イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。
⑯-3の続き⑰-1原武蔵東京です。
「神」阿多~伊勢のライン延長を一応たどっております。
妄想があなたの素粒子の振る舞いに影響するんじゃないかと一方的に思います。
悪しからずご了承ねがいます。(ペコリ)
讃岐東照宮
裏山は屋島南嶺
山王社として奉斎
やはり山王信仰だ。
ホトトギスは殺さない
見つめる先は、
見まごうことなく剣山を真っすぐに
立石山(石立山)=剣山(by空海)
つまり山王信仰=剣山信仰
と妄想
西隣りの大宮八幡宮
宇佐神宮から石清水八幡宮へ分霊を運ぶ途中に嵐で一旦立ち寄ったことに始まる。
元地は、屋島の北寄りに鎮座されていたらしい。
画像は完全にイメージ
あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としているかも知れません。
すでにしているし、妄想の域を出ません。
ルートが、
笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想
↓これ、このライン
四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢
阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・
航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!
室町時代に天神像が奉安。1630年に大沢玄藩により新たに天神像が奉安され、菅原神社が建立。東京都指定の鎌倉を目指す北条時行軍と、それを食い止めようとする足利直義軍との間で激しく合戦が繰り広げられた旧跡井出の沢古戦場にある。名称は、当時、澄んだ水が湧き出る湧水地から現在の恩田川に続く沢が井出の沢と呼ばれていたことから。
天神さんは菅原道真さん。湧水地、水は剣山の富士の池につながる。
そして龍神様で龍=鰐=亀
↓
南大谷天神社
町田市南大谷451
御祭神 菅原道真公、宇迦乃御魂命、大山咋命
由緒
正保2年(1745)五十嵐次郎左衛門が大谷村の鎮守として創建、享保5年(1720)には神像を修飾。
本町田菅原神社、町田天満宮と共に町田三天神の一つ。
境内には、別当寺であった南松寺の遺構の一つ観音堂が残る。
新編武蔵風土記稿による南大谷天神社の由緒
南松寺
天神社地へ入る所にあり、則社地のうちなり、普化宗、橘樹郡神奈川宿西向寺の末、本堂二間に五間、本尊阿彌陀を安置す、開山開基詳ならず。
西向寺(さいこうじ)
江戸時代、神奈川県内には三つの虚無僧寺があった一つが青木山西向寺。神奈川県横浜市神奈川区高島台にある曹洞宗の寺院、1617年、本覚寺の隣に虚無僧寺は創建。普化宗(ふけしゅう)は明治四年に廃宗となったため、本覚寺境内に西向寺の十五世蒼海友熙和尚墓碑が残されている。西向寺は、深編笠に尺八の虚無僧で知られる普化宗のお寺で、1620年頃の開創、普化宗総本山の下総国小金の一月寺の末寺と伝。普化宗は、唐の普化和尚を開祖とする禅宗の一派で、日本へは鎌倉時代に伝来。江戸時代には幕府が普化宗の虚無僧に日本中、自由往来の特権を与え、密偵機関として利用したことも良く知られている。明治4年(1871)11月、普化宗は新政府により、廃止され、虚無僧は民籍に編入。これによって西向寺も廃寺、時の第十六世静海謙譲和尚は還俗。
東京都神社名鑑による南大谷天神社の由緒
正保二年(一六四五)二月二十五日、御神像を島山法春がつくり創建。享保五年(一七二〇)二月二十五日に、伊勢守平正清の家人五十嵐伝兵衛敬孝ならびに大谷村の氏子が、大仏師康伝に依頼し神像を修飾。文化七年(一八一〇)社殿再建し、現社殿は昭和三十九年四月十二日の造営である。町田三天神の一社。
平正清(正輔)とは、
国香-貞盛-維衡-正清-(子:正家、貞弘)-資盛-敦盛-有盛
平 有盛(たいら の ありもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。
異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。
また、香川県観音寺市大野原町五郷有木に、平有盛が有木と名を変えて暮らしていた平家落人村があったことが、生駒記「新編丸亀市史4資料編:平成六年刊行」に記載されており、太刀箱、陣太鼓や木造阿弥陀如来座像も残されている。※太刀は盗難
「町田市史」による南大谷天神社の由緒
天神社
1645年8月に嶋山法春によりご神像を作ったのであり、そのころの創建と思われる。
1720年2月25日、願主の五十嵐伝兵衛敬孝が、ご神像を大仏師康伝により修飾したことが仕立書にある。社宝の神額は安永四年1775年5月25日正一位天神宮の金文字で、金龍山一月寺の長運観守の書である。1810年9月25日、社殿を改築したのである。現在の社殿は、1960年9月20日新造。
祭神は菅原道真公である。町田三天神の一社でもある。例祭日は毎年九月二五日である。境内坪数三反三畝二六歩、境外山林一町九反八畝歩余り。町田市内の神社のなかでは広大である。町田市南大谷四五一番地に鎮座している。
一月寺(いちがつじ)とは、
千葉県松戸市小金にある日蓮正宗の寺院。山号は金龍山(きんりゅうさん)。
普化宗寺院として創建。普化宗(ふけしゅう)は、日本仏教の禅宗のひとつで、9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な世にあまり知られていない興味ある事柄も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。元々は、武蔵野国新町(現・東京都青梅市新町一丁目)の鈴法寺(廃寺、現在の鈴法寺公園)と共に普化宗の江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院である触頭として関東総本山という地位にあった。伝承では正嘉年間(1257年 – 1259年)に金先古山禅師によって創建されたと伝わる。
徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めた。
境内掲示による南大谷天神社の由緒
正保二年(一六四五)二月二十五日、五十嵐豊前守勝春の末男五十嵐次郎左衛門が大谷村の村長となり御神像を島山屋法春につくらせ天満宮を鎮守とし奉安したと伝えられております。享保五年(一七二〇)二月二十五日、地蔵の伊勢守平正清の家人(名主)であった五十嵐伝兵衛敬孝が村の代表として平正清とともに京都にゆき御神像を大仏師康伝に依頼し、修飾させております。文化七年(一八一〇年)九月二十五日社殿再建、現社殿は昭和三十七年十二月に起工し昭和三十九年四月十二日に竣工したものであります。本殿は流造、拝殿は入母屋造、町田三天神の一社で京都北野天満宮を本社とする。(境内掲示より)
伊勢守平正清の家人・五十嵐伝兵衛敬孝が、神像を修飾している。五十嵐次郎左衛門はよくわからないが、平正清(正輔)とは、平清盛の孫であり、その子・平重盛の四男。母は正室の藤原経子。六波羅小松第に居を構えていたので小松殿(小松内大臣)とも言われ、その邸宅に48の灯籠を建てていたので灯籠大臣とも称された。
そして、その子に有盛がいる。
「有盛」といえば、「宥盛」を思い出す。
象頭山松尾寺金光院の住職で、金比羅を四国の天狗信仰の拠点に育て上げた名高い山伏・宥盛。
流行神としての金毘羅神が登場する天正の頃の住職。
「高野の丘」とは、高野山ではなく、延命院があるのは、財田川中流域に広がる田園風景の小高い丘陵上(香川県三豊市豊中町上高野858)。古代よりこの丘には地域の祖先霊が鎮まり、富豪の墓「延命古墳」が残る地に弘法大師の開基で古刹が建立され、文禄年間(1593から1593年)には象頭山松尾寺金光院宥盛法印により再興。
金毘羅大権現は、大物主命は近世の捏造。金刀比羅宮は、もともと、象頭山の真言宗松尾寺の守護神(鎮守)の一つとして金毘羅神が祀られ、近世に流行神の金毘羅大権現として繁栄。そして、延命院は国守生駒・京極両家により再建。
光孝天皇の時代、菅原道真が讃岐国司在任の仁和3年(887年)巡察の折、讃岐国の風雨順時五穀豊饒を祈って「一」の字を延命院に奉納した。古来よりこの一と縁を結べば諸願成就し開運富貴の身になるといわれ、一は物事のはじめ、全体を知るの意。
↓
椙山神社(椙山大明神)
町田市三輪町1618
「fujii motoya」さんの記事を参考にすると
御祭神 日本武尊、大物主命、意富斗能地神 (おおとのぢのかみ)
由緒
「古事記」や「日本書紀」にも記されている大和の国の三輪の里に鎮座する大神(三輪)神社のご神体である秀麗な三輪山にこの付近の山容がよく似ていることから元慶元年(877)当地に勧請されたとの伝承がある。ご神体は不動明王が鋳出されている鏡で、裏面に下三輪総鎮守寛文4年(1664)大吉と刻んである。明治末に下三輪大戸にあった大戸明神が合祀された。
「都筑の郷」 杉山神社の鎮座場所から
杉山社:字二ももにあり、 高蔵寺の持にして御朱印地のつゞきなり、神体は鏡の如く円なる状にて、径一尺五寸ばかりの鋳物なり、中央に不動の像を鋳出して上に悉曇シッタンあり、その左右に日月の形あるしるして云。
椙山神社(椙山大明神)は、大神(三輪)神社の神を勧請の伝承であり、ご神体は不動明王が鋳出されている鏡である。
「もも」といえば、讃岐の正一位・水主神社の御祭神・倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。
本殿右手には、母・倭国香姫命を祀る国玉神社。
本殿後方には、父・孝霊天皇を祀る孝霊神社。
境内左手には、閼伽谷と呼ばれる場所があり、水神社が祀られるが、社殿の後方に、弘法大師手堀の井戸がある。
神社を護るように虎丸山・本宮山・那智山(水主三山)。
源義経は屋島の戦いの前にお参り。
倭迹迹日百襲姫命
高蔵寺とは、
見星山三輪院高蔵寺
山号の名前の如く星が近くに見えるような高台にあり、古来、三輪(奈良県)の人々が移り住んできた三輪の里に寺院を構える花の寺。
高蔵寺縁起では、空海弘法大師を宗祖。
総本山は奈良県桜井市にある真言宗豊山派長谷寺。本尊は金剛界大日如来。
「従来当時御朱印奉還之理由書」という明治の記録によると、足利将軍家代々の武運長久祈願所として康安二年(1362年)4月、権大僧都法印定有によって開山。650年あまりの歴史を持つ寺院。
慶応3年10月、御朱印を奉還するまでは御朱印11石5斗のほか「境内地録御除地トシテ無高下賜」されていた。
また上三輪・下三輪の総鎮守である熊野神社・椙山神社を管理していた。
また明治元年に正善寺、明治15年には慶福寺が高蔵寺に合寺。
昭和10年、当寺に北原白秋夫妻が訪れ「高蔵寺しづかやと散葉眺めいて梢の柿のつやつやしいろ」という歌を読まれた歌のほか、当寺にて読んだ7首。
多摩八十八ヶ所霊場は昭和9年に真言宗多摩地域寺院で再編成された。高蔵寺は多摩八十八ヶ所霊場第10番札所、四国阿波の88霊場第10番切幡寺の写し。創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、詳しい事情は不明。寺伝によれば、天武天皇の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺が建てられている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀ったという。西国三十三所第8番札所。寺紋は輪違い紋。
飯山観音(飯上山長谷寺)
切幡寺(きりはたじ)とは、
得度山灌頂院切幡寺
徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第十番札所。本尊:千手観世音菩薩。
修行中の空海が、ほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。感激し娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことでで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になった。
空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏の千手観音を北向きに安置し本尊として開基。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。
境内の大塔は、徳川家康の勧めにより豊臣秀頼が父・秀吉の菩提を弔うため慶長12年(1607年)大坂住吉大社の神宮寺である新羅寺の西塔として建立(重要文化財)。国内の二重塔で初層も二層も方形という形式で現存しているものは当塔のみ。
八大竜王堂がある。
奥の院には、真言宗八祖の肖像画が掲げられ、内部には八祖の仏像が祀られている。
ご詠歌:欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障(さわ)りとぞなる
静御前の母・磯禅師の生誕地・丹生小磯地域の八幡神社が見つめる先は、源義経が屋島の戦いの戦勝祈願の水主三山が守るような水主神社と思われ、その先徳島県へ伸ばすと四国88霊場第9番・法輪寺。第10番・切幡寺。第12番・焼山寺の横を通過する方向。
高蔵寺とは、見星山三輪院高蔵寺で、星が近くに見えるような高台にあり、古来、三輪(奈良県)の人々が移り住んできた三輪の里に寺院を構える花の寺。
空海弘法大師が宗祖で、総本山は奈良県桜井市にある真言宗豊山派長谷寺。
本尊は金剛界大日如来。足利将軍家代々の武運長久祈願所。
昭和10年、北原白秋夫妻が訪れ「高蔵寺しづかやと散葉眺めいて梢の柿のつやつやしいろ」という歌を読まれた。
しづか=静で、村上天皇の血筋の可能性が高い静御前につながり、散葉=散らばった言葉、柿のつやつやしい=生き生きとした柿本氏を表していると勝手な妄想。
人麻呂は様々な立場の人が書いた歌(葉=言葉)を集めた万葉集を編纂。さらに、
しず=倭へんかんできまする
高蔵寺は昭和9年に真言宗多摩地域寺院で再編成された。創建は奈良時代、8世紀前半と推定。朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の現在、本長谷寺が建てられている場所に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が聖武天皇の勅命により現在の本堂の地に本尊十一面観音像を祀っている。
三重とは三輪では?とも妄想
弘法大師の遺徳に感謝し、巡拝を通じて、心の修養と安心を求めていく霊場めぐり多摩八十八ヶ所霊場第10番札所で、それは四国阿波の切幡寺(本尊:十一面観音)の写し。
切幡寺は、徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第十番札所。修行中の空海が機織の娘を得度、灌頂を授けたところ、たちまち七色の光を放ち即身成仏した。
嵯峨天皇は勅願によって堂宇を建立、彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏の千手観音を北向きに安置し本尊として開基。
昔は、虹の出るところは、冥界と繋がる場所、だから市場を立てた。七色は虹、そして龍。
阿波市市場町は冥界で、切幡寺があるということ。
境内の大塔は、徳川家康の勧めにより豊臣秀頼が父・秀吉の菩提を弔うため、(仁徳天皇の住吉津の開港以来、航海の守護神として崇敬をあつめ、伊弉諾尊が海中で禊祓を行われた際に出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神と神功皇后を祀る)大坂住吉大社の神宮寺・新羅寺の西塔として建立。
家康と秀吉は山王信仰つながり
大塔の初層も二層も方形という唯一現存の二重の塔。仏塔の覆鉢と傘蓋の間に方形の平頭(ひょうず)を持つものは「トゥーパー」と呼ばれる。明らかにサンスクリット語の「ストゥーパ」(塔婆)に由来する名称。
そして八大竜王堂がある。八大龍王といえば志度寺縁起の海女の玉獲りの龍・善女龍王。沙掲羅龍王の三女。
弘法大師空海や静御前が雨ごいの神泉苑。
さらに金剛峯寺、醍醐寺、川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院などにつながり「清瀧権現」と同一視。
「婆梨妻女(波利采女)」=「善女龍王」。婆梨=波利=張り=春になり、讃岐の鴨部地区の醍醐寺ともいえる極楽寺の鎮守・志太張神社御祭神・天下春命につながる。
牛頭天王の后「婆梨妻女」=歳徳神(年神、歳神、大年神)=櫛稲田姫。
につながる。
奥の院には、真言宗八祖の肖像画、八祖の仏像が祀られる。
星が近くに見えるような高台にあることは、讃岐阿波の石積み古墳が尾根にあることを思わせる。そして月光西照宮と妄想の西照神社(大滝寺)
もちろん花=桜 と妄想
長谷寺といえば、白龍伝説の白山神社は、飯山観音背後の白山の山頂付近の尾根道にあり行基が白山の霊水池を発見し白山妙理大権現を勧請。
神亀2年(725年)に行基はクスノキの十一面観音安置。弘法大師が教場。
源頼朝が秋田城介義景(安達義景)に命じて造営の飯山観音(飯上山長谷寺)は、飯依比古命、少彦名命の讃岐飯盛山。
そして、豊山神楽院長谷寺は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派の総本山の寺院。
「花の御寺」と称されており、当然のごとく花=桜 と妄想
善女龍王、志度寺縁起。歳徳神、櫛稲田姫。セカチュウ桜八幡神社。撮影は庵治町。庵治=阿治=阿張=始まりの張=始まりは天下春命
長くなったので、ここまでとします。
つづく
あくまで妄想です。
ではまた