核と人類は共存できない 核絶対否定への歩み 森瀧市郎/著
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今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。
その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。
「広島市国泰寺中学校三年生 T・M
今から九年前、私がまだ七歳の時のこと、思えば一瞬の物語だったあの時が、どうしても私の頭からは、いや身体から逃れてはくれない
「忘れよう忘れよう」といく度か心で誓い、二度とあんなこののないようにと祈りつつ…
でも忘れかけた時にはまた思い出し、あの時のことが瞼に浮かぶ、恐ろしかったあの時ばかりを…
あのために、原爆のために、母を失い、また、多くの人達が犠牲になり、何のために誰のためにそんな悲しい運命にならねばならぬのかと泣いても泣ききれない、このくやしさ情けなさ!
「おかあさんおかあさん」といくど呼べども帰ってこないおかあさんはもうあの世の人となってしまったのだ
おかあさんが死んだのなら私もおかあさんと一緒にあの世へ行けばよかったと思うことも少なくなかった
でも、私は母の顔すらはっきりは知らない
まだ私が幼かったため、父の顔も私は全然知らない
父は戦死 母は原爆で
戦争さえなかったならば…
今は両親とともに、いくら貧しくても幸福に暮らせているのに
原爆のために、死んだ多くの人達も可愛そうで、こうしてペンを走らす時も眼には涙が浮かぶ
でも過ぎ去ったことはもう仕方のないことだ、だからこれからの日本を、いや、世界を、改めなければならないのだ
広島の人は、原爆に遇っても、とても無関心な人が多い
そんなことではいけない
今問題となっている原水爆も早く、一刻も早く、何とかしてもらいたい
世界を平和にするために
いつになったら仲の良い平和な世界が来るのか
早く平和な世界の来るようにと私は祈る
昭和二十九年九月二十五日記」
あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。
その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。
「広島市段原中学校 T・I
八月六日はちょうど天気の良い日でした
その頃は私はなんの病気かわからない病気で寝ていました
その日おばあちゃんはガラス工場に働きにいっておられました
おかあちゃんは私にくすりをのませて家の前の庭を掃除しておられました
そして近所の人達は空が変だとか飛行機がよくとおるとか色々なことをあちこちで話しておられるのが寝ている私にもよくわかりました
ちょうどその時、おかあさんは空をみられたのでしょうか
「ああ」といって家に入られた時、四畳においてあったタンスが六畳の私が寝ているかやの上にあるではないか、私は丁度かやを吊ってねていたのでタンスがかやの上にかぶさってけが一つしなかったのだが、もしかやが無かったら死んでいたか、大けがをしていたでしょう
おかあさんはタンスの上にあがってきて私をおこして下さった
その時私は母の手をみると、母のひじのところは黒いような赤いような血が流れていました
私は余りの恐ろしさに泣きだしてしまいました
私はその時七歳でした
それから一年余り、母はいろいろな病気がもとでこの世を去っていきました
その日は四月一日でした
四月一日は私が小学校一年に入学する日でした
母も私の入学姿がみたかったでしょうのに
私はおばあちゃんに手をつないでもらって学校の門をくぐりました
そのときのさびしさ悲しさ
よその人はおとうさん、おかあさんに手をつないでもらって楽しそうに門をくぐって行くのに私は暗い悲しい気持ちで手をひかれながら…
今でもあの時の鏡やかやが残っています
蚊帳にはあの時に色々なものやガラスが突き刺さって、沢山ついてあります
鏡は上のはしが手鏡ぐらいの大きさしか残っていません
私はいつもそれを見て髪をすいています
鏡台のうしろの木の所に直径三センチメートルぐらいの穴があいています
丁度そこから何かがつきささって鏡が割れたのでしょう
近所の人達は、私が中学校卒業したらこれに鏡を入れなさいといって下さいます
「あの時の恐ろしさはもう二度と来ないように世界に伝えて下さい。」
「人類の幸福のためです」
昭和二十九年九月二十六日、日曜日」
あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。
その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。
「広島市楠那小学校 M・M
ぼくが三つの時げんばくが広島におちました
その時おかあちゃんはきんろうほうしにいっていました
おとうちゃんは会社にいっていました
おかあちゃんは、げんばくのため亡くなりました
それから間もなく、おとうちゃんも亡くなりました
でもぼくは小さかったのでかすかにしか覚えていません
何でもおかあちゃんがきんろうほうしにいく時に、ぼくはついていくといったので、福屋にいって服を買ってきてやるといって、ぼくはまたされたのでした
おかあちゃんが死んでも、まだ帰らんとおかあちゃんのことをいって待っていたそうです
(中略)
ぼくたちの大きくなったのはおとうちゃんやおかあちゃんがかげからまもっていて下さるからだとおばさんがよくいいました
ぼくは戦争が大きらいです
いつまでも平和な国であるように」
あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。
その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。
「一面焼け野が原と化し、死体があちこちに転がっていた広島の街が9年間ですっかり都会らしく復興しました
箱庭のような美しい街を空からみていると何だかウソのような気がします
でも両親に抱かれて一家五人が楽しく暮らしていた水主町の家はあのあたりだとわかるだけで、そのあとにはだれか知らない人が住んでいます
平和広場の慰霊祭に集まった数千人の人がまるでアリのようです
みんな僕のように親、兄弟をなくした人ばかりでしょう
平和を願う声が機上まで聞こえてくるようです
警察学校の建物の下敷きになって焼け死に遺骨さえわからなかったおとうさん、疎開先からおとうさんに会いに行って寺町の路上でやけどを負い一ヶ月後に頭の髪が抜けて苦しがって死んでいったかわいそうなおかあさんを思い出し「おかあちゃん」と思わず叫んで涙ぐんでしまいました
空からみた原爆ドームはガイ骨のようなみにくい姿をさらけ出していました
原爆を落とした米国の飛行士は一瞬にして美しい建物が原爆ドームのように変わり果てた広島の姿をどういう気持ちでながめたことでしょう
広島城も跡形もなくいまは青々とした草にいろどられています
地上の争いことなど天上からみたらほんのささなことで、もっと大きく世界をみつめ、希望をもちましょう
でも世界はまだ平和のためにまとまらないでいます
悲しいことです
これからは広島の子供たちが中心になって世界を平和にするよう努力したいと誓いました
(国泰寺中学K君手記)」
あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
去年(2024年)、被爆者の立場から核兵器の廃絶などを訴えてきた日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会にノーベル平和賞が授賞されました。
被爆二世の自分としても、もう一度、授賞式で日本被団協の代表委員である田中熙巳さんの演説全文を読み返したいと思います
もう、みんな忘れているだろうから……
代表委員 田中熙巳さんの演説全文
国王ならびに王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、ただいま紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人であります、田中熙巳でございます。
本日は受賞者「日本被団協」を代表してごあいさつをする機会を頂きありがとうございます。
私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。
生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してまいりました。
一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗(あらが)い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという私たちの運動であります。
二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動であります。
この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。
しかし、今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発近くの核弾頭が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗に攻撃を加える中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。
私は長崎原爆の被爆者の一人であります。
13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅において被爆しました。
1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。
その光に驚愕し2階から階下にかけおりました。
目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。
その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。
しかし、ガラスが一枚も割れていなかったのはこれは私の奇跡というほかありません。
ほぼ無傷で助かりました。
長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の安否を尋ねるために訪れた時です。
わたしと母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。
3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。
煉瓦造りの東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。
麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらなお生きている人々が、誰からの救援もなく放置されておりました。
私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでありました。
一人の伯母は爆心地から400mの自宅の焼け跡に大学生の孫とともに黒焦げの死体で転がっていました。
もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。
祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがみこんでいました。
伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で野原で荼毘にふしました。
ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほどで苦しみ亡くなったそうです。
一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪いました。
その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。
誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。
たとえ戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけないと、私はそのとき、強く感じたものであります。
長崎原爆は上空600メートルで爆発し、放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところに火をつけました。
多くの人が家屋に押しつぶされたまま焼き殺されました。
残りの15%は中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。
その年の末まで広島、長崎の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。
原爆によって被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりといえます。
生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。
さらに日本政府からも見放されました。
被爆後の十年間、孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けざるをえませんでした。
1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」を被ばく、大きな事件になりました。
中でも第五福竜丸の乗組員23人が全員被ばくし、急性放射能症を発症し、捕獲したマグロはすべて投棄されることになりました。
この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が日本に始まりました。
世界でも始まりました。
燎原の火(りょうげんのひ)のように日本中に広がったのです。
3000万を超える署名が結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年の1956年、第2回世界大会が長崎で開かれました。
この運動に励まされて、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会」が結成されたのであります。
結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明したのであります。
「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのであります。
運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。
しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するという簡単なものでありました。
さらにもうひとつ、厚生大臣が原爆症と認定した疾病にかかった場合のみ、その医療費を支給するというものでありました。
1968年になり、「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」というのを制定させました。
これは、数種類の手当てを給付するということで経済的な援助を行いました。
しかしそれは社会保障制度でありまして、国家補償はかたくなに拒まれたのであります。
1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。
この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたるすべての被害を加えるというものでありました。
命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態が明らかになりました。
この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなりました。
自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くいたしました。
1994年12月、この2つの法律を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されました。
しかし、何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。
もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います。
これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被爆者に対し、適用されていませんでしたが、日本で被爆し、母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダ、このほかに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみ、それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は共同し、裁判など活動を通して国に訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになってまいりました。
私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を強めてまいりました。
1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催されました。
原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。
このころ、ヨーロッパで核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開かれました。
これら集会での証言に日本被団協に対する依頼が続いたのであります。
1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。
核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間中に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。
2012年、NPT再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約」交渉会議に発展いたしました。
2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出いたしました。
その結果でもありますが、2017年7月7日に122か国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたのであります。これは私たちにとって大変大きな喜びでありました。
さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります。
想像してみてください。
直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。
広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということ。
みなさんがいつ被害者になってもおかしくない、あるいは、加害者になるかもしれない状況がございます。
ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのであります。
原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。
10年先には直接の被爆体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。
これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しております。
一つ大きな参考になるものがあります。
それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきました、NPO法人の「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在であります。
この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してまいりました。
これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待いたします。
私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。
国内にとどまらず国際的な活動が大きく展開してくださることを強く願っています。
世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の締結を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験の証言の場を各国で開いてください。
とりわけ、核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付くこと、自国の政府の核政策を変えさせる力になることを私たちは願っています。
人類が核兵器で自滅することのないように!!
そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!
ありがとうございました。
著作権 C ノーベル財団、ストックホルム、2024年
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
「原爆裁判」
この裁判を先人が行ってくれたおかげで、被爆者や被爆二世の自分も特別に受けられる健診が存在する。
その効果は別としても。
この行動が無ければ、被爆者も被爆二世も、ずっと泣き寝入りしていたかもしれない。
去年(2024年)放送されたNHKの連続テレビ小説「虎に翼」にて、その原爆裁判が描かれた。
被爆二世の自分はそれを見て感じるものはあった。
以下に、それに関する記事があったので、そのまま載せる。
毎年読み返すことになるだろう。
このドラマも、再放送をしてほしい。
ダイジェストでもいいからと思う。
「プレジデントオンライン(2024年)
「朝ドラのモデル三淵嘉子らが出した原爆裁判の判決文がすごい…「忘れられていた歴史的裁判」が描かれた意味」
連続ドラマ小説「虎に翼」(NHK)では、60年前の史実に基づき、裁判官の寅子(伊藤沙莉)が「原爆裁判」を担当する様が描かれた。
NHK解説委員の清永聡さんは「寅子のモデルである三淵嘉子さんは東京地方裁判所の判事時代、8年かかった原爆裁判を裁判官の中でただひとり最後まで担当し続けた。
そのことについては生前語らなかったが、裁判官を退職後、核兵器禁止の署名活動をしていた」という――。
三淵嘉子が実際に8年間担当した「原爆裁判」とは?
「虎に翼」の第20週から第23週にかけては、「原爆裁判」が描かれました。
寅子(伊藤沙莉)が所属する東京地方裁判所の民事24部が、広島・長崎の原爆被害者が提起した日本政府に損害賠償を求める訴訟を担当しましたが、寅子のモデル・三淵嘉子さんも実際に原爆裁判に関わっていました。
「原爆裁判」とは、昭和30年代に被爆者によって原爆投下の違法性が初めて法廷で争われた国家賠償訴訟のこと。
この裁判をご存知なかった方も多いのではないでしょうか。
広島や長崎で被爆した人たちが日本政府の責任を追及した裁判です。
非常に重要な裁判だったにもかかわらず、今の世の中で一般の人には半ば忘れ去られた裁判でもあります。
取材にあたり、東京地裁に問い合わせてこの裁判記録の保管状況を調べてもらいましたが、資料は廃棄されているとのこと。
本来は裁判所が「特別保存」すべきものですが、近年全国の裁判所で民事訴訟記録の大量廃棄が明らかになり、原爆裁判記録も判決文を除き、すべて捨てられていました。
残念なことです。
原爆をめぐっては「被爆者」の認定を求める集団訴訟が今も続いていますが、原爆裁判の意義は、「原爆投下は国際法に違反するか」を直球で問うものだったことです。
私は『家庭裁判所物語』(日本評論社)を書く際、原爆裁判を闘ってきた松井康浩弁護士による記録を引き継いで保管している「日本反核法律家協会」会長・大久保賢一さんに、閲覧させてもらいました(現在はネットでも全て閲覧できます)。
そして、裁判の経過を詳しく調べました。
第1回から結審まで一貫して担当し続けた三淵嘉子
その古い紙の綴りは手書きの訴状から始まっています。
原告は広島と長崎の被爆者5人。昭和30年に訴えを起こし、東京地裁で4年に及ぶ準備手続きを経て、昭和35年2月から38年3月まで、9回の口頭弁論が開かれました。
残された調書の表紙には右陪席の裁判官として全て「三淵嘉子」の名が記されています。
3人の裁判官のうち、裁判長と左陪席は異動で交代していく中、三淵嘉子さんは第1回口頭弁論から結審まで一貫して原爆裁判を担当し続けたのです。
司法担当として原爆裁判は真正面から描いてほしいと希望
「虎に翼」の企画が動き出した際、私は、原爆裁判はぜひ真正面から描いてほしいという強い希望を出していました。
短く少しだけ触れるというやり方は、深刻で重大なテーマにそぐわないと考えたからです。脚本の吉田恵里香さんや演出の梛川善郎ディレクターの理解も得て、こうした希望をかなえてもらえました。
第1回の準備手続のシーンは、反核法律家協会が保管している資料の中に調書があり、それをもとに描かれています。
まず「原告代理人の訴状陳述」から始まり、「被告指定代理人はいかがですか」「私どもとしては、請求棄却を求める方針です。
答弁を準備したく、準備手続きの続行をお願いしたい」「では、答弁書は遅くとも3カ月後……」といったシーンも、実は保管されている記録をもとにセリフにしています。
続いて第2回準備手続きでは、弁護士の岩居(趙珉和)が国側の指定代理人に対し「広島の原子爆弾の投下は、国際法に違反すると言っているじゃないですか」と少し語気を強めている場面があります。
おそらくテレビを見ていた人は、これだけでは何のことかわからなかったでしょう。
実はこれ、保管されている記録の中に、第2回で提出された国への「求釈明申立書」があります。
そこに「昭和二十年八月十日帝国政府は(中略)米国政府に対し、広島に対する原子爆弾の投下が国際法に違反する」とスイス政府を通じてアメリカに抗議していたことを明らかにしています。
つまり、さきほどのシーンは岩居が「あなた方(帝国政府)自身が当時、国際法違反と言っていたじゃないか」と追及しているわけです。
ちょっと怒っていることもわかるでしょう。
記録の保存がいかに大事かということがこれでわかると思います。
一方で、例えばこういう小さな部屋で行われる手続きだからといって、ドラマ的に映えるよう面白おかしくはしない。
厳格にそのまま、特に広島と長崎の方々に対して誠実に伝えようということを制作スタッフ全員一致で考えています。
平埜生成演じる裁判長が史実の判決文を読み上げた
第23週の9月6日では、最後に判決の瞬間が描かれました。
これはほぼ4分間、裁判長が判決文をただ読んでいるだけという異例のシーンなのですが、読み上げているのは昭和38年12月に言い渡された「原爆裁判」の判決文の一部です。
特に後半部分は、放送で聞いている人が理解できるように表現を少しわかりやすく修正したほかは、できるだけ当時の判決のままにしています。
この収録には私も立ち会いましたが、汐見裁判長役の平埜生成さんはとても気合が入っていて、4~5回撮影をする間、1回も言い淀まず、しかも冷静に感情をグッと抑えて読み上げる熱演でした。
収録スタジオの中にも感動が広がりました。
よく考えたら、判決文を読んでいるだけなんですよね。
それは、熱演と梛川ディレクターの演出の巧みさに加えて、原爆裁判の「判決が持つ力」もあったのだと思いました。
あの段階で例えば架空の判決文を作ることはできない。
あくまで史実通り本物の判決をできるだけそのまま読んで、ドラマを観ている皆さん、特に広島と長崎の人に三淵さんたち3人の裁判官が練り上げた判決を伝えたい、知ってもらいたいという思いで作りました。
判決の前にその理由を読み上げたことが画期的だった
ドラマでは、判決の際に「主文後回し」になったということも描かれましたが、実際もそうでした。
当時の民事裁判で理由から読み上げるのは異例のことでした。
これも私が当時の記事を調べていた中、「判決言い渡しは主文を後回しにする異例のやり方で始まった」と書かれた記事を発見し、さらに「『国際法からみて違法な戦闘行為』という言葉が述べられた瞬間、メモを取る原告側代理人松井弁護士の顔がさっと紅潮した」と法廷雑感も書いてあったためにわかったことです。
ドラマでも実際と全く同じように主文を後回しにして、判決理由から読んでいます。
この判決文がすごいんですね。
最大の争点だった「原爆投下の国際法違反」は明確に認め、末尾には被爆者への援護策を国に強く促しています。
しかし、主文上は国への賠償を求めた原告が負けている。
国は勝訴したので、判断内容が不服でも控訴できないんです。
逆に原告は控訴することもできたけれど、「国際法違反」という判断をあえて確定させた。三淵さんを含めた3人の裁判官は、おそらく自分たちの判断が国際的にも影響を与えかねない、さらには政治的な影響力も生じうることも覚悟したうえで、この判決文を作成したのだと思います。
三淵嘉子をモデルにするからには原爆裁判を描きたかった
3人の裁判官の間で実際にどんな話し合いが行われたかは、「合議の秘密」があって、わかりません。
そこは空想を広げることができる部分です。
ドラマでは脚本の吉田さんが生き生きとした合議の場面を作っています。
また、ドラマでは原告の当事者尋問を非常に悲しい事情で取りやめてしまいますが、史実でも原告の当事者尋問の申請はあったものの、おそらく争点を絞り込んだ結果、最終的には取り下げられています。
この当事者尋問については吉田さんのオリジナルで、入れうるところには創作を入れつつも、原告本人たちがおかれた状況や手続きをできるだけ史実に即して作成したつもりです。
「虎に翼」で三淵嘉子さんを主人公のモデルにするからには、原爆裁判は絶対に外せないというのは、私自身、この企画がスタートした2022年から変わっていませんでした。
『家庭裁判所物語』を書くために証言や資料を集めていましたし、三淵さんの生涯において大きな裁判であったことは間違いがないと思っていました。
私の個人的な思いもありました。
私は生まれてすぐに父親の転勤で広島に引越し、小学生時代まで広島に住んでいました。1970年代ですから家の近所には被爆の傷跡が残る高齢者もいましたし、小さな頃には母親に平和公園や資料館にも連れて行かれました。
そうした子供の時の記憶もあって、正面から史実通りにやってほしいという思いが強くありました。
原爆投下を「国際法違反」とした歴史的瞬間をどう描いたか
裁判の終盤、「国際法違反」と言って、請求棄却になるところで、記者たちが1回飛び出ようとするのを汐見裁判長が引き戻す。
戻れと言うわけではないけれど、記者たちが判決文に聞き惚れてもう1回座るあたりは、梛川ディレクターの名演出です。
ちなみに司法記者だった私も判決途中に慌てて飛び出そうとして、やはり判決文が気になり、もう一度座りなおした経験があります(笑)。
ところで、この原爆裁判の判決は国際社会からも高く評価されました。
日本の反応も当然大きく、判決が出たときは新聞各紙1面トップで扱われています。
それなのに、その後一般の人たちからはこの裁判が忘れ去られてしまった。
ただ、これで終わりではありません。
1996年、国際司法裁判所は勧告的意見の中で、核兵器の使用は「一般的に国際法に違反する」と指摘しています。
この判断について、日本反核法律家協会の大久保賢一会長は、「判断枠組みは原爆裁判と同じであり、その影響が見て取れる」と指摘しています。
三淵さんたちが出した判決は、その後も影響を及ぼし続けているということです。
家庭裁判所に異動してからも兼任して原爆裁判を担当した
もう一つ、皆さんが気になっているのは、なぜ三淵さんが裁判体である3人の1人になったのか、ということかもしれません。
これは結論から言うと、偶然だと思います。
東京地裁に訴えが起こされた場合、当時も今も行政訴訟や労働事件などを専門的に扱う「専門部・集中部」という部署を除くと、「配てん」は機械的に行われます。
また、三淵さんが名古屋地裁から異動して東京地裁の民事24部に着任したのは昭和31年。原爆裁判の提訴はその前年で、すでに準備手続も始まっていたというのが史実です。
ただし、三淵さんの意思が反映されたのではないか、と考えられる部分もあります。
彼女は原爆裁判が係属中の昭和37年12月に「東京家庭裁判所判事『兼』東京地方裁判所判事」となっています。
おそらくその後は家裁に勤務しながら、原爆裁判の法廷がある時には地裁へ来ていたのでしょう。
結審は翌年(昭和38年)3月でした。
その翌月(4月)に彼女は兼務が解かれ、東京家裁判事となっています。
断定はできませんが、三淵さんはこの裁判を結審まで担当し判決文を書きたいと自ら希望して、兼務となったということも考えられます。
史実では判決の瞬間、三淵嘉子は裁判官席にいなかった
実際、残されている記録を読むと、第一回口頭弁論から結審まで3人の裁判官の1人として彼女の名前が書かれています。
しかし、昭和38年12月の判決のタイミングではもう東京家裁に異動となっていましたので、法廷での言い渡しには立ち会っていないはずです。
おそらく判決の時には、気にしながら東京家裁で少年審判などを行っていたのでしょう。ドラマでは言い渡しの場にも寅子がいますが、このあたりの変更はドラマのオリジナル部分となります。
ところで、私は『家庭裁判所物語』を書く際、彼女が判決後、この原爆裁判について何か書き残したり、周囲との会話の中で触れたりしていないかどうか調べましたが、何も見つかりませんでした。
長男の芳武氏にも生前、直接質問しましたが、「当時大きく報じられたので、母が原爆裁判を担当していたことは知っていたが、家庭でも話したことはない」と答えています。
基本的に嘉子さんは事件の話を家でしなかったそうです。
自身の経験や経歴を語る場も多かった彼女が、一言も触れていないのは不思議に感じられます。
おそらくは事案の深刻さと「合議の秘密」を守るため、意図的に語らなかったのでしょう。
三淵嘉子が退官後に反核の署名運動をしていたという逸話
ただ、三淵さんの思いが透けて見えるエピソードがあります。
彼女は裁判官を退官した後に日本女性法律家協会の会長になります。
1982年にニューヨークで「第2回国連軍縮特別総会」が開かれました。
これに合わせて核兵器の禁止を求める署名活動が全国で行われました。
実は、彼女は日本女性法律家協会としてこの署名活動に参加し、会長の三淵さん自身も池袋駅の西口に立って署名活動を行っているのです。
私は三淵さんの署名活動のことを知りませんでした。
三淵さんの後輩にあたる女性法律家の方々に「あなたそんなことも知らないの、取材が甘いわね」と言われてしまいました(笑)。
それにしても、元裁判官はあまり署名活動などやりません。
それだけに三淵さんの核兵器廃止への思いは強かったのだろうと思います。
そもそも最初の夫の和田芳夫さんも弟の一郎さんも戦争で亡くしているわけですから、「戦争を繰り返してはならない」という思いもあったはずです。
ただし、三淵さんも戦後しばらくは子供や弟を養わねばならず、自分や家族の生活に追われていました。
年月が経ち、日本も占領下から独立し、改めて「あの戦争とはなんだったのか」と思うようになったのかもしれません。
こうした彼女の戦争や平和に対する思いがゆっくりと醸成され、「原爆裁判」の歴史的な判決につながっていったのではないでしょうか。
---------- 清永 聡(きよなが・さとし) NHK解説委員 1970年生まれ。NHKで社会部記者として司法クラブで最高裁判所などを担当。司法クラブキャップ。社会部副部長などを経て現職。著書に『気骨の判決――東條英機と闘った裁判官』(新潮社、2008年)、『家庭裁判所物語』(日本評論社、2018年)、『戦犯を救え――BC級「横浜裁判」秘録』(新潮社、2015年)がある。 ----------
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
自分の祖父は、8月6日、教師ということで広島市内の学校に向かっていて被爆した。
しかし、自分の父は?
当時、15歳だった父は、広島市内の学校に通っていた。
でも、8月6日の当日、学徒作業で、30kmぐらい離れたところで、朝から作業していたそうだ。
そして、翌7日、広島市内に入市している。
祖父は被爆者手帳を持っていることを知っていた(現物を見たことはない)が、父が被爆者手帳を持ってるかどうかわからなかった。
父が五十数年前に亡くなって以来、その事実は分からず、知ることも無かった。
しかし、父は被爆者手帳を持っていた。
被爆者だった。
分かったのは、母からのちょっとした話からだった。
今から十数年前だった。
その時点で、自分は、被爆二世が確定。
そして、自分の子供たちは、被爆三世が確定した。
それから、不安がよぎるようになる。
この記事も当時気になった。
「被爆2世、消えぬ不安=遺伝恐れ、差別も体験―原爆忌2017年8/6(日) 19:24配信、時事通信」
広島の被爆者を父母に持つ「被爆2世」の不安は、原爆投下から72年がたつ今も消えない。
今年になって26人の2世が、国に慰謝料を求める訴訟を広島地裁に起こした。
原告の1人、広島県福山市の中学校教員占部正弘さん(当時59)は、10年前から喉の痛みを感じている。
被爆し、肝臓がんで亡くなった父を思い、放射能の影響に恐れを抱き続ける。
全国被爆2世団体連絡協議会によると、被爆2世は全国に少なくとも30万~50万人いるとされる。
訴訟で被爆2世らは、放射線の影響は遺伝している可能性があり、健康不安を抱えているのに十分な支援を受けていないと主張。
国側は「遺伝は科学的に立証されていない」と反論している。
占部さんの両腕には子どもの頃に突然、白斑ができた。被爆直後、父親の背中にできたものと似ている。
「体の表面に遺伝があるのなら、内部にもあるかもしれない」という思いが消えない。
約20年前、被爆2世の知人女性が乳がんのため40代で亡くなった。
女性からは、「2世はがんになりやすいから」と注意を促されていた。
「もし彼女が被爆者として認められていれば、健康手帳を交付されていれば、生きていたかもしれない」。
そう考え、訴訟への参加を決めた。
訴訟で被爆2世は、差別の存在も訴える。
占部さん自身もかつて縁談が持ち上がった際、仲人から「(2世であることは)相手方に言わん方がいい」と勧められた経験がある。
結婚後、被爆2世であることを隠したままの人は少なくないという。
仮に勝訴しても、「2世は原爆の遺伝を受けた障害者だ」と、さらに差別を助長してしまうのではとのジレンマも感じる。
それでも、「自分たちだけでなく、子や孫まで将来、がんになるかもしれない。その時に何の手だてもない方が問題だ」と、訴訟の意義を訴える。
2019年には教員を定年退職する。
教え子の被爆3世にも健康不安が残ることを憂慮し、「裁判で勝てば、彼らも国の支援を受けられるようになる」と話す。
教え子らには、「核のない平和な世の中のために、声を上げられる人間になってほしい」と願っている。
自分は、もう、還暦を過ぎた。
たぶん、がんなどの重篤な疾病が発生しても、それは、一般の人の発生率と変わらない確立だろう。
ただ、被爆二世は、何かしら体の違和感を感じる人が7割もいるという情報もある
自分も、この年になって、数多くの症状が発生している
これは何だろう?
わからない
そして、子供たちはどうなのだろう?
これも気になる。
二世より三世は、より一世の遺伝の情報は薄くなる。
子どもたちは、自分の遺伝情報より、原爆遺伝は少なくなっていると思いたい。
でも、隔世遺伝と言う言葉ものある。
不安はまだある。
こんなこと、一般の人には、関係ない苦痛だろう。
それが、放射能物質の影響なんだ!!
今年も、被爆二世の健康診断の時期がやってくる。
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
花火と言えば、11月最初の土曜日に行われる土浦(茨城県)の全国花火競技大会
そして、富士山の麓にある静岡県の東富士演習場で、実弾の花火と言うべき陸上自衛隊富士総合火力演習
これは一般公開は無くなった
昔、防衛省の仕事をしていた時は、しょっちゅう、御殿場(静岡県)にある陸上自衛隊富士学校(陸上自衛隊の学校)に通っていました
そんなこともあって、防衛省の人と火力演習には行くチャンスはあったのですが、結局、行くことはできませんでした
実は、その唯一チャンスの時は、台風が直撃していて、電車が動かなかったのです
しかし、火力演習は暴風雨の中でしっかり行われました
有事の時は、暴風雨でも関係ないですからね
(装備品の実用試験だって、台風直撃の中でやりましたから…)
花火の音は心地よく聞こえるのに、戦車の砲撃音や戦闘機の音は恐ろしさを感じる人は多いと思います
今起きているウクライナ戦争やガザ地区での戦争のニュース映像で、銃弾が飛び交う光景を綺麗と感じる人はいないと思います
(戦闘機の爆音は、通常の民間飛行機と違って雷を落とした音がするので、普通の人は耳をふさぐのですが、自分とっては心地よい音に聞こえるのは異常でしょうか?)
そんな戦車や戦闘機等は戦うため(戦争)の道具です
自分が大好きな漫画家新谷かおるさんが、漫画の中で、「いまある戦闘機や戦車が、第二次大戦中の軍艦や戦闘機のように血塗られたものにならないようであって欲しい」と言っています
(日本以外では、実際は、すでに血塗られたものになっていますが…)
夏の夜空に花開く花火は綺麗です
でも、同じような火薬を使った昼間の花火(火力演習など)は、一つ間違えば、戦争の道具となり、人を殺すことになります
そんな昼間の花火は、あくまで、そのままの道具であってほしいものです
ただ、今の軍事兵器の威力がどの程度のものかと言うことを、国民みんなが知っておく必要があると思います
埼玉県朝霞市にある陸上自衛隊広報センター「りっくんランド」では、、現在自衛隊で運用されている装備品がたくさん展示されています
定期的に装甲車やヘリコプターへの体験搭乗も行っており、ヘリコプター搭乗は抽選も行われるほどの人気ぶりだそうです
また、機銃のシミュレーターなどもあり、親子連れでもきっと楽しめるはず
入館料も無料なのでは、親子で訪れて、日本の兵器を親子でしっかり認識する必要があるでしょうね
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
以前の記事をひつこくもう一度
12前(2013年)にヒストリーチャンネル(NHKハイビジョンで放送されたものの再放送)で放送されたドキュメント「ヒロシマ・ナガサキで生き抜いた記録 二重被爆」を見ました
1945年8月6日、広島で被爆
そして、300キロも離れた長崎へ移動して、3日後の8月9日にもう一度被爆した人々がいました
そんな二重被爆を経験された一人の山口ツトムさんを追跡取材したものでした
山口さんの場合は、広島は出張先であり、長崎は故郷だったということです
そんな二重被爆の実態も、世間では知られることは無かったと思います
それも、二重被爆者たちが、語り継ぐことが無かったのも原因だったかもしれません
家族に迷惑がかかると思って口を閉ざしていたとも言います
被爆者が口々にする、二度と思い出したくないと言う気持ちもあったと思います
戦後、60年間語ることは無かった山口さんは、後世に語り継ぐ「命のバトンタッチ」として語り始めたと言います
国連でも山口さんは非核について訴えています
そんな、山口さんはあの有名なジェームズ・キャメロン監督に2009年自分の話を聞いて欲しいと手紙を書きました
念願かなって、2009年12月、山口さんとジェームズ・キャメロン監督は会いました
そんな山口さんも2010年1月4日に亡くなりました(享年93才)
二重被爆を経験された貴重な被爆者が亡なりました
(これらは、ドキュメンタリー映画「二重被爆」で見ることができます。レンタルはされていないでしょうね)
二重被爆のことを知りたくて、図書館でロバート・トランブル著「二重被爆者9人の証言者 キノコ雲に追われて」と言う本を借りて読みました
本を読んで、意外に二重被爆者が多いことに驚きました
広島・長崎には、三菱重工業があってその社員が多く二重被爆しているのも原因かもしれません
本では、山口さんを含めて9人の二重被爆者たちの証言をとっていますが、それ以外に9人の二重被爆者がいると言います
(最終的には、165人の二重被爆者がいらっしゃると言うことですが、その後はわかりません)
二重被爆者の存在は、戦後60年間の間、歴史の中に埋もれていたと言うことです
終戦10年後、一人のアメリカ人ジャーナリストであるロバート・トランブル氏が二重被爆者9人の証言をとって記録したのが、この「二重被爆者9人の証言者 キノコ雲に追われて」と言う書物でした
その記録も、2009年に明らかになったと言うことなので驚きです
被爆者はいまや日本全国いや世界に散らばっています
次男が通っている高校のOBにも、被爆者がいらしゃったのも最近知ったばかりです(長男が通っていた頃です)
さらに、福島第一原発事故周辺で、放射能被害を受け、原発による「被曝」(被爆じゃないよ)を受けた被曝者もいらっしゃると言います
かれらの存在を知り、その事実を知り、それをふまえた上で、私たちは「放射性物質と人類は共存できない」と言うことを強く認識するべきでしょうね
そして、核物質として人工的に濃縮された放射性物質の無い世界にしたいものです
(自然界に、放射性物質は、身の回りにごく当たり前にあるのですが…)
さて、これらのことをふまえてキャメロン監督は本当に反核を訴える映画を作るのだろうか?
「ジェームズ・キャメロン、広島・長崎で“二重被爆”の山口彊氏を描く映画を監督へ
2024年9/17(火) 12:15配信(2024)」
ジェームズ・キャメロン監督が、チャールズ・ペレグリーノ著の「Ghosts of Hiroshima(原題)」の映画化権を獲得したことが分かった。
同作は原爆投下から80年となる2025年8月に出版予定のノンフィクション作品。
2015年に出版された同著の「To Hell and Back: The Last Train from Hiroshima(原題)」と併せ、『Last Train from Hiroshima(原題)』として映画化する。
1945年8月6日に広島、8月9日に長崎で二度にわたって被爆し、「二重被爆者」となった山口彊(つとむ)氏を題材とした内容だという。
(以前の記事をそのまま引用しました)
今年は、被爆そして戦後80年ということで、
過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます
2021年に感じたこと
イチエフでは、廃炉作業は進めているが、10年たっても、思うように進んでいないのが現状
40年から50年で廃炉完了なんて、最初の行程見積もりも、はっきり言って絵にかいたもちになってきた
(ただ、40年ぐらいで完了させないと、ボロボロになっているそれぞれの建屋がもたないらしい。意外にも、完了納期が迫っていると言える。本当に待ったなしなのだ。さて、どうするのだろう??)
特に問題なのは、廃棄物が放射能を帯びているから、廃棄処分できない
多数が隔離処分になる
これは、事故を起こしていない原発も同じだろう
今は情報が上がっていないが、廃炉決定している2エフも同じだろう
福島第2発電所はどうなっているのだろう?
火力、水力は、解体、廃棄、さらにリユースはできる
しかし、原発は燃料を含めて、構造物は、リユースが難しい
ほとんどが隔離されるごみ
原発保有国であるアメリカ、中国、ロシアは、領土が広いから、隔離地域を作って、地下に埋めればいいかもしれない
でも、日本のように領土が狭いフランス、イギリス、ドイツなどは、核燃料もだが、廃炉による廃棄物の処分(隔離)をどうするのだろう?
核燃料だけでは無いことを当然わかっているのだろうか?
火力、水力は、廃棄、リユースできるが、原発はリユースも廃棄もできない厄介なごみにしかならない
こんなものが、クリーンな発電と言えるのだろうか?
先人たちは、長期的な運用を見謝ったと思わずにはいられない
そして、古くなった核兵器だって、交換した時、簡単に廃棄処分なんてできないだろう