イの国の痕跡を探索しているのですが、あくまでも個人的に。趣味です。
いろんなところから、些細な情報を目を皿のように、耳をダンボ、妄想でムラムラしながら集めています(笑)。
そして、とある情報から「和名類聚抄」わみょうるいじゅしょう(平安時代中期に作られた地名辞典)についての書物を図書館で調べると確かに、現在のさぬき市津田は難波(破)と書かれていました。
津田に津田川が流れています。
津田川上流には富田茶臼山古墳があります。
四国で一番大きな前方後円墳で、古墳時代中期前半の5世紀前半頃、一説に5世紀初頭頃の築造と推定されているそうです。
また、津田には鵜の部山古墳があります。
これまでの調査から古墳時代でも初期のものとのことです。
茶臼山古墳は5世紀、鵜野辺山古墳は3世紀とすれば、時代の変遷で栄えた中心地が、津田川上流に移ったのか?
その疑問は、さぬき市歴史民族資料館に行くと館職員の方との話しもあり、なんとなく分かりました。
それは、海側、内陸側2つの勢力があり、大和政権の支配の時代になり、内陸側が政治の拠点となったようです。
図には、前方後円墳の埋葬方向が記してあり、そのことがわかります。赤山古墳には、2つの違う向きの埋葬があり、たぶん、世代で、権力の変化があったのだと、推察されました。
私は最初、海側が海上交易で栄えていたが、稲作が広がると内陸の土地を開墾し、クニの中心は、水田が多くなった内陸側に移っていったのだと思っていました。
難波は旧、津田町から旧、大川町へと、クニの中心が移りながら栄えたのだと。
どうも、違っていました。
話しを戻して、津田町、大川町は難波。
万葉集など古い書物に難波と出てくるなら、(私はよく知らないけど、笑)その場所は四国なんじゃないかなと思います。
昔に書かれて、地理的には現在と上手く一致しないことも四国のこととして当てはめれば、、、と思います。
難波は、イの国か?、または、周りにあった連合の2つの勢力の小さなクニがあったのではないでしょうか。
余談ですが津田と鴨部の境のはりゅう峠山上には、磐境と思われる岩があります。そこから北には高地性集落があったとのこと、瀬戸内海を見渡せ良い立地だったんだと思います。