イの国探検隊ファンの皆様こんにちは

皆さんいかがお過ごしでしょうか?
やたら梅雨が早く来て、青カビだらけになりそうな私です。ペニシリンは出ませんショック


「大田郷 あれこれ繋がる②」を書いている途中ですが、
今回は、一説によると桃太郎の姉とされるモモソヒメを祭る水主神社(みずしじんじゃ)さんに寄り、みち草を食べます。🐴





創建は孝霊天皇の時代と伝えられています。
そう、箸墓古墳に眠るとされる倭迹々日百襲姫です。

倭迹迹日百襲姫命は、
記紀等に伝わる古代日本の皇族。大物主神との神婚譚や箸墓古墳伝承で知られる、巫女的な女性のことです。


香川県東かがわ市に鎮座されています。

本殿祭神
倭迹々日百襲姫命

本殿後方には、父・ 第7代孝霊天皇を祀る孝霊神社。
本殿右手には、母・倭国香姫命を祀る国玉神社。

なお、祭神については、異説もあるそうです。


狛犬 獅子


狛犬
麒麟さんらしく小さいけど角があります。

しまった!尻尾を見ればよかったショック


短い橋を渡ります。
昔から水不足なことが心配な年が多い讃岐ですが、湿気が多い感じです。


社伝によると、祭神倭迹々日百襲姫は、弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、この争乱を避けて、8歳の時に孝霊天皇の黒田の宮を出て、うつぼ舟に乗り漂着して、この地に来られたと伝えられています。
最近では、3歳説があるそうで、当時の年齢の数え方が、半年で1歳と数えたのではないかと言う考え方。これなら、ある程度つじつまが合うとのことです。

『全讃史』には、
孝霊天皇第一皇女倭迹迹日百襲姫、この邦に謫され、皇舟初めて大内郡馬篠浦に着き、その艪を掛けし地に、祠を立ててこれを奉じ、艪掛大明神といふ
 しかして皇女、居を求めて東行し給ひ、安堵に至りて心すなはち安かりき。祠を立てて之を奉じ、安堵大明神といふ(今は塩竈明神といふ)

舟で讃岐に来る道中、休憩するのに艪を海岸の松に立てかけた、その場所が「艪掛神社」
らしい。そこから、東へ移動して安戸港についた。その足跡が「塩竈神社」


姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見されています。
神社裏の山上には、姫の御陵と伝わる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。
社殿はすべて春日造りで統一され、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っているとのこと。
四国八十八箇所総奥の院與田寺に向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え、「チンチン同しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか」と、こどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありましたそうな。

また、周辺には水主三山(熊野三社)がある
山岳信仰、弘法大師の再来とされた増吽僧正が遷宮すると伝える。
・新宮神社(虎丸山)御祭神 伊邪那美命
・本宮神社(本宮山)御祭神 早玉男命
・那智神社(那智山)御祭神 事解男命


内田一成さんの記事より

【水主神社編】倭迹迹日百襲姫の源流を示す讃岐のレイライン

水源を教えたという話からは、古代の鉱山技術者の姿にオーバーラップします。
水脈探しは鉱物資源探査に通じ、鉱山技術民は水神を祀るのが常でした。
水主神社には、最澄が参籠したり、空海が境内奥に閼伽井を掘っていることなども、その関連性を連想させます。
倭迹迹日百襲姫が疎開してきたのであれば、当然、疎開先で宮を築き、環境を整えるための技術者を伴っていたでしょう。
とのこと。なるほど。にやり




春日造で統一
春日と言えば、和邇氏
と言えば、金毘羅さん。
と言えば大国主




後からの感が出てますが、ヒメが乗って来たという、ウツボ船をイメージしてお祭りしたものだと思います。


御神木



右近橘 
実が成ってます。
左には、お約束どおり桜がきちんとありましたが、元気がない感じでした。
枝先が枯れていることから、根張りが悪いと想像します。
土が硬く水はけがわるい?





石柱後ろが、那智山



百襲姫の痕跡が具体的に濃く残っています。
私の妄想では、ヤマト騒乱で、疎開、左遷、男の武力の時代背景か?
箸で陰部を突く話しは、巫女の能力を政治に利用し尽くし、巫女は政治と切り離したことを世に示したことだと思います。
武力で支配していく事に移行して、同時にヤマトの人間を地域に送り勢力を広げていったものだと妄想します。

何にしても、姫は讃岐を発展させた恩人に思います。

ではまた。照れ