村上春樹は長編作家なのか
何かと話題の村上春樹なので、村上春樹が書いた、長編小説をどれだけ読んでいるのか、確認してみた。
1Q84の三冊が発売されるまでのすべての長編小説は自分の本棚にあり、読んでいることがわかった。
ただし、内容はほとんど忘れている。
短編集に関しては、ある程度は本棚にあり、読んでいることも分かった。
村上春樹は、デビューが30才で、昨年に60才になっている。
30年間で書いた長編作品は、1Q84を含めて、12作品だから、多くはない。
村上春樹自身は、長編作家だと言っているけれど、数的には、短編が圧倒的に多い。これは、当たり前といえば、当たり前だけど。
村上春樹の翻訳本もけっこう読んではいる。
『アフターダーク』が2004年に書かれて、5年ぶりに、1Q84が書かれた。
6年前に読んだはずの、『アフターダーク』だけど、内容はすっかり忘れている。
なんとなく、もう一度読んでみようとページをめくってみると、『浅井エリ』という名前に出くわす。
『ふかえり』をイメージしてしまう。
村上春樹は、『えり』という名前が好みだったのだろうかと思ってしまう。
このぶんだと、『アフターダーク』をなんとなく、だらだらと再読してしまいそうだ。
1Q84 BOOK3 総括
昨日のアメブロのアクセス数が異常な数値になっていた。
アメブロのスタッフが何かを企んでいるのか。
全く、リアリティのないアクセス数だった。
リアリティといえば、ほとんどリアリティの感じられない、BOOK3で、リアリティを感じてしまった場面がある。
それは、牛河の殺害場面と天吾の父親が死亡してから、葬儀の手続きをする場面。
もちろん、殺人の場面など、目撃したわけではない。
ビニール袋を頭に被せて窒息死させるのはこんな感じなのだろうと、みょうに、リアリティを感じた。
確か、村上春樹氏は近頃、実父を亡くされているはずです。
その時の葬儀の手続きなどは実際に体験されているはずです。
だから、リアリティがある。
BOOK3でもっとも共感できたのは、天吾の父親の死亡から火葬するまでの場面だった。
葬儀の場面を、実際に何度も目にしている私としては、胸に迫るものがあった。
全般にリアリティが感じられないBOOK3だけど、姿の見えない、NHKの集金人は、実在の集金人なのか、天吾の父親の生霊なのかははっきりしない。
生霊というのは、現実の世界でもありえないわけではない。
BOOK1,2までは、パラレルワールドにしても、もしかしたら、ありえるかも知れない、現実と、非現実が交差する世界を描いていた。
ところが、BOOK3では、より非現実の世界に入り込んでしまったように思える。
村上春樹氏は、本来書くはずではなかった、BOOK3を急遽書くことにした。
村上春樹氏は迷っていた。
充分に構想を練って、推敲を重ねる時間もなく、見切り発車してしまった。
BOOK3では、新しいキャラクターは登場することなく、細かな情景描写の繰り返しと、言い訳の繰り返しと、天吾と青豆の再開のために、膨大なページを費やしてしまった。
単なるファンタジーとしても、SF小説としても、中止半端で、もちろん、純文学でもない。
ファンタジーであっても、SFであっても、その物語の世界には、その物語の世界のルールと合理性があるはず。
物語がそのようなルールと合理性に基づいて展開されるなら、物語はリアリティを持ち、読者は共感する。
ご都合主義的な、あるいは、決して現実の世界では起こりえない、超常現象的な展開をする場合は、それに対する合理的な説明は必要だろうと思う。
もしかしたら、村上春樹氏は精神的に追い詰められた状態で書いたのかも知れない。
BOOK3の続編があるとしたら、充分に構想を練ってほしい。
続編のタイトルは、必ずしも、『1Q84 BOOK4』である必要はない。
天吾と青豆は、1Q84のパラレルワールドから、現実の1984に戻ってきたのだから、タイトルは全く別のものになってもいいだろうと思う。
天吾と青豆とその子供と、『さきがけ』との対決の物語として書いてもいいのではないかと思う。
卵と壁、あるいは、個人とシステムという対決の物語にすれば、分かりやすくて、すっきりする。
村上春樹氏の作品は、『風の歌を聴け』以来、長編を中心として、おおむね読んできた。作風は、作家が年齢を重ねるとともに変化したように思う。
村上春樹氏が、1Q84的作風で今後も書き続けるのであれば、残念ながら、ノーベル文学賞は霧の向こうに姿を消すのではないかと思われる。
青豆の子は誰の子
1Q84 BOOK3 の気になるところの続きです。
青豆は妊娠してしまう。
しかし、誰の子なのか。
青豆は、天吾の子だと言っているがそんなことがありえるのか。
これだと、まるで、超常現象だ。
SFであっても、その世界での合理性に沿って、物事は起こっている。
1Q84はパラレルワールドであって、小説というものがフィクションであっても、フィクションの中での合理性はあるべきだろう。
月が二つあることは単なる幻覚だろうということで説明ができる部分があるが、天吾と、青豆は、子供ができるような行為はしていない。
ただ、天吾と、ふかえりの交わりはあった。
だとしたら、ふかえりが青豆だというのか。
それとも、ただの、想像妊娠なのか。
青豆の妊娠に納得できる読者はどれだけいるだろうか。
まるで、処女懐胎だ。
小説だから、パラレルワールドだから、何が起こっても不思議ではないということで、読者は納得するのか。
青豆の妊娠によって、BOOK3 は陳腐なオカルト小説まがいになってしまったように思う。
構想が行き詰ったために、苦肉の策として、青豆が妊娠するという離れ業を登場させたのだろうか。
青豆の子供を、『さきがけ』が追い求めているのはなぜなのか。
一つの可能性としては、青豆の父親が、『さきがけ』のリーダーだとは考えられないだろうか。
この考えもオカルト的ではあるが、青豆がリーダーを殺害する時に、超常的な力によって、あるいは生物学的な行為によって、リーダーが青豆を妊娠させた可能性はないのか。
そうであれば、『さきがけ』が青豆の子供を求めているのは納得できる。
いくら、フィクションとはいえ、超常現象的な出来事に対しては、読者が納得するような説明とか、ヒント、暗喩が、どこかにないと、読者は離れてしまう。
BOOK3を読んで、なんだこれは、SFか、オカルト小説だと思った読者も多いのではないかと思う。
600ページもの長さで、中途半端な、アクション・オカルト・恋愛小説を読まされたのだとしたら、納得しない。
村上春樹氏は、もともと、BOOK3は書く予定ではなくて、BOOK1,2の反響が大きくて、急いでBOOK3を書いてしまったのではないかと思う。
BOOK3はそれまでの2作とは別物のような気がする。
じっくり、構想を練ることもなく、書きながら展開を考えていた。
そのために、同じ情景の描写の文章が繰り返された。
これは、作家の迷いの現れだと思う。
迷ったあげくに、合理性のない、青豆の妊娠という展開にしてしまったのではないか。
一読者としては納得がいかない。
納得ができない部分は他にもある。
続編を書くのであれば、合理的な説明のつく物語にしてほしい。
ファンタジーだからといって、何でもありではない。
牛河の悲劇
続いて、『1Q84 BOOK3』の気になるところを書きます。
このBOOK3では、牛河がもっとも悲劇的な運命を持っていた。
彼は、弁護士として、法に触れるような事をしていたのかも知れない。
しかし、少なくとも、殺人などどいう大きな犯罪は犯していない。
にもかかわらず、殺されてしまう。
殺人を犯していたのは、青豆とタマル。
人道的に、青豆とタマルこそが、何らかの形で死を迎えなければ、納得できないし、物語は完結しない。
心情的には、犯罪を犯した人間がのほほんと生きているというのは許しがたい。
私は、牛河が哀れでならない。
死んだ牛河の口からなぜリトルピープルが出てきたのか。
そもそもリトルピープルとは何なのか。
気になるところはまだまだある。
前2作と、BOOK3では、どうも様子が異なる。
本来は、BOOK2で完結したはずだったのではないかと思える。
総合的な感想のようなものはのちほど書くして、気にな部分を書き続けていきます。
村上春樹も、出版社も急ぎすぎたのか?
1Q84 BOOK3 を読み終えました。
まず、気になったところを書いてみます。
多くの読者はあまり気にもしていないかも知れません。
しかし、個人的には気になります。
村上春樹氏は、書き急いだのではないかと感じます。
出版社も出版を急ぎすぎたのではないかと思います。
同じような文章を何度も繰り返しているのは、作家が迷っている証拠です。
次の展開がはっきりとは見えていないから、同じ内容の文章を繰り返してしまう。
出版社も出版を急いだ結果、小さな印刷ミスもありました。
1Q84 BOOK3 の560 ページから561ページにかけて、会話文の「 」が抜け落ちている部分が数か所ありました。
BOOK1,2が売れてしまったので、村上春樹氏も急いで書いてしまったし、出版社も製本を急いだ感じがする。
また、気になった言葉もあった。
1Q84 BOOK3 の508ページにマルタが、『今日死んでしまえば、明日は死なずにすむ』と言う。
これは、シェイクスピアの、『ヘンリー四世』からの引用だと思う。
この引用は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の第五章にも書かれている。
しかし、微妙に表現が違う。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、「今年死ねば来年はもう死なないのだ」と書かれている。
表現が微妙に違っている。
正確な引用をするのであれば、1Q84 BOOK3 でも、「今年死ねば来年はもう死なないのだ」と書くのではないかと思われる。
「今日」と「今年」では時間的に大きな隔たりがある。
村上春樹氏がそういうところの確認作業もしないで、この引用をしたとしたら、やはり、書き急いでいたと考えるべきだろう。
まだまだ気になることはあるけど、のちほど、書きます。