イの国探検隊ファンの皆様こんにちは

 

 

ペシャワール支部の皆さまもこんにちは

 

 

 

 

ほんと余談ですが、私の先祖は、長尾寺がある地域から来ているらしいです。

あくまで、らしいですが、

 

江戸時代の地図には、確かに長尾寺直ぐ近くに同姓の屋敷があり、地域には、今でも同姓の家が目立ちます。

 

遠〜い親戚かも

 

なので、この地域に興味が強くあります。

凝視

 

 

 

前回、磯禅尼さんのお墓まで来ました。

 

磯禅尼さんのお墓

 

次には、お墓の西側すぐに流れる鴨部川を渡り、川の西側土手の道路を川添に南下します。

 

 

すると、右手に神社がありました。

 

結構立派な神社だなぁと見てたら、鳥居扁額には、和爾賀波神社」

でした。お願い

 

以前訪れた「鰐河神社」の論社の一つです。

やや感動しました。

偶然?自然?お導き?まぼろし?気のせい?

雨あられ。

 

 

この神社は、鴨部川の西側堤防に隣接しています。

鴨部川の流れは四国八十八箇所霊場結願の大窪寺付近で渓流を形作り、香川県さぬき市の前山ダムにて一度貯水され、さぬき市長尾西の塚原地域にて一端西に曲がり、再び北に流れる。その付近よりさぬき市と三木町との境ともなり、さぬき市造田、鴨部、鴨庄を経由し、瀬戸内海に注ぐ。

 

わにかわ神社は、浦島太郎を追って屋島へ辿り着き、出産後鰐に乗り移動し、この地で永住した豊玉姫命を祀った神社との説もあるようです。

 

最終鎮座とされる鰐河神社の方の伝承では、

屋島西側麓に鎮座する「鵜の羽大明神」に祭られ豊玉毘賣が、

屋島の麓でウガヤフキアエズを産み、その後、新川をワニに乗って遡上し、三木町にて遷宮を繰り返した遷宮の一つの様です。

現在、鰐河神社に鎮座されている説が有力。

 

御祭神

豊玉姫トヨタマヒメ、日本書紀)または豊玉毘売トヨタマビメ、古事記)

 

記紀神話に登場する海神(わたつみ)の娘。 

海神宮を訪れた火遠理(ほおり)命と結婚し、子を産むために海辺の産屋の中でワニの姿で苦しんでいるところをのぞき見されて怒り、子をおいて海底の国に帰る。

 

 

応神天皇(おうじんてんのう)は、第15代天皇。

日本書紀では譽田天皇(ほむたのすめらみこと)。

記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉され、考古学上、実在したとすれば4世紀後半ごろの大王と推定。

 

 

ワニ?

今回の探検でも

鰐積か

びっくり

 

鰐河神社は、行基が創建したという。

907年に八幡神を配祀し、高岡とも称していた。

また神仏習合により別当寺として応神寺が創建されている。

高岡八幡で思い出したのは、

四国88霊場第37番・岩本寺

空海が本尊を不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩とした。

やたら本尊が多い感があるがニヤニヤ

空海は当寺を訪れて仁井田明神五社大明神高岡神社ご神体の本地仏を安置し、神仏習合の寺社とした。

 

高岡神社の本地仏とは、不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩だと言うことだな。グラサン

 

鰐川神社も高岡八幡といわれていた。

同じ高岡神社の祭神なら豊玉毘賣と応神天皇を祀る意味なのか?

そして、同じ本地仏?真顔

 

 

岩本寺の納経は「五社大明神 別當岩本寺」と記帳で実質、神社。

さらに、空海は神社を5社に分社して五社大明神とし、神仏習合の神宮寺としている。

 

[一の宮]大日本根子彦太迩尊

       =不動明王

『日本書紀』での大日本根子彦太瓊天皇は、第7代、孝霊天皇(こうれいてんのう)。

 

 

[二の宮]磯城細姫命

       =観世音菩薩

細媛命(くわしひめのみこと/ほそひめのみこと)

古事記では細比売命(クハシヒメ)。 日本書紀では細媛命(ホソヒメ)。 

7代・孝霊天皇の皇后

8代・孝元天皇の生母とされる。

 

 

より記事を拝借すると、
「孝霊天皇城郡田原本町黒田盧戸趾」
第七代・孝霊天皇と細媛命皇后(十市県主祖大目女、孝元天皇母)、皇族の吉備津彦命(桃太郎?)、倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼?)らには伯耆・吉備・讃岐の各所において鬼退治伝説などの足跡が随所に残っています。 

2世紀後半に天変地異が起こり国が乱れて、国譲り後も独自の支配を続けていた出雲に不穏な動きを見てとり、大和朝廷は鬼退治の名目で吉備から日野郡に侵入しました。これは、単なる紛争ではなく、砂鉄資源をめぐる出雲吉備大和争奪戦であると考察することが出来ます。 

 

日野郡=鳥取県の伯耆国

 

 

倭迹迹日百襲姫命といえば、東かがわ市に鎮座される水主神社

 

 

そして船山神社と船岡山古墳

 

 

[三の宮]大山祇命・吉備彦狭嶋命
    =阿弥陀如来


大山祇命
『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、他に大山積神、大山罪神とも表記される。 別名 和多志大神、酒解神。
 八俣遠呂智退治の、須佐之男命の妻、櫛名田比売(くしなだひめ)の父。
足名椎・手名椎(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っている。
素戔嗚尊と櫛名田比売の子に八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)がいる。別名には、清之湯山主三名狹漏彦八嶋、篠清之繁名坂軽彦八嶋手命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋野、八島篠見神、蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴
 

八島が目立ちます。
屋島とは関係ないのかな?
うーん
森陽香の「古代日本の神意識(笠間書院)」によれば、「大山積神」は、「伊予国風土記」逸文では「渡し大神」とされ、卜部兼方の「日本書紀神代巻」では「姫神」とされているので、本来は「百済国から渡来した海神」であった。
伊予国の大三島の大山祇神社の立地からすると、航海のときの「山あて」と造船の船材ということで海神と山が結びつき、「ミ」が「神霊」という前提で「オオヤマツミ」という神名が生まれた。


吉備彦狭嶋命(日子寤間命)は、
愛媛県伊予郡松前町にある神社の主祭神

合田洋一さんの記事『伊豫史談いよしだん』385号(平成 29 年4月号)からとの記事

越智氏の出自 「オチ」元は「コチ」だったからの記事によると

越智氏の出自について、誰もが初めに注目するのは河野氏の記録の『予章記』(2) である。これには、第七代孝霊天皇 - 八代孝元天皇の弟・彦狭島命(伊予皇子)- 小千命- 狭貫 - 天狭介と系図がなっている。

越智氏の祖は、紀氏・大山積神・吉備武彦・源義親などの説もあるようであるが、これらに関しては前掲『河野氏の研究』が詳しい。とある。

 

 

 

 

[四の宮]伊予二名洲小千命

薬師如来

 

[五の宮・聖宮]伊予天狭貫尊

地蔵菩薩

 

伊予二名洲小千命は孝霊天皇の孫、吉備彦狭嶋命の子、伊予天狭貫尊は孝霊天皇の曾孫、吉備彦狭嶋命の孫という関係になり、この家系が大三島の大山祇神社の神職家の家系につながっていくとのこと。

 

とりあえず「神様を仏様に見立てました」ですな。


イ探的には、
孝霊天皇の子、孝元天皇といえば、後裔は紀氏
紀氏といえば、鰐積
出雲といえば、出雲大社。
出雲大社の御祭神は大国主命
大国主命が御祭神といえば、金毘羅宮
金毘羅宮といえば、鰐
鰐といえば、鰐河神社
鰐といえば、鰐積
鰐積といえば、倭
倭=出雲となる

出雲(倭)🆚大和と仮に妄想しときます。



 

 

長尾寺から薬師庵へ行く途中にある和邇川神社。

=高岡神社だとすれば、本地仏は、不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩の5仏。

 

[一の宮]

大日本根子彦太迩尊
=不動明王
=第7代・
孝霊天皇

[二の宮]

磯城細姫命
=観世音菩薩
=細媛命(くわしひめのみこと/ほそひめのみこと)
=細比売命(クハシヒメ)=細媛命(ホソヒメ)。 
=7代・
孝霊天皇の皇后(8代・孝元天皇の生母)

子の吉備津彦命(桃太郎?)、とその姉・倭迹迹日百襲姫命につながる。

2世紀後半に天変地異が起こり国が乱れて、国譲り後も独自の支配を続けていた出雲に不穏な動きがあり、大和朝廷は鬼退治の名目で吉備から侵攻し、砂鉄資源をめぐる出雲と吉備大和の争奪戦

 

[三の宮]

大山祇命・吉備彦狭嶋命
=阿弥陀如来


大山祇命

=和多志大神、酒解神

=須佐之男命の妻・櫛名田比売(くしなだひめ)の父

=渡し大神で姫神

百済国から渡来した海神

子・八島士奴美神

  (別名)清之湯山主三名狹漏彦八嶋

      篠清之繁名坂軽彦八嶋手命

      清之湯山主三名狹漏彦八嶋野

      八島篠見神

      蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴

八島が目立ち屋島との関係が匂う?うーん

吉備彦狭嶋命(日子寤間命)

=7代・孝霊天皇の孫

=8代・孝元天皇の弟(伊予皇子)

紀氏大山積神・吉備武彦・源義親などの説と関係

 

[四の宮]

伊予二名洲小千命

薬師如来

孝霊天皇の孫

吉備彦狭嶋命の子

=大三島の大山祇神社の神職家の家系

 

[五の宮・聖宮]

伊予天狭貫尊

地蔵菩薩

孝霊天皇の曾孫

=吉備彦狭嶋命の孫

=大三島の大山祇神社の神職家の家系

 

 

和邇加波神社探検で妄想が行き着いたのは、

第7代・孝霊天皇の子と孫、ひ孫を祭るってことでした。

孝霊天皇といえば、東かがわ市大内に鎮座する水主神社。

主祭神は倭迹迹日百襲姫命、本殿右手には、祭神の母・倭国香姫命を祭る国玉神社。本殿後方には、父・孝霊天皇を祭る孝霊神社が鎮座する。


中心が、孝霊天皇を祭る

百襲姫の本殿の真後ろ



参考画像 

本殿左、水主三社(本宮、新宮、那智神社)

社殿は、全て春日造り


第8代・孝元天皇の后も祭られているが、なぜか居ない方が、それらのことから妄想すると、忘れ去られたように、ぽっかり空いた中心は孝元天皇ではないかと。

そして、鰐積だなってこと。

長尾寺と仲良しだった菅原道真さんも大伴の筋で鰐積。

宋から鼓を持ち帰ったのも鰐積の紀氏の重源。

 

欠史8代・孝元天皇、「いなかった」ではイ探妄想はだまされない!グラサン

 

 

とかのたまわっておりますが、道草食ってたのを本道に戻し、以上の背景をかんがみますと、

宥心尼(静御前)は、ほぼ確実にこの道を通ったと妄想します。

そして、神社でも愛した人と亡くなった子供のためにお祈りしたのだと。

 

イ探としては、この位置関係は大発見です。

宥心尼は、意図して和邇加波神社に立ち寄り祈れる道を選んで庵の場所を決めたのではないかと妄想しました。ぐすん

 

まだ庵のアの字も見えんのか!

皆さん次こそは薬師庵に着くと思います。
ごきげんよう!さようなら
もぐもぐ