昨日、神保町を散歩に行ったとき小宮山書店の店頭の書棚に吉本の本がずらっと並べてあり購入。
他の一冊は埴谷雄高との対談「意識 革命 宇宙」。三島がエンターティメントを量産したように
吉本も「駄本」(吉本がよくこういう言葉を使う。)をいっぱい出した。晩年はどうでもいい駄本ばかりに
なってしまった。多分、吉本の正統の仕事は「マチウ書試論」「共同幻想論」「言語にとって美とは何か」
「ハイ・イメージ論」(この頃からわけが分からなくなってくる。)「心的現象論」なのだろうけど、まともに
解ろうとしたらそれこそ死ぬ気で多くの本を読んでからじゃないととっても無理だ。まあこれなら普通の
読書と同じく感想文を書けると思う。吉本が「試行」やその他の本に載せた肉親から三島由紀夫、埴谷
雄高等への追悼文の集成。ほとんど書いたことのない三島についての一文が追悼文としてある。また
吉本隆明はなんぞやとか構えちゃうとしんどくて書けなくなってしまうのでこれちょっとおかしいんじゃな
いのという感想を書きたい。まず美空ひばりへの追悼文でこんなことを書いている。
わたしは美空ひばりがはじめて出現したとき、歌のうまい、早熟な、無理に大人びた歌を
歌謡界からおし着せられ、それに近親(母親)が迎合して、わが児に演じさせている哀れな
少女歌手のようにおもってきた。ことにステージママを演じている庶民のおかみさんふうの
風貌をした、利にさといような母親とコミでいる彼女は、不快で仕方がないとおもった。
以下、ぐれた兄弟がからんで当時の「芸能界」の雰囲気をかもし出していることの嫌悪を書いて
いる。これはごく普通の庶民が抱いていた美空ひばりの感想と同じだろう。僕もそう思う。吉本は美
空ひばりの歌をこう評価している。
クラシックの世界でも、ニューミュージックの歌い手の世界でも、ジャズやヨーロッパ調の
歌唱(ヨーロッパ調の歌唱なんてものあったか?)の世界でも、美空ひばりに匹敵で
きる歌手はまったく存在しないとおもえた。才能や素質もあったろうが、ここまで歌唱の修
練をやってみせた歌手は、それまではほかにいなかったのだとおもう。美空ひばりの歌は
そのまんま日本語で歌っても、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと世界中どこでも、即
座に通じ、その感銘の度合いは世界的なレベルにあることをどこまでも示すことができた
のにちがいない。こんなことが成り立つ存在は、芸術や芸能その他の分野ではわが国では
ほとんどひとりも数え上げることができない。
書き写していると腹が立ってくる文章だ。専門以外のことは知らないのだから知ったかぶりはしな
いことだ。「ヨーロッパ調の歌唱」などありはしない。「歌唱の修練」(?)酒びたりの人間がどういう
修練をしたというのだ。「ジャズ」(?)いくらなんでもエラ・フィツジェラルドのほうがうまいでしょ。大体
美空ひばりは晩年は酒びたりで声の質が落ちていたしさすがの天才も吉本が大好きな大衆に飽きら
れていた。死んでからまた脚光を浴びただけの話だ。美空ひばりの話だったらごく普通の芸能記者
のほうが説得力があるし大して普段聞いているいるわけでもないのに「世界的なレベル」なんていう
のもどうかと思う。時々美空ひばりの歌を聞いて慰められましたとでも書いておけばいいのに何故、
「世界的なレベルをどこまでもしめす」などという不遜なことを書くのか。誰でもしらないことがあるの
だし吉本にご神託をいただかなくても美空ひばりのことぐらいは俺たちでも分かる。キヨシローがチ
ャボとRCサクセションをやっていたとき、キヨシローと六十年安保のなんとかという委員長に通じるカ
リスマ性があるようなことを言っていたが例えも古いし、あの頃のキヨシローとチャボはどう見ても
ストーンズのパクリと言ったほうが妥当だろう。年をとったら新しいことに疎くなるのは当然だし、たか
だかロックでも知りもしない人間に簡単に言い尽くされるものではない。
三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。これは衝撃である。この自死の方法は、
いくぶんか生きているものすべてを<コケ>にみせるだけの迫力をもっている。
この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの<檄文>や<辞世>の歌の下らなさ、政治
的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写さ
せる所にあらわれた、大向こうむけの<醒めた計量>の仕方の等々の奇妙なアマルガム
が衝撃に色彩をあたえている。そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとお
なじようにわたしにのこる。<どこまで本気なのかね>というように。つまり、わたしにはいち
ばん判りにくいところでかれは死んでいる。この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじ
さだけが答えになっている。そしてこの答えは一瞬<おまえはなにをしてきたのか!>と迫
るだけの力をわたしにもっている。
これは妥当でごくごく一般的な三島事件の見方だ。吉本に言われなくてもみんな<檄文>や
<辞世>の歌が大したものだとは思っていないし、政治的な死でもないこと判り切っていた。
澁澤がひそやかに言ったように太宰の女がアリバイだったように、三島の政治もアリバイだった
のだ。
内藤さんの手料理を食べながら、数時間、三島さんについて喋りあった。私としては、
内藤さんの意見をききたいだけであった。青年の頃から親兄弟にも喋れないことを、
三島さんがみんな打ちあけてきた相手だから、その死の本当の原因を、直感的に一番
知っている人ではないかと。
しかし内藤さんは、ただ「三島さんは死にたかっただけよ。ただ、それだけ」というばか
りだった。「ああいうふうに派手に死ねたんだもの、本人はさぞ満足していると思うよ。
あの人はただ死にたかったんだ。むつかしいことは何もなし。」
死なれてみて、ああやっぱりと思った者は多く、私もその一人ではあるけれど、内藤
さんのように他は論ぜず、ただ大まかに「死にたかったから」とだけ言われると、内藤さ
んが本能的に思うことが一番当たっているのかもしれないと思いながらも、やはり、その
結論だけで片付けることには納得できなかった。
「自分の腹に刃ものを突きつけた時、きっとうれしかったと思うよ。あの人の長年の夢が
実現したんだもの」
「後ろからの介錯もですか」
「さあ、あれは切腹のその最高の快楽に突入したものの、やはり死ぬまでの苦しみは
省略したかったんじゃないのかい」
三島の数多くいた「恋人」の一人だった福島次郎の「剣と寒紅」の一節だ。「内藤さん」は当時
六十代半ばで三島の新進作家時代からの付き合いで多分同じ趣味の人だろう。1970年の
当時は三島が男色の嗜好があることさえ公然とは言われていなかった。ホモセクシャル自体
が今のようにオープンなものではなかった。「おねえキャラ」が堂々とテレビでタレントとしてや
っていける時代ではなかった。はっきりとは判らないが三島の男色が定説になったのはここ
十年だろうと思う。「回転扉の三島由紀夫」では三島が「切腹ごっこ」に執心していた記述もあ
るし別の本では「切腹フェチ」だったとしている。つまり軍服で腹を切って若い男に首を切られた
かった。ただそれだけなのだ。当時としては三島の死は政治的、文学的な扮装の下に隠されて
いたがなんとなく「死」の本来の意味は透けて見えていたと思うが、吉本は頓珍漢な言説を延々
と続ける。
三島由紀夫の、<死>にたいする観念には、きわめて<空想的>な部分がある。それは
かれが<法>に抵触した行為をしたときには<死>ぬべきだ、とおもいつめていたところ
によくあらわれている。このおもいつめは、もともと本質的な<弱者>であり、本質的な<
御殿女中>である封建武士が考え出したものである。
その他、よくわからない言説が吉本一流の奇妙な言葉の使い方で綴られるのだが何を基軸に
して論じているのだか僕にはさっぱりわからない。結局、なにも三島について吉本は判ってい
ないのではないかと思う。長くなって面倒くさいが最後に埴谷雄高への追悼文。吉本は埴谷雄
高を「永久革命者」として「政治的にも社会的にも形而上学的にも行き届いた」概念を有しいて、
行動しなくても思念のうちに未来の社会や政治にたいして透徹したヴィジョンを持っているかぎ
り永久革命者だという理念に賛同を示し、しかし埴谷は現実には日和見主義の運動に安易に
同調をし自分とは仲違いをしたがそれは理念の違いのみで先人として敬意はいだいているとし
追悼の文章をこう結ぶ。
そのあとわたしは情勢論と原理論を組み替えなければ、世界の左翼思想は生きられない
だろうとおもい、その道を単独でつき進んだ。埴谷さんは一徹に悲哀を悲劇まで高める道
を行かれた。このよき先達は、いま宇宙の微塵のなかまで進んで行かれた。とおもう。
初期の吉本はもっと緊張感のある美しい文章だった。1997年、73歳の時の追悼文だが最後に
「とおもう。」は余分ではないだろうか。吉本は萩原欣一が大好きなのだがこの文章を読むと昔
スター誕生でどのレコード会社もオフアーしなかった時、欽ちゃんが「バンザイ。なしよ。」と言ったが
なんだがずっこけ具合のタイミングがその台詞に似ている。
サルトルの追悼文などは流石と思わせたが、吉本よく読むとやばいんじゃないのかと現時点では
言いたい。