イの国探検隊ファンの皆様、鰐積の皆様、アマでありカミでもある皆様、こんにちは。

 

⑮の道草阿波な多米から帰り、阿多〜伊勢ライン探検の続き⑯ 相摸神奈川です。

 

「神」阿多~伊勢のライン延長を一応たどっております。

妄想があなたの意識に影響するんじゃないかと一方的に思います。魂が抜ける

悪しからずご了承ねがいます。(ペコリ)

ショボーン

 

画像は完全にイメージ

松平家家臣のお墓に龍の様な亀

意味深

 

あくまで、探検の記録なので、単調で、混沌としているかも知れません。

すでにしている。滝汗

 

低い山とはいえ、舐めてかかれない!

それが「ヤマ」だ。富士山

自然に生かされていることを人間は忘れてはいけない。ハチコスモスハチ

振り返ると、リュックに、結構大きな枝が引っかかって麓から同行二人真顔

歩くたびに寒い。虫除け用ポッケのミント油が漏れて股間をぬらし。叫び

そうこうするうちに笹薮はかき分け漕いで行き獣道。歩きやすい。

見た景色だ。アセアセ

自分が漕いだ跡を獣道と思い進んでいただけ。叫び

気持ちを切り替えて、尾根道を歩く。歩きやすい。進むぞ!

やった!峰に登ったぞ!いい景色だ!え?あっちの峰はなんだ!?目

違う峰に登ってますた・・・・・・ゲロー雷

一旦休憩。水筒のほうじ茶がうまい!

気を取り直して、あっちの峰へ向かうぞ!まずは下りでラクチン!すーっと下りられる。

次の峰への上りだ。リュックが軽い。水筒を忘れた!

振り返ればまた上り驚き

無駄と思いつつ、水筒を使い捨てにするのは痛いので、取りにもどる。

修行の有難ーい登山だ。宇宙人

 

そんなことが、延々と続くようなものだと思っていただきたい。ニヤニヤ

 

ルートが、

笠沙の宮跡→伊勢神宮、その先へのラインがあるのではないかと妄想

 

↓これ、このライン

四国足摺岬→室戸岬→熊野→伊勢

阿多を出発し、日向を通り、四国の岬を綺麗に通過するライン上の伊勢神宮内宮・・・

 

航海の山当てになっていると仮説妄想しながらさらに探検だ!おーっ!

 

前回、愛知で多米の地名が気になって道草しました。

少しまとめます。

豊橋市多米東町の春日神社は、徳合長者の創建を起源で多米町の氏神。

多米古墳群88基。多米不動滝は、與教大師作「滝不動尊」が佇む。

歓喜院も、徳合長者の開創で、豊川稲荷妙厳寺を開設した東海義易禅師が再興。

歓喜繋がりでは、阿波の忌部山麓の歓喜天聖天寺を思い出す。山瀬地区にあり、金剛山修験本宗派、本尊・聖観世音菩薩聖天寺は、時の住僧の快道が、古義真言宗京都嵯峨大覚寺に便りを送り、開敷山現証律院法護寺を許され、以来その末寺。

山瀬で思い出すのは、「大津に泊まらず、山背を廻って倭に向かう。帰らずなお進み、山背河に至り歌を詠む」(紀53、磐之媛の歌)

歓喜院境内の不動堂はもと滝ノ谷の滝付近にあり、瀧不動縁起を所蔵。

宝珠寺薬師堂薬師仏台座下には日本66ヶ国の土砂を納める。これは、四国88霊場志度寺の奥の院地蔵寺の鎌倉時代から江戸時代まで、日本廻国六十六部巡礼があったことにつながりそう。

多米連は、多米部の伴造氏族で、神魂命五世の孫の天日鷲命を祖とする天神系氏族。

飲食物の総称タメツモノ(善味の意味)由来。

天日鷲命が阿波忌部氏、手置帆負命が讃岐忌部氏、彦狭知命が紀伊忌部氏の祖であり、天富命は天日鷲神の孫を率いて粟国へと行き、穀・麻を植えた。

阿波の忌部神社は天皇即位の大嘗祭に際して、阿波忌部の三木家の栽培麻で麁服(あらたえ)を調進する神社。県犬養氏や天語連の祖とされる。県犬養氏は、志度寺縁起につながり、藤原北家が龍(鰐)から天皇の魂を奪ったとも妄想できる。

志度寺は、浄瑠璃義経千本桜原作では、梅の時期に桜が千本咲く。屋島で平家が滅んだと義経は語る。歴史では、平家は屋島から志度寺へ逃げ込み、熊野は義経に味方するとの京の噂が立った。

熊野と源氏の義経がつながる感じ。

 

山背

 

(神奈川県)

 

子之神社(ねのじんじゃ)

足柄上郡山北町山市場38
室生神社の兼務社
祭神    大己貴命 大山祇命 大日孁貴命 素盞嗚命
社格    旧村社  創建不詳  例祭    4月4日 
「新編相模風土記」には子神社。明治改革の時上地し村社に列格、子之神社と改称。

往時より市場の鎮守として尊崇され、昭和二十一年宗教法人となり、氏子の敬神に支えられている。

 

市場


室生神社とは、
足柄上郡山北町にある神社。
御祭神 建御名方命倉稲魂命(大宜都比売)、誉田別命木花咲耶姫命天兒屋根命(春日大明神)弟橘姫命、速玉男命、素戔嗚命、大山祇命、日本武命、大日孁貴命、玉依姫命、大山咋命(山王)、大己貴命、菅原道真

創建年代等は不詳ながら、般若院住持了智(佐々木四郎高綱、源頼朝に仕え軍功の近江出身武士)が奈良県室生山の眷属室生明神を勧請して創建したと伝。

天正8年(1580)にに遷座、さらに天神社の鎮座していた当地に遷座。

室生神社の流鏑馬は、河村義秀公が「源頼朝が石橋山挙兵の際平家方に味方したため、領地を没収された」旧領を鎌倉で行われた流鏑馬の賞により回復できたことに因み奉納されることになったと伝えられ、神奈川県無形文化財に指定。

神奈川県神社誌による室生神社の由緒
往古は詳らかならず、新編相模風土記稿に依れば、「村の鎮守神体三座を置く按ずるに川村岸般若院縁起には室生明神は大和国室生山の眷属たり般若院現住了知勧請すと記せり始め中川村に在しりを天正八年(一五八〇)川村般若院の後丸山に移し、その後当初天神(菅原道真)の社殿に移せしという例祭九月二十九日流鏑馬あり中川神塚二邑より隔年に的板の料を納むるを例とす」とある。(神奈川県神社誌より)
拝殿・幣殿あり、村持、△末社。天神(地主神なりと云、)矢倉明神合祀、稲荷、天王
姥神社
村民持、下同、
神明社二 吾妻社 子神社三 山王社 御嶽社二 第六天社三 稲荷社六 石神社三 若宮社 (新編相模国風土記稿より)


室生で気になるのは、

八田 幸雄さんの「室生、長谷、大神神社(おおみわじんじゃ)の神仏習合の源流」抄録

大神神社の神仏習合の問題を考える場合、その隣接する長谷寺、更には東方の室生寺も併せて考察していかなければならない。いうまでもなく長谷寺は中世、三輪流神道の教義がうちたてられ、神道灌頂が行われ、神仏一体の信仰の中にあった寺である。室生寺は三輪流神道の創始者といわれる慶円上人の伝承によると、三輪明神に灌頂の印明を授けたことは互為灌頂に示されているが、この灌頂の印明は八幡大菩薩より授けられた理智不二の印明であり、それは胎蔵、金剛の世界の究極の真髄を印・明という形で示されたものであり、これは三輪明神に授けられたものであるとともに、室生山の善女竜王にも授けられたものであると伝えられている。ここに室生、長谷、三輪は共通の信仰の地盤があることが推測される。

妄想を膨らませれば、室生神社は、カミでワタツミである木花咲耶姫も祭り、この「室生」が室生寺と重なるのであれば、三輪明神に灌頂の印明を授けたことは、胎蔵、金剛の世界の究極の真髄であり、善女竜王にも授けられたものとなるとのこと。

三輪明神(大神神社)=善女竜王

善女龍王といえば、志度寺縁起の海女の玉獲りの龍。八大竜王の一尊で、沙掲羅龍王の三女。

雨乞い対象の竜王の一尊で、神泉苑金剛峯寺醍醐寺、川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院など鎮守として祀られる「清瀧権現」と同一視。

蘇民将来伝説では、牛頭天王(スサノオ)が竜宮まで赴き、娑竭羅龍王の娘「婆梨妻女」頗梨采女(はりさいじょ)をめとり后の話があるとのことで、

沙掲羅龍王とは、法華経・提婆達多品に登場する八歳の龍女はこの龍王の第三王女で「善女(如)龍王」と呼ばれ、空海が新しく名付けることとなった清瀧権現も唐からついて来たこの娑伽羅龍王の同じ娘の事である。
「婆梨妻女(波利采女)」=「善女龍王」ととれる。

波利采女の名前の由来は梵語のハリ(=水晶)の説がある。
中世以降は牛頭天王とスサノオと陰陽道の方位神が習合・同一視され、牛頭天王の后「婆梨妻女」=歳徳神(年神、歳神、大年神)=櫛稲田姫とみなされる事もあったとのこと。

脇へそれると、セカチュウで朔と亜紀が初めて神社前で親密になる。コノハナサクヤヒメを祭っていたとされる桜八幡神社。撮影は庵治町。

庵治(あじ)=あはり=阿治=阿張=始まりの張=始まりは天下春命

 

弘法大師が石田の極楽寺を鴨部に移し、「下張神」を鎮守として下張神社社殿再興。祭神・天下春命は、八意思兼神の御子神で、武蔵秩父国造等の祖四国、讃岐にゆかりの多い神ではない

 

つまり、婆梨妻女=大歳神(大歳御祖神)=櫛稲田姫=善女龍王

神泉苑といえば、空海さんの雨ごいも有名だそうですが、1182年全国的な大干ばつ。洛中の神泉苑で美妓百人による雨乞祈祷が行われ、最後に静御前が一人で白拍子を舞った。静は美声で、今様「水の宴という雨乞いの舞曲」を歌った。

のすぐれておぼゆるは、西天竺の尽浄虚融にすみわたる、昆明の水の色、行末しくすむとかや、の下葉おとづるは、三島入江の氷水、立つ空の若水は、汲むとも 汲むとも 尽きもせじ・・・・・尽きもせじ

静は艶やかに舞った。人々はひとしく魂を奪われた。ラブラブラブ

舞を納めるや否や、それまで雲一片も無かった空の上に電光が閃き、雷鳴がとどろいた。水中に一滴の墨汁を垂らしたように、黒雲が天空に流れ出て、みるみるうちに空に広がり、たちまち夕日を覆った。雨が降り人々は驚喜して天を仰いだ。
でもね、室生神社=室生寺だったらの妄想っすにやり

 

櫛稲田姫

 

白籏神社

足柄上郡山北町谷ケ516

祭神 誉田別命

白旗神社は、1200年、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、源頼朝を祭神として北条政子が創建したと伝(一説には源頼家の創建とも)。もとは上宮の西側にあったが、1885年、源実朝を祀る柳営社と合祀され現在地に遷宮。
現在の祭神は、源頼朝と源実朝。
※明治の神仏分離前までは、この場所は薬師堂。※柳営社は稲荷社の社殿として移築。
白旗神社は
「武衛殿」と称され、掲げられている額は、幕末の島津藩の実質上の最高権力者島津久光の筆と伝。


神仏混淆
白旗神社の手水舎の水盤には、蓮弁の彫刻があり、神仏分離によって、鶴岡八幡宮内の仏教関連施設は廃されたが、白旗神社の「手水舎」には、神仏混淆の「鶴岡八幡宮寺」であった頃の名残。
菅裸馬句碑
白旗神社前にある句碑。「歌あ
そのは連実朝忌」
源頼朝像と豊臣秀吉
白旗神社には、源頼朝坐像が安置され、1590年7月、小田原城を落とした
豊臣秀吉が奥州へ向かう途中で鶴岡八幡宮を詣でて、頼朝像を撫でながら天下を語った逸話がある。現在、東京国立博物館に収蔵の頼朝像が、この像といわれている。
伝源頼朝坐像
秀吉は、頼朝像を見ると近くに寄っていき、「微小な身の育ちでありながら天下をとったのは、御身と吾だけである。しかし、御身の先祖は関東で威をはり、挙兵すれば多くの兵が従い天下をとるのも容易であったろうが、吾は名もない卑属から天下をとったのだから、吾の方が出世頭である」といったそうである。 そして、「御身と吾は天下友達である」といって像の背中を叩いたという逸話が残されている。この翌年
秀吉徳川家康に命じて鶴岡八幡宮の修繕にとりかかっている。
 

山王信仰秀吉と家康は、ほととぎすを殺さない。

円通寺

足柄上郡山北町谷ケ303
通寺について
本尊を釈迦如来とする曹洞宗の寺院。明年間に鞠子川の洪水により諸堂悉く崩壊、現地に移転。弘治三年蘭甫秀藝大和尚(円通寺開山)が甲州武田家(武田氏は、武家・士族だった日本の氏族。清和源氏の一流・河内源氏の一門源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家。)の臣であった武尾五郎左衛門祖先(長安善久大禅定門)の補けで、寺門の隆盛に尽力し堂塔完備

 

竹林上人 手置帆負命 斎部 多田 清和源氏  ヤマトタケル白鳥神社


須賀神社
足柄上郡山北町川西578
室生神社の兼務社
祭神    素盞嗚命 誉田別命 大山祇命 倉稲魂命 金山彦命 大日留貴命
社格 旧村社  創建 不詳  別名 須賀神社
例祭    4月4日
神事 春の例大祭では、河内川への神輿の浜降りがなされる。


神明社
足柄上郡山北町皆瀬川1533
大日孁貴命 ( おおひるめむちのみこと )  大山祇命 ( おおやまつみのみこと )  金山彦命 ( かなやまひこのみこと ) 
倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )  大山咋命 ( おおやまくいのみこと )  素盞嗚命 ( すさのおのみこと ) 
火結命 ( ひむすびのみこと )  天児屋根命 ( あめのこやねのみこと ) 

神奈川県神社誌には、
由緒沿革 創建年代不詳。南北朝の頃城主河村氏の崇敬が厚かったことが文献にある。

川村氏とは、

一般に藤原北家魚名流とされる藤原秀郷の後裔で、相模の武士波多野遠義の子秀高から始まる。

波多野氏は遠義の家祖経範の代より河内源氏の家人に列したが、遠義の子は波多野庄を継いだ次男義通以下多くが源義朝や頼朝に従い、中世栄えた河村氏・大友氏などはいずれも遠義の子孫にあたる。

古来高杉大神宮と称し、遠く越後、奥州よりの参拝も多かった神社。

伊勢は遠いのでここに参拝したと伝

附近一帯はすべて伊勢神宮と同じ地名が附せられる。

建武の頃より伝えられる御峯入の神事が残っており、県の無形文化財に指定。
五年毎に「お峯入り」が行はれている。 
「お峯入り」とは山中で修業を行うことを意味し、
修験道の儀礼が芸能化したもの、国指定重要無形民俗文化財。 
300年前、当地は富士山の宝永噴火、1707年12月に噴火し始め、噴出物は東へ飛び、風に流され、皆瀬川村では60cm積った。 
藤塚浅間神社(厚木市)神社近辺は10cm程の降灰を集めて、高さ6m、面積186坪(610m2)の塚を造った 

山間部で60cmも積った。灰ではなく砂と表現され粒径が大きい。

ウラジロガシ 
案内板(平成四年九月の県教育委員会・山北町教育委員会設置)、
神奈川県指定天然記念物。

推定樹齢三百年、樹高二十一メートル、樹冠が南北二十メートル東西十七メートル 
当社(標高510m余)から北北東へ0.3km、標高420m程の所にある。 
推定樹齢300年、富士山の宝永噴火時と同じ。

 

 

子之神社は室生神社の兼務社。室生神社は須賀神社でも。例祭は桜の咲く4月4日。須賀神社も4月4日で、春の例大祭では河内川へ神輿の浜降り。

室生神社の御祭神には、イ探妄想の阿波国を表す倉稲魂命(大宜都比売)、阿多の姫であり櫛稲田媛であり善女龍王である木花咲耶姫命、天兒屋根命(春日大明神)、鰐氏である大友筋の菅原道真など気になるが、奈良県室生山の眷属室生明神を勧請して創建。鰐を表す丸の丸山に遷座。

室生明神は大和国室生山の眷属。妄想を膨らませれば、室生神社は、カミでワタツミである木花咲耶姫も祭り、この「室生」が室生寺と重なるのであれば、三輪明神に胎蔵、金剛の世界の究極の真髄灌頂の印明を授けたは、善女竜王にも授けられたものとなる。三輪明神(大神神社)=善女竜王
善女龍王といえば、志度寺縁起の海女の玉獲りの龍。八大竜王の一尊で、沙掲羅龍王の三女。雨乞い対象の竜王の一尊で、神泉苑、金剛峯寺、醍醐寺、川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院など鎮守として祀られる「清瀧権現」と同一視。
蘇民将来伝説では、
牛頭天王(スサノオ)が竜宮まで赴き、娑竭羅龍王の娘「婆梨妻女」頗梨采女(はりさいじょ)をめとり后の話がある。
沙掲羅龍王とは、法華経・提婆達多品に登場する八歳の龍女はこの龍王の第三王女で「善女(如)龍王」と呼ばれ、空海が新しく名付けることとなった清瀧権現も唐からついて来たこの娑伽羅龍王の同じ娘。

「婆梨妻女(波利采女)」=「善女龍王」。
波利采女の名前の由来は梵語のハリ(=水晶)の説。
中世以降は牛頭天王とスサノオと陰陽道の方位神が習合・同一視され、牛頭天王の后「婆梨妻女」=歳徳神(年神、歳神、大年神)=櫛稲田姫とみなされる事もあった。
つまり、
婆梨妻女=大歳神(大歳御祖神)=櫛稲田姫=木花咲耶姫=善女龍王

八大龍王の名を刻む石が立つ庵治の山、見つめるは空海修行の五剣山、山麓には神仏習合の八栗寺・歓喜天。さらにその先は、伊勢内宮に祭るのは熊野、阿多と同じと妄想の阿波の祖谷。その東側には神域を表す立石山・空海名付ける剣の山「剣山」。剣山は屋島寺が守り、大宮神社が鎮守と妄想。

神泉苑といえば、空海さんの雨ごいも有名だが、
洛中の神泉苑で美妓百人による雨乞祈祷が行われ、最後に
静御前が美声で一人で白拍子を舞、今様「水の宴という雨乞いの舞曲」を歌った。
「水のすぐれておぼゆるは、西天竺の白露池、尽浄虚融にすみわたる、
昆明池の水の色、行末久しくすむとかや、茅の下葉おとづるは、三島入江の氷水、
春立つ空の若水は、汲むとも 汲むとも 尽きもせじ・・・・・尽きもせじ」
静は艶やかに舞い、人々はひとしく魂を奪われた。ラブ
舞を納めるや否や、空の上に電光が閃き、雷鳴がとどろき、みるみるうちに黒雲が天空に流れ出て、空に広がり、雨が降り人々は驚喜して天を仰いだ。

白旗神社は「武衛殿」と称され、額は、幕末の島津藩の最高権力者島津久光の筆。鹿児島県阿多がつながる気がする。

白旗神社の手水舎の水盤は、蓮弁の彫刻があり、鶴岡八幡宮内の仏教関連施設、神仏混淆の「鶴岡八幡宮寺」の名残。

白旗神社前にある菅裸馬句碑「歌あ波れその人阿は連実朝忌」を見てイ探は、波あれその人が海神を表し、阿は始まりの阿(阿波)を妄想させる。

白旗神社には、源頼朝坐像が安置され、豊臣秀吉が鶴岡八幡宮を詣でて、頼朝像を撫でながら天下を語った逸話。秀吉は、頼朝に親近感があったように感じ、秀吉は徳川家康に命じて鶴岡八幡宮を修繕している。山王信仰でホトトギス(讃岐)を殺さない秀吉と家康。
円通寺は、龍雲山。開山が甲州武田家。武田氏は、清和源氏の一流。清和源氏で思い出すのが、阿波神山の悲願寺。

悲願時を真っすぐ見つめるヤマトタケルの魂が白鳥となって舞い降りた白鳥神社。悲願時建立の清和源氏多田満中。悲願金剛がひっそりあるアマ(藤原北家)の(龍の)玉とり伝説の志度寺。

志度寺奥の院地蔵寺は日本廻国六十六と青面金剛の庚申堂。後ろの青面。

後ろの正面といえば、ヤマトトトヒノモモソ姫の後ろに第7代・孝霊天皇を祭る水主神社。第8代・孝元天皇はいずこ。

孝霊天皇の皇后は、義経が駆け抜け、その後をたどった静御前と母・磯禅師の通った田面峠で衆生を見守る。

神明社は、古来高杉大神宮と称した。山北町皆瀬川1533鎮座。伊勢は遠いのでここに参拝した。附近一帯はすべて伊勢神宮と同じ地名が附せられ建武の頃より伝えられる山中で修業を行うことを意味し、修験道の儀礼が芸能化した御峯入の神事「お峯入り」(国指定重要無形民俗文化財)が残る。

鎮座の皆瀬川。皆瀬といえば、瀬とは流れが速く水深が浅い場所、潮流、海峡のような場所。和歌山県田辺市龍神村龍神1346鎮座の37社、18祭神を祭る皆瀬神社。みんな同じ「瀬」だと似た者、近い同族を集めたと妄想。

300年前、当地は富士山の宝永噴火、1707年12月に噴火し始めた。藤塚浅間神社(厚木市)、神社近辺は10cm程の降灰(砂)を集めて、高さ6m、面積186坪(610m2)の塚を造

推定樹齢三百年の県指定天然記念物ウラジロガシは、富士山の宝永噴火時からの齢。


でもね、あくまで妄想です。グラサン

 

本日は、ここまでとします。

ではまたぶー