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2月8日は、日本を代表する作曲家伊福部昭(いふくべ あきら、1914年5月31日~2006年2月8日)氏の命日
伊福部昭氏は、女優そしてピアニストの松下奈緒さんが在学した東京音楽大学にも在籍していて、教鞭ととっていらした方です
でも、一般には知られていないと思います
そんな人を、クラシック通でもない自分が何故知っているのか?
実は、伊福部昭氏は、映画音楽もてがけており、特に東宝の特撮映画(「ゴジラ」シリーズなど)には深く関与されていました
特撮映画「ゴジラ」が大好きな自分が、BGMに流れている曲が気になり、伊福部氏を知ったということなのです(特に、「自衛隊」の行進曲が気にいりました)
以降、「ゴジラ」イコール「伊福部昭」という関係で、伊福部氏の作曲された曲を聴きあさり、しまいにはコンサートにも行ってしまったほどです

また、ゴジラの鳴き声についての逸話について以下のようなことがあったということを後で知って感心してしまいました
「なかなか決まらず難儀していたゴジラの鳴き声の表現に、コントラバスのスル・ポンティチェロという軋んだ奏法の音を使用することを発案した(最終的に音響技師が、テープを逆回転させるなどし、完成させる)」
特技監督であった円谷英二氏や、この伊福部昭氏のおかげで、なおいっそう、ゴジラシリーズに自分がのめりこんでいったと言えます
そう言えば、伊福部氏の息子さん(作曲家ではありませんが)が、緊急地震速報の警戒音の担当をしたそうです
地震が迫ってくるのは、ゴジラのように感じられるからだろうか?
ところで、そのゴジラもハリウッド版ゴジラとして、復活し、第二弾も公開されようとしています
それに乗じて、東宝も2016年にゴジラ復活しました
ハリウッド版のゴジラは伊福部音楽をリスペクトしてBGMを作ったようだけど、ちょっとね…
日本版「シン・ゴジラ」はしっかり伊福部氏の音楽をオマージュしてました
(去年の記事を引用しました)
頭痛を和らげる方法教えて?
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1月29日は、アメリカの有名俳優アラン・ラッド(Alan Ladd, 1913年9月3日 ~1964年1月29日)の命日
アラン・ラッドと聞いて、今の人はあまりピンと来ないかもしれませんね
映画「シェーン」(1953年)と聞くと、何となくわかるのではないでしょうか?
アラン・ラッドはアメリカの西部劇映画の代表作品「シェーン」の主役:シェーンを演じた人なのです
自分は、幼い頃、この「シェーン」を見てとりこになってしまいました
物静かでやさしい、でも、いざというときは強く頼もしい
最後の決闘のシーン
ジャックパランス扮する二丁拳銃の悪役との対決
伝説の0.6秒の早撃ち
ジョーイ少年が「シェーン!カム・バック」と叫ぶラストシーン
そして、シェーンが去って行く姿はいつまでも脳裏に残っています
そして、アラン・ラッドがかっこいい
「美男子」、今のイケメンとはまた違うのでしょうが…
アラン・ラッドは、「シェーン」の他いろいろな映画に出演されていて、その映画を自分は見ていると思うのですが、どのような役で出ていたか、わかりません
幼少の時に見た映画ですから、「シェーン」のように主役では無い限り、記憶に残っていないのでしょうね
日本の時代劇と同じように、アメリカの西部劇は影が薄くなってしまいました
今一度、西部劇も見てみたい
「シェーン、カムバック!」
今日(1月25日)は、特撮監督円谷英二(つぶらや えいじ、1901年7月7日~ 1970年1月25日)の命日
円谷英二とくれば、「特撮の神様」でしょうね
円谷氏は、自分を特撮マニアに引きずり込んだ、日本初の本格的特撮怪獣映画「ゴジラ」(1954年公開)の特技監督です
2014年に、くしくも円谷氏の誕生月にハリウッド版として「ゴジラ」が復活しましたが、初代「ゴジラ」は氏が53歳の時の作品だそうです
その後、自分が好きなテレビ特撮番組の「ウルトラQ」(1964年、氏63歳の作品)、テレビ特撮番組第2弾「ウルトラマン」(1966年、氏65歳の作品)を世に送り出されて、子供達をとりこにしたのは言うまでもありません
怪獣ブームはこのとき始まったのでしょうね
意外だったのは、これらの作品は、円谷英二氏が50歳を過ぎて作り上げたものと言うこと
そんな円谷英二氏の影響を受けた人は数多くいるでしょう
子供の時見た「ウルトラQ」は恐かった
ラストの石坂浩二さんのナレーションにはいつもびくっとしていたなあ
「あなたの眼は、まもなくあなたの体を離れ、この不思議な世界に入って行くのです…」
(石坂浩二さんをこの作品に引き込んだのは、この作品で江戸川由利子を演じた桜井浩子さんでした(ウルトラマン青春記より))
お恥ずかしいことですが、円谷英二が、自分の好きなPプロ(マグマ大使、スペクトルマン、怪傑ライオン丸、風雲ライオン丸等)の生みの親である鷺巣富雄(うしおそうじ)の上司及び師匠だった言うことは認識がありませんでした
そんな円谷英二氏が世に送り出した作りだした以下のSF映画・怪獣映画 も見ました
「美女と液体人間」(1958年、東宝)、「電送人間」(1960年、東宝)、「ガス人間第一号」(1960年、東宝)「マタンゴ」(1963年、東宝)は、幼い頃テレビの再放送で見たのですが、今の恐怖映画に近く、強い衝撃を受けたなあ
「地球防衛軍」(1957年、東宝)
「宇宙大戦争」(1959年、東宝)
「妖星ゴラス」(1962年、東宝)
「マタンゴ」(1963年、東宝)
「海底軍艦」(1963年、東宝)
「緯度0大作戦」(1969年、東宝・ドン=シャーププロ):映画館で見ました
ゴジラシリーズ
「ゴジラ」(1954年、東宝)
「ゴジラの逆襲」(1955年、東宝)
「キングコング対ゴジラ」(1962年、東宝)
「モスラ対ゴジラ」(1964年、東宝)
「三大怪獣地球最大の決戦」(1964年、東宝)
「怪獣大戦争」(1965年、東宝)
「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」(1966年、東宝)
「空の大怪獣ラドン」(1956年、東宝)
「大怪獣バラン」(1958年、東宝)
「モスラ」(1961年、東宝)
「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964年、東宝)
「フランケンシュタイン対地底怪獣」(1965年、東宝)
「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(1966年、東宝)
「キングコングの逆襲」(1967年、東宝):映画館で見ました
「ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣」(1970年、東宝)※監修(名義のみ)
円谷英二は、「特撮の神様」と呼ばれるくらい、新しいものを取り入れ、新しい発想と独創性で日本の特撮の道を築いて来た、別な意味でのものつくりの一人として尊敬できる人だとも思います
(過去の記事を引用しました)
ちなみに、長男の円谷一氏もやはり2月が命日にあたります
円谷一氏が亡くなった1973年2月は、ちょうど、風雲ライオン丸のキャラクター:ライオン丸を高山良作氏が作っている最中であり、急な逝去に、仕事を中断し、うしおそうじ氏(当時ピープロ社長)と告別式に参列している
印象に残っているヒーローは?
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10年前(2016年)1月に、「スターマン」「レッツ・ダンス」などの大ヒット曲で知られる英ロックシーンを代表する歌手、デヴィッド・ボウイさんが亡くなった
69歳だったそうです
1年半にわたりがんで闘病していて、愛する家族に見守られての最期だったそうです
当時、ネットでニュースを見たときは、思わず声を上げてしまいました
スーパースターもがんには勝てなかったか…
1983年に公開され、坂本龍一さんやビートたけしさんとの共演も話題になった大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」に主演したのが思い出されます
自分としては、デヴィッド・ボウイの曲をよく聞いていたわけではありませんでした
でも、海外アーティストの曲を聞くときに必ずと言っていいほど、彼の曲が耳に入ってきたと言っていいと思います
1977年に発表された「ヒーローズ」(”Heroes”/David Bowie)
2007年にNHKEテレの「ジュークボックス英会話」で紹介されました
当時、米ソ冷戦下にあって、ベルリンの壁が存在していたときに、彼はそれに向けてメッセージを込めて作ったとされています
デヴィッド・ボウイの反戦歌と言うべきものでしょうか?
歌詞の中にもベルリンの壁を思わせるwallと言う歌詞や、敵と言う表現のthemやgunsという歌詞が出てきます
そんな中でも、デヴィッド・ボウイは、愛する男女は1日だけヒーローになれると強調する
”Heroes”/David Bowie
I,I wish you could swin
Like the dolphins
Like dolphins can swin
Though nothing,
Nothing will keep us together
We can beat them
Forever and ever
Oh,we can be heroes
Just for one day
I,I will be king
And you,you will be gueen
Though nothing
Will drive thme away
We can be heroes
Just for one day
We ca be us
Just for one day
I,I can remember
Standing by the wall
And the guns
Shot above our heads
And we kissed
As though nothing could fall
And the shame
Was on the other side
Oh, we can beat them
Forever and ever
Then we can be heroes
Just for one day
We can be heroes
We can be heroes
We can be heroes
Just for one day
(歌詞は「ジュークボックス英会話」より)
今は米ソ冷戦時代は終わり、ベルリンの壁は無くなった
しかし、テロリストが世界をはびこり、あちこちで命を落とす人が今でもいる
さらに、ウクライナ戦争、ガザ地区の紛争、未だに南北寸断された朝鮮半島に緊張が走る現在
世界の各地で、火種が起きている
デヴィッド・ボウイのメッセージをもう一度、聞き直してみてはどうだろうか?
改めて、ご冥福を申し上げます
終活のブログ
ブログ19年目
途中、パソコンの故障や病症の発症などで、中断した期間は6年
アメブロに登録したのは18年前の2008年の3月
あるタレントの日記を読むために登録しただけで、自分がここに記事を書くなど微塵も思っていませんでした
そして、実際、記事を書き始めたのが、17年前の2009年1月
その前の1年間は、ペタを受けるだけでした(今はペタ機能はない)
当時、ペタは不規則ですがいつも一人の人から来てました
そのうち、そのペタが2人になり、3人になり、多くなっていったのです(今はペタ機能は無い)
しばらくブログのプロフィールは何もなく、記事なぞ何も無かったにもかかわらずです
その後、なんとなく書き始めた記事
ただ、他のブログ(楽天とauです。楽天だけちょっと。今auはない)では、すでに2008年から記事は書いていました
ただ、そこのブログよりアメブロが面白そうだから、乗り換えたと言った方がいいでしょう
2016年の5月、PCが壊れ、途切れました
その後、PC修復後も再度破損し、ようやく、10月に新しいPCを購入したときは、ブログを書く気力がありませんでした
一度、放置された書き込みは、なかなか元に戻らない
見に行くことはあっても、コメントも残せない
そんなものだろうなあ
でも、個人の日記(ノートパソコン)には記事を書いていました
それをアメブロに記載する気力が無かった…
病気もいろいろ発症していました(入院、手術、そして、多くの病院への通院がまだ続く)
自分のブログの最後の記事への「いいね」はまだ続いていたようだ
ただし、人のブログは読んでいたので、こちらからの一方的な「いいね」(足跡)は残していた
ブログの訪問も、最近は、一日中から、午前中に限られている
一文のブログをぼちぼちやっていて、ようやく、2024年に本格的にブログを再開した
これは、被爆二世として一種の終活と言う名のブログだろう
過去の記事を引用しました
今日(1月11日)は、零戦の設計技術者堀越二郎(ほりこしじろう、1903年6月22日 - 1982年1月11日)の命日
今は亡き堀越二郎さんは、第二次大戦中の戦闘機「零式艦上戦闘機」(ゼロ戦)の設計者であり、昭和期の日本の航空技術者です
ゼロ戦については、設計者というより、ゼロ戦開発設計のプロジェクトリーダであり、製造をも兼ねる設計チームの主任であったと言うべきでしょう
終戦後、日本初の国産旅客機YS-11にも、今は亡き木村秀政先生とともに設計に携わりました
(堀越氏と木村先生は大学の同期なんだよね)
設計者というのは、とかく、視野が狭くなり(俗に言う設計バカ)、ひとつの技術に執着してしまうものです
しかし、ものつくりとは、あらゆる方面にアンテナを張り巡らし、浅く広い知識により、製品の方向を位置つけて行くものだと自分は思っています
そして、発想の転換のできる柔軟な頭と最後まであきらめない心を持つ人間こそが、世に残るものを作り上げているように思います
現にゼロ戦設計において、堀越二郎氏は、当時にそむいた操縦系統を採用して成功しています
(詳しくは、佐貫亦男著「飛行機の本」を参照されたし)
自分のように凡人は、全然、こんな境地には達していません
だからこそ、一人の技術者として、堀越二郎氏を尊敬しています
そして、同じような人間である故本田宗一郎氏にも同じことが言えると思っています
資源の無い日本だからこそ、ものつくりニッポンとして生きて行くために、このような技術者が若い人からどんどん出てきてもらいたいと思うのです
堀越二郎氏の培った技術が継承された飛行機
残念ながら、ゼロ戦は血塗られた歴史の中で悲しい運命をたどってしまいました
でも、技術は、今、我々に幸せを運んできてくれていると信じています
110番したことある?
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