週末シアターゴアーの傾く日常 -6ページ目

ブラジル 「天国」

2007年7月18日(木)~7月22日(日) 中野ザ・ポケット
脚本/演出:ブラジリィー・アン・山田
出演:辰巳智秋、西山聡、諌山幸治、若狭勝也(KAKUTA )、中川智明
山本了(同居人 )、山田佑美(無機王)、こいけけいこ(リュカ. )、本間剛


物語は期間工たちの物語として語られているのですが
同時に現在についても語られているのです。


期間工はフリーターと同様、非正規雇用の形式であり
現在の多様性を描くための1要素として描かれているのです。

(チェルフィッチュの「エンジョイ」、ポツドールなどでも)


また、セクシャルマイノリティや、幼児性愛、インターネットなどの表現が

非常に巧みに物語に組み込まれている様は見事としか言いようが無いのです。


近年の小劇場で様々な表現として散見される
「過剰なグロテスク」が、ここにも観る事が出来るのです。


ただ、表現として、何か間接的とも言える垢抜けない感触があるのです。
その理由は、表現の意志と、その手法、身体とのギャップにあるのでは無いかと
感じられるのです。そのため「フリーター」では無く「期間工」へ変換された

のでは無いかとさえ思えるのです。


しかし、その圧倒的ですらある脚本には脱帽なのです。


NODA・MAP番外公演 「THE BEE」 ロンドンバージョン

2007年7月12日(木)~7月29日(日) シアタートラム
原作:筒井康隆
脚本:野田秀樹/コリン・ティーバン
出演:キャサリン・ハンター、トニー・ベル、グリン・プリチャード、野田秀樹


筒井康隆原作によるスラップスティック的とも言える物語は
暴力、メディア、報復の連鎖などの要素を含みながら
強いアイロニーが感じられる物語となっているのです。


抽象表現劇としての特長を駆使した表現であると
言えるのですが、その圧倒的なアイデアとテンポ感、身体性は
やはり、野田秀樹ならではの表現だと思われるのです。


このロンドンバージョンでは、英国人が日本人が演じるという事と
主要な登場人物のセックスが逆転している事で、生まれる
表現の間接性は、ある種の客観性を生んでいると感じられるのです。


非常に面白いのです。


世田谷パブリックシアター 「国盗人」

2007年6月23日(金)~7月14日(土) 世田谷パブリックシアター
作:河合祥一郎
演出/出演:野村萬斎
作調:田中傳左衛門
出演:白石加代子、石田幸雄、大森博史、今井朋彦、山野史人、月崎晴夫
小美濃利明、じゅんじゅん、すがぽん、坂根泰士、土山紘史、時田光洋
平原テツ(reset-N)、盛隆二(イキウメ )、大竹えり(少年社中 )、大城ケイ
荻原もみぢ(劇団上田 )、黒川深雪(InnocentSphere )、福留律子


シェイクスピアの「リチャード三世」を下敷きとした作品。


基本的には抽象表現劇であると言えるのですが、異化であるかと思えば
メタ的な表現があり、歌ありダンスありと、非常に多彩な手つきが感じられるのです。


注目すべきは、シェイクスピアを下敷きとする事で、西洋の古典へと接続し
同時に(野村を中心とした役者の)台詞廻しや演奏は狂言へと接続して
おきながらも、役者の身体、台詞としての言語は一部は、現代のもの
となっているのです。


結果、西洋、東洋、古典、現代の要素が同時に存在する事
となるのです。


また、軽快なテンポ感が感じられるその劇は、エンタテイメント的と
言えるほどの明解さなのです。


ここまで、表現の意志とエンタテイメント要素が両立する
劇を観たことが無いのです。


野村萬斎、恐るべし。なのです。


ポツドール+三鷹市芸術文化センター 「人間失格」

2007年7月6日(金)~7月16日(月) 三鷹市芸術文化センター 星のホール
脚本/演出:三浦大輔
出演:米村亮太朗、古澤裕介、岩瀬亮、白神美央、深谷由梨香(柿喰う客 )


太宰の「人間失格」をモチーフとした公演。


前回公演の「激情 」では、空間の広さに対応して、これまでの
「リアル」な表現から抽象的表現に向かったように感じられたのですが

本公演では、やはり「リアル」が感じられるのです。

ただ、これまでと異なる点がいくつか散見されるのです。


時間経過表示が伴わない暗転となっている点は
「激情」と同じなのですが、時間経過は別の表現で間接的
に表現されていると考えられるのです。


それは、テレビなのですが、「はなまるマーケット」や
「笑っていいとも」などの放送時間が一般的によく知られている
番組を映すことにより、間接的に時間の経過を表現していると
考えられるのです。


また、テレビで放送されている内容が劇の内容とリンクする表現が
あるのも、特徴的であると言えるのです。


もう一点として、物語の後半の時間が繰り返される事が挙げられるのですが
それは、物語の前半を受けての後半が2バージョンあるといったように解釈
できるのです。


結果、劇中での時間が遡る事となっているのですが

物語として、時間が遡っているのでは無いのです。
あくまでも、後半の時間が2回あるだけなのです。


表現としての軸は「リアル」に置きながら、物語を語る手法としての
枠組みを徐々に広げつつあるように感じられるのです。


面白いのです。


「はなまるカフェ」のゲストは館ひろしなのです。


阿佐ヶ谷スパイダース 「少女とガソリン」

2007年6月9日(土)~7月4日(水) ザ・スズナリ
作/演出/出演:長塚圭史
出演:中村まこと(猫のホテル )松村武(カムカムミニキーナ )、池田鉄洋(猫のホテル)

中山祐一朗、伊達暁、富岡晃一郎、大林勝、下宮里穂子、犬山イヌコ(ナイロン100℃


手練れの役者達による役者祭りの様相を呈しているのです。


通常、役者祭りとなった場合、そこが表現の中心となってしまい
「それだけ」になりがちなのですが、それだけに終わっていない
あたりは見事なのです。


しかし、その劇のスタイルは、非常にオーソドックスであり
古めかしくさえあると感じられるのです。


それは、その(演劇的省略を多用する等の意味での)抽象的表現
にあると思われるのですが、もちろん、全ての抽象的表現が古めかしい訳
では無いのです。


例えば、ケラ、野田秀樹、ブルースカイなども抽象的表現を多用する
作家と言えるのですが、決して古めかしくは感じられないのです。


それは、ケラや、野田秀樹、ブルースカイなどには、表現に独特の手つきが
感じられるからなのです。


つまり、長塚圭史には、表現に独特の手つき、つまり演出を含む作家性が希薄だと
言えると思われるのです。


長塚の手つきとして、挙げられるのは、物語レベルでの「閉塞した状況」や
「グロテスク性」(本公演では腕の切断など)があるくらいなのです。


そのため、スタイルとしての古めかしさが、そのまま表出してしまっていると

感じられるのです。


全体として、やはり物足りないのです。


ポかリン記憶舎 「息・秘そめて」

2007年6月19日(火)~6月24日(日) こまばアゴラ劇場
作/演出:明神慈
出演:中島美紀、日下部そう、浦壁詔一、並木大輔、古屋隆太(青年団

福士史麻(青年団)、境宏子(リュカ. )、カネダ淳、井上幸太郎、桜井昭子


長めの間や最小限にとどめられた台詞により
非常にゆるやかな時間の流れに感じられるのです。


台詞が少ない場合、物語は抽象性を帯びると
思われるのですが、そうはなっていないのです。


それは、少ない台詞を補完するために、身体、特に
視線の位置がとても巧みに、効果的に使用されているからなのです。


それぞれの登場人物の視線の位置により、キャラクターや
感情、他の登場人物との関係性までもが、表現されているのです。


また、決して悪意が表出しないこの物語は、何か

不思議な浮遊感が得られるのです。


面白いのです。


青年団若手自主企画 「スネークさん」

2007年6月20日(水)~6月25日 アトリエ春風舎
作:ツキムラニホ
演出:木崎友紀子
出演:井上三奈子、川隅奈保子、工藤倫子、申そげ、鈴木智香子
月村丹生、兵藤公美、松田弘子、田畑真希


断片的なイメージを紡いだ「芝居ダンス演劇」


以前観たもの と比較して、多くの点で明らかに異なっている
印象なのです。


それは身体が非常に強く表出している点なのです。
身体の激しい動き、露出などが、密度感を伴って過剰なまでに
表現されているのです。


これは、最近の青年団若手自主企画のある大きな流れに
通じるものがあると感じられるのです。



平田オリザ(青年団)の現代口語演劇は演劇界に
大きな影響を及ぼしたのは言うまでも無いのですが
時間の経過と共に現代口語演劇は劇としての強度が

弱体化しつつあると思われるのです。


それは、現代口語演劇はリアリズムに比重を置いた手法と言う事が

できるのですが、そのリアリズムは、あくまでも舞台上に限定される事なのです。

つまり「メタレベルへ展開する事ができない」事なのです。
この現代口語演劇の次の段階を「青年団若手自主企画」の一部

では模索しているように感じられるのです。


この点に関して、意識的に感じられたは、去年の多田淳之介による
再生 」なのです。

この劇では、非常に動きの激しい劇が三回繰り返されるという
形式が特長的だったのですが、ここで表現された「疲弊してゆく役者」
は、次の公演「UNLOCK 」でもしゃにむにシャドウボクシングを続ける
役者達として表現されていたのです。


では、この「疲弊してゆく役者」とは何なのか。


これは、ある意味でメタレベルでのリアリズムの表現
と解釈する事が可能であると思われるのです。


現代口語演劇の弱点は、先に述べたように、あくまで
舞台上のみで表現される事だったのですが
激しく動き、汗をかき、呼吸を荒くして、疲弊してゆく役者の身体は
舞台上、舞台外においてもどこまでも「リアル」であり
そういった意味においてはメタレベルでの表現という事が
出来ると思われるのです。


ただ、この手法には問題点があるのです。


それは「疲弊してゆく根拠」なのです。


「再生」では、「劇を繰り返す」事が根拠だったのですが
非常に特殊な形式であり、普遍性は感じられないのです。


今回の公演では「芝居ダンス演劇」というその形式に
あったと言えるのですが、確かにこの形式に限定すれば
普遍化は可能であると言えるのですが、この形式自体が

やはり、特殊なものであり、普遍的であるとは言えないと

思われるのです。


「疲弊してゆく根拠」の問題が解決出来れば、普遍化が
可能であると思われるのです。



「スネークさん」なのですが
動きが非常に激しく、身体が強く表現されているために
何かプリミティブ性までもが表現されていた印象なのです。


非常に面白いのです。



松井周(青年団)の次回公演(9月)のタイトルは
「カロリーの消費」というらしいのです。
当然、現時点で劇の内容は全くわからないのですが、何か同じ表現が
なされている可能性を感じさせるタイトルに思えるのです。


もちろん、全く違うのかもしれないのです。


ファミリー劇場 「ウルトラマンショー」

2007年6月16日(土) 東京ビッグサイト
作/演出:不明
出演:ウルトラマンレクサス、ウルトラマンタロウ、ウルトラの父、ウルトラの母
悪役のウルトラマン2人(名前不明)、怪獣4匹(名前不明)、司会のお姉さん


今のウルトラマンはレクサスと言うらしいのですが
ショーとして、その様式は昔から変わっていないのです。


特徴として、観客が二層となっており(子供とその親)
演じられる内容も二層となっているのです。
(司会のお姉さんのパートとウルトラマンのパート)


司会のお姉さんは、物語の理解を補助し、盛り上げるものとして機能し
ショーのド真ん中などにも登場し、盛んに観客に向かって呼びかけるのです。
これは通常ならば異化として作用するように思われるのですが
観ている子供達には、異化と作用しないように見えるのです。


それはおそらく、子供達には、二層となっている物語が
一層に見えるからだと思われるのです。


その理由は「子供だから」としか言いようが無いのですが
この、演劇の手法が通用しない「子供」という存在は
何か映画「イノセンス」のハラウエイの言葉が思い起こさせるのです。


また、ショーの中で、ウルトラマンや怪獣は台詞やかけ声を発するのですが
演者(着ぐるみの人)自身が発するものではないのです。
これは、ムーバー(ウルトラマンや怪獣)とスピーカー
(台詞を発する者、もしくは音源)と分かれているからなのです。


そうです。ウルトラマンショーはク・ナウカ様式だったのです。
いや、ク・ナウカ様式はウルトラマンショー様式に近い。と
言うべきなのかもしれないのです。


あの、半ば冗談ですので。


青年団国際演劇交流プロジェクト2007 「愛のはじまり」

2007年6月7日(木)~6月10日(日) こまばアゴラ劇場
作/演出:パスカル・ランベール
翻訳:松田弘子
出演:永井秀樹、荻野友里


フランスのジュヌヴィリエ国立演劇センター芸術監督
パスカル・ランベールによる作/演出。


とても平たく言ってしまうと、遠距離恋愛(パリとニューヨーク)
のお話となってしまうのですが、注目すべきは、その手法なのです。


基本的に詩的なお互いの愛を語るテキストを中心として舞台は進行する
のですが、それに対する身体は、ほとんど動きが無いのです。


ただ、ほんの数カ所なのですが身体の動きが表現されている箇所
があるのですが、これまでの微動だにしない身体との落差と
そのテキストが相まって、官能的ですらあるのです。


照明には蛍光灯を非常に効果的に使用しているのですが

その蛍光灯のノイズまでも計算されている印象なのです。


とても刺激的なのです。


劇団、本谷有希子 「ファイナルファンタジックスーパーノーフラット」

2007年6月4日(月)~6月24日(日) 吉祥寺シアター
作/演出:本谷有希子
出演:高橋一生、笠木泉(アデュー )、吉本菜穂子、ノゾエ征爾(はえぎわ
松浦和香子(ベターポーヅ )、高山のえみ、斉木茉奈、すほうれいこ


2001年以来の再演。


本谷は、これまで、演劇に対する文学的アプローチによって
非常に特殊な状況でのある特定の心の振幅を描いてきたのですが

本公演では、その描かれ方がある特定のものではなく
とても一般的に感じられるのです。


それは、物語がこれまでと比較して、大きめであることや
それを描くまでの題材にあるのではないかと思われるのです。


二次元フェチの自閉的な主人公も、自殺志願者webサイトも
ある信念に基づくヒエラルキー的団体の共同生活も
2001年当時とは異なり、すでに繰り返し扱われてきた
非常に手垢のついた題材という事が言えるのです。


確かにそれらを題材にしていながらも、遊園地を舞台に
ファンタジックな印象を持たす事には成功していると思われるのですが

演劇としての強度不足は否めない印象なのです。


いや、それでも面白いのです。