イの国探検隊ファンの皆様こんにちは

 

 

前回、ロケ地の庵治は、ロケハン最終日にカメラマンの篠田さんの直観で見出された最高のロケ地だったと。

しかし、篠田昇さんは、この映画を撮って、公開の約一月半後の2004年6月22日に亡くなられていました。ぐすん


 

朔と亜紀が最初に親密になるシーンの場所は、かつては木花咲耶姫を祭神としていた桜八幡神社前。

そして、悲運な恋の物語。

 

何かに導かれたのではないかと妄想しました。天使天使

 

 

映画の中で、校長先生のお葬式にやや遅れて、朔太郎が急いで石段を降りてくるシーンと、

ブランコのあるところに2人で登るシーン

 

どちらも皇子神社境内

 

 

 

 

 

 

 

ブランコから振り向くと

見守るように

 

皇子神社

(香川県高松市庵治町王ノ下)

 

 

以前には無かったおみくじがあります。

 

 

 

由緒書がありました。

 

祭神 宇遅能和紀郎子命(宇治稚郎子命、菟道稚郎子、うじのわきいらつこ)

庵治村郷社桜八幡神社境外摂社にして皇子権現、或は皇神宮と奉稱せられる。

初め江ノ浦海濱に鎮座ありしを天和元年高松藩主松平賴重此の地に選びし時参拝幣帛のことありて且つ江ノ浦より今の地に遷して社殿を改築せりという

 


 

菟道稚郎子は、

記紀等に伝わる古代日本の皇族。
第15代応神天皇皇子(日本書紀では皇太子)

第16代仁徳天皇の異母弟

 

仁徳天皇

 

 

菟道稚郎子は、「菟道」が山城国の宇治の古代表記。

宇治地域と関連が深い。

郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営み、墓も宇治に伝えられているとのこと。


郎子については記紀等の多くの史書に記載があり、中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという。

ただし、これは日本書紀にのみ記載され、古事記では単に年が若くて死ぬ夭折と記されているとのこと。

記紀には多くの特異性が指摘され、

播磨国風土記には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られるとのこと。

 

 

海上の守り神

毎年旧暦6月15日の満月に近い金曜日と土曜日に庵治皇子神社で船祭りが開催。
漁業の海上安全と大漁祈願の願いが込められており、神輿が船にのり約2km先の対岸のお旅所まで渡ります。

 

鰐、和邇、鰐亀、丸、丸亀、海神を想わせます。グラサン

 

 


 

 

 神社拝殿前の石段からの風景

八栗山(五剣山)を見つめる方向

だが、正面は、やや左手に向いている

 

その見つめる先は、

阿波の剣山か!?にやり

四国88結願寺の大窪寺?

 

 

見つめる先を探検したいと思います。

 

桜八幡神社摂社だが、そちらには向いていないと思われます。

どこを向いているのか?向く先々には何があるのか?

探検です。もぐもぐ





まず、

 

☆だんべら遺跡

庵治町尼ヶ坂にある遺跡。現地に看板はあるがよくわからない。現地の説明書きには弥生時代の遺跡だったと思います。

☆志度寺奥の院地蔵寺

 

地蔵寺

☆志度山川線を斜めに交差

☆(さぬき市)石鎚山にある日内山奥の院

石鎚山(198.1m)は標高で、かの有名な愛媛県の石鎚山(1982m)の1/10であることからミニ石鎚山として名付けられたといわれている。山頂には石鎚神社が祀られている

麓には

高松藩松平家墓所(霊芝寺)

日内山 霊芝寺
本 尊:十一面観音菩薩
草 創:空海
宗 派:真言宗高野山派
札 所:さぬき三十三観音霊場十番札所

 

 

☆鴨部川に交差

↓川に隣接して華厳庵

乙井自治会の記事より

阿弥陀如来坐像(有形文化財(彫刻))
天長6年(829年)に立てられた華厳寺は、天正年間の兵火で焼かれ、再興を試みたが資金不足で、寺号を売って「華厳庵」を建てた。
本尊の阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代の逸品といわれ、仏像本体は、寄木造りで玉眼、直座の姿勢、耳鼻口の形状を見ても鎌倉時代の作。

ほか、脇には木喰相観上人が刻んだ仏像と地蔵菩薩立像が安置されている。

 

 

鴨部川、静御前、鰐

 

 

☆野午神社

香川県教育委員会・(財)香川県埋蔵文化財調査センター・建設省四国地方建設局

「高松東道路建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 第 8冊 野牛古墳 末 3号窯跡」より抜粋して加工

 

大川郡津田町神野に所在する野牛古墳

野牛古墳の調査の経過
野牛古墳もまた周知の遺跡であった。丈献に記されている石棺の現状を把握するために調査が決まった平成 7年の 4月11日に現地踏査を行い,半壊した嗣(野午神社)を確認した。その後他に古墳がないかどうかも確認するために古墳の立地する尾根筋の瀧木を伐採してもらえるよう建設省に要請した。

 6月26日に再度訪れると野牛神社は基壇を残して既に解体され廃材も撤去されていた。 7月4日には津田町との協議の中で野牛神社が工事予定地のすぐ外に移転する話が出た。

石棺が予定地の端にあり古墳が野牛神社移転地点に及んでいる恐れがあることから, 7月18日に香川県教育委員会文化行政課を交えて津田町との協議を行い,土地所有者である町の了承を得てその地点へのトレンチ延長を行うこと,古墳の範囲の内外の確認の後に神社の移転が行われることになった。

 

要約すると、野午古墳は墳丘と言い得ないような盛り土を持つ古墳で、墳形も明確な意識がなく、しいていえば円墳の範障に入れられる。周溝・茸き石も当然ない。石棺を覆う盛り土の範囲は推定径 7m弱である。主体部は箱式石棺で、今回中から佑製珠丈鏡 1・勾二五 2 ・管玉 5. F=J玉64・ガラス小玉50以上・ヤス状鉄器3以仁・針状鉄器が出土し、さらに盛り土内から不定形手飾具が出土した。

 

野牛古墳は古墳時代前期後葉に位置づけられると考える。実年代としては4世紀中葉頃と判断される

同じ畿内政権とのつながりを強く示す富田茶臼山古墳を津田湾古墳群とのつながりでみることは難しくなる。確かに富旧茶臼山古墳の出現と前後して津田湾沿いでは前方後円墳は消えるのであるが、生業基盤の異なる内陸部への人間の移動は考えにくし、津田湾古墳群を背景として畿内政権による新たな段階の進出が行われた結果が富田茶臼山古墳の出現となったとみてはどうであろうか。 津田湾古墳群における前方後円墳の消滅は、まさに富田茶臼山古墳の成吹によってその墳形が必要とされなくなったことを示しているのであり、数は少ないが横穴式石室の存在が知られるように、その立場に変化が起こったとはいえ人々の居住は行われ続けたのである。

 

富田茶臼山古墳

 

☆金山神社(山王権現)・金山神社

 

金山、摩利支天不動明王役行者

 

 

 

☆山神社、剣神社

さぬき市寒川町と大川町の境界線上の険しい岩山。山頂には破壊した社殿。登山口は、金比羅大権現の石鳥居からで登山道には、石灯籠、石手水鉢、石祠がたくさんある。石灯籠は金比羅灯篭。途中の険しい場所に不動明王の石像がある。

 

☆津田川島線交差

☆市場町日開谷地区

 

市場町日開谷地区

 

市場町

 

市場町

 

☆庚申堂

近くに四国88霊場10番札所得度山切幡寺

 

切幡寺(きりはたじ)

徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。

四国八十八箇所霊場の第十番札所。

本尊は千手観世音菩薩。
ご詠歌:欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障(さわ)りとぞなる
納経印:当寺本尊、奥之院八祖大師

 

寺伝では、修行中の空海が、ほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めた。

娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。

感激した空海は、娘が願った父母供養のための千手観音像をその場で刻んだ。そして、娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になった。

空海はこのことを嵯峨天皇に伝え、勅願によって堂宇を建立。

空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基した。

山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。

 

☆御嶽神社

御嶽神社(みたけじんじゃ)は、蔵王権現を祭った神社。

金峰神社・金峯神社(きんぶ、きんぷ、きんぽう、みたけ)ともいい、総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂。

 

境内地は天川御嶽山に座す神輿台産霊命が往古に天から降臨した地

 

 

☆日吉神社

日吉神社(ひえじんじゃ、ひよしじんじゃ)

滋賀県大津市坂本にある山王総本宮日吉大社(ひえたいしゃ、ひよしたいしゃ)を勧請して日本各地に建立の神社。

式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。

かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれ、旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。

全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社

通称として山王権現。

猿を神の使いである神猿(まさる)としている。

鳥居は独自の形式で「山王鳥居」(合掌鳥居)と呼ばれる。

 

「古事記」

「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見。

これは、日吉社の東本宮の祭神・大山咋神について記したもの

日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである

日吉社は、崇神天皇7年に日枝の山の山頂から移されたとある

東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂にある大山咋神が降り立ったという磐座・金大巌(こがねのおおいわ)を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮

なお、三宮神社に対する里宮は樹下神社である。

西本宮の祭神・大己貴神については、668年、大津京鎮護のため大和国大神神社の祭神である大物主神を大己貴神として勧請し、西本宮を建てて祀った。

これは別名である大国主神の和魂が大物主神であると日本神話に書かれているため、同じ神とみなされたため。以降、元々の神である東本宮・大山咋神よりも、西本宮・大己貴神の方が上位とみなされ、「大宮」と呼ばれた。

788年、最澄が一乗止観院を建立し、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬。

794年の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになった。

延暦寺が勢力を増して日吉社と神仏習合する動きにより、唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれる。

延暦寺では山王権現の信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていく。

日吉社は880年に西本宮の大己貴神が、1183年に東本宮の大山咋神がそれぞれ正一位に叙せられた。

延喜式神名帳では名神大社に列格。

こうして日吉社は延暦寺と次第に一体化

現代の天台教学が成立するまでに与えた影響は大きい。

1095年10月、延暦寺の大衆と日吉社の神人が初めて日吉社の神輿を担ぎ出して(神輿振り)、小競り合いで誤って僧を殺してしまった。

美濃守源義綱を流罪にさせようと要求するため、関白藤原師通がいる都に向け強訴を行なった。

朝廷はこれを防ごうと源義綱と源頼治を出陣させて防衛にあたらせたが、その際に神輿に矢が刺さる事件が起き、

延暦寺・日吉社側は死傷者が出てついに強訴を中止して撤退。

しかし、延暦寺が藤原師通を呪詛し、1099年6月に師通が亡くなると、延暦寺はそれを日吉社の神輿の神威であると喧伝したため、朝廷は日吉社の神輿は畏怖の対象ともなった。

これ以降、延暦寺および日吉社は度々この神輿を使っての神輿振り・強訴を繰り返し行い、平安時代から室町時代にかけての370余年の間に40数回も行われている。
 

1259年に一部の社殿が焼失したが、室町時代には山王神道が益々盛んになり隆盛を誇った。

しかし、1494年に徳政一揆によって一部を焼失。

1571年、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉社も全て焼かれて灰燼に帰した。

現在の建造物は安土桃山時代以降、1586年から1597年にかけて再建されたもの。

信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は当社の復興に尽力

これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。

1681年、神仏習合や山王神道(山王一実神道)を改めようとする動きが日吉社から出て延暦寺と争うが、1684年に日吉社は論争に敗れ、1685年に山王神道を守るように延暦寺から厳命され日吉社は受諾。

1868年、神仏分離令が出ると日吉社は率先して仏教色を一掃し、延暦寺から独立して社名を日吉大社とした。分離令直後の4月1日、日吉大社社司で明治政府の神祇事務局事務掛を兼務の樹下茂国(じゅげしげくに)が、吉田神社(京都市)の神官らからなる「神威隊」を伴って延暦寺に日吉大社の引き渡しを要求

拒否されると、近在住民らとともに社殿に乱入し、仏像や経典などを破壊、焼き捨てたりした

これは廃仏毀釈が全国に広がる発端

また、本来の祭祀の形に戻すとして、西本宮と東本宮の祭神を入れ替えた

西本宮に大山咋神を祀って主祭神

東本宮は大己貴神(大物主神)を祀り、摂社の大神(おおみわ)神社として格下げ

1871年、西本宮が官幣大社となる。

1928年(昭和3年)、東本宮も官幣大社となると、再び西本宮と東本宮の祭神を入れ替えて江戸時代までの形に戻している

太平洋戦争後の1948年に神社本庁の別表神社に加列。
日吉大社の例祭時には昔と変わらず延暦寺の僧も参加している。
境内入口北側には元は比叡山の里坊・竹林院だった旧竹林院庭園と、元三大師良源ゆかりの求法寺。

 

西本宮:

大己貴神・大宮(大比叡)・釈迦如来    
東本宮:

大山咋神・二宮(小比叡)・薬師如来

摂社樹下神社

鴨玉依姫命(大山咋神の妃)十禅師(じゅうぜんじ)地蔵菩薩

摂社大物忌神社:

大年神(大山咋神の父)大行事    毘沙門天    東本宮境内

末社八柱社:

五男三女神   下八王子   虚空蔵菩薩   東本宮参道

摂社早尾神社:

素盞嗚神   早尾   不動明王   境内入口南側

摂社産屋神社:

鴨別雷神   王子   文殊菩薩   境外・止観院の附近

末社宇佐若宮:

下照姫神   聖女   如意輪観音   宇佐宮境内

末社竈殿社:

奥津彦神・奥津姫神   大宮竈殿   大日如来   西本宮境内
末社二宮竈殿:

奥津彦神・奥津姫神 日光菩薩・月光菩薩   東本宮境内

摂社氏神神社:

鴨建角身命・琴御館宇志麿   山末   摩利支天   東本宮参道

末社巌滝社:

市杵島姫命・湍津島姫命   岩滝   弁財天 東本宮参道
末社剱宮社:

瓊々杵命   剱宮   倶利伽羅不動   白山姫神社境内

末社気比社

仲哀天皇   気比   聖観音・大日如来・阿弥陀如来    宇佐宮境内

 

☆吉野川を横断

☆善入寺島(宝僮寺跡

(徳島県阿波市市場伊月潺)

宝幢寺古墳は鳴門にあるが、宝僮寺はよくわからない。

 

とは

若い男の召使い、下僕、受刑者、愚か、童子、未成年、という意味

僮族 - チワン族(壯族)の昔の呼び名

チワン族は少数民族の中で人口の最も多い民族。

主に広西チワン族自治区、雲南省の文山チワン族ミャオ族自治州に集まり住み、わずか一部が広東省、湖南省、貴州省、四川省などに散在している。 

チワン語は漢・チベット語系のチワン・トン語族チワン・タイ語分支に属し、南北二大方言に分かれる

三国時代の俚人や僚(獠)人が祖先ではないかとされる。

宋代以来、中華人民共和国成立後は僮族に統一されたが、僮には「わらべ」、「しもべ」などの差別的な意味があるため、壮族(Zhuàngzú)と改称。

日本では漢字のままで「壮族(そうぞく)」とも、一般的には漢字を使わず、「壮」の中国語読みの「チュワン」から「チワン族」と呼ぶ。

 

ちなみに宝幢寺古墳は、

阿讃山麓から南へ伸びる尾根の先端標高約33mに築かれた前方後円墳
全長47m、後円部径28m、前方部長19m。

墳丘はほとんどが地山を削りだして成形。

墳丘の周囲には円筒埴輪と朝顔形埴輪を並べていたとみられる。

後円部には宝幢寺の歴代住職の石塔があり、その付近に主体部があったとみられるが、構造などは不明。

出土した埴輪の形態から4世紀中頃に築造と考えられる。
隣接する萩原墳墓群や天河別神社古墳群とともに、「鳴門板野古墳群」として国史跡に指定

 

☆庚申堂

☆飯尾天神社

 旧神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)

  郷社、村社を対象に明治から終戦に至るまで勅令に基づき県令をもって県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社。
 往古より大己貴命・少彦名命を奉斎、のち菅原道真公を合祀 

 明治5年郷社、大正3年近在の小社11社を合祀。

 

 祭神    
 大己貴命(おおなむちのみこと)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 菅原道真公(すがわらみちざねこう)
 莵道稚良子命(うじのわきいらつこのみこと)
 火産霊命(ほむすびのみこと)
 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)

 

☆鮎喰川を横切る

☆上松神社(神山町)

☆鬼籠野谷川を横切る

☆園瀬川を横切る

☆月頂山宝珠院慈眼寺(じげんじ)

(徳島県勝浦郡上勝町)

 高野山真言宗の寺院。

 別名「穴禅定の寺」。

 四国八十八箇所霊場第二十番札所鶴林寺奥の院

 四国別格二十霊場三番札所

 本尊は十一面観世音菩薩

 御影には、本尊と双羽権現と蔵王権現。
 御詠歌:天(あま)とふや 鶴の奥山 おくたへて 願ふ功力に 法(のり)ぞ通はむ

 

霊鷲山宝珠院鶴林寺

桓武天皇の勅願、弘法大師開基

大師がこの山で修行中、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。見て歓喜した大師は、近くの霊木で高さ約90センチの地蔵菩薩像を彫り、胎内に5.5センチほどの黄金の地蔵さんを納めて本尊とした。

平城天皇嵯峨天皇淳和天皇歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝源義経三好長治蜂須賀家政などの武将にも深く信仰

 

☆立川を横切る

☆那賀川を横切る

神社

↓カラス天狗の面があるようです。

恵比須浜

近くに

第23番札所 医王山 無量寿院 薬王寺

☆大辰巳

辰巳

(たつみ)の当て字。方位では南東、時刻では9時前後。

巽(そん)は八卦の一つ。卦の形は☴であり、初爻は陰、第2爻・第3爻は陽で構成。

または六十四卦の一つで、巽為風。巽下巽上で構成。

 





 

妄想では、

辰=龍(巳=蛇)=亀=鰐=鰐積=和邇

 

 

 

 

 向かって左側には蛭子さん

 

 向かって右側には金毘羅さん

 

 

二人を淡い夕日が染めた王の下防波堤が見える

 

 

 

ブランコ

八栗山

屋島

王の下防波堤

 

 

 

気持ちいい高台の景色で癒されます。

 

今回は長々となり疲れました。えーん

 

 

とりあえず妄想結果としては、

皇子神社が向いている方向は辰巳の南東の方向。

志度寺奥の院の地蔵寺を向いている。と断定!もぐもぐ

そして、擦り切れる妄想でいうと、阿波の大辰巳島に向いている!

 

(妄想も阿波を貫きました。世界の中心で「阿イ」をさけんでるよね?)

 

ではまた。ラブラブぶー