原爆孤児たちの訴え(3) | ☆ワシの終活☆

原爆孤児たちの訴え(3)

今年は、被爆そして戦後80年ということで、

過去の記事を、引用して、再度、繰り返し書きます

被爆二世である自分が、2015年が被爆・戦後70年と言うときに、森瀧市郎著の「「核と人類は共存できない」核絶対否定への歩み」七つ森書館(当時1800円(税抜))を読んだことを記事にしました。

その中に、原爆孤児たちの訴えが記載されていましたので、数日をかけて紹介します。

 

「広島市段原中学校 T・I

八月六日はちょうど天気の良い日でした

その頃は私はなんの病気かわからない病気で寝ていました

その日おばあちゃんはガラス工場に働きにいっておられました

おかあちゃんは私にくすりをのませて家の前の庭を掃除しておられました

そして近所の人達は空が変だとか飛行機がよくとおるとか色々なことをあちこちで話しておられるのが寝ている私にもよくわかりました

ちょうどその時、おかあさんは空をみられたのでしょうか

「ああ」といって家に入られた時、四畳においてあったタンスが六畳の私が寝ているかやの上にあるではないか、私は丁度かやを吊ってねていたのでタンスがかやの上にかぶさってけが一つしなかったのだが、もしかやが無かったら死んでいたか、大けがをしていたでしょう

おかあさんはタンスの上にあがってきて私をおこして下さった

その時私は母の手をみると、母のひじのところは黒いような赤いような血が流れていました

私は余りの恐ろしさに泣きだしてしまいました

私はその時七歳でした

それから一年余り、母はいろいろな病気がもとでこの世を去っていきました

その日は四月一日でした

四月一日は私が小学校一年に入学する日でした

母も私の入学姿がみたかったでしょうのに

私はおばあちゃんに手をつないでもらって学校の門をくぐりました

そのときのさびしさ悲しさ

よその人はおとうさん、おかあさんに手をつないでもらって楽しそうに門をくぐって行くのに私は暗い悲しい気持ちで手をひかれながら…

今でもあの時の鏡やかやが残っています

蚊帳にはあの時に色々なものやガラスが突き刺さって、沢山ついてあります

鏡は上のはしが手鏡ぐらいの大きさしか残っていません

私はいつもそれを見て髪をすいています

鏡台のうしろの木の所に直径三センチメートルぐらいの穴があいています

丁度そこから何かがつきささって鏡が割れたのでしょう

近所の人達は、私が中学校卒業したらこれに鏡を入れなさいといって下さいます

「あの時の恐ろしさはもう二度と来ないように世界に伝えて下さい。」

「人類の幸福のためです」

昭和二十九年九月二十六日、日曜日」

 

あなたは、今の平和な生活が当たり前だと勘違いしていませんか?