※ 2年ほど前に書きかけて放置していた記事がありました。
↑第一期のライブ風景。自作のマイナスワンのテープを使って主旋律をメインに弾くスタイル。ライブに限ってグレコのGOシリーズのダブルネックを使っていた。見栄えがいいからね。
新津章夫の場合、幸せなことに、非常にコアなファンが多いのです。新津章夫をOne of themでは扱えない? 人々にとても愛されました。本当に幸せなことです。ゆえに、あれほどマイナーなミュージシャンなのに、死後もこんなにも支持されている。
生前から、新津章夫はそういう人でした。彼を好きになる人は、徹底的に彼を好きになってくれるのです。でなければ、あんな気難しがり屋の、唯我独尊な、変わり者がレコードを出したり、テレビ、ラジオに出たりするなんてことは考えられません。
そして、それは職業や年齢や国を超えて、そうあったのです。「I・O」のジャケットデザインを担当していただいた横尾忠則さん、Bridgeレコード代表の伊藤洋一さん、音楽ライターの岩田由記夫さん、元ジャパンレコードの三浦光紀さん…。
その中でも忘れられない方がいます。
病的な照れ屋で人前に出ることも写真を撮られることすら大嫌いな新津章夫がライブ演奏をやっていた時代がありました。1980年代初頭のこと。当時、話題になりはじめたカフェバーのひとつ、旧防衛庁前(六本木)にあった「インクスティック」に出演しておりました。
「インクスティック」のオーナーは、松山勲さんという方です。カフェバーブームを作った人、ともいわれていて今や伝説となっている霞町の「レッドシューズ」の創業者です。
その松山さんが、新津章夫の音楽性をとても気に入ってくれて、当時、2部制でやっていた「インクスティック」のステージに、新津章夫を引っ張りだしていたのでした。
しかも、「ファンクラブ」まで結成していただき(活動実態は不明…)。
新津章夫が音楽活動を休止しようとしていた1984年頃、僕はライターとして取材で松山勲さんにお会いしたことがあります。その時はお店についての話だったのですが、帰り際、「良かったら、お兄さんに、もう一度、ライブをやってくれないか、聞いてもらえないか? なんとか口説いてよ」と頼まれたことがありました。
そのことを新津章夫に伝えると「もうライブでできることはやったからいいよ」とそっけない返事でした。
後日、松山さんに電話をすると…。
「そうだろうね。それでもう一度ライブをやるなんて人じゃないよな。わかっていたけど。ありがとう」
その頃は、僕も自分の仕事が忙しくて新津章夫とはあまり密な関係を持ってはいなかったので、新津章夫がなぜライブをやめたのかも、松山さんがわかっていてなぜまた誘ったのかも想像すらできません。僕も何度か見に行ったけど、出演者が誰であろうと(!)客足が途絶える店ではなかったし、新津章夫の日はデザイナーとかクリエイターとか、そういう人が多く見に来ていて、それなりに独特の雰囲気を作っていたと記憶しております。
「インクスティック」でのライブがどういう形態で行われていたかについては、またおいおい。
オマケ/リハの音だけでもどうぞ。ちなみに、ピアノは第二期のライブで競演していた橋本和夫君。僕の中学の同級生で、新津章夫のアシスタントを勤めていてくれた人です。
http://www.youtube.com/watch?v=JMB9rPaJHB0