はだしのゲンはヒロシマを忘れない (岩波ブックレット) [ 中沢啓治 ]
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今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
毎年、同じ記事を載せています
1944年の6月6日、第二次世界大戦時、ヨーロッパでノルマンディー上陸作戦が始まりました
6月6日から26日の間に行われた作戦といわれています
そして、6月6日は、「血のオマハ」とも言われているようです
上陸箇所(オマハ)でおびただしい兵士の血が流され亡くなったからだと思います
11年前、この上陸作戦を映画にした「史上最大の作戦」(1962年)を久しぶりにテレビで見ました
この映画を初めて見たときは、まだ自分は幼く、凄く勇ましい映画と思っていました
その当時の大物俳優ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャムなどが、かっこよく見えたものです
(若い人たちは、こんな俳優はもう知らないでしょうね)
でも、実際は非常に悲惨で過酷な戦闘であったということを聞いています
最後は連合軍が勝つ作戦ですが、小説を読むと最初の悲惨な戦闘が多くつづられています
この映画は1960年代に作られたものです
1960年、アジアでは、朝鮮戦争が始まった頃ですが、そんな時に、こんな戦争映画が作られたわけです
このころの戦争映画やドラマは美化されているものが多かったような感じがします
殺し殺される戦闘とは、恐怖である何者でもありません
映画の一場面ですが、ドイツ軍が戦闘の演習を卓上でやって、「これはゲームだ」と言うシーンがありますが、戦闘はゲームなんかじゃないと思います
ネタバレですが、映画の最後に、連合軍の負傷兵と迷子になった兵隊、そして、死んだドイツ軍兵が出てくるシーンがあります
その負傷兵が
「俺は負傷して、君は迷子になって、あいつ(ドイツ兵)は死んでいる。そして、どっちが勝ったのか負けたのかわからない。それが戦争だ」
この言葉は非常に重みを持ってきます
最初に見た時は、多分、映像スケールのすごさだけが印象に残って、こんな言葉は印象に残らなかったのだと思います
でも、年を重ねて、いろいろな映画を見た今は、戦闘よりも、戦闘員が発する、重苦しいこんな言葉が頭に残ります
この作品はアカデミー賞を取っていますが、何に対しての評価だったのでしょう?
(去年の記事を引用しました)
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
「幸せなら手をたたこう」
今は亡き歌手・坂本九さんが歌った有名な歌
ほとんどの人が、小学校などで教わったのではないだろうか?
この歌のルーツは、日本とフィリピン、そして戦争と平和にあるらしいのです
このヒット曲の作詞者、木村利人・早稲田大学名誉教授
1959年4月後半、当時25歳で早大大学院生だった木村青年は羽田から空路、マニラに向かったそうです
YMCA主催の勤労奉仕キャンプに参加するためでした
5月初旬、彼は北部ルソンのダグパン市ロカオでのワークキャンプに合流したそうです
日本人は彼一人だけ
ダグパンでは炎天下の中、地元YMCAのフィリピン人青年たちとトイレの穴掘りや小学校の井戸掘りなどで共に汗を流したそうです
彼らとの交流の中で、木村青年は日本軍の占領時代にフィリピン人が蒙った惨禍を具体的に知り、犠牲者や家族の悲しみにも触れて、大きなショックと深い罪悪感に襲われたようです
何かと話し相手になってくれたラルフ
彼の父は日本軍に殺され、母も刀傷を負いながらかろうじて生き延びたそうです
ラルフ自身は何も言わなかったが、後日、彼の友人がそう教えてくれたそうです
また、自宅に招き、宿泊させてくれたナアヴァ氏
戦争中、憲兵隊司令部(サンチャゴ要塞)に拘禁され、日本兵から拷問を受けていました
終戦から14年、日比両国が国交を回復して3年も経っていましたが、戦争の傷跡はなお生々しかったと言います
木村青年は滞在中、フィリピン各地で温かく迎えられました
フィリピン人は「態度で示して」彼に親切にし、歓待してくれました
「我らはキリストにありて友なのだ(Tayo ay mga kaibigan kay Kristo)」
あるフィリピン人青年はこう言ったそうです
木村青年は赦しと友好の精神を態度で示してくれたフィリピン人への感謝の気持ちを形に表したいと強く思ったそうです
そして、船で帰国の途上、フィリピンの人々への謝意を歌に託したそうです
キャンプ地のロカオ小学校で子供たちが楽しそうに歌っていたスペイン民謡のメロディを思い出し、その曲に日本語の歌詞をつけたそうです
キャンプ中に皆で読んだ旧約聖書の詩編47がヒントになり、かくして「幸せなら手をたたこう」の歌が誕生したそうです
「幸せなら態度で示そうよ」
普段何気なく聞いたり、歌ったりしている歌
その背景には、こんな物語があったことを我々はよく知っておく必要があると思います
そして、今度、この歌に出会ったら、今一度、その拝啓を思い出してもらいたいと思います
友好の気持ちは、物的物以上に、態度で示す必要があるのでしょうね
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
4月6日
もう過ぎてしまったが、この日は、約100万人が犠牲になったアフリカのルワンダ大虐殺の日
世界を震撼させた大虐殺から31年を迎える
1994年のルワンダは、内戦と100日もの間続いた虐殺によって国内のインフラは破壊され、孤児の数は史上最多を記録していたそうです
戦いの中、犠牲になるのはいつも女性・子供
広島・長崎の原爆によっても、原爆孤児は多数いました
そして、東京大空襲を含め、日本各地の絨毯爆撃でも、孤児達は多数出ました
その孤児達のそれからの人生は長く辛いものが多い
以前、東京大空襲で疎開先で孤児になった人たちの証言をテレビで放送していました
命を守るための疎開が、彼らを孤児にし、政府の仕打ちによって、その後の人生を大きく狂わされる
ウクライナやガザ地区でも孤児が多数いるのではないか?
戦争は助ける人がいなくなる
みんな自己中心だから
今も、女性や子供たちが、戦いの渦に巻き込まれて、その人生を狂わされている
過去の出来事を決して我々は忘れてはならない
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
3月1日は、1954年、ビキニ環礁の水爆実験で焼津港所属の漁船「第五福竜丸」が被ばくしたとしてビキニデーと呼ばれている
この事実を知っている人は、今日本にどれぐらいいるのだろうか?
そして、今年(2025年)も、静岡県焼津市で平和への祈念行動が行われたのだろうか?
水爆実験では約200キロ離れたロンゲラップ島にも死の灰が降り注ぎ、多くの島民が被ばくし、別の島への避難を余儀なくされたと言います
11年前(2014年)の記事ですが
「ビキニ環礁の水爆実験から60年 今も戻れない住民(朝日新聞デジタルより、2014年02月)」
広島原爆の1千倍の威力といわれたこの爆発で、周囲にあった三つの島が吹き飛び、放射性物質が広範囲にまき散らされました
事前に避難しなかった危険区域外の環礁の住民や、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」など周辺で操業中だった船舶が「死の灰」を浴びました
ビキニ環礁の地方政府によると、核実験前まで住んでいた167人の島民が移住を強いられ、その後、米国とともに1988年から着手した除染と再定住計画は、資金面などから宙に浮いたままだそうです
元島民のケディ上院議員によると、米政府は除染が終わったとして帰島を促しているようなのですが、60年後の今も島民は「本当に安全かどうか」と不安を抱き一人も帰っていないというのです(今、どうなっているのかわかりません)
まるで、福島第一原発の周辺と同じ感じではないでしょうか?
福島原発の放射線量は、水爆実験に比べればはるかに低いかもしれません
しかし、人体に影響を与える放射性物質であることに変わらないと思います
福島の除染は、問題を抱えながらも粛々と進んでいますが、人々の不安はいつになったら拭えるのでしょうか?
「1954年3~5月、太平洋中西部のビキニ環礁などで米国が行った6回の水爆実験。3月1日の初回で第五福竜丸の乗組員23人が放射性降下物(死の灰)を浴びて被ばくし、無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)が死亡した。日本社会にも衝撃を与え、原水爆禁止運動が広がる契機となった。日本の遠洋漁船が付近に多数出漁中で、被害は延べ約1000隻に上るとされる。」
「「家の事は口外するな」口閉ざした元漁船員 44年後の真相(毎日新聞)2024/2/29より」
この1000隻の遠洋漁船の船員も当然被曝者
もしかしたら、この人たちの子供たちに被曝二世がいるかもしれない
被爆者・被爆二世そして被曝者・被曝二世は意外に多いかもしれない
そして、いまだに解決されていない「核ののごみ」(使用済み燃料)の廃棄の問題
11年前(2014年)、原発から出る高レベル放射性廃棄物を地下深く埋める最終処分場について、経済産業省の作業部会が、適地の選定基準案を示し、立地不適地として、火山の半径15キロ圏内▽活断層の周辺▽過去10万年間に300メートル以上隆起した地域--などの基準を示し、候補地から外すよう求めたのですが、この基準に該当しない適地は国土の7割に及ぶとされ、科学的基準による絞り込みは事実上、不可能との見解を示しました
つまり、地下深く埋めることは日本では不可能
だから、とりあえず地上の空冷施設ですか?
原発再稼働の話が進んでいますが、使用済み核燃料の問題が解決しない限り何もできないと思います
ご飯食べるけど、便所無しでいいのですか?
ウンコばっかり増えていくではないか?
やっぱり、今の人類の技術ではまだ核分裂を制御・処理する技術は未熟だと思います
むしろ、核融合に先を越されるかもしれません
次々と再稼働している原発(新型原発の話もあるし)
本当に原発でいいのですか?
諦めた方がいいのでは…
もちろん、核兵器も無くした方がいいです
自分を含めて、電気に頼っている日本人よ、他人ごとではないぞ
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
8年前(2017年)、アップした記事をもう一度
14年前(2011年)、東日本大震災が起こり、そして、福島第一原発の事故が起こりました
そして、たまたま、14年前(2011年)の夏に、復旧していた映画館で公開されていた映画がありました
映画「100000年後の安全」(デンマーク製作)
(実際は秋公開だったようです)
自分は、映画館で見たかったのですが、チャンスがありませんでした
しかし、13年前(2012年)、レンタルして見ることができました
(その後もyoutubeで無料視聴しました)
ドキュメンタリー映画なので、普通に映画を楽しむものではありません
原発の放射性廃棄物保管場にカメラが入り、その中を見せるものでした
そして、その施設をどのように運営していくのかを関係者に問うものでした
それが、この映画の全容です
「オンカロ」
フィンランド語で、「隠された場所」と言う意味です
放射性廃棄物を格納している場所です
そこは、人が住むのはもちろんのこと、人が行ってはいけないところです
この映画のマイケルオドセン監督は言います
「20世紀から始まったこのプロジェクトは(監督が)生きている時に終わらない」
「その廃棄物が無害になるには100000年かかると言われている」
「世界中にある放射性廃棄物は現在約25万トンあると言われている」
放射性廃棄物の格納・保存を行っているのは、世界でもフィンランドのオンカロ以外に無いそうです
(最近、スウェーデンで保存の計画が進んでいますが、いまだに日本は保管場所は決まっていません)
それほど、放射性物質とはやっかいなものなのです
オンカロも、100000年まで、管理されなければなりません
放射性物質が漏れだしたり、人間いや生物が触れないようにさせる必要があるのです
気の遠くなる話です
そこまで考え、そして、投資しないとだめなのが放射性物質なのです
現在、福島第一原発の廃炉が40年いやもっとかかるであろうと考えられていますが、放射性廃棄物自体はもっと長い年月をかけないと無害にならないのです!!
原発の電力単価が安いと言われていますが、放射性物質の廃棄および管理の設備投資や維持費を上乗せすれば、とんでもなく高くなることは想像できると思いませんか?
そんな費用を子孫達に背負わせていいのですか?(使えないゴミの管理を…)
我々は福島第一原発事故によって、それを知ることになったと思います
原発以外にも放射性物質を取り扱うものはあります(核兵器も)
森瀧市郎氏が著書『核絶対否定への歩み』にて「核と人類は共存できない」と言っています
自分はあえて
「人と放射性物質は共存できない」
と言いたい
でも、原発再稼働は粛々と進んでいます
核のごみ最終処分がはっきりしないままに、原発の再稼働が先行しても良いのでしょうか?
経済維持、温室効果ガス削減などなど、現状を考えると原発は必要なのかもしれません
それはあくまで今の世代の問題
もっと大きな問題を次世代に先送りにすることだけは避けて欲しい
このドキュメンタリー映画を見て、もう一度、我々は原発や核兵器について、考えた直した方がいいと思います
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
10年前(2015年)の記事をもう一度
原発の再稼働が粛々と進められている
稼働しても、大量に出てくる放射性廃棄物の問題はそのまま
また、地震・台風などの気象災害において、外部電源の喪失をしたときの不安もゼロではない
我々はどこまで、原発に頼らねばならないのか?
火山列島である日本の特徴を生かした地熱発電もずいぶん昔からあったはずなのだが、今頃になってようやく設置の動きがある
でも、動きも鈍い
将来のエネルギーを太陽光発電や風力発電などにすべて頼るには、その発電量に問題がある
どちらにせよ、火力発電で使われる化石燃料や、原子力発電で使われるウランは、資源量が有限であり、将来の枯渇が心配されている
そこで考えられるのが核融合発電
核融合発電の燃料は「重水素」と「トリチウム(三重水素)」と言う物質だが、これらは事実上無尽蔵
「重水素」は水素のうちの0.015%の割合で自然界に存在しているが水(海水)から得られるので無尽蔵とも言われている(水は枯渇するか?)
また、「トリチウム」は自然界での存在はきわめて少なく、水からの分離では十分な量は取れないが、リチウムを使って核融合炉の中で人工的に作ることができる(リチウムは有限ではないのか?)
(ただし、ノートパソコン用の充電池1個に含まれるリチウム6グラムと重水素1.7グラムで、日本の1世帯30年分のエネルギー消費量がまかなえる)
核融合は、宇宙では当たり前に起こっている現象
太陽が輝いているのも核融合
ウランやプルトニウムの核分裂よりも、その規模ははるかに大きい
当たり前に起こっていることを取り入れて、それをエネルギー源にするのは当然の考えだろう
原子力発電と比較して、安全性が高いとされている
核融合反応は異常が発生すると、反応が過剰に進むのではなく、反応が急速におさまってゆく性質があり、「暴走」することは原理的にない
ただし、核融合発電でも、放射性廃棄物は発生する
それは、原子力発電で発生し、人間社会から数万年にわたって隔離する必要がある「高レベル放射能廃棄物」に相当するものではない
核融合炉は、燃料である重水素とトリチウムを供給し続ける必要がある
その反応で出てくるのはヘリウム
そう、風船を膨らませるのに使われるガス
また、核融合炉にある燃料も1グラム程度であり、原子力発電とは比較にならないほど少ない
ただ、核融合反応によって生じる中性子が炉壁ぶつかると、炉壁を構成している物質が放射化してしまうために、廃炉や定期交換の際に、低レベル放射能廃棄物として処分されることになる
ここを注意する必要があるだろう(どの程度の交換分量か廃棄量なのか?)
核融合発電として最初の実用炉が電気を伝送網に供給するのは、2050年頃ではないかと言われています
また、100年後には、30%から50%程度の電力を核融合炉が供給できるとも言われています
その核融合発電の実用化に向けて、日本・ヨーロッパ(EU)、アメリカ、ロシア、中国、韓国、インドの7ヶ国協力による実験炉ITER(イーター)がフランスで建設中ですが、その間は、やっぱり化石燃料に頼るしかないのでしょうね
さて、核融合発電も、やっぱり、水蒸気を利用したタービン発電で発電を行うらしい
このタービン発電に執着する必要はあるのだろうか?
熱をそのまま電気に置きかえる方法はないのか?
日本でもちらほらその研究を行っているのを聞くことがあるのだが…
ここまで来たら、発電効率もよくする方法を考えておく必要があるのではないか?
核融合に対する人類の期待はあるが、やっぱり自分としては、核兵器や原発に続き、またも人工の太陽を作ることになり、それへの反発は無いとは言えない…
(科学情報誌2015年1月号より)
(10年前(2015年)の記事を引用しました)
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
10年前(2015年)の今頃、NHKのアーカイブス放送を見ました
太平洋戦争の日本の都市部絨毯爆撃についての報道でした
それで、ウィキペディアで爆撃を調べてみました
日本への各都市そして地方への爆撃は、市民を巻き込む無差別爆撃ということで、アメリカの軍部でもかなり問題になったようです
日本本土の爆撃については、はじめ軍事設備へのピンポイント爆撃を推奨する空軍司令が着任していたのですが、思うような結果が出せず、以降、絨毯爆撃を中国で行っていた空軍司令に代わり、絨毯爆撃になったそうです
それに、新しい爆撃機B29や新しい焼夷弾の効果を試すこともあったようです
つまり、絨毯爆撃崇拝者と新兵器が重なり、日本の爆撃はいわば試験(兵器開発)を行ったと言うことでしょうか?
その延長線上に原爆もありました(人体実験と考えるべき)
もともと、アメリカは原爆など作る気持ちは無かったが、ヒットラーが原爆を作ることに恐怖を覚えていたユダヤ人の科学者の働きかけで作ることになりました
作った原爆はウラン型とプルトニウム型
通常は一つで効果はわかりますが、2種類作ったということで、二つとも試す必要があったのではないでしょうか?
そして、巨額な資本をつぎ込んだ原爆はその効果を資本者に示す必要もあったのではないか?
(原爆の開発費20億ドル(当時)と言われています。ちなみにB29の開発費は30億ドル(当時)。日本円にするとものすごい金額ですね。当時は1ドル360円か?)
焼夷弾、原爆、すべて、投資者への報告のために使われてしまったと言うことでしょうか?
まるで、新しい刀の試し切りをするように…
そのために、無関係の人間の命が奪われたと言うでしょうか?
しかし、無差別爆撃はアメリカだけではありません
ドイツ(スペインのゲルニカへ)だって、日本(中国の重慶へ)だって実は空爆を行っていました
つまり、戦争そのものが異常なのだと言うことを認識して欲しい
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
去年に書いた記事をさらにもう一度
中沢啓治著「はだしのゲンはヒロシマを忘れない」
自らが被爆者である漫画家中沢啓治さんは、その被爆体験をゲンと言う少年に置き換えて漫画を書かれました
体験記だから、はだしのゲンはリアリティがあり生々しい
でも、「そんなもんじゃない」と中沢さんは著書で言っています
どんな文章も絵も映像も、実体験を超える事はできません
それでも、書かずにいられない
中沢さんを含めて多くの被爆者はその被爆体験を語る事はありませんでした
思い出すことで、目の前にそのフラッシュバックがあるから
でも、何かのきっかけで被爆者は被爆体験を語り始める
中沢さんの場合は、同じ被爆者だったお母さんの死とその骨を見た時だと言います
粉々に形も無い骨を見て、放射能はそこまで蝕んでいることに悔しさと憎しみを持ったと言います
それほど、放射性物質は恐ろしいもの
自分の祖父は同じ被爆者でありましたが、その骨はりっぱなものでした
生活習慣や食生活でそれは変わるのかもしれないとも思いました
しかし、二次被爆を受けていただろう自分の父はがんに冒され、骨はもろかったと聞きます
放射性物質は人にとって脅威であることは十分に理解しなければならないですが、それに対する備えは自ら行う必要があると思います
中沢さんのお母さんと私の祖父を比較して感じました
そして、お亡くなりになった中沢さんの骨はどうだったのでしょうか?
今、福島を中心に放射性物質の問題はまだ残っています
問題解決はしなくてはならないのですが、相変わらず先延ばしにする政府とは別に、我々一般市民は自分の体の自己防衛を怠ってはならないでしょうか(免疫機能の強化)
当然、核兵器(放射性物質)の恐ろしさも忘れてはいけません
諸悪の根源は断たねばなりません
それは、過去の悲劇を忘れない事で始まると思います
無知・無関心が怖いのです
以前、「はだしのゲン」の漫画に対して、その内容・描写について賛否両論がありました
でも、必要な漫画であると自分は信じています
中沢さんも著書で言っています
「しつこくやるしかない」
「繰り返し、繰り返し、伝え続けるしかない」
と…
はだしのゲンは「ヒロシマ」も「ナガサキ」も「第5福竜丸」もそして「フクシマ」も忘れない…
ちなみに
「1997年、茨城県東海村の動燃施設で爆発事故。労働者37人が低レベルの放射線に被曝し、過去最悪の被爆事故」
「1999年、茨城県東海村にあるウラン加工工場で臨界事故が発生し、3名が被爆、そのうち「2名が死亡」するという最悪の事故」
これも事実
「ヒロシマ」「ナガサキ」「第5福竜丸」「フクシマ」の中に「トウカイ」もあっていいはずだ
そして、我々は考えるべきです
「核分裂エネルギーを利用する限り、人類は未来を失うであろう」
「核(放射性物質)と人類は共存しえない」
(「核絶対否定への歩み」 森瀧市郎著 渓水社より)
P・S しかし、自分は思います。核分裂・核融合の技術・研究を人類は続けねばならないでしょう
それが、宇宙を形成しているのですから
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
これは11年前(2014年)の記事
原発事故と言えば、2011年の東日本大震災の福島第一発電所の事故を思い出す人がほとんどだと思う
でも、死者が出た原発事故を覚えている人はいるだろうか?
「JCO臨界事故15年 東海村 死亡2作業員に黙とう(茨城新聞より、2014年10月)」
茨城県東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)で起きた国内初の臨界事故(1999年)から9月30日で、17年を迎えました
国内の原子力開発史上初めての犠牲者を出し、「原子力安全神話」が崩れたと指摘された大惨事ですが、風化もささやかれるようです
同村の山田修村長は11年前(2014年)この日、職員約150人を集め、「原子力関係者にはあらためて安全が何よりも優先することを肝に銘じてほしい」と語ったようです
他県の人にとっては、2011年の東日本大震災での福島第1原発事故が日本最初の大惨事と思っているかもしれない
しかし、茨城県民にとっては、1999年9月30日に起きた東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)で起きた国内初の臨界事故が初の大惨事として記憶していることだろう
事故は1999年9月30日に起きました
JCO東海事業所の転換試験棟でウラン溶液の混合作業中、規定を大幅に上回る量の溶液を沈殿槽に投入したため、核分裂反応が連続する臨界が発生
沈殿槽は「裸の原子炉」となり、約20時間にわたって中性子線を放ち続けました
この結果、「作業員2人が死亡」、住民ら660人以上が被ばく
村独自の判断で、半径350メートル圏内の住民に避難要請が行われました
国際原子力事象評価尺度による評価はレベル4で、福島第1原発発生まで国内最悪の原子力事故だったのです
国や行政の対応の遅れも問題視され、この事故をきっかけに原子力災害対策特別措置法が制定されました
福島第1原発でさえ、直接、放射能汚染での死亡が無かったことと比べると、作業員2人が死亡を出したこの事故は、いかに恐ろしい状態だったかがわかると思います
救助活動も、放射線に対する知識不足を露呈するぐらいお粗末なものだったと思います
この事故があったこともあって、福島第1原発の事故は放射能による死亡者が無かったのではないかとも思ってしまいます
犠牲に上に科学の発展があると言う人もいますが、やっぱり、人類は核分裂反応(核融合も含む)に対する知識不足だと思ってしまいます(多分、専門家は反論すると思いますけどね…)
1999年9月は、1歳の次男が都内で口蓋裂の手術をした月でもあるので記憶にあります
事故現場から自宅は70km離れているので、中性子線が飛んでくるとは思いませんでしたが、ニュースを見た瞬間、子供達の身の安全をどうするか考えてしまいました
それからさらに12年経って、さらに140km離れた場所で福島第1原発の事故が起こり、今度は放射性物質が飛散して来ました
福島第一原発の事故で、原発の対する不測の事態の対策は、高まったかもしれません
でも、今の人類の知識と技術では、まだまだ、それを実生活に取り込み使いこなすには、知識不足だと思います
原発を再稼働されている現在、人々が忘れた頃に、また、何か起こりそうな気がしてなりません
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
2014年の記事をもう一度
2013年、夏、アニメ映画「風立ちぬ」を映画館に見に行きました
ゼロ戦の生みの親、堀越二郎の半生を描いたアニメ映画
そして、2014年始めに、百田尚樹さんの原作を映画化した映画「永遠の0(ゼロ)」を映画館に見に行きました
さらに、同じ時期、BSで放送されたドラマ「撃墜 3人のパイロット」(前編・後編)で録画したものを一気に見ました
ゼロ戦ではありませんが、終戦末期に作られたゼロ戦を上回る性能を持つ紫電改を取り巻く、パイロットの生き様を描いたドラマでした
いずれも、太平洋戦争中のお話
ある者は設計者として、ある者は操縦士として、愛する人のために、家族のために、生きるために、必死にその時代を駆け抜けた人たち
ドラマ「撃墜 3人のパイロット」は、前編・後編を合わせて、3時間にも渡るドキュメントドラマ
「風立ちぬ」のように実在の人物をもとにして、ドラマとドキュメント(本物の写真・手紙など)を交えて描いていたので、3時間が長く感じられませんでした
1984年、アメリカ海軍の元パイロット、ロバート・アップルゲートのもとに、一人の歴史研究家が訪れる
彼は、愛媛県久良湾で引き上げられた旧日本軍最強の戦闘機「紫電改」の写真を見せ、この戦闘機を撃墜したのはあなただと告げた操縦していたのは、後に「空の宮本武蔵」と呼ばれることになる名パイロット・武藤金義であると言う
自分が撃墜したのはどんな男だったのか
調べるうちにアップルゲートは、武藤金義も日中戦争で中国空軍の英雄であるパイロット・楽以琴を撃墜していたことを知る
中国の英雄を日本の英雄が撃ち落とし、その日本の英雄をアメリカ人である彼(アップルゲート)が撃ち落とす
3人のパイロットの不思議な因縁を感じたアップルゲートは、大空に散った2人の人生を知る旅に出た…
(NHKサイトより)
中国の英雄:楽以琴も、日本の英雄:武藤金義も、親がいて家族があった
どこにでもある普通の家庭の一般的な人だ
現在と違っていたのは、彼らは戦いのまっただ中にいて、その波に流されていったということだ
生きていれば未来もあった
生き残ったアメリカ人は、平和な世の中で、普通に生活を送る
でも、アメリカは泥沼のベトナム戦争を起こし、その状況をまざまざと見せつけられる
生き残っても、戦争は終わっていなかった
ドラマの中で、武藤金義が我が子を抱いて言う
「英雄なんてことはどうでもいい。俺はこの子のとうちゃんでいい!」
中国の英雄:楽以琴も、戦死してしばらくは英雄だったが、政治が変わると世の中は手のひらを返したようにその存在を除外してしまった
英雄や、正義なんて、見方を変えるとがらりと変わる
それが戦争なんだ
どんなに凄い飛行機を作っても、それで人を殺せば、殺人兵器
戦争は、人のささやかな幸せ・生活をすべて奪い去っていく
そう思いました
さて、このドラマでは、戦後1978年11月愛媛県南宇和郡城辺町(現・南宇和郡愛南町)久良湾の海底で1945年7月24日の未帰還機と思われる紫電改が発見され、その後引き上げられる場面があります
この紫電改は、現在、愛南町南レク馬瀬山公園の「紫電改展示館」に保存・展示されています
(ウィキペデアより)
この紫電改と自分は、1992年5月に出会っています
バイクで四国を独身最後の1人旅したときです
プロペラは大きく曲がっていましたが、機体の大きな損傷が無く、全体が綺麗に修復されていました
機体の前で撮ってもらった写真が手元にあります
当時の戦闘で未帰還者は6人
この機体が武藤金義さんのものかは遺品などは残っておらず特定は困難だったそうですが、301飛行隊の機体と思われることなどから武藤金義さんの機体である可能性も大きいと言われています
いずれにせよ、このドラマを見て、ドラマに映し出された紫電改と自分が会った紫電改が、同じだったということに驚きを感じました
そんないろいろな思いを感じ、ドラマを見終えました
日本人が始めて所有する空を飛ぶゼロ戦が、日本の空を飛んだことがありました
血みどろの歴史を戦い抜いたゼロ戦
多くの日本人がそれを見て何を感じてくれるだろうか?