毎年考えること
毎年のことなのですが、まだ、元気に会社に行っているときの1997.8.6(水)(曇り)の手記を読み返します
毎年、考えていることは同じです
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
1997.8.6(水)(曇り)の手記
睡眠時間5時間
やはり朝は眠い
5時半に起きるのは、3年たったがやはりなれない
広島は、8時15分
原爆が投下された時間だ
ここ(会社(茨城))にいると、そんなものは関係ないような感じを受ける
もっとも、広島にいても職場では、そんな雰囲気なのだろうか?
自分にとっては、どうしても、この日は気にかかる
特に自分は被爆者ではない(このときは父の二次被爆を知りませんでした)のだけれど…
でも、身内に被爆者(祖父のことです)がいて、自分は広島県広島市出身であるために、そんな気持ちになるのだろう
原爆祈念式典も単なる記念式としてとらえられがちであり、本来の意味をみんなが考え直すべきかもしれない
いずれ、かみさんや長男にも原爆資料館を見せなくてはならない(まだ、次男が生まれていません。この後、かみさんや長男・次男を原爆資料館に連れて行きました)
原爆が落とされたという事実を知り、その原爆上回る核兵器が世の中に存在することを教えなければならないだろう
知らないということが一番恐ろしいことである
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
自分の父親は、原爆が投下された次の朝広島に入り二次被爆をして、被爆者手帳を所持していました
そんな父は、ガンを発症して37歳と言う若さで亡くなりました
自分は、最近まで、父の被爆者手帳の存在を知らず、二世であることも知らずに最近まで生きてきました
祖父は被爆者手帳を所持しており、白内障は発症しましたが、被爆を決して人に話すことなく(近親者しか知りませんでした)、徹底的な自己健康管理を行い93歳まで長生きしました
二人とも原爆に遭遇したことも言わずにこの世を去っています
それが被爆者なのかなあと思うことがあります
戦争の話は、母方の祖父母や被爆者であった祖父の弟(4年前亡くなりました)から、聞きましたが、悲惨なことむごいことは、話してくれませんでした
子供時代の自分に対する配慮もあったのでしょうか?、それとも、話したくなかったのでしょうか?
祖父母達からもっとよく聞いておくべきだったと、今になって後悔しています
でも、少しでも知り得たこと・自分の体験したことを、子供達に伝えるべく、話さずにはいられません
戦争が恐いとか、核兵器が脅威であるとか、脅すということだけではないのです
事実を知っておかないと、また、同じ過ちを繰り返すと思うからです
無関心や知らないでは済まされないように思います
核兵器に関わらず、放射能物質を取り扱う原発も事故が起これば核兵器以上に脅威だということもしっかり理解しておかないといけないことだと思っています
(このことは2009年から毎年つぶやいていたのですが、最悪の原発事故は2011年に起こってしまいました)
広島、長崎が、最初で最後の被爆者を出した地ではありません
長崎以降、第五福竜丸の被曝(焼津)、それから、アメリカ・ロシア・フランスの核実験によるその土地での被曝者、そして、原発もロシアのチェルノブイリ原発の事故での周辺住民の被曝、日本でも東海村で放射能物質の処理ミスと放射性物質の認識不足による被曝者および死亡者が出ているのです
福島第1原発の作業員が、今後何らかの疾病を発症しないと言う保障はありません
原爆の被爆者ですら、10年後にがんや白血病が発病し、さらに、70年たったときでさえ、白血病が新たに発症しているのです
人は、放射性物質と共存できません
(以前の記事を引用しました)