☆ワシの終活☆ -3ページ目

「孫娘からの質問状 おじいちゃん戦争のことを教えて」

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

10年前(2015年)、町の図書館で、中條高徳著「孫娘からの質問状 おじいちゃん戦争のことを教えて」を借りて4日間で読み切った

内容があるものだけに、一気に読むことができた

この本を借りる前に「おじいちゃん日本人のことを教えて」も借りて読んだのだが同じだ

自分ももっと祖父母にこんなことを聞いておけばよかったと思う

それが、また、子供達への教えともなるからだ

日本人の精神を忘れてしまった日本人

このままではいけないと思っているのだが、どのようにいけないのか?自分もこの年にもなってまだまだ無知であることに気づかされた

たとえ自分の時間が少なくとも、やっぱり、死ぬまで勉強なのだろう

この本が学校の教科書よりも教科書らしいと言うべきだと思う

いくつかは、同意できないこともある

でも、明治生まれの日本人らしい日本人が現代の日本人に警告しているものだと言っていいだろう

先人の言葉は、しっかり聞き、それをもとに日本を作って行かねばならない

知らねばならないことは知る

それが必要だ

「知らないこと」こそ恐ろしいことはないからだ

この本は何かのチャンスがあれば、家族に読ませたい

祖父母達を代弁した本だと思う

他に新渡戸稲造の「武士道」やラジャー・ダトー・ソンチックの「日本人よありがとう」も読んでみたいと思った

やはり、日本人が忘れてしまったことや知らないことだから

 

 

 

 

ヒーローズ

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

2016年1月に、「スターマン」「レッツ・ダンス」などの大ヒット曲で知られる英ロックシーンを代表する歌手、デヴィッド・ボウイさんが亡くなった

69歳だった

1年半にわたりがんで闘病していて、愛する家族に見守られての最期だったそうです

当時、ネットでニュースを見たときは、思わず声を上げてしまいました

スーパースターもがんには勝てなかったか…

1983年に公開され、坂本龍一さんやビートたけしさんとの共演も話題になった大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」に主演したのが思い出されます

自分としては、デヴィッド・ボウイの曲をよく聞いていたわけではありませんでした

でも、海外アーティストの曲を聞くときに必ずと言っていいほど、彼の曲が耳に入ってきたと言っていいと思います

1977年に発表された「ヒーローズ」(”Heroes”/David Bowie)

2007年にNHKEテレの「ジュークボックス英会話」で紹介されました

当時、米ソ冷戦下にあって、ベルリンの壁が存在していたときに、彼はそれに向けてメッセージを込めて作ったとされています

デヴィッド・ボウイの反戦歌と言うべきものでしょうか?

歌詞の中にもベルリンの壁を思わせるwallと言う歌詞や、敵と言う表現のthemやgunsという歌詞が出てきます

そんな中でも、デヴィッド・ボウイは、愛する男女は1日だけヒーローになれると強調する

 

”Heroes”/David Bowie

I,I wish you could swin

Like the dolphins

Like dolphins can swin

Though nothing,

Nothing will keep us together

We can beat them

Forever and ever

Oh,we can be heroes

Just for one day

 

I,I will be king

And you,you will be gueen

Though nothing

Will drive thme away

We can be heroes

Just for one day

We ca be us

Just for one day

 

I,I can remember

Standing by the wall

And the guns

Shot above our heads

And we kissed

As though nothing could fall

And the shame

Was on the other side

Oh, we can beat them

Forever and ever

Then we can be heroes

Just for one day

 

We can be heroes

We can be heroes

We can be heroes

Just for one day

(歌詞は「ジュークボックス英会話」より)

 

今は米ソ冷戦時代は終わり、ベルリンの壁は無くなった

しかし、残念ながら新たな冷戦構造はある

そして、テロリストははびこり、新たな戦争(ウクライナ、ガザ地区)が始まって、命を落とす人が今でもいる

相変わらず緊張が続く朝鮮半島、台湾有事のリスクの高まり

デビッドボーイのメッセージをもう一度、聞き直してみてはどうだろうか?

 

 

 

核兵器と作った人々

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

15年前(2010年)にNHKで放送された番組「核兵器と作った人々」を見て手記を残していましたので、その記事をもう一度

 

全世界に核兵器が存在すると言うことは、核兵器を作った製造工場そして労働者が存在し、今も働いている人がいるということです。

この番組は、1947年から核兵器の起爆装置(プルトニウムの固まり)を大量生産していたロッキーフラッツという会社の工場の解体作業について報道していました。

1947年から1974年の間稼働していたこの工場は、老朽化し、解体作業に入ったようなのですが、通常の建物の解体作業とはいかなかったようです。

当たり前でしょう、放射性物質があちこちにへばりついていたのですから…

そして、そこで働いていた人は、やっぱり、被曝してました。

今では予想できることです。

現在も、白血病や癌が発症して苦しんでいるアメリカ人労働者がたくさんいるということです。(現在は、日本の被爆者と同じように、多数の方がお亡くなりになっているかもしれません。)

当然、工場が稼働中は国家機密であり、守秘義務のため、そんなことは話すこともできませんでした。

彼らは、会社が無くなった今、保険補償がなくなり、国に補償を請求しています。

(今も続いているのかどうかはわかりません。)

でも、国は、彼らが本当に働いていたかを、疑っているのです。

証拠を出そうにも、彼らが働いていた会社に彼らのデータは何もないからなのです。

(証拠隠滅でしょうか?)

そして、工場跡は、多くの放射性物質をそのままにして埋め立てられました。

その周りを立ち入り禁止にして…(狭い日本では考えられません)

核兵器を作れば作るほど、こんな場所が増えて行くのでしょう

(原発も同じような気がします)

そして、埋め立てただけと言うことは、時間が経てば放射性物質が洩れだして行くかもしれません

人間が生きて行けない不毛の場所がどんどん広がっていくのでしょうね

核兵器を作った、ロシア、中国、インド、フランス、イギリス、パキスタン、そして、北朝鮮も同じでしょう

核を持つと言うことは、このような弊害をもたらすのです

政治家・軍人は、核兵器をおもちゃのように考えていますが、被害に遭うのはいつも民間人です

核を持つなら、政治家や軍人が直接作り、直接自分で保管保持して下さい

 

この手記を今一度読み直し、それが原発についても同じ事が言えるのではないかと感じました

核と原発では、放射性物質の分量は違います

しかし、同じ放射性物質を扱っている以上、人間への影響はあるはずです

今後、福島第一原発の廃炉が困難の伴うのは予想もできます

さらに、耐用年数を過ぎた原発の廃炉も、福島第一原発までは行かずとも、やっぱり同じ苦労があることが予想できると思います

もうこれ以上、原発を、日本はもちろんのこと世界に作らないでほしい

もちろん、核兵器も…

 

2010年のあるアンケート

「日本の核武装 「議論だけでも行うべき」が96%(毎日新聞より、2010年12月)」

「日本は核武装すべきか」については「賛成」が85%。「公の場で議論だけでも行うべきか」については96%が「そう思う」と答えました

また、「有事の際にアメリカは日本を守るか」との問いには、78%が「そう思わない」と回答したようです

これも現実です

今、同じアンケートを行った場合、どのような結果がでるでしょうか?

台湾有事、ロシアの北海道への侵略

まったく、可能性が無いとは言えない

その時、日本はどうする?アメリカはどのように動く?

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

戦争のにおい

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

8年前(2017年)の記事をもう一度

「沖縄戦、壕のにおい再現 汗や血…体験者の証言もとに 「悲惨さ、より確かに伝える」(朝日新聞デジタルより、2014年12月)」

沖縄戦で数多くの負傷者がかつぎこまれ、「ひめゆり学徒」たちも看護にあたった沖縄県南風原(はえばる)町の丘陵に掘られた壕(ごう)内の病院の「におい」が再現されたそうです

汗や血、汚物などが混ざった強烈な「におい」だそうです

壕を管理する同町立南風原文化センターが「戦争の悲惨さを、より確かに伝えたい」と、当時、壕にいた人たちの証言をもとにつくったそうです

2015年から壕の見学者にかいでもらっているようですが、どうでしょうか?

(現在、どのようになっているのか、わかりません)

戦争を語り継ぐ

これは容易なことではありません

語り部は高齢になり、その継承も難しくなってきています

戦争の写真、遺品、遺跡など、目で見えるものはあっても、そこから想像できるものは限られています

今回、つくられた「戦争のにおい」は、そんな戦争の証拠品などと一緒に体験することによって、強烈な印象が付けられると思います

戦争に香ばしいにおいなどあるわけではありません

死臭が漂うのが戦争

たぶん吐き気を催すのが普通ではないかと思います

だからこそ、そんな状態にしてはならないと肝に銘ずるために、そのにおいを経験することも必要ではないでしょうか?

沖縄県南城市で暮らす戦争経験者は、1945年4月ごろ、米軍の攻撃を避けるため、姉や妹らと病院壕に逃げ込んだそうです

入り口近くにたたずんだ彼等の耳に、暗い壕の奥から負傷兵の声にもならない声が聞こえたそうです

しかし、何より強烈に記憶に残っているのが、においだったそうです

「ブタやネコの死体が腐ったようなにおいに、いろいろ混ざった感じ」

彼等は、病院壕の見学者に、現在の病院と病院壕内の病院を比較してもらいたいと考えたそうです

明るく、広く、清潔な今の病院

しかし、当時の壕内の病院は暗く、不衛生で、悪臭がこもっていたそうです

「なぜ、悪臭がするのか。それは戦争のため。病院もこのようになってしまうということを理解してもらいたい」

原爆投下当時の広島・長崎のにおいはどうだったのでしょうか?

東京大空襲の時の燃えさかる町のにおいはどうだったのでしょうか?

そんなにおいも戦争知らない世代が今こそ知らねばならないかもしれません

まさに、現在、ウクライナやガザ地区で、戦争のにおいが発生していることだと思います

Youtubeなどで画像が世界に配信されていても、においは届きません

画像とともに、においが届けられたら、人々はどう思うでしょうか?

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

原爆孤児たちの訴え(6)

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市舟入高等学校一年生 K・K

学校にいき始める喜びに、始めてランドセルを背負って叔母と一緒に学校の門をくぐった昭和二十年四月

当時戦争の激しい恐怖に被われていた、ぼくたち叔母、兄姉四人は広島郊外の可部町の親戚に疎開していた

(中略)

ぼくたち兄姉一生忘れることのできない八月六日

その朝丁度学校で朝会を行っていた

するとどうでしょう

眼を開くこともできないほどまぶしい光が輝いたと同時に大爆音もろとも、はるか山の向こうから真黒い雲がもくもくと立ち昇りはじめたではありませんか

その雲はみるみるうちに空一面を被ってしまいました

ぼくはなにがなんだか全然検討がつきませんでした

無我夢中で家に走り帰りました

夕方頃から種々な人々が続々と負傷して帰ってくるではありませんか

世にも恐ろしい原子爆弾が投下されたのでありました

ぼくは瞬間的に広島に居残っていられる父母弟妹のことが気掛かりました

兄は二日目に親戚の人たちと一緒に広島に急行されました

兄が左官町に在った家の場所にいかれますとどうでしょう、家は無くなり、母、弟、妹は並んだまま白骨となっていました

三日目の朝、父がぼくたちのいる可部町の家に帰ってこられましたが、その日の夕方には、もうむなしく亡くなられてしまいました

父は身体全体が火傷で被われて、所々に大きく負傷までしておられ、ほんとうに元の父とは思えないほどの状態だったのです

一家楽しく愉快に暮らした元の家庭も父母弟妹四人を失いぼくたち兄姉は呆然自失してしまいました

その後ぼくは兄姉と別れて瀬戸内の島の祖父の家で暮らすことになりました

(中略)

ぼくもいまは高校一年生です

いままでのことを振り返ってみると、原爆が投下されて早や九年の歳月が夢のように流れていきました

あの、恐るべき原子爆弾が、世にも恐ろしい戦争に使用されたことについて、ぼくたちは真剣に考えるべき多くの問題をもっています

罪のない多くの人々を死なしたあの恐るべき原子爆弾、ましてや原爆以上の威力をもった水素爆弾などは、一日も早く地球上からなくしてしまわなくてはいけません

それなのに、世界の文明国とほこる大国の間には、水爆を作る競争をし、すでにどしどし実験だといって爆発をさせ世界の人々を苦しめています

またしてもこんなものが戦争に使われるようになったら、九年前のあの悲惨、いや今度はそれ以上の想像も及ばぬ悲劇をおこることは目前にみえています

われわれ青少年は原爆、水爆の使用について絶対に無関心でいるわけにはいきません

われわれ広島の市民が中心となり、原爆、水爆使用禁止の声を、全世界の人々に訴えなければなりません

昭和二十九年九月十五日」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

 

原爆孤児たちの訴え(5)

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市国泰寺中学校三年生 M・K

原爆の落とされる前、僕等一家五人は幸福な日々を送っていました

父は警察教習所の教官をし、母はいつも僕等兄弟三人のヘリにいて、良くめんどうをみてくれていました

あの恐ろしい原爆の落とされる前の年、僕等一家とおじさんおばさん等と安佐郡の祇園町に疎開しました

父は警察の方で一人が水主町にのこっていました

(中略)

母はあの八月六日、父にいわれて、父の妹にあたる一枝おばさんと水主町へ出て行きました

水主町へ行く途中、寺町の辺で原爆にあって帰ってきました

一枝おばさんは体中大やけどをしておられるのに、おかあさんは頬の辺に少しやけどをしておられるだけで元気でした

一枝おばさんは八月二十九日とうとう死なれました

母はその葬式もすませ、元気でしたが、二、三日した頃から体中に斑点が出たといって、あまり元気がありませんでした

頭の髪も抜け、熱が四十度以上もあり、井戸水で頭を冷やした程です

父もとうとう帰ってきませんでした

父母が死んだ後僕等は今年の6月まで祖母と暮らしていましたが、祖母もとうとう今年の6月死んでしまいました

生前祖母はよく夜人の足音を聞くと「お父ちゃんが帰ったのではないか」といっていました

原爆のためにどれだけの人が苦しんでいるのか、「あの原爆さえなかったら」とゆう人が、何百人いることでしょう

原爆のため、あれだけの人を犠牲にしたのにもこりず世界の有力国は原爆より恐ろしい水爆を作る競争をしているようです

そのため、何の罪もない久保山さんまで水爆実験の犠牲にして了ったではありませんか

武力によらないと世界に平和は呼び求められないでしょうか

僕はその反対だと思います

もう少し世界の国々が信頼しあったら武力等必要なく、世界には平和が訪れることと思います

ぼくらの時代になっても世界の人々は武力で戦っているでしょうか

否、どうしても、ぼくらの時代には、平和な世界を、ぼくらの手でつくらねばいけません

少しも早く、武力を必要としない平和な世界がくることを、みんなまちのぞんでいるのですから

昭和二十九年九月二十四日記」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

 

原爆孤児たちの訴え(4)

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市国泰寺中学校三年生 T・M

今から九年前、私がまだ七歳の時のこと、思えば一瞬の物語だったあの時が、どうしても私の頭からは、いや身体から逃れてはくれない

「忘れよう忘れよう」といく度か心で誓い、二度とあんなこののないようにと祈りつつ…

でも忘れかけた時にはまた思い出し、あの時のことが瞼に浮かぶ、恐ろしかったあの時ばかりを…

あのために、原爆のために、母を失い、また、多くの人達が犠牲になり、何のために誰のためにそんな悲しい運命にならねばならぬのかと泣いても泣ききれない、このくやしさ情けなさ!

「おかあさんおかあさん」といくど呼べども帰ってこないおかあさんはもうあの世の人となってしまったのだ

おかあさんが死んだのなら私もおかあさんと一緒にあの世へ行けばよかったと思うことも少なくなかった

でも、私は母の顔すらはっきりは知らない

まだ私が幼かったため、父の顔も私は全然知らない

父は戦死 母は原爆で

戦争さえなかったならば…

今は両親とともに、いくら貧しくても幸福に暮らせているのに

原爆のために、死んだ多くの人達も可愛そうで、こうしてペンを走らす時も眼には涙が浮かぶ

でも過ぎ去ったことはもう仕方のないことだ、だからこれからの日本を、いや、世界を、改めなければならないのだ

広島の人は、原爆に遇っても、とても無関心な人が多い

そんなことではいけない

今問題となっている原水爆も早く、一刻も早く、何とかしてもらいたい

世界を平和にするために

いつになったら仲の良い平和な世界が来るのか

早く平和な世界の来るようにと私は祈る

昭和二十九年九月二十五日記」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

 

原爆孤児たちの訴え(3)

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市段原中学校 T・I

八月六日はちょうど天気の良い日でした

その頃は私はなんの病気かわからない病気で寝ていました

その日おばあちゃんはガラス工場に働きにいっておられました

おかあちゃんは私にくすりをのませて家の前の庭を掃除しておられました

そして近所の人達は空が変だとか飛行機がよくとおるとか色々なことをあちこちで話しておられるのが寝ている私にもよくわかりました

ちょうどその時、おかあさんは空をみられたのでしょうか

「ああ」といって家に入られた時、四畳においてあったタンスが六畳の私が寝ているかやの上にあるではないか、私は丁度かやを吊ってねていたのでタンスがかやの上にかぶさってけが一つしなかったのだが、もしかやが無かったら死んでいたか、大けがをしていたでしょう

おかあさんはタンスの上にあがってきて私をおこして下さった

その時私は母の手をみると、母のひじのところは黒いような赤いような血が流れていました

私は余りの恐ろしさに泣きだしてしまいました

私はその時七歳でした

それから一年余り、母はいろいろな病気がもとでこの世を去っていきました

その日は四月一日でした

四月一日は私が小学校一年に入学する日でした

母も私の入学姿がみたかったでしょうのに

私はおばあちゃんに手をつないでもらって学校の門をくぐりました

そのときのさびしさ悲しさ

よその人はおとうさん、おかあさんに手をつないでもらって楽しそうに門をくぐって行くのに私は暗い悲しい気持ちで手をひかれながら…

今でもあの時の鏡やかやが残っています

蚊帳にはあの時に色々なものやガラスが突き刺さって、沢山ついてあります

鏡は上のはしが手鏡ぐらいの大きさしか残っていません

私はいつもそれを見て髪をすいています

鏡台のうしろの木の所に直径三センチメートルぐらいの穴があいています

丁度そこから何かがつきささって鏡が割れたのでしょう

近所の人達は、私が中学校卒業したらこれに鏡を入れなさいといって下さいます

「あの時の恐ろしさはもう二度と来ないように世界に伝えて下さい。」

「人類の幸福のためです」

昭和二十九年九月二十六日、日曜日」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

 

原爆孤児たちの訴え(2)

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市楠那小学校 M・M

ぼくが三つの時げんばくが広島におちました

その時おかあちゃんはきんろうほうしにいっていました

おとうちゃんは会社にいっていました

おかあちゃんは、げんばくのため亡くなりました

それから間もなく、おとうちゃんも亡くなりました

でもぼくは小さかったのでかすかにしか覚えていません

何でもおかあちゃんがきんろうほうしにいく時に、ぼくはついていくといったので、福屋にいって服を買ってきてやるといって、ぼくはまたされたのでした

おかあちゃんが死んでも、まだ帰らんとおかあちゃんのことをいって待っていたそうです

(中略)

ぼくたちの大きくなったのはおとうちゃんやおかあちゃんがかげからまもっていて下さるからだとおばさんがよくいいました

ぼくは戦争が大きらいです

いつまでも平和な国であるように」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?

 

 

 

原爆孤児たちの訴え(1)

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「一面焼け野が原と化し、死体があちこちに転がっていた広島の街が9年間ですっかり都会らしく復興しました

箱庭のような美しい街を空からみていると何だかウソのような気がします

でも両親に抱かれて一家五人が楽しく暮らしていた水主町の家はあのあたりだとわかるだけで、そのあとにはだれか知らない人が住んでいます

平和広場の慰霊祭に集まった数千人の人がまるでアリのようです

みんな僕のように親、兄弟をなくした人ばかりでしょう

平和を願う声が機上まで聞こえてくるようです          

警察学校の建物の下敷きになって焼け死に遺骨さえわからなかったおとうさん、疎開先からおとうさんに会いに行って寺町の路上でやけどを負い一ヶ月後に頭の髪が抜けて苦しがって死んでいったかわいそうなおかあさんを思い出し「おかあちゃん」と思わず叫んで涙ぐんでしまいました

空からみた原爆ドームはガイ骨のようなみにくい姿をさらけ出していました

原爆を落とした米国の飛行士は一瞬にして美しい建物が原爆ドームのように変わり果てた広島の姿をどういう気持ちでながめたことでしょう

広島城も跡形もなくいまは青々とした草にいろどられています

地上の争いことなど天上からみたらほんのささなことで、もっと大きく世界をみつめ、希望をもちましょう

でも世界はまだ平和のためにまとまらないでいます

悲しいことです

これからは広島の子供たちが中心になって世界を平和にするよう努力したいと誓いました

(国泰寺中学K君手記)」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?