イの国探検隊ファンの皆様こんにちは

 

 

先の探検での空海が、

「金山権現に出会い、耶蘇(キリスト)の地だから十一面観音、阿弥陀如来・愛染明王を安置した」

が気になり、探検です。

 

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 耶蘇 キリストに繋がった先のブログ『キリストの地に繋がる 大窪寺と多和の庚申塔』イの国探検隊ファンの皆様こんにちは   また煩悩の参拝です。空海の痕跡を求めて、またしつこく現場を探検  さぬき市多和兼割にある寺院。医王山遍照光院大窪寺 後…リンクameblo.jp

 

 

 

 

十一面観音で有名なのが、

奈良県の聖林寺

伝承では712年に多武峰妙楽寺(現・談山神社)の別院・遍照院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したという。

(712年は、古事記が完成し、元明天皇に献上)

平安時代末期には妙楽寺と興福寺の合戦によって当寺も興福寺に焼き討ちされている。

しかし、鎌倉時代に復興している。

 

聖林寺vs興福寺

合戦で焼き討ちガーン なんでや

 

妙楽寺

妙楽寺の前身は、

奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)。

旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。

鎌倉時代成立の寺伝によると、藤原氏の祖、中臣鎌足の死後の678年、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、墓を摂津国安威(大職冠神社=将軍山1号墳。参照:阿武山古墳)から大和国の当地に移し、その上に十三重塔を造立したのが発祥とするとのこと。

680年に講堂(現・神廟拝殿)が創建され、十三重塔を神廟として妙楽寺と号した。

701年、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現・本殿)が建立され、聖霊院と号した。

談山の名の由来は、中臣鎌足中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだこと。

後に本尊として講堂に阿弥陀三尊像(現・安倍文殊院釈迦三尊像)が安置された。

926年、国内最古となる惣社を創建し、「談山権現」の勅号が下賜される。

これにより、妙楽寺、聖霊院、惣社が神仏習合して一体化していった。

 

総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、

日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(= 合祀)神社

総社宮、総神社など。

日本の律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。

 

 

総社を調べると気になる神社が、

徳島県の推定の総社が徳島市国府町府中に鎮座する

大御和神社(おおみわじんじゃ)

御祭神は大己貴神(大国主)。地元の人から府中宮(こうのみや)の呼び名で親しまれている。一説に大和国三輪神社から勧請されたと伝わる。

社伝によれば、701年に大宝律令ができ、その翌年の702年に文武天皇に国璽と鍵を献上した。国府に近い立地条件と当社が国のハンコと国庫の鍵を意味する印鑰大明神と称されていたことが総社とする理由とのことらしい。

 

 国璽(こくじ)とは、国家の表徴として押す(印章または印影)である。国家の重要文書に押される。

 

 

 

 

ここまでを妄想でまとめると、

中臣鎌足と中大兄皇子が大化の改新の談合したことから、談山神社との名。

鎌足の死後、長男の定恵が墓を摂津国から大和国に移し十三重塔を造立して発祥。

その後、妙楽寺となった。

本尊を阿弥陀三尊像(現・安倍文殊院釈迦三尊像)が安置。

「談山権現」の勅号が下賜された惣社が創建されることで、妙楽寺・聖霊院・惣社が神仏習合して一体化。

そして、徳島県の推定総社には国庫の鍵を意味する印鑰大明神と呼ばれた大御和神社がある。

三輪につながる。

ということは、

妙楽寺=遍照院=聖霊院=惣社

⇒大御和神社⇒三輪神道

妙楽時=三輪神道となる。

 

 

 

さらに、先のブログとつなげると、

三輪神道=空海中興の金華山妙成就寺摩尼珠院=耶蘇(やそ=キリスト)の地=十一面観音菩薩・阿弥陀如来・愛染明王=行基が建立の金山摩尼珠院=神仏習合

聖林寺=神仏習合の三輪神道

徳島県の大御和神社につながる。

 

聖林寺(三輪神道)vs興福寺

大御和神社vs興福寺でもあるかもニヤリ

 

 

長くなりそうなので今日はこのへんで

ではまた。

グラサン