが身より あくがれづる 魂かとぞ見る」
(愛しい夫が他の女性に心を奪われ、思い悩んで貴船神社に詣でたところ、貴船川一面に蛍が乱舞している。そのはかなく点滅する光を見ていると、まるで自分が死に魂が抜け出て飛んでいきそう。)
和泉式部が歌を詠んだ後、男性の声で下のような歌が聞こえたそうです。
「おく山に たぎりて落つる 滝つ瀬の 玉ちるばかり ものな思ひそ」
(あまり深く思いつめるなという意味で、貴布禰の明神のお返しと伝えられている)。
咲く桜、木花開耶姫命。
散る桜、磐長姫命。
悲運な恋は、映画「世界の中心で愛をさけぶ」の亜紀。
以前の探検の静御前、磐之媛とも重なります。
「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花 冬ごもり今は春べと 咲くやこの花」王仁(わに)
妄想、「難波津に 裂く野狐の鼻 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの(鵜のべ)鼻(崎)」王仁(わに) 悪い野狐
難破で天狗の団扇を流し、那羅街道で阿波の葛城へ磐之媛
後ろの正面は木花開耶姫命?桜八幡神社
葛城氏およびその同族の祖の妃が祀られる神社跡。
まだ狛犬1体は当時のまま現存しているようです。
ネット画像からは、まだ眷属ががんばって神社跡地を守っているようで、けなげです。
↓
岩屋祠(大宮様)
情報がないが、
高知県高知市春野町甲殿にある岩屋神社(いわやじんじゃ)は、種間寺の奥の院。
種間寺(たねまじ)
四国八十八箇所霊場の第三十四番札所。高知県高知市にある寺院。
山号は本尾山(もとおざん)。院号は朱雀院(すざくいん)。宗旨は真言宗豊山派。
本尊は薬師如来。
安産祈願の寺である。
ご詠歌:世の中にまける五穀(ごこく)のたねまでら 深き如来の大悲(たいひ)なりけり
納経印:当寺本尊、奥之院瑠璃光佛
大元神社
大元神社を調べと黒住教の教祖である黒住宗忠を祀る神社。
黒住宗忠の生地で京都および、黒住教の本部のある岡山(岡山市北区)にある。
京都神楽岡宗忠神社とは、
神楽岡・宗忠神社は、黒住教の教祖・黒住宗忠を祀る神社として、文久2年(1862)2月25日に創建。
黒住宗忠は、1856年に朝廷より「宗忠大明神」の神号を下賜。
激動の江戸末期に、大衆、孝明天皇を始め、二條家、九條家といった公家の尊信を集めた。
建立3年後の1865年には孝明天皇唯一の勅願所となった。
当時の資料には、国家安泰の祈願が数多くみられ、名実ともに、国家安泰、万民和楽を祈る神社となった。
祭神・黒住宗忠は、1780年11月26日(旧暦)の冬至の日の朝、代々今村宮(岡山市)の神職家に生まれた。
幼少時より孝心あつく、20歳のころ「真の親孝行とは」と自問する年月の中に結論として「生きながら神になる」という志を立てた。
「心に悪いと思うことを決して行わず、善きことのみを実行する」との目標を自らに課して"神になる"道を歩んだ。
しかし、数え33歳の時、両親が流行病で1週間の内に亡くなり、その悲しみがもとで不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥った。死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814年)1月の厳寒の朝、幼いころから毎朝してきた日の出を拝んだ。この"最期の日拝"で、知らず知らずに親不孝をしていたと思い、せめて心だけでも両親が安心する人間に立ち戻ろうと心を入れかえた。
この世との別れの日拝により、宗忠の暗い心の中に陽気な感謝の気持ちがよみがえった結果、2カ月で不治の病を克服。
その年の11月11日、この日は昔から「一陽来復」と称され、物事が新たに始まる時とされる冬至の日だった。
安永9年の冬至の朝に誕生し、死の淵を乗り越えて34回目の誕生日を迎えた。
昇る朝日に祈りを捧げている時、宗忠は天照大御神と一体になるという"神秘的宗教体験"を得て、いわゆる"悟り"の境地に立った。以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために祈り、教え導き、"生き神"と称えられ、すでに神仕えの身であったこともあって自然な姿で教祖と仰がれて現在に至っている。
星神社
情報がほぼ無いが、ご神木の太い樹があるようです。
星神社は全国に沢山あるそうです。
高地で有名なのは、やや東にずれるが、同じ名前の星神社として、三菱の創始者である岩崎弥太郎の生家の裏山に妙見山があり、弥太郎はよくそこの星神社まで登ってお参りしたそうです。
弥太郎が1854年、江戸遊学に出かける際、星神社の社に「吾れ志を得ずんば、再び帰りてこの山に登らじ」という落書きをし、立身出世を祈願したそうです。
御祭神は推定だが天之御中主神かな。
赤野川
「赤」が気になる。
高知県宿毛市の延光寺に伝わる「911年、竜宮城から銅の梵鐘を背負った赤亀が戻ってきた」この911年の7年後に石清尾八幡宮を藤原北家が建立
極楽寺(ごくらくじ)
高知県安芸市赤野にある真言宗醍醐派の寺院。
醍醐派は、古義真言宗で総本山は醍醐寺
本尊は波切不動明王。
四国三十六不動霊場第15番の札所。
御詠歌:ありがたや 一願かけて 波ごとく 心願かなう 不動明王
極楽寺といえば
空海の先生、岡田牛養の子孫明印は菅原道真と親交し、極楽寺の由緒を話した。
極楽寺は729年、行基によって寒川郡石田郷(さぬき市寒川町石田東)に法相宗の寺院として開基。821年に嵯峨天皇の勅命の元、空海によって寒川郡鴨部郷東山、現在のさぬき市鴨部(かべ)に真言宗の灌頂道場として再興の経緯。現在は談義所の地名のみ。
醍醐寺といえば
行基は、カナヤマビメとカナヤマヒコの御座す山とした金山。中腹に金山摩尼珠院を建立し、神仏習合の地であることを現した。
後に空海が耶蘇の地だと感得し、現在の79番札所天皇寺・白峯宮の場に移動して中興。
妄想の結果としては、
桜八幡神社が向いている方向は、
前回⑤-1では、近くは高松市新田町の久米関係の痕跡地帯。
皇室の神社である伊勢神宮から勧請でき、ミニ伊勢神宮。
葛城氏およびその同族の祖の妃が祀られる葛城木船大明神とも称される木船(貴船?)神社跡。
朝廷より「宗忠大明神」の神号を下賜され孝明天皇唯一の勅願所の大元神社。
行き着いた極楽寺。
さぬき市の極楽寺(談議所)は、行基、菅原道真の仲良しの明印、空海再興。
そして、擦り切れる妄想は阿波から土佐に突入し、イヨの二名島・四国を貫いた!
最後に総本山は醍醐寺の極楽寺に向いている!
現在、有名な名を冠する寺社があっても、重要さはその建築物などの大きさではないと感じる。
妄想も讃岐から、阿波、土佐を貫きました。それにしても、磐長姫命、セカチュウの亜紀、静御前、磐之媛、悲運な恋は重なります
(世界の中心で「阿イ」をさけんでるよね?)
異端妄想は、途切れーながらも、続くのです~。
ではまた。