【NO345|修身教授録シリーズ 第9回】

おはようございます。けんいちです。

本日のテーマは「目の前の一人に力を尽くす」です。
 

 

「一人のために力を尽くすことが、社会のためになる」

そう聞いたら、皆さんはどう感じるでしょうか。

 

 

社会のために何かをしようと考えると、より多くの人に届けること、より大きな影響を与えることを考えがちです。

しかし今回、『修身教授録』第一部第22講・第23講「鍛錬道」を読み、私は改めて、一人の人間に徹底して向き合うことの意味を考えさせられました。

 

 

目の前の一人に、どれだけ深く関われるか。

その一人への関わりが持つ意味は、私たちが思っている以上に大きいのかもしれません。

 

 

 

【一匹の蚤が跳ねることも、全宇宙につながっている】

この講で紹介されている「下学雑話」に、次の言葉があります。

「理としては一匹の蚤の跳ねるも全宇宙に反映し、わが一瞬のまばたきもまさに万象と相応ず。ただわれらの心粗にして、これを徹見し得ざるのみ。一即一切、一切即一。」

 

 

一匹の蚤が跳ねる。

私たちが一度まばたきをする。

 

 

それほど小さなことでさえ、世界から切り離されているのではなく、すべてとつながっている。

 

 

「一即一切、一切即一」

私はこの言葉から、一つのこと、一人への関わりも、決してその一つ、その一人だけで終わるものではないのだと受け取りました。

 

 

 

【なぜ「一人」を徹底して鍛えるのか】

第22・23講では、三宅先生と加藤先生の師弟関係が取り上げられています。

私はこの部分を読み、三宅先生は、多くの人を広く育てることではなく、加藤先生という一人の人物を徹底して鍛えることが、結果として日本の将来につながると考えていたのではないかと感じました。

 

 

ここで私の頭に浮かんだのが、「一子相伝」という言葉でした。

一子相伝とは、学問や技芸などの奥義を、自分の子どものうち一人、あるいは一人の弟子にだけ伝え、代々受け継いでいくことを意味します。

 

 

私は、この一対一の関係には、師匠と弟子の双方に、並々ならぬ責任感と妥協の許されない緊張感があるのではないかと感じました。

 

師匠にとっては、目の前の後継者にすべてを伝えきれなければ、これまで受け継がれてきた伝統や歴史が途絶えてしまうかもしれない。弟子にとっても、自分が教えを吸収し、身につけなければ、先人たちが長い年月をかけて追求してきた道や知恵が、自分の代で途絶えてしまうかもしれない。

そして、その教えを次の時代、次の後継者へと引き継ぐ責任を担うのは自分なのだという覚悟。

 

 

教える側も、学ぶ側も、真剣勝負。

 

 

そこには、単に知識や技術を教える、教わるという関係を超えた、互いの人生をかけた向き合い方があるように思います。

一人に深く伝わった教えは、その人の生き方となり、やがて次の誰かへと受け継がれていく。

私はそこに、「一即一切、一切即一」と通じるものを感じました。

 

 

 

【目の前の一人を知る】

この講を読みながら、私は学習塾の教室長をしていた頃に出会った、中学生のY君を思い出しました。

Y君は私立中学校に通っていましたが、なかなか勉強へのやる気が起きず、このままでは進学が難しいと、本人もお母様も困っていました。

 

少しおどおどしたところがあり、

 

「自分はダメだ」

 

という言葉をよく口にする子でした。

 

当時、私が大切にしていたのは、今、目の前にいるこの一人に、できる限りの力を尽くすことでした。

そして、そのためにまず必要だと考えていたのが、「相手のことを知ること」でした。

 

 

そこで私は、まずY君の好きなものを尋ねました。

アニメが好きだというので、授業の最初に少しアニメの話を聴きました。

そのうえで、その日に進めたい範囲と、「今日はここまで解けるようになろう」という目標を共有しました。

目標を早く達成できたら、アニメの続きを話す。

そんな約束もしました。

 

 

一方で、学習では土台となる力を大切にしました。

数学なら、今の単元につながる過去の学習内容。
国語なら、漢字。
英語なら、単語。

授業の最初の10分ほどと自習室の時間を使い、少しずつ積み重ねていきました。

 

 

 

【「自分はダメだ」から「もう少しやってみよう」へ】

結果は、すぐには出ませんでした。

それでも、語彙や計算力が少しずつ向上し、宿題の正答率も上がっていきました。

そして、一緒に勉強を始めて3回目の定期試験。

Y君は、過去最高点を取りました。

 

その後、お母様から、「息子は、部活よりも先生の授業の方が楽しいと言っています。できるだけ授業を入れてほしいです」

という連絡をいただきました。

 

もちろん、点数が上がったことは嬉しいことです。

しかし、私がそれ以上に大切だと感じていたのは、Y君自身が、「前よりできるようになった」と自分の成長を感じ、「もう少しやってみよう」と思えるようになることでした。

 

 

私は、勉強そのものは、本末でいえば「末」だと考えています。

「本」にあるのは、本人が学ぶ目的を見つけ、自分の成長を実感し、自分の可能性を少しずつ信じられるようになることではないでしょうか。

 

 

そして、一人の生徒の変化は、その一人だけで終わるものではありません。

自習室で一人の生徒が頑張って勉強している。

その姿を見ていると、次第に他の生徒も自習室で勉強するようになっていきます。

 

 

一人が変わると、その姿を見た別の一人が変わる。

すると、教室全体の雰囲気も少しずつ変わっていく。

私はこうした経験からも、一人に向き合うことは、決して一人だけへの働きかけではないと感じています。

 

 

そして、その一人に本当に力を尽くすためには、まずその人を知らなければならない。

 

何が好きなのか。
何に困っているのか。
何を怖がっているのか。
どんな時に嬉しいのか。
本当は、どうなりたいのか。

 

相手を知ろうとするからこそ、その人に必要な関わり方が見えてくるのだと思います。

 

 

 

【一人に尽くすことは、一人で終わらない】

Y君との時間を振り返ると、目の前のこの一人に力を尽くしたからこそ、見えてきたものが、あの時にはあったように思います。

そして今、『修身教授録』の「一匹の蚤の跳ねるも全宇宙に反映する」という言葉を読むと、あの時の経験が別の意味を持って見えてきます。

 

 

一人の子どもが「自分はダメだ」と思うのか。

それとも、「自分にもできるかもしれない」と思えるのか。

 

 

その違いは、その子一人の中だけで終わるものではないのかもしれません。

実際に、教室では一人の生徒が自習する姿が、別の生徒の行動へとつながっていきました。

そして、その先にも、

 

その子が家族とどう関わるか。
友人とどう関わるか。
将来どのような仕事をするか。
次の世代とどう関わるか。

 

さまざまなつながりが生まれていくのだと思います。

 

 

もちろん、私がそのすべてを見ることはできません。

けれど、一人の人間への関わりは、その人だけで完結するものではない。

 

 

だからこそ、私は、目の前の一人に全力を尽くす。それが今、自分にできる最大の貢献だと考えるからです。

今日、誰かと向き合う機会があったら、「この人に何をしてあげよう」と考える前に、「私は、この人のことをどれだけ知っているだろう」と考えてみる。そこから始めてみてはいかがでしょうか。

 

 

【まとめ】

・目の前の一人に全力を尽くすことが、今、自分にできる最大の貢献である。
・一人に力を尽くすためには、まずその人を知ることから始める。
・一人の変化が別の一人の行動を変えるように、一つの関わりは、その先へとつながっていく。

 

 

先人の言葉に学び、今日をどう生きるかを考える。

修身教授録シリーズでは、森信三先生の言葉を手がかりに、私自身の経験や日々の実践を重ねながら、その教えを現代の生活や仕事にどう生かせるかを考えていきます。

 

 

※本稿における第22・23講の紹介・引用は、白石賢一の読書メモをもとにしています。書籍原本との逐語照合は未実施のため、引用部分を含め、原本との表記の相違がある可能性があります。

【NO344|修身教授録シリーズ 第8回】

おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「人を育てる前に、自分を育てる」です。


後輩に仕事を教えるとき。子どもに何かを伝えるとき。チームの誰かを育てる立場になったとき。そんなとき、私たちはつい「どう教えるか」ばかりを考えてしまいます。伝え方を工夫する。分かりやすい言葉を選ぶ。相手に合わせて説明の順番を変える。もちろん、それも大切なことです。


しかし、今回『修身教授録』第一部第18講「人を植える道」を読みながら考えたのは、教える技術の前に、教える側の自分自身がどうあるかということでした。


森信三先生は、この講で教育を「人を植える道」にたとえています。一人の人間を真に育てるということは、一本一本の木を植えるようなものであって、たとえ植えた本人がいなくなっても、その木が本当に根づいていたなら、成長は止まらない。そしてそこには、幾多の人材が林のように育っていく。そういう趣旨のことが述べられています。


木を植えるとき、私たちは花や実にすぐ目を向けがちです。しかし、木が本当に育つかどうかは、根がどこまで深く張れるかにかかっています。そして根の深さは、植えた直後には見えません。人を育てることも、同じなのかもしれません。目に見える成果や変化を急いで求めたくなりますが、本当に大切なのは、その人の中に何が根づいたかという、すぐには見えない部分なのだと思います。


この講の中で、私が特に心に残った一文があります。人を育てるという重い役目を引き受けるなら、その道のりの長さを知ったうえで、自分自身もあらためて学び続け、経験を重ね、人として成長していく覚悟を持たなければならない。そういう趣旨のことが記されています。人を育てる役目を引き受けるということは、自分の力を相手に注ぐことだけを意味しません。その役目にふさわしいだけのものを、自分自身の中に育て続けることでもある。読んだとき、私はそう感じました。


私は学習塾の教室長として、新しく教室長になる人や、経験の浅い講師を育てる立場にあった時期があります。当時の私は、自分自身が学び、経験を広げ続けることが、講師の育成にも、教室が育っていくことにもつながると考えていました。


だから、仕事のやり方や知識を増やすことだけでなく、自分の中の「引き出し」を増やすことを大切にしていました。講師一人ひとりが何を好きなのか知ろうとすること。登山に出かけること。フリーマーケットに出店してみること。行ったことのない場所へ足を運ぶこと。自分がまだ経験していないことを、実際にやってみること。


一見、仕事とは直接関係がないように見えるそうした経験も、自分が見ている世界を広げ、人と関わるときの材料を少しずつ増やしてくれていたように思います。

今回、『人を植える道』を読み返しながら、人を育てることと、自分自身が育ち続けることは、別々のことではなかったのだと、あらためて感じています。


この講では、種をまいただけで立派な木になった例はない、ということも語られています。新人教室長を育てるにしても、子育てにしても、最初にやり方を伝えたら終わり、というわけにはいきません。続けて関わり、見守り、必要なときに声をかける。その積み重ねがあって、はじめて根が張っていきます。そして、その関わりを続けるためには、教える側自身が、同じだけ自分を広げ続けている必要があるのだと思います。自分が学び続けていなければ、相手にだけ成長を求めることはできません。


まとめです。

- 人を育てることは、教え方の技術だけでなく、育てる側の自分がどうあるかにかかっている
- 育てた成果は、すぐには見えない。見えない部分にこそ、本当の変化がある
- 一度伝えたら終わりではなく、関わり続けることで根が張っていく


あなたが今、誰かを育てる、あるいは導く立場にあるとき、その役目を引き受けてから、自分自身は何を新しく学んだり、経験したりしたでしょうか。今日、誰かに何かを教える機会があれば、その前に一つだけ、最近自分が学んだことや経験したことを思い出してみてください。相手に教える言葉の中に、その学びを一言添えてみる。それだけで、教える側と教わる側という一方通行の関係が、少し違って見えてくるかもしれません。


人を育てる前に、自分を育てる。自分自身が学び、経験を重ね、少しずつでも成長していると感じられることは、「自分は前に進んでいる」という支えにもなります。そしてその学びや経験は、身近な人のために生かしたいという気持ちにも、自然とつながっていくのだと思います。


そうして自分自身が育っていくことは、太陽の光のように、知らず知らずのうちに身近な人を照らし、その人たちの成長にもつながっていくのだと思います。見えないところで張られた根が、いつか大きな木を支えるように。


先人の言葉に学び、今日をどう生きるかを考える。修身教授録シリーズでは、森信三先生の言葉を手がかりに、私自身の経験や日々の実践を重ねながら、その教えを現代の生活や仕事にどう生かせるかを考えていきます。

 

 

【NO343|修身教授録シリーズ 第7回】

予定していた仕事を終えた。目標の数字に届いた。そんな日は、手応えを感じられます。

一方で、一日中動き回っても、思うような結果が出ない日もあります。



仕事を振り返るとき、できた件数や達成率に目が向くのは自然なことです。
ただ、数字とともに見つめたいものがあります。

その仕事を通じて、人との向き合い方や、自分が大切にする姿勢がどう育ったかということです。

今回は、思うように契約が取れなかった新卒時代の経験から、「仕事を、自分を磨く場にする」というテーマを考えます。

 

日々の仕事が、自分を育てる場になる

今回取り上げるのは、『修身教授録』に収められた講義、第一部第26講「仕事の処理」です。

この講について私が2024年に作成した読書メモには、日常の仕事への取り組みを、修養の中心として捉える趣旨が記されています。修養とは、日々の行動を通して、自分の心や人としてのあり方を磨いていくことです。

 

私はそこから、何のために働くのかという意図を持ち、目の前の仕事に向き合う大切さを受け取りました。

読書で学んだことも、人との関わりの中で実際に使ってみると、自分の理解の浅さに気づくことがあります。


相手の話を聴く。約束を守る。一つの出会いを大切にする。
そうした具体的な行動の積み重ねが、自分の姿勢を育てていくのだと思います。



仕事は毎日繰り返されます。その中に、自分を磨く機会もある。この講を手がかりに、私は自分の経験を捉え直しました。

話を聴いてもらえなかった、新卒のころ

新卒で入った会社で、私は新規法人開拓の営業をしていました。
目標は、通信回線を月に10件販売することです。


毎日、数十件の会社に飛び込み営業をかけていましたが、なかなか話を聴いてもらえませんでした。

そんなとき、学生時代からお世話になっていた経営者から、アドバイスをいただきました。
名刺交換をした人全員に、そのときの印象やエピソードを一言添えて、ハガキを送ってみたらどうか、という提案でした。

 

私は実際に、ハガキを書いて送ることを始めました。

最初は時間もお金もかかり、効率が悪いと思うこともありました。
それでも、ほかに目標を達成するよい方法が思い浮かばず、継続しました。

 

ハガキを続けて、変わったこと

続けていると、相手の反応に変化が起きました。

 

 

電話をすると、話を聴いてもらえるようになりました。

二度目に訪れたとき、邪険にされる機会も減りました。

中には、ケーキを出してくださる会社もありました。

 

 

ただし、残念ながら、その一か月で目標の10契約を取ることはできませんでした。

目標には届かなかった。その事実は、今振り返っても変わりません。

それでも、この経験から学んだことがあります。

 

 

自分の売りたいものの話をする前に、相手のことを知ること。

一つの出会いを大切にし、誠実に向き合うこと。

そこから仕事は始まる、ということです。

 

 

ハガキに相手の印象やエピソードを一言添えるには、その人とのことを考える必要があります。

誰にでも同じ言葉を並べるだけでは、その一言は生まれません。

振り返ると、この取り組みには、相手との出会いを丁寧に受け止める練習という意味もあったのだと思います。

 

仕事の中で、磨かれていたもの

仕事には、成果を出す責任があります。

私にとっても、月10契約という目標は大切でした。

時間や費用を考えて、進め方を工夫することも必要です。

 

 

そのうえで、この経験を数字だけで振り返ると、自分の中に残った大切な学びが見えにくくなります。

目標に届かなかった事実と、人との向き合い方を学べた事実。

その両方を受け止めることが、次の仕事につながるのだと思います。

 

 

相手が話を聴いてくれるようになったことは、関係の変化でした。

そして、その経験を通して、私は仕事の始まりを、相手を知り、誠実に向き合うところに見いだしました。

ここに、私なりの「仕事を、自分を磨く場にする」という意味があります。

 

 

自分の仕事には相手がいる。

その人との関わりを通じて、自分が大切にする姿勢も育っていくのです。

 

 

最近ハガキを出していませんが、名刺交換をしたら、3日以内に相手へメールを送るようにしています。

今回、この経験を振り返って、久しぶりにハガキを書いてみようと思いました。

相手との出会いを思い返しながら、言葉を選ぶ時間を持ちたいと思います。

 

まとめ

  • 日々の仕事を、自分の姿勢を育てる場として捉える。 相手への接し方や、仕事に込める意図に目を向ける。
  • 成果と、仕事を通じて学んだことを、どちらも振り返る。 目標未達の事実を受け止めながら、次に生かせる学びを見つける。
  • 相手を知り、一つの出会いを大切にする。 誠実に向き合うことを、具体的な行動にする。
     

いま向き合っている仕事の相手は、何を大切にしている人でしょうか。
最近、仕事で関わった一人に、その人との会話で印象に残ったことを一つ添えて、短いお礼のメッセージを送ってみてください。
 

メールでもハガキでも、自分が無理なく届けられる方法で構いません。
相手との具体的なやり取りを思い返すことから、その人に向けた言葉が生まれます。


仕事を、自分を磨く場にする。その機会は、今日、目の前の相手に届ける一言にもあるのだと思います。

このシリーズでは、『修身教授録』の教えを暮らしや仕事、教育、人間関係に引き寄せ、一つの問いと一つの実践を考えていきます。


※講の紹介は、私の読書メモと私自身の解釈として記しています。

 

【NO342|修身教授録シリーズ 第6回】


おはようございます。けんいちです。


「また同じことをしてしまった」

そう感じることがあります。

 

分かっていたはずなのに、直せなかった。
「次は気をつけよう」と思っても、それだけでは、いつの間にか同じことを繰り返してしまう。
私自身、そんな経験があります。


今回、『修身教授録』第二部第16講「良寛戒語」を読みながら考えたのは、
気づくことと、気づきを行動に変えることは違う

ということでした。


そして、その間をつなぐヒントが、良寛の生き方の中にあるように感じました。

 

■ 私たちは「咲いた花」だけを見てしまう
森信三先生は、この講で次のように述べています。


> 「菊の花の美しさを真に味わうのは、自ら菊をつくっている人たちです。」


素人は、花が咲いてはじめて菊に目を留めます。
けれども、自ら菊を育てている人は、まだ花の咲かない段階から、その成長を見つめ、やがて咲く花を思い描いています。


私たちは、目に見える結果や完成された姿には、すぐに注目します。
しかし、そこに至るまでの過程には、なかなか目が向きません。


仕事で成果を出している人や、何かを成し遂げた人を見ても、私たちが目にするのは、多くの場合その人の「今」の姿です。


そこに至るまで、どのような失敗をし、何を考え、どのような工夫を重ねてきたのか。
その「道行き」は、外側から見ているだけでは、なかなか分かりません。


■エアーズロックの足元に咲いていた一輪の花
高校を卒業した後、私はオーストラリアを訪れました。
エアーズロックでは、世界中から来た多くの人が、その大きな岩山に注目し、登っていました。

そのとき私は、ふと足元に咲いている一輪の花に気づきました。
そして、「もし、この花が世界に一つしかないものだとしたら、きっと多くの人がこの花を見るために集まるのだろう」と思いました。


同じ花であっても、そこにどのような意味や価値を見いだすかによって、見え方は変わります。


私たちは知らず知らずのうちに、周囲の人の意識や社会の価値観に影響され、「何を見るべきか」を決めているのかもしれません。


見えているものだけでなく、その背後にあるものにも目を向ける。
このことは、良寛という人物を見るときにも大切なのだと感じました。


■ 良寛の「童心」の後ろにあったもの
良寛というと、子どもたちと無邪気に遊ぶ「童心」の人という姿がよく知られています。


しかし森先生は、その円熟した姿だけを見るのではなく、その背後にある長い修行に目を向けます。
そして、その修行期の心構えをうかがう一つの手がかりとして紹介されているのが、「良寛戒語」です。


私はここに、「道心」と「童心」のつながりを感じました。

「道心とは、自らを磨き続ける過程であり、童心とは、その先に現れる境地である。
これは森先生の原文ではなく、私自身の解釈です。



けれども、そう捉えると、良寛の無邪気な姿も、単なる生まれ持った性格ではなく、その背後にある歩みとともに見えてきます。


■良寛は、自分の言葉をここまで細かく見ていた
「良寛戒語」には、日常の言葉や振る舞いについて、非常に細かな戒めが数多く記されています。


たとえば、言葉の多き、口の速き、問わず語り、差し出口、手柄話、自慢話、人の話の邪魔をする。
こうして並べてみると、今の自分にも思い当たることがあります。


つい話しすぎてしまう。
聞かれていないことまで話してしまう。
相手が話している途中で、言葉を挟んでしまう。


森先生は、良寛の童心の姿だけでなく、その背後にある修行を見ることの大切さを説いています。
私は、この良寛戒語を、単に理想を並べたものではなく、長い修行の中で自らの言葉や振る舞いを見つめ、気づいたことを自分への戒めとして積み重ねた「生き方の基準」のように感じました。


■気づくだけでは、人はなかなか変わらない
私も、日々の生活の中で、自分自身についてさまざまなことに気づきます。

「今回の計画は、立て方が甘かった」
「23時以降に寝ると、翌日の11時前後に眠くなる」

こうしたものは、大きな人生訓ではありません。
しかし、せっかく気づいても、そのままにしてしまえば、また同じことを繰り返します。

だから私は、
気づく。
言葉にする。
実践する。
結果を見る。
改善する。

この繰り返しを大切にしたいと思っています。

 

日常の小さな気づきを言葉として残し、自分の生活と照らし合わせながら少しずつ修正していく。
それが、自分自身の「戒語」をつくることにつながるのではないかと考えています。


■自分自身の「戒語」を一つつくる
そこで、今日の問いです。


今日の自分の言葉や行動の中で、次に変えたいことは一つ何ですか。


大きな目標でなくて構いません。
今日一日を振り返り、一つだけ気づきを選んでみてください。


そして、その気づきを、「次から私は、○○する」という一文にして書いてみます。

 

自分を責めるためではありません。
できなかったことを並べて、自分を追い詰めるためでもありません。
気づいたことを、次の行動につなげるためです。

書いた一文は、翌日に一度だけ振り返ってみる。
できたか、できなかったかを見る。
そして必要なら、また言葉を変えてみる。

そんな小さな実践を重ねていきたいと思います。

■まとめ
人は、一度の反省だけで大きく変わるわけではありません。
気づいたことを言葉にし、実践し、また振り返る。

そうした小さな積み重ねが、自分なりの「道行き」になっていくのだと思います。
花が咲いた瞬間だけを見るのではなく、まだ花の見えない時から、その成長を味わう。

私自身も、日々の気づきを一つずつ自分への戒語に変えながら、自分の歩みを大切にしていきたいと思います。

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先人の言葉に学び、今日をどう生きるかを考える。

修身教授録シリーズでは、森信三先生の言葉を手がかりに、私自身の経験や日々の実践を重ねながら、その教えを現代の生活や仕事にどう生かせるかを考えていきます。

【NO341|修身教授録シリーズ 第5回】

おはようございます。
けんいちです。

 

何かがうまくいったとき。
目標を達成したとき。
人から評価されたとき。

そんなとき、私たちはどんな気持ちになるでしょうか。


うれしいと思うのは自然なことです。
一方で、成果が積み重なるほど、知らず知らずのうちに「自分の力でここまで来た」と思ってしまうこともあるのではないでしょうか。


今回、『修身教授録』第一部第30講「謙遜と卑屈」を読みながら、改めて考えたのが、
「本当の謙遜とは何だろう」ということでした。


■ 謙遜とは、自分を小さく見せることではない
「謙遜」と聞くと、「いえいえ、私なんてまだまだです」と、自分を控えめに見せることを思い浮かべるかもしれません。しかし、森信三先生が説く謙遜は、それとは少し違います。

森先生は次のように述べています。
> 「かくして真の謙遜とは、結局はその人が、常に道と取り組み、真理を相手に生きているところから、おのずと身につくものと思うのでありまして、その時たとえ目下の人に対すればとて、傲慢な態度などには、なろうはずがないのであります。」


この言葉から私が受け取ったのは、

謙遜とは、人からどう見られるかを意識してつくる態度ではない

ということです。


自分が大切にしたい「道」や「志」と向き合っていれば、自分がどれほどできているのかも自然と見えてきます。


 

すると、必要以上に自分を大きく見せる必要もなくなる。
謙遜とは、自分を小さくすることではなく、自分より大きなものを見続けることで、自然と生まれてくる姿勢なのかもしれません。


 

■一人だけ推薦入試に合格したとき
高校受験のとき、私は推薦入試を受けました。
周囲にも受験する友人がいる中で、結果として推薦入試に合格したのは私一人でした。


もちろん、合格したことはうれしかったです。
けれども、そのときに感じたのは、「自分一人の力で合格できたわけではない」ということでした。


家族や先生、友人など、周りの人たちが応援してくれたからこそ得られた結果だと感じていました。


そして、私の受験は終わりましたが、友人たちにはまだ一般入試が残っています。
「自分は合格したから終わり」ではなく、「みんなの受験が終わるまで、自分も一緒に頑張ろう」
と思いました。


今振り返ると、この経験にも「謙遜と卑屈」に通じるものがあったように感じます。



結果だけを見れば、「自分だけ先に合格した」と考えることもできます。
けれど、その結果を支えてくれた人たちや、その先にまだ頑張っている仲間を見ることができれば、見える景色は変わります。


成果は、自分を人より上に置くためのものではない。
むしろ、「成果を得たあと、自分は何をするのか。」

そこに、その人の姿勢が表れるのではないでしょうか。


■成果が見えやすい時代だからこそ
今は、以前よりも人の成果が見えやすい時代です。

SNSを開けば、仕事の実績、資格取得、売上、新しい挑戦など、さまざまな成果が目に入ってきます。


自分自身も成果を発信する機会があります。


そうした環境では、知らないうちに、

「人より上か、下か」
「評価されているか、されていないか」

という物差しで自分を見てしまうこともあるでしょう。


しかし、「謙遜と卑屈」を読んで感じるのは、「そもそも見るべき相手が違う」ということです。


人と比べて自分を低く見ることが、謙遜なのではない。
人より成果が出たからといって、自分を大きく見る必要もない。

見るべきなのは、

自分は何を大切にして生きるのか。
その道に対して、今の自分はどうなのか。

ということではないでしょうか。


 

■謙遜と卑屈は違う
謙遜することと、自分を否定することは違います。
できたことまで「大したことではない」と否定する必要はありません。

成果が出たら、素直に喜んでいい。
努力した自分を認めてもいい。

 

そのうえで、

「周りの支えがあった」

「まだ学べることがある」

「次は何ができるだろう」

と考える。


 

自分を過大評価するのでもなく、過小評価するのでもない。
自分が目指すものに照らして、今の自分をそのまま見る。

私は、そこに真の謙遜があるように感じています。


 

■成功も失敗も、次に生かす
今回の講には、もう一つ印象に残る言葉があります。

 

> 「失敗を成功以上に生かす人間こそ、真におそるべき人間であります。」

成果が出たときに驕らない。
失敗したときに必要以上に落ち込まない。


どちらの場合も大切なのは、「ここから何を学ぶか」なのだと思います。


成功も失敗も、自分を評価するためだけの材料ではない。
自分が歩いている道を、さらに前へ進むための材料にする。
そう考えれば、成功したときにも失敗したときにも、少し落ち着いて自分を見ることができるのではないでしょうか。


■ 今日の成果を、一つだけ振り返ってみる
今日、うまくいったことを一つ思い出してみてください。

 

仕事が予定通り終わった。

誰かから感謝された。

目標を達成した。

良いアイデアが生まれた。

どんな小さなことでも構いません。

そして、二つだけ考えてみます。

「誰のおかげで、この結果につながっただろう?」
「この経験を、次にどう生かせるだろう?」

成果を否定する必要はありません。
ただ、自分一人の手柄にして終わらせず、そこからもう一歩先を見る。

そんな小さな振り返りが、謙遜という姿勢を育ててくれるのかもしれません。
成果が出たときこそ、自分が何と向き合っているのかを忘れない。
『修身教授録』第30講「謙遜と卑屈」から、私はそんなことを学びました。


先人の言葉に学び、今日をどう生きるかを考える。

修身教授録シリーズでは、森信三先生の言葉を手がかりに、私自身の経験や日々の実践を重ねながら、その教えを現代の生活や仕事にどう生かせるかを考えていきます。

【NO340|修身教授録シリーズ 第4回】

AIを使うようになって、以前よりも同時に多くの仕事を進められるようになりました。

 

一つのAIに仕事を任せている間に、別の仕事を進める。
さらに別のAIにも指示を出して、もう一つの仕事を動かす。


最初の頃、私はその方が効率的だと思っていました。


しかし、複数の仕事を同時に進めているうちに、あることに気づきました。
いろいろな仕事に取り組んでいるのに、なかなか一つの仕事が終わらないのです。


仕事が終わらなければ、頭の中には未完了の仕事が残り続けます。


「あれもやらなければ」
「こちらも途中だった」
「次はあれを確認しないと」


そんな状態が続き、気持ちにも余裕がなくなっていました。


そこで改めて思い出したのが、『修身教授録』で学んだ「一時一事」という教えでした。
一時に、一つのことをする『修身教授録』第二部第15講の題は、「一時一事」です。


私なりに受け取っている「一時一事」とは、
一時に二つ以上のことを考えたり行ったりせず、今なすべき一つのことに全力を集中すること。


森先生は、次のように述べています。

「かように、一応道理としては何人もわかっていながら、いざ実際問題となると、なかなか行えないというのは、結局道理を実行に移すための工夫の詰め方が足りないからと思うのです。」

一つずつ取り組んだ方がよい。


言われてみれば、決して難しい話ではありません。
けれども、「分かっていること」と「実際にできること」は違います。


スマートフォンには通知が届き、パソコンではいくつもの画面を開くことができ、AIを使えば複数の仕事を同時に動かすこともできます。


現代は、「一時一事」を実践することが、むしろ難しくなっているのかもしれません。



木刀を振る前に、切れた新聞紙を思い描く

去年、木刀で新聞紙を切る体験をしたことがあります。
参加者は20名ほどいましたが、時間の関係で、実際に体験できたのは私を含めて数名だけでした。


私は2番目に挑戦しました。
そのときに教えていただいたことで、今でも強く印象に残っていることがあります。


木刀を振る前に、新聞紙がすでに真っ二つに切れている姿を、頭の中に具体的に描く。
そして、そのイメージに向かって、迷わず一気に木刀を振り下ろすのです。


私も言われた通り、新聞紙が真っ二つになった姿を頭の中に描いてから木刀を振りました。
すると、一発できれいに新聞紙を両断することができました。


今振り返ると、この体験にも「一時一事」に通じるものがあったように感じます。
余計なことを考えるのではなく、まず、どうなりたいのかを描く。
そして、目の前の一つに意識を集中する。


仕事でも同じなのではないかと思うようになりました。



AIで仕事を増やしたら、仕事が終わらなくなった

AIは、とても便利です。
人間が一つの仕事をしている間にも、別の仕事を進めてもらうことができます。

 

だから私は、「同時に多くの仕事を進めた方が効率がいい」と考えていました。

 

ところが、AIが複数の仕事を進められることと、私自身が複数の仕事を同時に考えられることは別でした。

 

一つの仕事を確認している途中で、別の仕事が気になる。
別のAIから回答が返ってくれば、そちらを確認する。
すると、今まで考えていたことが一度途切れます。


また元の仕事に戻って、どこまで考えていたかを思い出す。


そんなことを繰り返していると、複数の仕事が動いているように見えても、なかなか一つの仕事が完成しません。


結果として、仕事を抱えている時間が長くなり、気持ちにも余裕がなくなっていました。そこで私は、マルチタスクをやめることにしました。


今日やることを「3つまで」にする

今は、その日にやりたいことを3つまでに絞るようにしています。
そして、その中から優先順位と緊急度の高いものを決めます。
一番大切なものから、一つずつ終わらせる。それが終わったら、次の仕事へ進む。


とても単純な方法です。
けれども、この方法に変えてから、いくつかの変化を感じるようになりました。


まず、考えがまとまりやすくなりました。一つの仕事について考え続けられるため、途中で思考が分断されにくくなります。
 

その結果、成果物の完成度も上がったと感じています。


さらに、一つずつ終わらせていくことで、結果的には仕事を終える時間も早くなりました。


以前は、複数の仕事がどれも途中のまま残っていました。
今は、優先順位の高い仕事から一つずつ「完了」に変わっていきます。


そのことによって、気持ちにも余裕が生まれました。
そして、もう一つ感じている変化があります。
それは、仕事を通して得た知識や経験が、自分の中に残りやすくなったことです。


一つの仕事に集中し、最後まで考え、完成させる。
その一連の過程をしっかり経験するからこそ、そこで考えたことや学んだことも自分の中に残りやすいのだと思います。


「集中する」だけではなく、自分を整える


「一時一事」というと、ただ気合いを入れて一つのことに集中する話のようにも聞こえます。


しかし、私はそれだけではないと感じています。
目の前の一つに集中するためには、何を優先するのかを、まず決めておく必要があります。そして、自分自身の状態を知ることも大切です。


朝は何時に起きると調子がよいのか。

どの時間帯に運動すると集中しやすいのか。

何時頃までに寝れば、翌日の仕事に集中できるのか。


最近は、就寝時間や運動する時間なども少しずつ調整しながら、自分が一つのことに集中しやすい状態を探っています。


一時一事を実践するとは、一つのことだけを見ることではなく、一つのことに向かえる自分をつくることでもある。


今はそのように考えています。


AI時代だからこそ、人間は「一時一事」でいい


AIの進化によって、これから私たちはさらに多くの仕事を同時に動かせるようになるしょう。


AIには、複数の作業を並行して任せてもいい。
けれども、人間まで同時に何もかも考え続ける必要はないのではないでしょうか。


人間がやるべきことは、何を優先するのかを決める。終わった状態を描く。

そして、今やるべき一つに集中する。終わったら、次へ進む。

 

その方が、私の場合は考えがまとまり、仕事も早くなり、成果物の質も上がりました。そして何より、仕事を一つずつ終えていくことで、心にも余裕が生まれました。


AIによって「同時にできること」が増えた今だからこそ、森先生の説かれた「一時一事」というシンプルな教えの意味を、私は改めて感じています。
 

最近、「いろいろやっているのに、なぜか何も終わらない」という日になってはいないでしょうか。


もし思い当たることがあれば、明日は最初に、「今日、終わらせたいこと」を3つまで書き出してみる。
 

そして、一番大切な一つが終わるまで、次には手を出さない。
まず一日だけでも、「一時一事」を試してみてはいかがでしょうか。


先人の言葉に学び、今日をどう生きるかを考える。

修身教授録シリーズでは、森信三先生の言葉を手がかりに、私自身の経験や日々の実践を重ねながら、その教えを現代の生活や仕事にどう生かせるかを考えていきます。

【NO339|修身教授録シリーズ 第3回】


こんにちは。けんいちです。

「自分がやった方が早い」

子どもに何かを教えるとき。
仕事で誰かと一緒に進めるとき。
誰かが慣れていない作業をしているとき。


そんなふうに思ったことはありませんか。


確かに、自分が慣れていることなら、自分でやってしまった方が早いこともあります。
けれど、すべて自分でやってしまえば、相手が考えたり、試したり、できるようになったりする機会までなくなってしまうかもしれません。


今回は、『修身教授録』第一部第29講「対話について」から、相手の力を引き出すための関わり方について考えてみたいと思います。


■対話では、まず相手の話を聞く
『修身教授録』第一部第29講「対話について」を読んで、私が特に心に残ったのは、「なるべく、聞き役に回る」という姿勢でした。


私たちは「対話」というと、自分の考えを上手に伝えることを思い浮かべがちです。


何を話せば伝わるだろう。
どう説明すれば理解してもらえるだろう。
どうすれば相手を納得させられるだろう。


もちろん、伝えることも大切です。
しかし、対話の相手は人です。


その人が何を考えているのか。
何をしたいと思っているのか。
どこまで分かっているのか。
何を大切にしているのか。


それを知らないまま、自分の考えだけを伝えても、本当の意味で相手と向き合うことにはならないのだと思います。
相手を知るためには、まず聞く。


聞くことは、ただ黙っていることではありません。
相手に関心を持ち、その人の中にある考えや力を知ろうとすることではないでしょうか。


■娘たちと組み立て家具を作ったとき
私は、教育では体験することが大切だと考えています。

そのため、子どもたちには、できるだけいろいろなことを実際に経験してもらいたいと思っています。


あるとき、家で組み立て家具を購入しました。
最初は、私一人で組み立てようと考えていました。
けれど、ねじの回し方や部品の固定の仕方なども、実際に経験しておけば、いつか何かの役に立つかもしれないと思いました。


そこで娘二人に、「一緒にやる?」と聞いてみました。
二人とも「やる」と言ったので、一緒に家具を組み立てることにしました。



■教えた後に、「次はどうする?」と聞いてみる
最初に、板を固定するときのねじの留め方を教えました。
一か所のねじを最初から強く締め切るのではなく、まず仮止めする。
そして、次は対角線上のねじを留める。
そうすることで、板を調整しながら固定しやすくなります。


最初の板では、私がやり方を伝えました。
そして次の板を取り付けるとき、すぐに答えを教えるのではなく、「次はどうする?」と聞いてみました。
すると娘たちは、一か所を仮止めしたあと、次は対角線上のねじを留めることを理解していました。


私が全部やってしまえば、家具はもっと早く完成したと思います。
でも、それでは子どもたちが自分で考え、自分でできるようになる機会は生まれませんでした。


■相手の中にある力が表に出てくる
この経験から、改めて感じたことがあります。
相手の力を引き出すというと、こちらが何か特別な能力を与えるように聞こえるかもしれません。
でも、そうではないのだと思います。


娘たちの中には、もともと、

 

「やってみたい」
「自分でできるようになりたい」

という気持ちがありました。


私は、その気持ちを聞き、安全に作業できるように必要なことを伝え、その後は自分たちで考える余地を残しただけです。
すると、娘たちは集中して家具を組み立て、ねじの留め方も覚えていきました。


この経験が直接の理由かどうかは分かりませんが、二人とも手先が器用で、工作も好きです。


子どもの「やってみたい」という気持ちを聞き、できることは任せてみる。
そうすることで、その子の中にある力が表に出てくることがあるのだと思います。


■教えることは、すべて答えを与えることではない
私はこの経験から、教えることについても考えさせられました。

教える側になると、つい、

「こうすればいいよ」
「次はこれをやって」
「これはこうするんだよ」

と、答えを先に伝えたくなります。


もちろん、安全のために教えなければならないことや、最初に伝える必要があることもあります。
けれど、必要なことを伝えた後は、

「どうしたい?」
「次はどうする?」

と聞いてみる。


そして、すぐに答えを出さず、相手が考える時間を待ってみる。
そこに、相手の力が発揮される余地が生まれるのではないでしょうか。


■相手を生かすことで、自分も教えられる
娘たちと家具を作った経験は、子どもたちに何かを教えただけの時間ではありませんでした。

私自身も、

「教えるとは何だろう」
「任せるとは何だろう」

と考える機会をもらいました。


 

相手を生かすとは、こちらがすべてをしてあげることではありません。
 

まず相手の話を聞く。
必要なことを伝える。
問いかける。
待つ。

そして、できることは任せてみる。


相手の力が表に出てくる姿を見ることで、自分自身もまた学ばせてもらう。
人との関係とは、一方がもう一方を育てるだけではなく、互いに影響を与えながら育っていくものなのかもしれません。


■今日のポイント
・相手を知るには、まず自分が話すより聞く
・必要なことを伝えたら、相手が考え、挑戦する余地を残す
・相手の力が発揮される姿から、自分自身も学ぶことができる


■今日の問い
あなたは、身近な人の話を聞く前に、自分の答えを伝えてしまっていませんか。


■今日の小さな実践
今日、誰かと話すとき、自分の意見をすぐに伝える前に、一つだけ質問して、相手の話を聞いてみてください。

「どうしたい?」
「次はどうする?」

そんな短い問いでも構いません。
そして、すぐに答えを教えず、少しだけ相手が考える時間をつくってみましょう。


第1回では、新しい出会いを学びの始まりにすることについて考えました。
第2回では、出会った人の生き方や判断の軸から学ぶことについて考えました。
そして今回は、相手の話を聞き、その人が持っている力が生きる関わりについて考えました。

出会う。
学ぶ。
そして、互いの力を生かし合う。

人との関係は、こうして少しずつ深まっていくのかもしれません。
まずは、目の前の人の話を聞くことから。
そこから、自分一人では気づけなかった新しい学びが始まるのだと思います。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【NO338|修身教授録シリーズ 第2回】

こんにちは。けんいちです。

この人から、もっと学びたい」と感じたことはありますか。

 

仕事や地域活動、学びの場などで、多くの人と出会います。

知識が豊富な人。
話が上手な人。
社会で活躍している人。

そうした人から学べることは、たくさんあります。

 

 

しかし、その一方で、持っている知識や技術以上に、

「この人から、もっと学びたい」
「自分も、この人のようになりたい」

と感じる相手に出会うことがあります。

 

 

なぜ、そのように感じるのでしょうか。

今回は、『修身教授録』第一部第19講「松陰先生の片鱗」から、人との出会いを、自分の生き方へ活かす学びについて考えます。

 

 

■松陰先生は、弟子を見下さなかった

『修身教授録』の中で、森信三先生は、吉田松陰先生について語っています。

松陰先生というと、国を思う強い志を持ち、信じた道を貫いた厳しい人物という印象を持つ人も多いのではないでしょうか。

 

 

ところが、実際の松陰先生は、弟子や子どもたちに対して、とても穏やかで優しい人だったといいます。

 

 

弟子を大声で叱ることはなく、言葉遣いも丁寧でした。

小さな子どもが帰るときには、自ら荷物を肩にかけてあげ、「無事に帰って、明日またおいでよ」と声をかけたという逸話も紹介されています。

 

 

松陰先生の強さの奥には、相手を大切にする深い優しさがあったのです。

 

 

■教師も生徒も、共に道を求める者

この講の中で、私が特に心に残ったのが、次の一文です。

 

 

「求道者たる点では、自分と生徒たちとの間に、何らの区別もない。」

『修身教授録』第一部第19講「松陰先生の片鱗」131ページ・第5段落

 

 

求道者とは、自分の進むべき道を求め、学び続ける人です。

教師だから完成している。
生徒だから未熟である。

そのように、立場だけで人を上下に分けるのではありません。

 

 

教師自身も、まだ道の途中にいる一人の人間です。

生徒もまた、少し後ろから同じ道を歩いている存在であり、やがて教師に追いつき、さらには教師を越えていく可能性を持っています。

 

 

だからこそ、松陰先生は弟子を見下さず、一人の人間として丁寧に接したのでしょう。

 

 

■学びたいと思わせる人は、相手を見下さない

私たちは、誰からでも学ぶことができます。

しかし、「この人から、もっと学びたい」と思える相手には、共通するものがあるように思います。

 

 

それは、知識を一方的に与えるのではなく、相手の可能性を信じていることです。

 

 

自分の立場や実績を振りかざさない。
自分だけが正しいと思わない。
相手を未熟な存在として見下さない。

 

 

自分自身も学び続けながら、相手と共に道を歩もうとする。

その姿勢に触れたとき、人は教えられた内容以上のものを受け取るのではないでしょうか。

 

 

■私が「この人のようになりたい」と思った経営者

私が「この人からもっと学びたい」「この人のようになりたい」と感じた相手は、最初の就職先である株式会社フォーバルの大久保会長です。

 

 

私が大久保会長のようになりたいと思ったのは、自分が正しいと思ったことを貫き、現実を変えていった経営者だったからです。

同時に、出会った一人ひとりを、とても大切にする経営者でもありました。

 

 

強い信念を持つことと、人を大切にすること。

この二つは、決して反対のものではありません。

むしろ、本当に自分の信じる道を歩んでいる人ほど、目の前の一人を大切にできるのかもしれません。

 

 

私は、大久保会長のように、新しい当たり前を世の中に生み出し、出会った人を幸せにできる経営者になりたいと思いました。

 

 

■小手先の技術ではなく、判断の軸を学ぶ

大久保会長が大切にしていたのは、小手先のテクニックではありませんでした。

「人として正しいことは何か」という考え方や哲学です。

 

 

その出会いを通じて、私も考えるようになりました。

 

自分は何者なのか。
自分は何を為すのか。
何のために働くのか。
何のために学ぶのか。

 

人から学ぶとは、その人と同じ話し方や仕事の進め方を真似することだけではありません。

 

その人が何を信じているのか。
迷ったとき、何を基準に決めているのか。
人に対して、どのように向き合っているのか。

 

その判断の軸を受け取り、自分自身の生き方を問い直すことだと考えています。

 

 

■出会いを、自分の生き方に活かす

尊敬する人の生き方を、そのまま再現することはできません。

歩んできた時代も、置かれている環境も、担っている役割も違います。

 

 

大切なのは、その人から受け取ったものを、自分の人生の中で実践することです。

私は、大久保会長と同じ方法を繰り返したいのではありません。

 

 

「人として正しいことは何か」を問い続け、自分が正しいと信じることを、現実の中で形にしていきたい。

そして、出会った一人ひとりを大切にしたい。

 

 

そのように自分の行動へ変えていくことが、出会った人から学ぶということだと思います。

 

 

■今日のポイント

・人から学ぶ対象は、知識や技術だけではない
・その人が大切にしている判断の軸に目を向ける
・学んだことを、自分自身の行動へ変えていく

 

 

■今日の問い

あなたが、「この人からもっと学びたい」、「この人のようになりたい」と感じた相手は誰ですか。

その人の、どのような生き方や判断の軸に惹かれましたか。

 

 

■今日の小さな実践

最近出会った人について、「この人の生き方や姿勢から、何を学べるだろう」と考えてみてください。

そして、気づいたことを一つだけ書き留めてみましょう。

 

 

前回は、挨拶を通じて、新しい出会いを学びの始まりにすることについて考えました。

今回は、出会った人の生き方から何を受け取り、自分の行動へ活かすかを考えました。

 

 

出会いは、相手を知るだけで終わるものではありません。

その人から受け取ったものを、自分の生き方へ活かすとき、その出会いは人生を導く学びになるのだと思います。

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【NO337|修身教授録シリーズ 第1回】

おはようございます。けんいちです。
前回までの「日本教育100年の歴史シリーズ」では、日本の教育の歩みを振り返ってきました。

今回から、新しく「修身教授録シリーズ」を始めます。

森信三先生の『修身教授録』を手がかりに、日々の暮らしや仕事、人との関わりに生かせる学びを、一講ずつ丁寧に考えていきます。

このシリーズで大切にしたいのは、「一講一問、一講一実践」です。

教えを知るだけで終わらせず、自分の生き方を振り返る一つの問いと、今日から試せる一つの実践につなげていきます。

このシリーズの開始に先立ち、以前の記事では、『修身教授録』第二部第二講「立志」から、迷ったときに自分の選択を支える軸を持つことについて考えました。

シリーズ第1回となる今回は、第二部第一講「挨拶」を取り上げ、新しい出会いをどのように受け止め、学びへつなげていくかを考えます。

新しい学年、新しいクラス、新しい先生や友達。子どもの生活には、環境が変わるたびに、さまざまな出会いがあります。

大人にも、職場、地域活動、子どもの学校、学びの場などで、新しい人と関わる機会があります。

私たちは、そうした出会いを「たまたま同じ場所にいただけ」と受け止めてしまうことが多いと思います。

けれども、同じ学校に通うことになった友達、同じ職場で働くことになった人、地域や学びの場で知り合った人との出会いは、本当に「偶然」だけで終わるものなのでしょうか。

『修身教授録』第二部第一講「挨拶」には、目の前の人との出会いを、どのように受け止めるかを考える手がかりがあります。

この講で語られているのは、礼儀作法としての挨拶ではありません。森信三先生が、学年の始めに、これから一年間を共に過ごす学生たちへ語った「挨拶の言葉」です。

森先生は、自分が学生たちの担任になったことは思いがけないことであったと振り返ります。そのうえで、学生がその学校へ入学したこと、自分がその学校で教えていること、そして一年間を共に過ごすことについて、次のように述べています。

> 「そのいずれもがすべては因縁であって、深く考えれば、自分の力で得たことは何一つとしてないんです。」

「因縁」という言葉は、少し難しく感じられるかもしれません。

ここでは、すべてがあらかじめ決められていたという意味ではなく、自分だけの力では説明できない、多くの人や出来事の重なりによって、今の出会いが生まれていると受け取ると分かりやすいでしょう。

世界中に多くの人がいる中で、同じ時代に生まれ、同じ学校、職場、地域、活動の場で時間を共にする人は、ごく限られています。

そう考えると、同じクラスになったこと、同じ活動に参加したこと、今日その人と言葉を交わしたことは、かけがえのないめぐり合わせにも思えてきます。

私自身の人生を振り返っても、一人との出会いが、その後の進路を大きく変えた経験があります。

高校時代、陸上部の部長だったN君から、ワーキングホリデーという制度があることを教えてもらいました。

それまでの私は、高校を卒業した後に海外の同世代がどのように進路をきめているか確かめてから自分の進路を決めるという選択肢はありませんでした。

しかし、N君から話を聞いたことで、自分の前に、それまで見えていなかった道が現れました。

「高校を卒業したら、すぐにオーストラリアへ行こう」

そう決断し、私は実際にオーストラリアへ向かいました。

もしN君と出会っていなければ、ワーキングホリデー制度をその時期に知ることも、高校卒業後すぐに海外へ行くこともなかったと思います。

オーストラリアでの生活では、日本にいるだけでは出会えなかった人々や考え方に触れました。自分にとっての当たり前が、世界のどこでも同じとは限らないことも知りました。

この経験は、私の人生観を大きく変えました。

N君との出会いは、制度についての情報を得ただけの出来事ではありません。その一言が新しい選択肢を生み、私が行動したことで、人生を変える経験へとつながったのです。

出会いそのものを選ぶことはできない場合があります。

しかし、その人の言葉をどう受け止めるか、そこから何を学び、どのように行動するかは、自分で選ぶことができます。

同じ場所にいるだけでは、出会いは深まりません。

相手の話を聞く。何が好きなのかを知ろうとする。自分とは違う考え方にも耳を傾ける。困っているときには声をかける。

そうして目の前の相手に関心を持ち、大切に接することが、その出会いを生かす第一歩になります。

相手を大切にすることは、自分を我慢させたり、無理に相手へ合わせたりすることではありません。

自分の気持ちも大切にしながら、相手の考えや立場も尊重する。そのような関わりの中で、互いに安心して自分らしさを出せる関係が育ちます。そして、その関係の中で、自然と学びも深まっていきます。

子どもが新しい友達について話したとき、親はつい、

「仲よくできた?」

「ちゃんと挨拶した?」

と確認したくなります。

その前に、

> 「友達はできた? 良かったね。名前は何ていうの? 〇〇さんは、どんな遊びが好きなの?」

と聞いてみるのも一つです。

子どもが目の前の相手に興味を持ち、その人を一人の大切な存在として見るきっかけになるかもしれません。

森先生は、学生が自分から学ぶだけではなく、自分も学生との関わりから、他では得られないものを受け取らなければならないと語っています。

教える人だけが与え、学ぶ人だけが受け取るのではありません。人と人が関われば、双方が相手から何かを受け取り、少しずつ成長していきます。

今日出会った人から、自分は何を受け取ったでしょうか。

知らなかったことを教えてもらった。声をかけてもらい、少し安心した。自分とは違う考え方に気づいた。相手の姿を見て、自分もやってみようと思った。

大きな学びでなくても構いません。

目の前の相手を大切にし、自分の気持ちも大切にする。その関わりから受け取ったものを一つ残すことが、何気ない出会いを、自分を生かし、育ててくれる経験へ変えていきます。

森先生は、思いがけず学生たちと一年間を共にすることになっためぐり合わせを、互いの成長に生かそうとしました。

出会いは、たまたまかもしれません。しかし、その出会いから何を受け取り、これからの自分にどう生かすかは、私たち自身が選ぶことができます。

新しい出会いを大切に受け止めること。それが、自分だけでは得られなかった学びを受け取り、互いを生かし合う関係を始める一歩になるのだと思います。

今日のポイントです。

・私たちの出会いは、多くの人や出来事が重なって生まれている
・出会った人の言葉をどう受け止め、どう行動するかによって、その後の人生は変わり得る
・相手から何を受け取り、これからの自分にどう生かすかは、自分で選ぶことができる

今日出会った人から、あなたは何を受け取ったでしょうか。

今日関わった人を一人思い浮かべ、その人から教えてもらったことや、心に残ったことを一つ振り返ってみてはいかがでしょうか。

そして、そこから自分にできる小さな行動を一つ考えてみてください。

小さな気づきを行動へ移すことが、何気ない出会いを、自分を育ててくれる学びへ変える最初の一歩になります。

今日も、小さな学びを一緒に重ねていきましょう。

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こんばんは。けんいちです。
今回で「日本教育100年の歴史シリーズ」は、第36回、最終回を迎えます。


明治5年の学制から現代まで、日本の教育がどのように歩んできたのかを、35回にわたって振り返ってきました。


最終回となる今回は、制度や年代をもう一度順番に紹介するのではなく、この連載を通して私自身が何を学び、教育に対する考えがどのように深まったのかを振り返ります。


ここまで読んでくださった皆さまに、心から感謝いたします。


36回の連載を終えるにあたって
このシリーズは、日本の教育制度や教育を取り巻く社会の変化を知るところから始まりました。


過去の教育を知ることで、現在の教育がどのように形づくられてきたのかを理解したい。そして、その中から、今の家庭、学校、地域、仕事に生かせる学びを見つけたいと考えていました。


連載を続ける中で、私の関心は、制度がどのように変わったのかという問いから、次第に別の問いへと広がっていきました。


それは、

「教育は何のためにあるのか」
「人は、どのように育っていくのか」
「私たちは、どう生きていくのか」

という問いです。


制度の歴史から始まった連載
連載の前半では、明治5年に始まった学制や、当時の就学率の伸び悩み、授業料、子どもの労働、女子教育をめぐる社会的な課題などを振り返りました。


その後も、戦前と戦後の教育制度の変化、高度経済成長を支えた教育、時代ごとに行われてきた教育改革などを取り上げてきました。


そこから見えてきたのは、教育制度が、その時代の社会や国のあり方と深く結びついているということです。


社会が必要とする人材や、子どもたちに身につけてほしい力が変われば、教育の内容や方法も変わります。


一方で、制度や政策だけをたどっても、「教育は何のためにあるのか」という問いには、十分に答えられません。


教育制度の変化を知ることは大切です。しかし、それと同時に、その制度の中で人が何を学び、どのように生きていくのかを考えることも必要だと感じるようになりました。


問い・志・環境へ深まった教育のテーマ
第19回以降、私の関心は、制度の歴史をたどることから、「問いを持つ力」へと次第に移っていきました。


知識を教えることだけが教育ではありません。


本人の中にある疑問や関心に気づき、自分で考えるきっかけをつくることも教育です。


さらに連載では、「志」について考えるようになりました。


何を学ぶのかだけでなく、なぜ学ぶのか。

どのような人生を歩みたいのか。

その問いに向き合うことが、学び続けるための軸になります。


また、学校や組織を選ぶときは、設備や条件だけでなく、その場が「何を大切にしているか」を見ることが重要だと学びました。


人は、環境が豊かであるだけで変わるのではありません。


その場所が目指しているものや、そこでの自分の役割に気づいたとき、人は力を発揮しやすくなります。


AIが情報を整理し、答えを示してくれる時代だからこそ、自分で問いを持ち、考え、選び、行動する軸が必要です。


何をAIに任せ、何を自分で決めるのか。


それを判断する力も、これからの教育に欠かせないものだと思います。


自分を修めるという学びへ
連載の後半では、『修身教授録』を手がかりに、自分で自分を育てることについて考えるようになりました。


第32回で取り上げた「自修」は、一人で勉強することだけを意味するものではありません。


誰かに見られていない時間を、どのように過ごすのか。


学んだことを、その場限りで終わらせず、日々の生活でどのように実践するのか。


自分の行動を振り返り、少しずつ自分を整えていく姿勢が、自修なのだと受け取りました。


第35回で扱った「立志」からは、自分の進む方向を定めることの大切さを学びました。


迷ったときに、何を基準に選ぶのか。


困難に出会ったときに、何のために続けるのか。


自分の中に志があれば、それが選択や行動を支える軸になります。


志を持ち、自分を修め続けることは、子どもだけに必要なものではありません。


大人になってからも、自分の生き方を問い直し、学び続けることが大切です。


私が受け取った教育の原点
日本教育100年の歩みを振り返る中で、私は、教育は知識や能力を身につけるためだけのものではなく、人間形成に近いものだと考えるようになりました。


教育は生き方の設計である。


そのことを、この連載を通して強く感じています。


教育とは、どのように生きるかを考え、自分の生き方をつくっていくための土台です。


自分は何を大切にしたいのか。
どのような人になりたいのか。
自分の力を、誰のために、どのように生かしたいのか。


こうした問いに向き合いながら、自分で考え、選び、行動する軸を育てていくことが、教育の大切な役割だと思います。


そして、教育は子どもだけのものではありません。


大人もまた、日々の経験から学び、自分自身を育てていく存在です。


また、同じ方向を目指す仲間と、それぞれの得意を生かし合うことで、人はより輝くことができます。


一人ですべてをできるようになる必要はありません。


互いの違いを認め、それぞれの力を持ち寄ることで、一人ではできないことを実現できます。


人の中にある可能性を見つけ、それを磨き、仲間や社会とつなげていく。


それが、35回の連載を通して私が受け取った教育の原点です。


これは、日本教育史全体が一つの方向へ変化したという意味ではありません。


あくまで、過去の教育を学ぶ中で、私自身の問いと関心が、制度から人間形成や生き方へと深まっていったということです。


これからの学びへ
教育とは、自分がどう生きるかを決めるための下地になるものです。


自分で考え、選び、行動するための軸を育てることは、時代が変わっても必要な「生きる力」だと思います。


そして、教育を学校だけに任せるのではなく、家庭、地域、職場を含めた社会全体で人を育てていくという意識を持つことも大切です。


私自身も、まずは自分がいる場所で、自分にできることを実践していきます。

身近な人の可能性を見つけること。
相手の話を聴き、考えるきっかけとなる問いを届けること。
仲間と互いの得意を生かし合うこと。

そうした小さな行動を積み重ねながら、これからも自分のいる場所で一隅を照らしていきたいと思います。


今日のポイント
教育は、知識や能力を身につけるだけでなく、人がどう生きるかを支える営みである

環境の豊かさだけでなく、その場が何を大切にしているかが、人を育てる

自分で考え、選び、行動する軸を育てることが、時代が変わっても必要な生きる力になる

あなたにとって、教育とは、どのような生き方を支えるものでしょうか。


家庭、学校、地域、職場など、今いる場所で自分が大切にしたいことを、一つ言葉にしてみてはいかがでしょうか。


「日本教育100年の歴史シリーズ」は、今回で完結します。

これまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

次回からは、『修身教授録』を手がかりにした新しい「修身教授録シリーズ」を始めます。

日々の暮らしや仕事、人との関わりに生かせる学びを、これからも一緒に考えていきます。

今日も、小さな学びを一緒に重ねていきましょう。

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