【NO337|修身教授録シリーズ 第1回】

おはようございます。けんいちです。
前回までの「日本教育100年の歴史シリーズ」では、日本の教育の歩みを振り返ってきました。

今回から、新しく「修身教授録シリーズ」を始めます。

森信三先生の『修身教授録』を手がかりに、日々の暮らしや仕事、人との関わりに生かせる学びを、一講ずつ丁寧に考えていきます。

このシリーズで大切にしたいのは、「一講一問、一講一実践」です。

教えを知るだけで終わらせず、自分の生き方を振り返る一つの問いと、今日から試せる一つの実践につなげていきます。

このシリーズの開始に先立ち、以前の記事では、『修身教授録』第二部第二講「立志」から、迷ったときに自分の選択を支える軸を持つことについて考えました。

シリーズ第1回となる今回は、第二部第一講「挨拶」を取り上げ、新しい出会いをどのように受け止め、学びへつなげていくかを考えます。

新しい学年、新しいクラス、新しい先生や友達。子どもの生活には、環境が変わるたびに、さまざまな出会いがあります。

大人にも、職場、地域活動、子どもの学校、学びの場などで、新しい人と関わる機会があります。

私たちは、そうした出会いを「たまたま同じ場所にいただけ」と受け止めてしまうことが多いと思います。

けれども、同じ学校に通うことになった友達、同じ職場で働くことになった人、地域や学びの場で知り合った人との出会いは、本当に「偶然」だけで終わるものなのでしょうか。

『修身教授録』第二部第一講「挨拶」には、目の前の人との出会いを、どのように受け止めるかを考える手がかりがあります。

この講で語られているのは、礼儀作法としての挨拶ではありません。森信三先生が、学年の始めに、これから一年間を共に過ごす学生たちへ語った「挨拶の言葉」です。

森先生は、自分が学生たちの担任になったことは思いがけないことであったと振り返ります。そのうえで、学生がその学校へ入学したこと、自分がその学校で教えていること、そして一年間を共に過ごすことについて、次のように述べています。

> 「そのいずれもがすべては因縁であって、深く考えれば、自分の力で得たことは何一つとしてないんです。」

「因縁」という言葉は、少し難しく感じられるかもしれません。

ここでは、すべてがあらかじめ決められていたという意味ではなく、自分だけの力では説明できない、多くの人や出来事の重なりによって、今の出会いが生まれていると受け取ると分かりやすいでしょう。

世界中に多くの人がいる中で、同じ時代に生まれ、同じ学校、職場、地域、活動の場で時間を共にする人は、ごく限られています。

そう考えると、同じクラスになったこと、同じ活動に参加したこと、今日その人と言葉を交わしたことは、かけがえのないめぐり合わせにも思えてきます。

私自身の人生を振り返っても、一人との出会いが、その後の進路を大きく変えた経験があります。

高校時代、陸上部の部長だったN君から、ワーキングホリデーという制度があることを教えてもらいました。

それまでの私は、高校を卒業した後に海外の同世代がどのように進路をきめているか確かめてから自分の進路を決めるという選択肢はありませんでした。

しかし、N君から話を聞いたことで、自分の前に、それまで見えていなかった道が現れました。

「高校を卒業したら、すぐにオーストラリアへ行こう」

そう決断し、私は実際にオーストラリアへ向かいました。

もしN君と出会っていなければ、ワーキングホリデー制度をその時期に知ることも、高校卒業後すぐに海外へ行くこともなかったと思います。

オーストラリアでの生活では、日本にいるだけでは出会えなかった人々や考え方に触れました。自分にとっての当たり前が、世界のどこでも同じとは限らないことも知りました。

この経験は、私の人生観を大きく変えました。

N君との出会いは、制度についての情報を得ただけの出来事ではありません。その一言が新しい選択肢を生み、私が行動したことで、人生を変える経験へとつながったのです。

出会いそのものを選ぶことはできない場合があります。

しかし、その人の言葉をどう受け止めるか、そこから何を学び、どのように行動するかは、自分で選ぶことができます。

同じ場所にいるだけでは、出会いは深まりません。

相手の話を聞く。何が好きなのかを知ろうとする。自分とは違う考え方にも耳を傾ける。困っているときには声をかける。

そうして目の前の相手に関心を持ち、大切に接することが、その出会いを生かす第一歩になります。

相手を大切にすることは、自分を我慢させたり、無理に相手へ合わせたりすることではありません。

自分の気持ちも大切にしながら、相手の考えや立場も尊重する。そのような関わりの中で、互いに安心して自分らしさを出せる関係が育ちます。そして、その関係の中で、自然と学びも深まっていきます。

子どもが新しい友達について話したとき、親はつい、

「仲よくできた?」

「ちゃんと挨拶した?」

と確認したくなります。

その前に、

> 「友達はできた? 良かったね。名前は何ていうの? 〇〇さんは、どんな遊びが好きなの?」

と聞いてみるのも一つです。

子どもが目の前の相手に興味を持ち、その人を一人の大切な存在として見るきっかけになるかもしれません。

森先生は、学生が自分から学ぶだけではなく、自分も学生との関わりから、他では得られないものを受け取らなければならないと語っています。

教える人だけが与え、学ぶ人だけが受け取るのではありません。人と人が関われば、双方が相手から何かを受け取り、少しずつ成長していきます。

今日出会った人から、自分は何を受け取ったでしょうか。

知らなかったことを教えてもらった。声をかけてもらい、少し安心した。自分とは違う考え方に気づいた。相手の姿を見て、自分もやってみようと思った。

大きな学びでなくても構いません。

目の前の相手を大切にし、自分の気持ちも大切にする。その関わりから受け取ったものを一つ残すことが、何気ない出会いを、自分を生かし、育ててくれる経験へ変えていきます。

森先生は、思いがけず学生たちと一年間を共にすることになっためぐり合わせを、互いの成長に生かそうとしました。

出会いは、たまたまかもしれません。しかし、その出会いから何を受け取り、これからの自分にどう生かすかは、私たち自身が選ぶことができます。

新しい出会いを大切に受け止めること。それが、自分だけでは得られなかった学びを受け取り、互いを生かし合う関係を始める一歩になるのだと思います。

今日のポイントです。

・私たちの出会いは、多くの人や出来事が重なって生まれている
・出会った人の言葉をどう受け止め、どう行動するかによって、その後の人生は変わり得る
・相手から何を受け取り、これからの自分にどう生かすかは、自分で選ぶことができる

今日出会った人から、あなたは何を受け取ったでしょうか。

今日関わった人を一人思い浮かべ、その人から教えてもらったことや、心に残ったことを一つ振り返ってみてはいかがでしょうか。

そして、そこから自分にできる小さな行動を一つ考えてみてください。

小さな気づきを行動へ移すことが、何気ない出会いを、自分を育ててくれる学びへ変える最初の一歩になります。

今日も、小さな学びを一緒に重ねていきましょう。

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こんばんは。けんいちです。
今回で「日本教育100年の歴史シリーズ」は、第36回、最終回を迎えます。


明治5年の学制から現代まで、日本の教育がどのように歩んできたのかを、35回にわたって振り返ってきました。


最終回となる今回は、制度や年代をもう一度順番に紹介するのではなく、この連載を通して私自身が何を学び、教育に対する考えがどのように深まったのかを振り返ります。


ここまで読んでくださった皆さまに、心から感謝いたします。


36回の連載を終えるにあたって
このシリーズは、日本の教育制度や教育を取り巻く社会の変化を知るところから始まりました。


過去の教育を知ることで、現在の教育がどのように形づくられてきたのかを理解したい。そして、その中から、今の家庭、学校、地域、仕事に生かせる学びを見つけたいと考えていました。


連載を続ける中で、私の関心は、制度がどのように変わったのかという問いから、次第に別の問いへと広がっていきました。


それは、

「教育は何のためにあるのか」
「人は、どのように育っていくのか」
「私たちは、どう生きていくのか」

という問いです。


制度の歴史から始まった連載
連載の前半では、明治5年に始まった学制や、当時の就学率の伸び悩み、授業料、子どもの労働、女子教育をめぐる社会的な課題などを振り返りました。


その後も、戦前と戦後の教育制度の変化、高度経済成長を支えた教育、時代ごとに行われてきた教育改革などを取り上げてきました。


そこから見えてきたのは、教育制度が、その時代の社会や国のあり方と深く結びついているということです。


社会が必要とする人材や、子どもたちに身につけてほしい力が変われば、教育の内容や方法も変わります。


一方で、制度や政策だけをたどっても、「教育は何のためにあるのか」という問いには、十分に答えられません。


教育制度の変化を知ることは大切です。しかし、それと同時に、その制度の中で人が何を学び、どのように生きていくのかを考えることも必要だと感じるようになりました。


問い・志・環境へ深まった教育のテーマ
第19回以降、私の関心は、制度の歴史をたどることから、「問いを持つ力」へと次第に移っていきました。


知識を教えることだけが教育ではありません。


本人の中にある疑問や関心に気づき、自分で考えるきっかけをつくることも教育です。


さらに連載では、「志」について考えるようになりました。


何を学ぶのかだけでなく、なぜ学ぶのか。

どのような人生を歩みたいのか。

その問いに向き合うことが、学び続けるための軸になります。


また、学校や組織を選ぶときは、設備や条件だけでなく、その場が「何を大切にしているか」を見ることが重要だと学びました。


人は、環境が豊かであるだけで変わるのではありません。


その場所が目指しているものや、そこでの自分の役割に気づいたとき、人は力を発揮しやすくなります。


AIが情報を整理し、答えを示してくれる時代だからこそ、自分で問いを持ち、考え、選び、行動する軸が必要です。


何をAIに任せ、何を自分で決めるのか。


それを判断する力も、これからの教育に欠かせないものだと思います。


自分を修めるという学びへ
連載の後半では、『修身教授録』を手がかりに、自分で自分を育てることについて考えるようになりました。


第32回で取り上げた「自修」は、一人で勉強することだけを意味するものではありません。


誰かに見られていない時間を、どのように過ごすのか。


学んだことを、その場限りで終わらせず、日々の生活でどのように実践するのか。


自分の行動を振り返り、少しずつ自分を整えていく姿勢が、自修なのだと受け取りました。


第35回で扱った「立志」からは、自分の進む方向を定めることの大切さを学びました。


迷ったときに、何を基準に選ぶのか。


困難に出会ったときに、何のために続けるのか。


自分の中に志があれば、それが選択や行動を支える軸になります。


志を持ち、自分を修め続けることは、子どもだけに必要なものではありません。


大人になってからも、自分の生き方を問い直し、学び続けることが大切です。


私が受け取った教育の原点
日本教育100年の歩みを振り返る中で、私は、教育は知識や能力を身につけるためだけのものではなく、人間形成に近いものだと考えるようになりました。


教育は生き方の設計である。


そのことを、この連載を通して強く感じています。


教育とは、どのように生きるかを考え、自分の生き方をつくっていくための土台です。


自分は何を大切にしたいのか。
どのような人になりたいのか。
自分の力を、誰のために、どのように生かしたいのか。


こうした問いに向き合いながら、自分で考え、選び、行動する軸を育てていくことが、教育の大切な役割だと思います。


そして、教育は子どもだけのものではありません。


大人もまた、日々の経験から学び、自分自身を育てていく存在です。


また、同じ方向を目指す仲間と、それぞれの得意を生かし合うことで、人はより輝くことができます。


一人ですべてをできるようになる必要はありません。


互いの違いを認め、それぞれの力を持ち寄ることで、一人ではできないことを実現できます。


人の中にある可能性を見つけ、それを磨き、仲間や社会とつなげていく。


それが、35回の連載を通して私が受け取った教育の原点です。


これは、日本教育史全体が一つの方向へ変化したという意味ではありません。


あくまで、過去の教育を学ぶ中で、私自身の問いと関心が、制度から人間形成や生き方へと深まっていったということです。


これからの学びへ
教育とは、自分がどう生きるかを決めるための下地になるものです。


自分で考え、選び、行動するための軸を育てることは、時代が変わっても必要な「生きる力」だと思います。


そして、教育を学校だけに任せるのではなく、家庭、地域、職場を含めた社会全体で人を育てていくという意識を持つことも大切です。


私自身も、まずは自分がいる場所で、自分にできることを実践していきます。

身近な人の可能性を見つけること。
相手の話を聴き、考えるきっかけとなる問いを届けること。
仲間と互いの得意を生かし合うこと。

そうした小さな行動を積み重ねながら、これからも自分のいる場所で一隅を照らしていきたいと思います。


今日のポイント
教育は、知識や能力を身につけるだけでなく、人がどう生きるかを支える営みである

環境の豊かさだけでなく、その場が何を大切にしているかが、人を育てる

自分で考え、選び、行動する軸を育てることが、時代が変わっても必要な生きる力になる

あなたにとって、教育とは、どのような生き方を支えるものでしょうか。


家庭、学校、地域、職場など、今いる場所で自分が大切にしたいことを、一つ言葉にしてみてはいかがでしょうか。


「日本教育100年の歴史シリーズ」は、今回で完結します。

これまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

次回からは、『修身教授録』を手がかりにした新しい「修身教授録シリーズ」を始めます。

日々の暮らしや仕事、人との関わりに生かせる学びを、これからも一緒に考えていきます。

今日も、小さな学びを一緒に重ねていきましょう。

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【NO335|新釈古事記伝 第43回・最終回】

おはようございます。けんいちです。

## ■ 今日で、この連載はいったん完結します

2025年9月から続けてきた「新釈古事記伝」シリーズも、今回で第43回を迎えました。

目の前の一回、一回を書いているときには、これほど長く続くとは思っていませんでした。

けれど、一歩ずつ歩んできた道を振り返ると、

「ずいぶん遠くまで来たな」

と感じます。

長く続けてきた仕事。

子どもが生まれた頃から積み重ねてきた家族との時間。

毎日の読書や運動。

その最中には大きな変化を感じなくても、振り返ったとき、確かに自分をつくってきた道が見えることがあります。

この連載も、私にとって、そのような歩みの一つになりました。

そして今日、この「新釈古事記伝」を、いったん完結することにしました。

## ■ なぜ、今回を一つの区切りにするのか

私が学んできた『新釈古事記伝』は、第7集『八俣遠呂智』まで刊行されています。

この連載でも、その範囲に関係する物語までを、一つひとつ考えてきました。

もちろん、古事記そのものの物語が、ここですべて終わるわけではありません。

古事記には、まだ多くの物語が残されています。

けれど、私が『新釈古事記伝』を通して歩んできた今回までの範囲を、一つの区切りにしたいと考えました。

そのため、今回をもって、この連載をいったん完結します。

ただし、古事記から学ぶこと自体を終えるわけではありません。

ここまで受け取ってきたものを、これからの日常の中で生かしていく。

その新しい歩みが、ここから始まるのだと思っています。

## ■ 私が古事記から学んだこと

古事記を学ぶ中で、私が受け取ったものは、昔の神々についての知識だけではありませんでした。

日本人として、どのように物事を見て、どのように考え、どのように行動するのか。

その基本となる考え方を、数多く学びました。

中でも、特に心に残っているのが、

「かちさび」



「なきいさち」

という考え方です。

かちさびとは、前進や進化発展につながる衝突。

なきいさちとは、秩序や関係の崩壊につながる衝突です。

人と意見がぶつかると、私たちはつい、

「どちらが正しいのか」

「どちらが勝ったのか」

と考えてしまいます。

けれど、本当に見るべきものは、勝ち負けだけではありません。

その衝突が、新しいものを生み出すためのものなのか。

それとも、相手を否定し、関係や全体を壊すものになっているのか。

この見極めが大切なのだと学びました。

衝突をなくすことが大切なのではありません。

衝突を、何のために起こし、どこへ向かわせるのか。

そこに、人の生き方が表れるのだと思います。

## ■ 人に評価されなくても、自分の軸で進む

古事記は、これまで私が読んできたどの書物よりも、自分の感覚や生き方にしっくりと合うものでした。

特に、物事の考え方に大きな影響を受けました。

何か新しいことを始めようとするとき。

これまでのやり方を変えようとするとき。

自分では必要だと思っていても、周囲からすぐに理解されたり、評価されたりするとは限りません。

そのようなとき、

「人に評価されないのであれば、やめた方がよいのだろうか」

「今までと違うことをする自分が、間違っているのだろうか」

と迷うことがあります。

私自身も、そうした迷いを感じることがありました。

けれど古事記を学ぶ中で、人から評価されるかどうかだけで、自分の行動を決める必要はないのだと思えるようになりました。

進化発展のために必要だと考えたことを、自分の責任で実践していく。

そのような生き方を、古事記に認めてもらえたように感じたのです。

ただし、これは、

「自分が正しいと思えば、何をしてもよい」

という意味ではありません。

周囲に理解されないことと、周囲を傷つけてよいことは違います。

自分の考えを進めるときには、

その行動は、全体を生かすものなのか。

秩序や関係を壊すものになっていないか。

前進につながるかちさびなのか。

崩壊につながるなきいさちなのか。

自分の力を、誰のために、何のために使うのか。

その結果と責任を、自分で引き受けられるのか。

そこまで見極める必要があります。

古事記が私に与えてくれたものは、自分の正しさを無条件に肯定する言葉ではありませんでした。

自分の力を何のために使うのかを考え、その結果に責任を持つための判断軸でした。

その軸を持てたことで、以前よりも、自分の考えや行動に迷いにくくなったと感じています。

## ■ 日本人として受け継いだ知恵を、日常へ

古事記の知恵は、昔の物語の中だけにあるものではありません。

家庭でも、仕事でも、学びでも、人間関係でも、生かすことができます。

たとえば、誰かと意見が違ったとき。

すぐに相手を否定するのではなく、

「この違いは、何を生み出そうとしているのだろう」

と考えてみる。

自分の考えを進めたいとき。

自分の正しさだけで判断せず、

「これは、自分だけではなく、全体を生かすものになっているだろうか」

と一度立ち止まってみる。

何かを学び、得たとき。

自分の中だけに抱え込まず、必要としている人へ伝えてみる。

古事記の知恵は、このような日常の小さな行動の中で、生きたものになります。

知っているだけでは、まだ知恵とは言えません。

実際の生活の中で使い、自分の行動を変えたとき、初めて、その知恵は自分のものになっていくのだと思います。

## ■ 日本人であることへの、静かな誇り

この連載を始めたとき、私の中には、

「自分は何者なのか」

という問いがありました。

古事記を学ぶことは、日本民族が長い時間をかけて受け継いできた生き方や考え方に触れることでもありました。

それは、他の民族より優れていると考えることではありません。

誰かと比べて、自分たちだけが特別だと考えることでもありません。

自分たちの先人が、何を大切にし、困難や衝突にどう向き合おうとしてきたのかを知ること。

そこから受け取ったものを、自分の日常で生かすこと。

そして、次の世代へ渡していくこと。

そのことが、日本人であることへの静かな誇りにつながればよいのだと思います。

自分が受け継いできたものを知ることで、自分の足元が少し確かになる。

そのような誇りであれば、人を分けたり、排除したりするのではなく、むしろ他者を尊重する力にもつながるのではないでしょうか。

## ■ 43回の旅に付き合ってくださった皆さまへ

ここまで、この連載を読んでくださり、本当にありがとうございました。

毎回読んでくださった方。

ときどき思い出して読んでくださった方。

いいねやコメントをくださった方。

直接、感想を伝えてくださった方。

そして、今回初めて読んでくださった方。

皆さまが時間を使って、この記事を読んでくださったことを、とてもうれしく思っています。

43回の中で、

「この考え方は、いいな」

「自分の生活でも使ってみたいな」

と思えるものが一つでもあれば、ぜひ日常の中で試してみてください。

この連載を読むこと自体よりも、そこから受け取ったものを、自分の生活に生かしていただくこと。

それが、私にとって何よりもうれしいことです。

この連載を読んでくださった皆さまが、少しでも心穏やかに、自分らしい幸せを感じながら歩んでいけることを、心から願っています。

## ■ 今日の小さな実践

これまでの記事の中で、心に残っている考え方を一つ思い出してみてください。

そして今日、その考え方を使って、いつもと少し違う行動を一つだけ選んでみましょう。

たとえば、誰かと意見が違ったときに、すぐに否定するのではなく、

「この違いは、前進につながるものだろうか」

と一度考えてみる。

その小さな実践が、古事記の知恵を、自分の日常に生かす最初の一歩になります。

## ■ 最後の問い

あなたが、これからの日常の中で生かしていきたい古事記の知恵は何でしょうか。

今回で「新釈古事記伝」は、いったん完結します。

けれど、古事記から学ぶ旅が終わるわけではありません。

必要なときには、また別の形で、古事記について考えることがあるかもしれません。

物語の紹介は終わっても、そこから受け取った知恵は、これからの日々の中で生き続けます。

43回の旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

皆さまのこれからの日々が、心穏やかで、幸せなものでありますように。

おはようございます。けんいちです。

■ 今日で、この連載はいったん完結します
2025年9月から続けてきた「新釈古事記伝」シリーズも、今回で第43回を迎えました。
目の前の一回、一回を書いているときには、これほど長く続くとは思っていませんでした。


けれど、一歩ずつ歩んできた道を振り返ると、

「ずいぶん遠くまで来たな」

と感じます。


長く続けてきた仕事。

子どもが生まれた頃から積み重ねてきた家族との時間。

毎日の読書や運動。


その最中には大きな変化を感じなくても、振り返ったとき、確かに自分をつくってきた道が見えることがあります。
この連載も、私にとって、そのような歩みの一つになりました。


そして今日、この「新釈古事記伝」を、いったん完結することにしました。

■ なぜ、今回を一つの区切りにするのか
私が学んできた『新釈古事記伝』は、第7集『八俣遠呂智』まで刊行されています。
この連載でも、その範囲に関係する物語までを、一つひとつ考えてきました。
もちろん、古事記そのものの物語が、ここですべて終わるわけではありません。
古事記には、まだ多くの物語が残されています。


けれど、私が『新釈古事記伝』を通して歩んできた今回までの範囲を、一つの区切りにしたいと考えました。
そのため、今回をもって、この連載をいったん完結します。


ただし、古事記から学ぶこと自体を終えるわけではありません。
ここまで受け取ってきたものを、これからの日常の中で生かしていく。

その新しい歩みが、ここから始まるのだと思っています。

■ 私が古事記から学んだこと
古事記を学ぶ中で、私が受け取ったものは、昔の神々についての知識だけではありませんでした。
日本人として、どのように物事を見て、どのように考え、どのように行動するのか。
その基本となる考え方を、数多く学びました。


中でも、特に心に残っているのが、「かちさび」と「なきいさち」という考え方です。
かちさびとは、前進や進化発展につながる衝突。
なきいさちとは、秩序や関係の崩壊につながる衝突です。


人と意見がぶつかると、私たちはつい、

「どちらが正しいのか」
「どちらが勝ったのか」

と考えてしまいます。


けれど、本当に見るべきものは、勝ち負けだけではありません。
その衝突が、新しいものを生み出すためのものなのか。
それとも、相手を否定し、関係や全体を壊すものになっているのか。


この見極めが大切なのだと学びました。


衝突をなくすことが大切なのではありません。
衝突を、何のために起こし、どこへ向かわせるのか。


そこに、人の生き方が表れるのだと思います。

■ 人に評価されなくても、自分の軸で進む
古事記は、これまで私が読んできたどの書物よりも、自分の感覚や生き方にしっくりと合うものでした。
特に、物事の考え方に大きな影響を受けました。


何か新しいことを始めようとするとき。
これまでのやり方を変えようとするとき。


自分では必要だと思っていても、周囲からすぐに理解されたり、評価されたりするとは限りません。
そのようなとき、

「人に評価されないのであれば、やめた方がよいのだろうか」
「今までと違うことをする自分が、間違っているのだろうか」

と迷うことがあります。


私自身も、そうした迷いを感じることがありました。
けれど古事記を学ぶ中で、人から評価されるかどうかだけで、自分の行動を決める必要はないのだと思えるようになりました。


進化発展のために必要だと考えたことを、自分の責任で実践していく。
そのような生き方を、古事記に認めてもらえたように感じたのです。

ただし、これは、「自分が正しいと思えば、何をしてもよい」という意味ではありません。
周囲に理解されないことと、周囲を傷つけてよいことは違います。


自分の考えを進めるときには、その行動は、全体を生かすものなのか。秩序や関係を壊すものになっていないか。
前進につながるかちさびなのか。
崩壊につながるなきいさちなのか。


自分の力を、誰のために、何のために使うのか。
その結果と責任を、自分で引き受けられるのか。


そこまで見極める必要があります。


古事記が私に与えてくれたものは、自分の正しさを無条件に肯定する言葉ではありませんでした。
自分の力を何のために使うのかを考え、その結果に責任を持つための判断軸でした。


その軸を持てたことで、以前よりも、自分の考えや行動に迷いにくくなったと感じています。


■ 日本人として受け継いだ知恵を、日常へ
古事記の知恵は、昔の物語の中だけにあるものではありません。
家庭でも、仕事でも、学びでも、人間関係でも、生かすことができます。

たとえば、誰かと意見が違ったとき。
すぐに相手を否定するのではなく、「この違いは、何を生み出そうとしているのだろう」と考えてみる。


自分の考えを進めたいとき。
自分の正しさだけで判断せず、「これは、自分だけではなく、全体を生かすものになっているだろうか」と一度立ち止まってみる。


何かを学び、得たとき。
自分の中だけに抱え込まず、必要としている人へ伝えてみる。古事記の知恵は、このような日常の小さな行動の中で、生きたものになります。


知っているだけでは、まだ知恵とは言えません。
実際の生活の中で使い、自分の行動を変えたとき、初めて、その知恵は自分のものになっていくのだと思います。


■ 日本人であることへの、静かな誇り
この連載を始めたとき、私の中には、

「自分は何者なのか」

という問いがありました。


古事記を学ぶことは、日本民族が長い時間をかけて受け継いできた生き方や考え方に触れることでもありました。
それは、他の民族より優れていると考えることではありません。
誰かと比べて、自分たちだけが特別だと考えることでもありません。


自分たちの先人が、何を大切にし、困難や衝突にどう向き合おうとしてきたのかを知ること。
そこから受け取ったものを、自分の日常で生かすこと。
そして、次の世代へ渡していくこと。


そのことが、日本人であることへの静かな誇りにつながればよいのだと思います。
自分が受け継いできたものを知ることで、自分の足元が少し確かになる。
そのような誇りであれば、人を分けたり、排除したりするのではなく、むしろ他者を尊重する力にもつながるのではないでしょうか。


■ 43回の旅に付き合ってくださった皆さまへ
ここまで、この連載を読んでくださり、本当にありがとうございました。


毎回読んでくださった方。
ときどき思い出して読んでくださった方。
いいねやコメントをくださった方。
直接、感想を伝えてくださった方。
そして、今回初めて読んでくださった方。


皆さまが時間を使って、この記事を読んでくださったことを、とてもうれしく思っています。


43回の中で、
「この考え方は、いいな」
「自分の生活でも使ってみたいな」
と思えるものが一つでもあれば、ぜひ日常の中で試してみてください。


この連載を読むこと自体よりも、そこから受け取ったものを、自分の生活に生かしていただくこと。
それが、私にとって何よりもうれしいことです。


この連載を読んでくださった皆さまが、少しでも心穏やかに、自分らしい幸せを感じながら歩んでいけることを、心から願っています。

■ 今日の小さな実践
これまでの記事の中で、心に残っている考え方を一つ思い出してみてください。
そして今日、その考え方を使って、いつもと少し違う行動を一つだけ選んでみましょう。

たとえば、誰かと意見が違ったときに、すぐに否定するのではなく、「この違いは、前進につながるものだろうか」と一度考えてみる。その小さな実践が、古事記の知恵を、自分の日常に生かす最初の一歩になります。

■ 最後の問い
あなたが、これからの日常の中で生かしていきたい古事記の知恵は何でしょうか。
今回で「新釈古事記伝」は、いったん完結します。
けれど、古事記から学ぶ旅が終わるわけではありません。


必要なときには、また別の形で、古事記について考えることがあるかもしれません。
物語の紹介は終わっても、そこから受け取った知恵は、これからの日々の中で生き続けます。


43回の旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
皆さまのこれからの日々が、心穏やかで、幸せなものでありますように。
【NO334|日本教育100年の歴史シリーズ 第35回】

おはようございます。けんいちです。
本日も「日本教育100年の歴史シリーズ」をお届けします。


前回は、『修身教授録』第二部第三講「人生二度なし」から、人生は一度きりであるという教えをお伝えしました。


けれど、人生は一度きりだと分かるだけでは、日々の選択の答えまでは見えてきません。


今回は、第二部第二講「立志」を手がかりに、迷ったとき、何を基準に選ぶかを考えます。


「立志」とは、志を立てることです。難しく聞こえますが、これから自分がどのような方向へ進んでいくのか、その軸を定めることだといえます。


森信三先生は、この講で次のように述べています。
「志を立てるということが、私の今後一年間を貫く話の根本眼目をなすわけです。」
「根本眼目」とは、話全体の中心となる、最も大切な考えという意味です。


森信三先生は、志を立てることを、一回の講義だけで終わる話ではなく、この先一年間の学び全体を支える土台として位置づけていました。


志とは、その場だけの目標や希望ではありません。人生をどの方向へ進めていくのかを考え、日々の選択を支える軸を持つことだと受け取れます。


続けて、こう述べています。
「真に志を立てるということは、この二度とない人生をいかに生きるかという、生涯の根本方向を洞察する見識、並びにそれを実現する上に生ずる一切の困難に打ち勝つ大決心を打ち立てる覚悟がなくてはならぬのです。」


ここでは、志には「困難に打ち勝つ大決心」が伴うと述べられています。


志を持ったからといって、迷いや困難がなくなるわけではありません。自分一人では難しいときには、誰かに助けを求めてもよいでしょう。状況に合わせて、方法を変えることも必要です。


それでも、自分が大切にしたいことを忘れず、選択の軸として持ち続ける。その決心が、ここでいう「立志」なのだと思います。


さらに、森信三先生は次のようにも述べています。
「いやしくも、ひとたび真の志が立つならば、それは事あるごとに、常に我が念頭に現れて直接、間接に自分の一挙手一投足に至るまで支配するところまで行かねばならぬと思うのです。」


志は、特別な場面で語る立派な言葉としてだけ存在するものではありません。

何を引き受けるか。
誰にどのように接するか。
限られた時間を何に使うか。

そうした日々の小さな判断の一つひとつに、その人の志は表れるということです。


■ 志は、大きな夢だけではない
たとえば、子どもが「先生になりたい」と話したとします。
その言葉の奥には、

「困っている友達を助けたい」
「誰かが分かるようになるまで、根気強く付き合いたい」

という思いがあるのかもしれません。


将来、選ぶ職業が変わったとしても、その思いは、別の仕事や家庭、地域での関わりの中でも生かすことができます。


「何になりたいか」だけでなく、「これから何を大切にして生きていきたいのか」を一緒に考えることで、子どもへの声のかけ方も変わってくるのではないでしょうか。


これは、仕事や家庭での選択に迷う大人にも、同じことがいえます。


前回の記事を通して感じたのは、「一度きりの人生」という自覚だけでは、まだ選択の基準までは定まらないということでした。


迷ったときに、自分は何を大切にしたいのか。
どちらを選べば、その思いに近づけるのか。


一つひとつの選択の中で、自分の判断の軸を確かめていく。その積み重ねが、私にとっての「立志」なのだと受け取っています。


今日のポイントです。
・立志とは、人生をどの方向へ進めるか、その軸を定めること
・志には、困難があっても大切にしたいことを見失わない決心が伴う
・志は、大きな夢の言葉だけでなく、日々の小さな判断に表れる


迷ったとき、あなたの選択を支えている基準は何でしょうか。


今日、家族で「これからも大切にしていきたいこと」を、一つずつ話してみてはいかがでしょうか。

すぐに答えが出なくても、考え始めることが、志を見つける最初の一歩になります。

今日も、小さな学びを一緒に重ねていきましょう。
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【NO333|新釈古事記伝 第42回】

おはようございます。けんいちです。

本日のテーマは「 一歩ずつ歩んできた道を振り返る」です。

 

 

仕事でも、子育てでも、学びでも。

目の前のことに向き合い、一歩ずつ進んでいるときには、自分がどれほど歩いてきたのか、なかなか気づかないものです。

けれど、人生の節目に、これまで歩んできた道を振り返ったとき、「一歩ずつ歩いてきたけれど、ずいぶん遠くまで来たな」と感じることがあります。

 

 

就職や転職、独立、退職など、人生の新しい段階を迎えたとき。

子どもが生まれた頃の写真を見て、今の姿と重ね合わせたとき。

毎朝10分ずつ続けてきた読書によって、以前より物事を深く考えられるようになっていたと気づいたとき。

週に一度続けてきた運動が、体力だけではなく、気持ちを立て直す時間にもなっていたと気づいたとき。

 

 

一日一日の変化は小さくても、振り返ってみると、そこには確かな歩みがあります。

今日は、古事記の物語を先へ進めるのではなく、ここまでの旅を振り返りながら、私たちが何を学び、何を受け取ってきたのかを考えてみたいと思います。

 

 

■ この旅の終着点を前にして

この「新釈古事記伝」では、古事記に込められた「行動につながる知恵」を、一つひとつ考えてきました。

気づけば、この連載も42回を迎えました。

古事記には、まだ多くの物語が残されています。

けれど、すべての場面を最後まで紹介することだけが、この連載の目的ではありません。

 

 

古事記を通して、

「今の自分なら、どう考えるだろう」

「目の前の出来事を、どのように見極めるだろう」

「自分に与えられた役割や力を、何のために使うだろう」

と問い続けること。

 

 

それこそが、この連載で大切にしてきたことでした。

そのため、この「新釈古事記伝」は、今回または次回で、いったん完結させようと考えています。

今日は、その終着点を前に、ここまで歩んできた道を振り返る回です。

 

 

■ スサノオは、何を探究していたのか

ここまでの物語の中心にいたのが、スサノオです。

スサノオは、古事記の中で、激しく、荒々しい行動を取る神として描かれています。

しかし、この連載では、その姿を単に、「感情を抑えられず、周囲を傷つけた神」として見るのではなく、別の角度から考えてきました。

 

 

スサノオが担っていたのは、知識を探究し、物事を進化発展させていく働きです。

すでに出来上がった秩序を守ることよりも、

 

「なぜ、そうなっているのか」

「さらに先へ進むためには、何を変える必要があるのか」

「今あるものを、どのように発展させられるのか」

 

と問い、未知の領域へ踏み込んでいく。

 

 

それが、スサノオの持つ役割だったと考えられます。

新しい知識や可能性を探究しようとすれば、これまで守られてきた境界を越えたり、既存の仕組みに揺さぶりをかけたりすることがあります。

 

 

スサノオの行動も、単に秩序を壊すことを目的としていたのではありません。

自分が受け持つ知識の探究、進化発展の探究を進めようとした結果、その意図や目的が周囲に伝わらず、秩序を壊す働きとして受け止められてしまったのです。

 

 

■ 勝ち負けではなく、役割の違いから生まれた衝突

スサノオとアマテラスの間に起きた出来事も、どちらが正しく、どちらが間違っていたのかという勝ち負けの問題ではありません。

アマテラスが担っていたのは、高天原の秩序を整え、全体を安定させる働きです。

一方のスサノオが担っていたのは、既存の枠を越え、新しい知識や発展の可能性を探究する働きでした。

 

 

秩序を守ろうとする力。

境界を越えて、進化発展を生み出そうとする力。

 

 

どちらも、世界が成り立つために必要な働きです。

しかし、お互いの役割や目的が十分に理解されなければ、その違いは衝突を生みます。

 

 

スサノオの探究のための行動は、アマテラスや高天原の側から見れば、守るべき秩序や役割を損なうものに見えました。

一方でスサノオにとっては、自分が担う役割を果たし、物事をさらに発展させようとする行動だったのでしょう。

 

 

ここで起きていたのは、単純な善と悪の争いではありません。

異なる役割を持つ者同士が、その違いを理解できないまま進んだことによって生まれた、構造的な衝突だったのです。

 

 

■ なぜ、アマテラスは天の岩戸に隠れたのか

アマテラスが天の岩戸に隠れた出来事も、スサノオが勝ったからでも、単にスサノオの行動に腹を立てたからでもないと考えられます。

 

 

スサノオの探究の働きと、アマテラスが守ろうとした高天原の秩序。

その二つがかみ合わず、衝突が全体の秩序や関係を壊す段階にまで進んでしまいました。

前進につながるはずの衝突が、関係と秩序を崩す「なきいさち」へと変わってしまったのです。

 

 

その結果、アマテラスは、自らが担っていた光を照らし、全体を生かす役割を果たせなくなり、天の岩戸に隠れます。

世界から光が失われたという出来事は、誰か一人が悪かったことを示しているのではありません。

役割の違いを理解できず、衝突を適切に扱えなかったことで、社会全体の働きが止まってしまうことを表しているのではないでしょうか。

 

 

衝突そのものが悪いのではありません。

異なる役割や目的を理解しないまま、相手の行動を自分の立場だけで判断すること。

そして、前進を生む衝突と、全体を壊す衝突の境界を見失うこと。

そこに、越えてはならない一線があります。

 

 

 

■ 地上で発揮された、スサノオ本来の力

高天原を離れたスサノオは、地上へ降ります。

そこで出会ったのが、泣いている老夫婦と、その娘クシナダヒメでした。

理由を尋ねると、八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチが毎年現れ、八人いた娘のうち、すでに七人が奪われてしまったといいます。残されたクシナダヒメも、まもなくヤマタノオロチに奪われようとしていました。

 

 

ここでスサノオは、すぐに自分の力を振るったわけではありません。

まず、老夫婦の話を聞きます。

何が起きているのか。

ヤマタノオロチはどのような存在なのか。

いつ、どこから現れるのか。

必要な情報を集め、全体の状況を把握したうえで、解決のための方法を考えました。

 

 

八つの門を作り、それぞれに強い酒を用意し、ヤマタノオロチが酒を飲んで眠るのを待つ。

相手を知り、方法を考え、準備を整え、最も効果的な瞬間に行動する。

 

 

そこには、スサノオが本来持っていた、知識を探究し、新しい方法を生み出し、物事を進化発展させる力が表れています。

高天原では秩序を乱すものとして誤解された力が、地上では、目の前の問題を解決し、人を救う知恵として発揮されたのです。

 

 

■ 力が変わったのではなく、使い方が変わった

スサノオが地上で見せた姿は、悪い神が善い神へと生まれ変わったという単純な変化ではありません。

スサノオが持っていた探究心や行動力そのものは、高天原にいたときから変わっていなかったのではないでしょうか。

 

 

変わったのは、その力をどこへ向け、どのように使うかです。

自分の探究だけに向けるのではなく、目の前で困っている人の話を聞く。

自分の考えだけで進めるのではなく、状況や相手を理解する。

力だけで押し切るのではなく、全体を生かす方法を考える。

 

 

スサノオは、地上での経験を通して、自分の力を社会や人のために生かす方法を身につけていったのだと思います。

 

 

■ 得たものを、自分だけのものにしなかった

ヤマタノオロチを退治したスサノオは、その尾の中から一本の特別な剣を見つけます。

それが、のちに三種の神器の一つとなる草薙剣です。

 

 

大きな困難を乗り越えた末に見つけた、特別な宝。

自分が見つけたものなのだから、そのまま自分のものにしても不思議ではありません。

しかし、スサノオは、その剣を自分だけのものにはしませんでした。

姉であるアマテラスへ献上したのです。

 

 

知識を探究し、困難を乗り越え、その中から新しい価値を見つける。

そして、そこで得たものを、自分だけのものにせず、次の人や未来へ与える。

ここに、スサノオが担っていた探究と進化発展の働きの、一つの完成した姿が表れているのではないでしょうか。

 

 

新しいものを見つけるだけでは、社会は発展しません。

見つけたものを、全体のために生かす。

必要な人へ与え、未来へつないでいく。

そこまで行って初めて、探究は社会を生かす力になります。

 

 

■ 古事記から学んできたこと

ここまでのスサノオの歩みを振り返ると、さまざまな知恵が見えてきます。

 

・分からないことを、そのままにせず「なぜ」と問いかけること。

・目の前に見えている出来事だけで判断せず、その背景や構造を確かめること。

・相手の行動を、自分の立場や価値観だけで決めつけないこと。

・意見や役割の違いから生まれる衝突を、単なる善悪や勝ち負けとして捉えないこと。

・その衝突が、全体を生かす「かちさび」なのか、秩序や関係を壊す「なきいさち」なのかを見極めること。

・思いついたらすぐに動くのではなく、必要な情報と準備を整えること。

・自分の力や知識を、自分の探究だけではなく、誰かのために使うこと。

・そして、手に入れたものを自分だけのものにせず、次の人や未来へ与えること。

 

 

私たちが古事記から学んできたことは、単なる知識ではありません。

困難に出会ったとき、どのように考え、どのように行動し、得たものを何のために使うのか。

異なる役割を持つ人と、どのように向き合うのか。

自分に与えられた力を、全体を生かすためにどのように役立てるのか。

そうした問いと向き合うための知恵なのだと思います。

 

 

■ 今回の問い

今日、一緒に考えたい問いは、こちらです。

「これまで歩いてきた道を振り返ったとき、あなたは何を学び、何を受け取ってきましたか」

 

 

 

■ 歩いてきた道の意味を見つける

人は、前へ進むことばかりを考えてしまいます。

次は何をするか。

どこへ向かうか。

もっと何ができるか。

もちろん、前へ進むことは大切です。

 

 

けれど、次の一歩を考える前に、これまで歩いてきた道を見つめる時間も必要です。

なぜなら、自分がすでに経験してきたことの中に、これからを支える知恵が隠れていることがあるからです。

 

 

仕事で乗り越えてきた困難。

家族と過ごしてきた時間。

うまくいかなかった挑戦。

自分の意図が相手に伝わらず、誤解された経験。

誰かに助けてもらった経験。

少しずつ続けてきた学びや習慣。

 

 

その一つひとつが、自分では気づかないうちに、今の考え方や判断、行動を支えています。

歩いてきた道を振り返るのは、過去にとどまるためではありません。

一つひとつの経験が、自分に何を教え、どのような力を育ててくれたのかを見つけるためです。

 

 

■ 仕事・家庭・学びの中にある歩み

仕事では、これまで担当してきた役割やプロジェクトを思い返してみると、自分の成長に気づくことがあります。

以前は難しかった説明や判断が、今では自然にできるようになっているかもしれません。

当時は失敗だと思っていた経験が、今では誰かを助ける知恵になっているかもしれません。

自分の意図が伝わらず、誤解された経験から、相手の立場や役割を理解して伝えることの大切さを学んだかもしれません。

 

 

家庭では、子どもが生まれた頃の写真を見ると、子どもの成長だけでなく、自分自身も親として少しずつ変わってきたことに気づくことがあります。

抱き方も分からなかった頃。

初めて名前を呼んでくれた日。

思うようにいかず、悩んだ時間。

そのすべてが、今の家族の関係につながっています。

 

 

学びや習慣も同じです。

毎日10分の読書。

週に一度の運動。

寝る前に一行だけ書く日記。

一回ごとの取り組みは小さくても、半年、1年、10年と続けば、考え方や体力、自信を支える大きな土台になります。

一歩ずつ進んでいるときには見えなくても、振り返ることで、自分が歩いてきた確かな道が見えてきます。

 

 

■ 今日の小さな実践

今日は、これまでの自分の歩みの中から、印象に残っている場面を一つだけ思い出してみてください。

成功した場面でなくても構いません。

苦しかったこと。

迷ったこと。

失敗したこと。

自分の意図が伝わらず、誤解されたこと。

誰かに助けてもらったこと。

長く続けてきたこと。

どのような場面でも大丈夫です。

 

 

その場面を思い出したら、次の一文を書いてみましょう。

「私は、あの経験から〇〇を受け取った」

 

 

たとえば、

「私は、あの失敗から、早めに相談することの大切さを受け取った」

「私は、誤解された経験から、相手の立場に合わせて伝えることの大切さを受け取った」

「私は、子育てを通して、相手の成長を待つことの大切さを受け取った」

「私は、毎日の読書から、考え続ける力を受け取った」

「私は、苦しかった時期に支えてくれた人から、一人で抱え込まないことを学んだ」

というような一文です。

 

 

大きな答えでなくても構いません。

一行だけでも言葉にすることで、過去の経験が、これからを支える知恵に変わっていきます。

 

 

■ 今日のまとめ

・一歩ずつ歩いているときには見えなかった道が、振り返ることで見えてくることがある
・スサノオの行動は、単なる勝ち負けや乱暴さではなく、知識と進化発展を探究する役割から生まれていた
・スサノオとアマテラスの衝突は、善悪の争いではなく、異なる役割や目的が理解されなかったことで起きた
・天の岩戸の出来事は、衝突を適切に扱えず、関係と秩序全体の働きが止まったことを表している
・地上では、スサノオの探究する力が、情報を集め、方法を考え、人を救う知恵として発揮された
・スサノオは、得た剣を自分だけのものにせず、アマテラスへ与えた
・古事記から学べるのは、困難や衝突にどう向き合い、自分の力を何のために使うのかという知恵である
・これまでの経験を一つ思い出し、「私は、あの経験から〇〇を受け取った」と一行書いてみる

 

 

■ 今日の問いかけ

これまで歩いてきた道を振り返ったとき、今、あなたの心に浮かぶのは、どのような場面でしょうか。

そして、その経験から、あなたは何を学び、何を受け取ったでしょうか。

コメントで教えていただけるとうれしいです。

 

 

■ 次回予告

次回は、「新釈古事記伝」の最終回として、この連載を通して私自身が古事記から何を学び、これからどのように生かしていきたいと考えているのかをお話ししたいと思います。

 

 

物語の紹介は終わっても、そこから受け取った知恵は、私たちの日々の中で生き続けます。

次回も、古事記を通して「行動につながる知恵」を一緒に考えていきましょう。

【NO332|日本教育100年の歴史シリーズ 第34回】


■ おはようございます。けんいちです。
今日も「日本教育100年の歴史シリーズ」をお届けします。

 


■ 前回の振り返り
前回は、修身教授録 第二部 第十五講「一時一事」をもとに、「目の前の一つに集中する力」というテーマでお話ししました。
今なすべき一つのことに全力を注ぎ、それ以外を一時手放す。
その「選択する力」が、学びを実行へとつなげる第一歩になる、というお話でした。
今回は、その続きをお届けします。

 


■ 今回のテーマ
一つのことに集中して取り組めるようになったら、次に問われるのは、「その一つ一つの積み重ねを、何のために続けるのか」ということです。今回は、修身教授録 第二部 第三講「人生二度なし」を手がかりに、「一度きりの人生を、どう生きるか」を考えていきます。

 


■ 「人生二度なし」とは何か
森信三先生は、この講で次のように述べています。
「そもそもこの世の中のことというものは、大抵のことは多少の例外があるものですが、この人生二度なしという真理のみは、古来ただ一つの例外すらないのです。」どんな真理にも例外があり得ても、「人生が一度きりである」ということだけは、誰にとっても例外がない。当たり前のようでいて、日々の暮らしの中では忘れがちな事実です。

 


■ 「内に無限の世界を開く」ということ
続けて森信三先生は、次のようにも述べています。
「そもそも人間というものは、その外面を突き破って、内に無限の世界を開いていってこそ、真に優れた人と言えましょう。同時に、また、そこにこそ、生命の真の無窮性はあるのです。」

 


外側の肩書きや条件がどうであれ、内側をどこまで耕せるか。そこに人としての伸びしろがある、という教えだと受け取ることができます。
 

 

■ なぜ、この一日を本気で生きる必要があるのか
森信三先生はさらに、次のように問いかけます。
「諸君たちがこの人生二度なしという言葉に対して、諸君は、自分もまた、この永遠の法則から免れないものだということを、どこまで深刻に自覚していると言えるでしょうか。」

 


一時一事で「今この一つ」に集中できたとしても、それをただ漫然と繰り返しているだけでは、人生を積み重ねたことにはなりません。「この一日は二度と来ない」という自覚があってはじめて、一つ一つの集中に、確かな重みが宿っていくのだと思います。
 

 

■ 死してなお残るもの
森信三先生は、この講の終わりに近い箇所で、次のように述べています。
「大切なことは、人間がその死後にも生きる精神とは、結局はその人の生前における真実心そのものだということです。すなわち、その人の生前における真実の深さに比例して、その人の精神は死後にも残るわけです。」

 


一つ一つの行いに、どれだけ真実味を込めたか。つまり、形だけではなく、どれだけ本気で向き合ったか。それが、その人がいなくなった後も残っていくものを決める、という話です。
 

 

■ 現代の教育・家庭・仕事・AI時代への接続
「今日という日は二度と戻らない」という感覚は、情報があふれ、時間が過ぎるのが早く感じられる今の時代だからこそ、より大切になっているように思います。

 


子どもにとっての「今日」は、二度と繰り返されません。同じ言葉をかけたつもりでも、その日その子が受け取る意味は一度きりのものです。
 

 

家庭でも、目の前にいる家族と過ごす今日という日は、来年の今日とは別のものです。
仕事でも、AIが多くの作業を代行してくれる時代だからこそ、「この仕事に自分がどう向き合ったか」という、この一度きりの時間の重みが、かえって際立つように思います。

 

 

効率よく繰り返すことはAIにもできます。けれど、「二度とないこの一日」を、どんな気持ちで生きたか。それは、自分にしか決められないことではないでしょうか。
 

 

■ 私が感じたこと
前回、「一時一事」というテーマを書きながら、私は「今この一つに集中すること」の大切さを実感しました。
一つのことに集中することで、日々の行動に芯が通っていきます。


けれど、そこに「今日という日は二度と戻らない」という自覚が加わると、同じ行動でも、その一日の意味は大きく変わります。
一時一事で始めたことを、「今日しかない」という自覚とともに続けていくこと。そうすることではじめて、日々の積み重ねが、その人固有の生き方になっていくのだと感じます。

 

 

■ 今日のまとめ
・「人生二度なし」とは、一度きりの人生をどう生きるかを問う、例外のない真理である
・目の前の一つに集中することに加え、「この一日は二度と来ない」という自覚が、一日一日を自分の生き方に変える
・生前の真実心の深さが、その人が死後も人の心に残していくものを決める

 


■ 今日の問いかけ
もし今日という日が、二度と繰り返されないとしたら。
あなたは、目の前の一つに、どんな気持ちで向き合いますか。

 


■ 今日の小さな実践
今日一日を終える前に、「今日という日は、もう二度と来ない」と一度だけ心の中で唱えてみてください。
その一言が、今日の一つ一つの行いに、少しだけ違う重みを与えるかもしれません。
今日も、小さな学びを一緒に重ねていきましょう。
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【NO331|新釈古事記伝 第41回】


おはようございます。けんいちです。

本日のテーマは「解決の先に、何を残すのか」です。


大きな仕事をひとつ終えたときのことを思い出してみてください。



締め切りに追われたプロジェクトが片づいた。長く抱えていた家庭の問題に、ひとまず区切りがついた。子どもの進路や受験の悩みに、一つの答えが出た。


ほっとするはずなのに、心のどこかに、ぽっかりと穴が空いたような感覚が残ることがあります。


「終わった」のに、「終わった気がしない」。


その違和感は、ただの疲れではないのかもしれません。もしかしたら、その経験の中で見つけたものを、まだ次の人に渡せていない、あるいは次に活かす準備ができていない合図なのかもしれません。


本日の問いは、


「解決の先に、私たちは何を残せるか」


です。


古事記には、この問いにヒントをくれる場面があります。


前回までの流れでは、スサノオは、出雲の地で人々を苦しめていた八岐大蛇と向き合いました。

ただ力まかせに斬りかかったのではありません。なぜこの問題が起きているのかを見つめ、守るべき人を守り、酒を用意して状況を整え、動くべき瞬間を見極めました。


そしてついに、大蛇を斬ることができました。


準備を重ね、状況を整え、タイミングを見極めて実行する。ここまでが、スサノオの「解決」の物語でした。


けれど、古事記の物語は、ここで終わりません。
スサノオが大蛇の尾を切っていたとき、持っていた剣の刃が欠けました。不思議に思って尾の中を確かめてみると、そこから一振りの立派な大刀が出てきました。


この剣は、のちに「草薙剣」と呼ばれることになる剣として語られています。また、「天叢雲剣」の名でも知られています。


スサノオはこの剣を見て、これは自分ひとりの手柄として持っていてよいものではない、と感じたのでしょう。自分の勝利の証として抱え込むのではなく、より大きな役割を持つものとして、高天原へ渡すべきだと考えたのかもしれません。そして、高天原にいる姉のアマテラスへ献上しました。


大蛇を倒したこと自体は、スサノオの大きな働きです。けれど、そこで見つけたものを自分のものとして抱え込まず、次へ渡した。物語が語りかけているのは、こちらの方だったのかもしれません。



■ 現代への解釈
問題を解決することと、そこで得たものを次に活かすことは、異なります。


大きな仕事をやり遂げたとき、私たちはたいてい「終わったこと」に意識が向きます。けれど、そのプロセスの中で、必ず何かを見つけているはずです。うまくいった理由、失敗しかけた原因、次はこうすればいいという気づき。


それを自分の中にしまい込んだままにするか、次の誰かに渡すか。


心に残る空白感は、もしかしたら「見つけたものを、まだ誰にも渡していない」という合図なのかもしれません。


■ 職場・家庭・教育への応用
職場で考えると、大きなプロジェクトが終わったとき、達成感だけで終わらせず、「今回気づいたこと」を言葉にして、チームに残すことができます。マニュアルでなくてもいい。一言のメモや、次の担当者への申し送りで十分です。


家庭で考えると、子育てや家庭内の課題を乗り越えたとき、その経験を家族の中だけで終わらせず、「今回こうしてよかった」という気づきを、配偶者や子どもと共有することができます。


教育の場で考えると、一つの課題をやり遂げた生徒や部下がいたとき、その経験を「その人だけのもの」で終わらせず、次の人が使える形にして渡す機会をつくることができます。


■ 今日の実践
最近、あなたが片づけた問題を1つだけ思い出してみてください。
そこで気づいたことを、1行だけ、誰か(同僚・家族・後輩)に伝えてみましょう。


大きな引き継ぎでなくて構いません。「今回、こうしたらうまくいった」という一言で十分です。


■ まとめ
・問題を解決することと、そこで見つけたものを次に活かすことは、異なる

 

・スサノオは大蛇を斬った後、見つけた剣を自分のものにせず、アマテラスに献上した
 

・解決の先に残すものは、結果だけでなく、そこで得た気づきや知恵かもしれない
 

・今日、片づけた問題から得た気づきを1つだけ、誰かに伝えてみる


最近できるようになったことの中に、次の誰かに渡せる気づきはありませんか。
コメントで教えていただけると、うれしいです。

■ 次回予告
アマテラスに剣を献上したあと、物語はスサノオの子孫たちの物語へと移っていきます。次回も、古事記を通して「行動につながる知恵」を一緒に考えていきましょう。


 

【NO330|日本教育100年の歴史シリーズ 第33回】


おはようございます。けんいちです。
日も「日本教育100年の歴史シリーズ」をお届けします。


■ 前回の振り返り
前回は、修身教授録 第二部 第十九講「自修の人」をもとに、「自ら学ぶ力はどこで育つのか」というテーマでお話ししました。
学びは、誰かに教えてもらうだけでは自分のものになりません。
教室の外、誰も見ていない時間に、自分で自分を修めていくこと。そこに、人間の厚みが育っていくというお話でした。
今回は、その続きをお届けします。


自分を修めるためには、ただ「学ぶ」だけでは足りません。
次に必要なのは、今なすべきことを見定め、そこに集中して実行することです。

今回は、修身教授録 第二部 第十五講「一時一事(いちじいちじ)」を手がかりに、「学びを実行に変えるための集中の工夫」を考えていきます。


■ 「一時一事」とは何か
「一時一事」とは、ある一時には、その時どうしてもなさなければならない唯一の事柄に、全力を集中して向かうことです。

 

 

簡単に言えば、「今この時間は、この一つだけをやる」ということです。

一つのことに集中することが大切だという理屈は、多くの人が知っています。しかし、実際にはなかなかできません。
なぜでしょうか。


■ なぜ、わかっていても実行できないのか
森信三先生は、「道理を実行に移すための工夫が足りないから」とおっしゃっています。


今なすべきことを見定めることは、実はそれほど難しくありません。やることリストを眺めれば、「これが一番大事だ」ということは、だいたい分かるものです。


本当に難しいのは、その次です。


それ以外のことを、一時手放すことです。


やることを選ぶことは、同時に「今はやらないこと」を決めることでもあります。

この両方が揃ってはじめて、実行できます。


森信三先生は、飛び込み台から水に飛び込む場面にたとえていらっしゃいます。


高い台に立ち、いざ飛び込もうとするとき、「もし失敗したら」「もう少し準備してから」という気持ちが湧いてきます。

その迷いを断ち切って、思い切って踏み切ること。これが、実行の入り口なのです。


そして、気持ちが白熱している間に、一気呵成に進めることが大切だとおっしゃっています。


剣道でも、面に行くか胴に行くか迷っていると、相手に一本取られます。

迷った方が負ける。

それは武道の話だけではなく、日常の実行にも通じる言葉だと思います。


■ 現代の教育・家庭・仕事・AI時代への接続
この「一時一事」の原則は、現代のさまざまな場面でそのまま使えます。


子どもが宿題に向かうとき、スマートフォンの通知を気にしながらでは、なかなか集中できません。

「今は宿題だけ」と環境を整えることが、実行への入り口です。


家庭での親子の会話でも同じです。

子どもが話しかけてきたとき、ながら対応では、子どもに「聞いてもらえた」という実感が生まれません。

その一瞬、他のことを手放して向き合うことが、信頼をつくります。


仕事でも、タスクが多いときほど「今日の一番」を決めることが大切です。

すべてを同時に進めようとすると、どれも中途半端になります。


そして、AIが日常に入り込んだ今の時代、情報や選択肢はさらに増えました。

情報が多い時代だからこそ、「今この一つ」を選ぶ力が、これからの教育の大切な要素になるのではないでしょうか。


■ 私が感じたこと
私自身、同時並行でいくつものことを進めた方が、効率がよいように感じることがあります。


メールを確認しながら資料を直し、途中で別のメモを開き、さらに次の予定のことも考える。
一見すると、たくさんのことを進めているように見えます。


けれど、気づくと午前中が終わっているのに、どの仕事も最後まで終わっていないことがあります。
しかも、頭の中には複数の仕事の途中経過が残ったままです。


「あれはどこまで進めたかな」
「この資料は何を直す予定だったかな」


そう思い出すところから始めるので、再開するときにも余計な時間がかかり、気持ちもどこか休まりません。


一方で、「今日はまずこれだけ」と決めて、一つずつ終わらせていくと、作業の完成度も上がり、一つ終わるごとに、頭も気持ちもすっきりします。


一時一事とは、単に効率よく仕事をするための方法ではなく、自分の心を整える工夫だと思います。


■ 今日のまとめ
・「一時一事」とは、今なすべき一つのことに、全力を集中して向かうことを指す

・実行には、着手する力と、それ以外を一時手放す力の両方が必要である

・集中して没頭する時間が、自分を修める力と、人間としての厚みを育てる


■ 今日の問いかけ
今、あなたが本当に向き合うべき一つのことは何でしょうか。
それ以外のことを、一時手放すとしたら、何を置いておきますか。


■ 今日の小さな実践
今日やることを一つだけ選び、15分だけそれに集中してみてください。

スマホを閉じる。通知を切る。他の作業を横に置く。

その15分が、「一時一事」の入口になるかもしれません。

今日も、小さな学びを一緒に重ねていきましょう。
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【NO329|新釈古事記伝 第40回】


おはようございます。けんいちです。
本日のテーマは「準備と実行の切り替えタイミング」です。

 


■ 準備ができても、すぐに動けるとは限らない
仕事で、伝えたいことは決まっているのに、なかなか切り出せないことはないでしょうか。
資料はできている。話す内容も整理できている。だけど、相手が忙しそうにしていたり、少し疲れているように見えたりすると、「今、話しても大丈夫だろうか」と迷ってしまうことがあります。

 


準備ができていることと、それを実際に行動に移せることは、別のことです。
 

 

家庭でも同じようなことがあります。
子どもに注意したいことがある。でも、帰ってきたばかりで疲れていそうなときに言うと、かえって反発されてしまうかもしれない。


夫婦で話し合いたいことがある。でも、相手が疲れている夜に切り出すと、落ち着いて話せないかもしれない。
 

 

伝える内容を考えることと、それをいつ伝えるかを見極めることは、別の力なのだと思います。
古事記には、その切り替えをわかりやすく見せてくれる場面があります。

 

 

■ スサノオは、なぜ待ったのか
前回は、スサノオが八岐大蛇に向き合う前に何をしたかを読み解きました。
まずクシナダヒメを安全な場所に移し、守るものを守りました。次に八つの門を設け、桶に酒を満たし、大蛇が自ら向かいたくなる状況を整えました。そして、動くタイミングを待ちました。

 

 

準備がすべて整ったとき、スサノオは動こうとせずに待ちました。
なぜか。準備が整っても、相手がそれを受け取れる状態でなければ、準備が活きないからです。

 

 

 

■ 動く瞬間を見極める
やがて八岐大蛇が現れました。八つの頭が八つの桶の酒をそれぞれ飲み始め、しだいに動きが止まっていきました。
スサノオは焦りませんでした。大蛇が十分に飲み、動けなくなったその瞬間をじっと待っていました。
そして、状況が整ったと見極めた瞬間一気に動きました。

 


古事記はこの場面を、短くシンプルに記しています。「十握剣を抜きて、その大蛇を斬り散らした」と。
長い準備の後の実行は、あっけないほど一瞬でした。

 

 

スサノオが示しているのは、「早く動け」ではありません。「準備が最も活きる瞬間を見極めてから動け」ということです。
 

 

■ 動く瞬間を見極める三つの視点
スサノオの行動を振り返ると、三つのことが見えてきます。
一つ目は、相手が受け取りやすい状態にあるかを読むことです。大蛇が酒を飲み、動けなくなるまで、スサノオは動きませんでした。相手の状態を先に確認してから動く。これは策略ではなく、準備を無駄にしないための判断です。

 


二つ目は、準備が最も活きる瞬間を選ぶことです。早すぎれば準備が空回りします。遅すぎれば機会が過ぎます。どちらでもない「今だ」という瞬間を選ぶことが大切です。

 


三つ目は、「今だ」と決めたら迷わないことです。スサノオは見極めた後、ためらいませんでした。迷いの長い実行は、タイミングを逃します。

 


■ 現代の私たちに置き換えると
職場で考えてみます。
提案や相談をするとき、内容よりもタイミングが結果を左右することがあります。

相手が多忙なとき、疲弊しているとき、別の問題で頭がいっぱいのときに切り出した話は、内容がよくても届きにくい。同じ内容でも、相手が落ち着いているとき、話しやすい雰囲気のときに切り出すだけで、受け取られ方が変わります。
 

 

同じ言葉でも、届き方は状況によって変わります。

 

 

家庭でも同じです。

子どもに大切なことを伝えたいとき、慌ただしい時間より、食後のリラックスした時間を選ぶだけで、話の届き方が違います。

 

夫婦間の話し合いも、どちらかが疲れているときより、両方が落ち着いているときに始める方が、言いたいことが伝わりやすくなります。


準備が整ったからといって、すぐに動く必要はありません。相手が受け取りやすい状態になるまで待つことも、大切な準備です。
 

 

■ 明日から試してみること
一つ目です。次に何か大切なことを切り出すとき、まず「今、この人は受け取れる状態だろうか」と一度自問してみましょう。内容を考える前に、相手の状態を確認する習慣を加えるだけで、伝わり方が変わることがあります。

 


二つ目です。動こうとする前に、「これは焦りからか、タイミングが来たからか」と3秒だけ自分に問いかけてみてください。焦りからの実行と、見極めからの実行では、結果が変わることがあります。

 


■ 今日の問いかけ
今、準備はできているのに動けていないことはありますか。それは、タイミングを待っているのでしょうか。それとも、別の何かが理由でしょうか。


コメントで教えていただけると、うれしいです。
 

■ 次回予告
スサノオが大蛇を斬ったその瞬間、大蛇の体内から思わぬものが見つかりました。
次回は、「動いてみて初めて見えるもの」というテーマで、その場面を読み解いていきます。
次回も、古事記を通して「行動につながる知恵」を一緒に考えていきましょう。

NO328|日本教育100年の歴史シリーズ 第32回


おはようございます。けんいちです。
今日も「日本教育100年の歴史シリーズ」をお届けします。
 

■ 前回の振り返り

前回は、修身教授録 第二部 第十三講をもとに、「なぜ人は伝記を読むのか」というテーマでお話ししました。

伝記は、偉人の成功談として読むものではありません。

その人が、どんな場面で悩み、どう自分を立て直し、どのように生き方を磨いていったのか。

そこにふれることで、自分自身の生き方を整えていくための「人間形成の手本」になるというお話でした。

今回は「そもそも、自ら学ぶ力はどこで育つのか」という問いを一緒に考えていきたいと思います。

 

 

■ 今回のテーマ

今回は、修身教授録 第二部 第十九講「自修の人」を手がかりに考えていきます。

「自修」と聞くと、自分で勉強すること、自習することを思い浮かべるかもしれません。

もちろん、それも大切です。

 

けれども、ここで語られている自修は、単に一人で机に向かうことではありません。

誰かに教えてもらったことを、その場限りで終わらせないこと。

学校や先生に頼るだけでなく、教室の外の時間、誰も見ていない時間に、自分で自分を修めていくこと。

それが、この講で語られている「自修の人」の意味だと感じます。

 

■ 学校で学ぶだけでは、人は完成しない

森信三先生は、学生たちに向けて、学校で過ごす時間について語ります。

小学校から数えれば、すでに長い年月を学校で過ごしている。

 

一方で、同級生の中には、すでに社会に出て働き、家や社会を支えている人もいる。

だからこそ、学生として学ぶ時間を、ただ受け身で過ごしてよいのか。
そう問いかけます。



これは、今の時代にも通じる問いだと思います。
 

学校に通っているから、学んでいる。

研修を受けているから、成長している。

本を読んでいるから、身についている。


そう思いたくなることがあります。



けれども、学ぶ機会があることと、人が育つことは同じではありません。

大切なのは、受け取ったものを、自分の生活の中でどう生かすかです。



■ 人間の厚みは、教室の外でつくられる

この講で特に印象に残っているのは、教室以外の時間に重点を置いている点です。

 

もちろん、授業中に集中して学ぶことは大切です。

けれども、人間の本当の厚みや味わいは、教室の中だけでできるものではありません。

 

むしろ、先生の目が届かないところで、どのように過ごしているか。

誰も見ていない時間に、自分をどう律しているか。

そこで、その人の中身が少しずつつくられていく。



これは、子どもだけの話ではありません。

大人も同じです。



誰かに見られている場では、きちんと振る舞える。

けれども、本当に自分をつくっているのは、見られていない時間の過ごし方なのかもしれません。



朝の時間をどう使うか。

移動時間に何を考えるか。

仕事が終わった後に、何をするか。



うまくいかなかった出来事を、そのままにするのか、次への学びに変えるのか。

そうした小さな積み重ねが、自分という人間をつくっていくのだと思います。

 

■ エスカレーターではなく、自分の足で上がる

この講の中には、エスカレーターの話が出てきます。

混んでいるとき、エスカレーターに乗らず、あえて階段を歩いて上がってみる。すると、思っていたほど遅くない。それどころか、自分の足で上がったという、ある種のすがすがしさがある。



この話は、単なる階段の話ではありません。
便利なものに頼ることが悪いわけではありません。



学校も、先生も、本も、AIも、私たちを助けてくれる大切な存在です。

けれども、最後に自分を前に進めるのは、自分の足です。

 

答えを聞くだけで終わるのか。

自分でもう一度考えてみるのか。

知識として知るだけで終わるのか。

今日の行動にひとつ移してみるのか。



その小さな違いが、時間とともに大きな差になっていくのではないでしょうか。



■ AI時代だからこそ「自修」が問われる

今は、情報を得ることがとても簡単になりました。

検索すれば、すぐに答えが出てきます。
AIに聞けば、短い時間で説明も整理もしてくれます。

だからこそ、これからの教育で問われるのは、「知っているかどうか」だけではありません。



何を問いにするのか。

得た情報を、自分の文脈でどう受け止めるのか。

そして、学んだことを、どう行動に変えるのか。

この力が、ますます大切になるように思います。



AIは、学びの入り口を広げてくれます。けれども、AIが代わりに自分を修めてくれるわけではありません。本も、先生も、学校も、AIも、きっかけを与えてくれる存在です。そのきっかけを、自分の成長に変えていくのは、最後は自分自身です。



■ 私が感じたこと

今回の「自修の人」を読んで、私は「学びを受け身で終わらせないこと」の大切さを感じました。

子どもに対しても、大人に対しても、私たちはつい「何を教えるか」を考えます。

もちろん、それは大切です。



けれども、それ以上に大切なのは、「教わった後に、その人が自分で歩き出せるか」なのだと思います。

子どもが「なんでだろう」と聞いてきたとき。後輩が「どうすればいいですか」と相談してきたとき。すぐに答えを渡すこともできます。でも、ときには「どう思う?」「どこが気になった?」「まず何を試してみる?」と問い返すことも大切です。



それは突き放すことではありません。

相手の中にある、自分で考え、自分で育っていく力を信じることです。



■ 今日のまとめ

・自修とは、単に一人で勉強することではなく、自分で自分を修めていく姿勢のこと

・人間の厚みは、授業や研修の時間だけでなく、誰も見ていない日常の過ごし方でつくられる

・学校、先生、本、AIは大切な助けになるが、最後に自分を育てるのは自分自身である



■ 今日の問いかけ

最近、あなた自身が「教わっただけで終わらせず、自分で行動に変えたこと」はありますか?

それは、どんな行動でしたか?

また、子どもや後輩が自分で考えようとしているとき、すぐに答えを渡しすぎていないでしょうか。



■ 今日の小さな実践

今日、ひとつだけでよいので、学んだことを行動に変えてみてください。


読んだ言葉を、誰かに伝える。

気づいたことを、ノートに一行書く。

うまくいかなかった出来事を、次に試す行動に変える。


その小さな一歩が、自分を修める入り口になるのだと思います。

今日も、小さな学びを一緒に重ねていきましょう。


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