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新津章夫 Official Blog 《迷宮の森》

謎に満ちた迷宮のギタリスト、新津章夫のオフィシャル・ブログ。迷宮の森 《Forest in maze》

  

8月19日は新津章夫の59回目の誕生日でした。というわけで、いつもこのBlogを見ていただいている皆さんにプレゼントです。


入手難といわれている新津章夫の3rdアルバム「ウィンターワンダーランド」の中の名曲、「エヌ氏のナイーヴ」をYOUTUBEにアップしました。


この曲はギタリストの新津章夫にしてギターパートのない珍しい曲です。音源はYAMAHAのDX-7とKorgのMS-20&MS-50、そして、リズムはRolandのTR-909です。


リズム部分は「無印良品BGM」と同様1曲を打ち込みしておらずフリークエンスのみ。この件について当人に聞いてみますと「1曲、丸々打ち込むのは面倒くさいから」とのことでした。


いかにもリズム楽器を嫌うどころか憎いんでさえいた新津章夫らしい意見です。「歌とリズムで音楽を作るのは簡単、イージー」というのが新津章夫の音楽哲学です。


それでいてアイドルやロックバンドの編曲、プロデュースもやっていたわけですから、さほど堅物というわけでもないんです。自分の音楽には持ち込まないというだけで。


ちなみに、この「エヌ氏のナイーヴ」という曲名は不肖、私、新津隆夫が命名いたしました。「エヌ氏」とは新津章夫が大好きだったSF作家の星新一さんの著作の登場人物名。もちろん、NIITSU AKIOの頭文字であるエヌとかけているわけですが、僕にとっても「未来永劫」「迷宮の森」「PetSteP」と並ぶ新津章夫の傑作のひとつだと思っています。


「エヌ氏のナイーヴ」

http://www.youtube.com/watch?v=ROE3Gu_4bGY

たぶんウチの近辺だけじゃあないと思うんだけど、我が町(ミラノ近郊)にはいくつかマーチングバンドがあって、お祭りの時などはにぎやかに「聖者の行進」なんかを演奏しながら道を練り歩くわけです。一方、お葬式のときには出棺もとの家から教会まで悲しげな音色を奏でながら行列したりと、それなりに需要があるようで、ま、正直けしてうまくもないんだけど、先日はインテル対ナポリの試合に呼ばれてサンシーロでも演奏したというから驚いたり…。

この中に娘の体操教室のメンバーが親子4人で参加していて、今日は近隣の町のマーチングバンド3隊と演奏会があるので聞きにこないかと誘われたので行ってきました。

実は僕(新津隆夫)は中学時代は体育会系はバレーボール、文科系はブラスバンド部に所属していた。ブラバンの憧れ、上野にある文化会館の大ホールで演奏したこともある。というわけで、行進ではなくコンサート形式のブラバンを聞きに行くのは楽しみではあった。

ブラバンの基本は行進曲であります。とはいえ、マーチばかりだとあきるだろうからって、ブルースブラザースでも有名になった「エヴリバディ・ニード・サムバディ」とかストーンズの「黒く塗れ」なんかも演奏したわけですが、これが見事にオンビート、つまり頭打ちなのであります。

この2曲はツービートだから(たけしじゃない)たしかにマーチに取り入れやすくて、頭打ちでもおかしくないけど、オリジナルの演奏はもちろんツービートでもオフビートでリズムとってますよね。

で、思い出したのが谷啓さんがテレビのインタビューで言っていた「戦後、アメリカからジャズが伝わって来たときに驚いたのが、オフビートなのよ。それまでの洋楽はドイツとかイタリアのオンビートの曲ばかりだったので、オフビートのジャズって、なんか悪っぽくてね、カッコ良かったんですよ」とのお言葉。

まぁ、ジャズは元々が黒人の音楽だからオフビートが基本で、逆に独伊は土着の音楽の歴史からもオンビートが根付いている。

昔(昭和の時代)はビートルズなんかを爺ちゃん婆ちゃんに聞かせると1拍目に手拍子を打ってましたよ。まるっきり民謡扱いのオンビート。♪月が出た出た、月が出たって感じで「抱きしめたい」。

繰り返しますが、マーチングバンドだから仕方がないんですけど、ロックやR&Bをオンビートで演奏して、イタリア人も頭打ちで手拍子しちゃう。 僕はブラバンですから行進曲は好きです。しかし、オフビートの曲をあえてオンビートで演奏するってのは…。

たぶん、マーチ云々以前に、谷啓さんの話じゃないけど、ドイツ人とかイタリア人の身体には、オンビートが宿っているんじゃあないかね、な~んて思った次第。

というところで、新津章夫の楽曲を見てみますと、ううむ、オンビートが多いですね。バンドやっていた時は、ジャズ・ギタリストだったんですよ、新津章夫。しかし、名曲「リオン」も「未来永劫」も「天気雨」も、まぁ、彼の場合はほとんどリズム隊ってのはないのですが、拍子でいうとオンビート。やはりドイツに傾倒していた結果でしょうかね。

私事ではありますが、というわけで、震災の当日から3週間ほど帰国しておりましたが、その間のことを娘が通うイタリアの小学校の担任がひどく心配してくれておりまして、帰ってからメールでやり取りしていた際、なにかの拍子で「日本では今、元気付けるために『上を向いて歩こう』という歌が良く流れている」と話したのです。

その担任は本来は音楽の先生で、娘の小学校では4年生からリコーダーを習うところを、自分の受け持ち時間に1年生から教えていまして、ならばぜひその「上を向いて歩こう」を教材に取り入れましょう、となった次第。

「上を向いて歩こう」は唯一の日本語で唄ったアメリカ・ビルボード誌1位になった曲だと記憶しておりますが、海外では「Sukiyaki」という題名でも知られております。

イタリアの小学生のリコーダーによる「上を向いて歩こう」

http://www.youtube.com/watch?v=QvA1qh4nuok

ちなみに、件の先生はお兄さんがギタリストで、2000年に亡くなっているそうで、私と同じような境遇ということもあり、シンパシーを感じてもらっています。エリオ先生、ありがとうございました。

追伸

遅ればせながら、この度の東日本大震災にあわれた方々に、この場を借りてお見舞い申し上げます。上記のように私は偶然にも地震当日に帰国し、その時のつらく悲しい日本の空気を肌で感じました。1日も早く皆様に平穏な日々が戻ることをお祈りしております。

地震当日に帰国。成田からの欧州直行便が再開したのを受けて再びイタリアに戻りました。


 帰国中、新津章夫のCDを制作、販売していただいている「ブリッジ」と打ち合わせをし、来年の「新津章夫 没後10年、生誕60年」に向けて未発表テイクをまとめたCDを発表することになりそうです。


発売の時期は、新津章夫の命日である1月から誕生日である8月までの間にと思っています。


このCDでの目玉は、「I・O」に収録されている「未来永劫」の「未来永劫 パート2」。そして、録音されながらもお蔵入りになった2ndアルバム「PETSTEP」のタイトル曲「PETSTEP」のオリジナルテイク(1分に満たない新津章夫のアレンジ力、演奏力、エンジニアリング力が凝縮された珠玉の一作)。


その他、数少ないCMへの提供曲やテレビ番組のために作られたテーマ曲なども収録する予定です。


また詳細が決まりましたらお知らせします。

新津章夫のことを「ギター科学者ともいうべき雰囲気」と評していただいた方がいらっしゃいましたが、なかなか言い得て妙な表現だと感服いたしました。が、一方で異様なほどポップ好きな一面もありました。それがTボーンズの「真っ赤な太陽」のカバーだったり、クリスマスソングだったりするわけですが、今日はあまり新津章夫とは関係ありませんが、そのあたりの話。


新津章夫が好きだったポップ系ミュージシャンのひとりが、キャロル・キングです。まぁ、いかにも時代ですね。


そのキャロル・キングの名曲に「You've Got A Friend」というのがあります。有名な曲です。


「You've Got A Friend」CAROLE KING

http://www.youtube.com/watch?v=XHlcW_lKPl4


歌詞がいいですね。翻訳の詩がネットにありますので、見つけてみてください。


友達のことを歌った名曲といえば、トッド・ラングレンの「Can We Still Be Friends」も有名です。お若い方は知らないかな?   


「Can We Still Be Friends」TODD RUNDGREN

http://www.youtube.com/watch?v=T3Z4H61LXmQ


トッド・ラングレンというと「Hello It's Me」がヒット曲として知られていますが、いいでしょ、こっちも??


そうなんですよ。友達を歌った曲は、どれも切ないんです。名曲にはいろいろな曲調がありますが、友達を歌った曲はどれも切なさが魅力なんです。


新津章夫の親友に学生時代、放送作家の真似事をやっていた人がいるのですが、まだデビューしたてで一部のマニアしか知らなかった荒井由実を深夜放送でバンバンかけまくったのが、この人でした。あえて番組名やパーソナリティーには触れません。とくにパーソナリティーはもう亡くなっているかただし。


そのユーミンにも、友達を歌った名曲があります。


「Hello, My Friend」 松任谷由実

http://www.youtube.com/watch?v=TYS1o-HGx_4


友達を歌った曲って、どうしてこんなにも切ないんでしょうね。


「You've Got A Friend」 CAROLE KING

「Can We Still Be Friends」 TODD RUNDGREN

「Hello, My Friend」 松任谷由実


僕はこれを、世界3大お友達ソングと呼びたいと思ってます。

2002年に新津章夫が亡くなってから9年も経ちましたか…。早いものですね。命日は1月19日とされておりますので、もう2日も過ぎちゃったわけですが、今でもあの偏屈野郎を愛してくださっている方々のためになにかプレゼントをしたいと思いまして、今回は1982年に発表された2枚目のアルバム「PETSTEP」からの名曲中の名曲、「LYON」を紹介します。


このアルバムは当時YMOのメンバーだっだ細野晴臣さんをアドバイザーに迎えて製作されたとクレジットには書いてあるわけですが、実際のところ新津章夫は細野さんのことは、やはり自宅録音のアルバム「HOSONO HOUSE」の大ファンでもあったし、たいへん尊敬していたのですが、自分のアルバム製作に意見を求めるということに対してはまったく別物で、その現場を見たわけではありませんが、おそらく、たぶん、いや、間違いなく、レコード会社が名前だけ拝借した、っていう感じだったのだと思います。


当時、「I/O」のディレクターだった伊藤洋一氏はすでにYMOに手一杯で、新津章夫の担当は別の方が勤めておりましたが、まぁ、四半世紀も経っているから言ってもいいと思いますが、どうにもこうにも馬があわなかったようです。そんなわけで、「PETSTEP」についてはアルバム名が新津章夫の大好きな回文になっていますし、ヨーロッパテイストてんこ盛りの曲も多いのですが、一方で製作現場においては納得のいかないことばかりだったようです


話は「LYON」に戻りますが、この曲は、題名からしてもおわかりになるように、フランスの都市、リヨンに新津章夫が旅したときの想い出を音にしたものです。


な~んていうと、特別な思いが込められたように聞こえますが、実際には半日もいなかったとか? 1970年代の欧州は、もちろんユーロなんてものはないし、西側諸国といえども国境越えはひとつひとつが面倒でした。


新津章夫は列車の旅の途中で、そういった細々としたことの連続で幾度となく予定が狂い、その時も食事もままならず、ひょいと飛び降りてメシでもと思ったのが、このリヨンだったようです(僕への手紙にそうありました)。


列車の車窓から見る欧州の風景のようなテンポ。流れるメロディーライン。凝りに凝ったコード進行といつもの煌く倍速ギターの音。


さぞかし良い想い出なのかと思いきや…。しかしまぁ空腹に耐えかねて降りた町で美味しい食べ物とワインを得られたわけですから、まぁ、それはそれで幸せな時間を過ごせたことが、このような名曲に仕上げられた理由かもしれません。


新津章夫が亡くなって9年。ひと一人がいなくなったからってどうなるわけでもないんですが、彼のことをいつまでも覚えてくれているファンの皆さんに聞いてもらいたいと思います。



PS/YOUTUBEにも載せておきました。


http://www.youtube.com/watch?v=fiGeyJeBXcc

 またまた復古版です。


 最初の頃の新津章夫の音楽性を紹介した記事にこんなのがあります。


 エッシャーのだまし絵、クラインの坪やメビウスの輪、シンメトリーとパラドックス、そして、アンチクライマックス、回文、円周率…。視覚や論理、言葉など、あらゆるものの中に、平気な顔をして混じり込んでいる座敷童子(ざしきわらし)のような「不思議」が大好きでした。そんな、新津章夫の音楽は、可能性と挑戦、そして、実験に満ちた音の科学式のようなもの、なのかもしれません。もっとも本人は「まやかし音楽」と呼んでいました異常なまでの照れ屋であるがゆえの照れ隠し的表現に他ありません。

 エッシャーのだまし絵というのは、例えばこれですね。


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 これらの視覚的な「不思議」を集めた名著があります。坂根厳夫さんの「遊びの博物誌」という本です。1977年に発刊されたものですが、Amazonではあいかわらず古書として人気があるようです。


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当たり前のことですが、アーティストと作品との関連性については、そのアーティストが幼少期にどんな育ち方をしてきたかと密接が関係があります。新津章夫は我が家にあった「玉川こども百科」という、30冊くらいから構成されている百科事典が大好きでした。暇があればそれを眺めておりました。小さい頃からピアノやバイオリンに親しんでいたというタイプではなく、耳からよりも目から入る刺激が彼の音楽の基本となっていたわけです。

皆さん、あけましておめでとうございます。今年も当Blogをよろしくお願いします。心を入れ替えて、月に2回は更新したいと思っています。


かれこれこのBlogも足掛け6年目、2011年は7年目になりますが、Blogはホームページと異なり、前に書いた記事ってなかなかさかのぼって読むってことも、よほど好きにならない限りはやりませんよね。平面で見せられずに時系列で動いてしまうのが良いところでもあり悪いところでもあり。


ご存知のようにこのBlogは新津章夫が書いているわけではありません。当然です。死んでますから。実弟である新津隆夫が書いてます。


なもんで、当人なら性格的に絶対にやらないだろうけど、過去の記事を掘り返してきて、書き直して載せてみようかなって思ってます。最近、このBlogの読者になってくれた方もいるだろうし、僕自身も何年か経過して、ああ、あれ、こういうことだったじゃん、とか新津章夫の知人、友人、スタッフ、そして、ウチの家族から新たに教えてもらった事実ってこともありますしね。


ま、「もうそれは知っているよ」っていう人も、そういわずに読んでください。


というわけで、今回は1回目に書いた記事。


新津章夫の略歴

http://ameblo.jp/petstep/archive1-200509.html

これの補足をします。付け足しといっても、死んだ人間のプロフィールが増えることはありませんので、写真だけ(新年早々、物騒な写真ですみません…)。

これです。


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これがいわゆる新津章夫がプロのミュージシャンになろうとしたきっかけとなった自称“フライング・ホンダ”事件? ま、自爆の事故ですけどね。免許取立ての友達と旅行をしていて谷底におっこちたわけです40㍍も。そのときのことはガードレールを飛び越えて着地するまで、克明に記憶していたといいますが、ううむ、どうなんでしょう? バウンド回数も覚えていたようだけど。

新津章夫はこう懐述してますね。

大学3年の時に友人と軽自動車ごと40㍍崖下に転落したものの九死に一生を得る。そして「せっかく生かされた命、好きなことをやろうと」、自分の音楽を突き詰めるため作曲から編曲、演奏、エンジニアリングまで一人で行うことを決意。

富田勲さんとの対談でも吹聴しておりましたね。

http://ameblo.jp/petstep/entry-10132421621.html

ちなみに、この事故で新津章夫は大腿骨骨折などの重傷を負って1ヶ月以上長野県の病院に入院をしておりました。よく生きていたものだと思います。

新津章夫は中学時代、千代田区ではちょっと知られた長距離の陸上選手だったので、身体を鍛えておいたのが良かったのかも?

この惨状で生きていたのはたしかに奇跡かもしれません。


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この図形はつい最近、ツィッター上で話題になったもの。ま、お暇なときに、なんでこうなるのか考えてみてください。


新津章夫はこういうものが大好きでした。不思議なもの。しかも、自然に存在するものよりは科学的な不思議さ。彼の音楽はまさに、こういう概念を音にしたものといっていいでしょう。


その象徴といえる曲が「I・O」の1曲目、最初から聞いても最後から反転させて聞いても同じに聞こえる「オレンジ・パラドックス」ですが、それ以外にも、曲の中にちりばめられた不思議。


ま、この図形の謎でも考えながら、新津章夫の音楽を聞くのも一興でございます。


※ 2年ほど前に書きかけて放置していた記事がありました。



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↑第一期のライブ風景。自作のマイナスワンのテープを使って主旋律をメインに弾くスタイル。ライブに限ってグレコのGOシリーズのダブルネックを使っていた。見栄えがいいからね。



 新津章夫の場合、幸せなことに、非常にコアなファンが多いのです。新津章夫をOne of themでは扱えない? 人々にとても愛されました。本当に幸せなことです。ゆえに、あれほどマイナーなミュージシャンなのに、死後もこんなにも支持されている。


 生前から、新津章夫はそういう人でした。彼を好きになる人は、徹底的に彼を好きになってくれるのです。でなければ、あんな気難しがり屋の、唯我独尊な、変わり者がレコードを出したり、テレビ、ラジオに出たりするなんてことは考えられません。


そして、それは職業や年齢や国を超えて、そうあったのです。「I・O」のジャケットデザインを担当していただいた横尾忠則さん、Bridgeレコード代表の伊藤洋一さん、音楽ライターの岩田由記夫さん、元ジャパンレコードの三浦光紀さん…。


 その中でも忘れられない方がいます。


 病的な照れ屋で人前に出ることも写真を撮られることすら大嫌いな新津章夫がライブ演奏をやっていた時代がありました。1980年代初頭のこと。当時、話題になりはじめたカフェバーのひとつ、旧防衛庁前(六本木)にあった「インクスティック」に出演しておりました。


「インクスティック」のオーナーは、松山勲さんという方です。カフェバーブームを作った人、ともいわれていて今や伝説となっている霞町の「レッドシューズ」の創業者です。


 その松山さんが、新津章夫の音楽性をとても気に入ってくれて、当時、2部制でやっていた「インクスティック」のステージに、新津章夫を引っ張りだしていたのでした。


 しかも、「ファンクラブ」まで結成していただき(活動実態は不明…)。


 新津章夫が音楽活動を休止しようとしていた1984年頃、僕はライターとして取材で松山勲さんにお会いしたことがあります。その時はお店についての話だったのですが、帰り際、「良かったら、お兄さんに、もう一度、ライブをやってくれないか、聞いてもらえないか? なんとか口説いてよ」と頼まれたことがありました。


 そのことを新津章夫に伝えると「もうライブでできることはやったからいいよ」とそっけない返事でした。


 後日、松山さんに電話をすると…。


「そうだろうね。それでもう一度ライブをやるなんて人じゃないよな。わかっていたけど。ありがとう」


 その頃は、僕も自分の仕事が忙しくて新津章夫とはあまり密な関係を持ってはいなかったので、新津章夫がなぜライブをやめたのかも、松山さんがわかっていてなぜまた誘ったのかも想像すらできません。僕も何度か見に行ったけど、出演者が誰であろうと(!)客足が途絶える店ではなかったし、新津章夫の日はデザイナーとかクリエイターとか、そういう人が多く見に来ていて、それなりに独特の雰囲気を作っていたと記憶しております。


「インクスティック」でのライブがどういう形態で行われていたかについては、またおいおい。


オマケ/リハの音だけでもどうぞ。ちなみに、ピアノは第二期のライブで競演していた橋本和夫君。僕の中学の同級生で、新津章夫のアシスタントを勤めていてくれた人です。

http://www.youtube.com/watch?v=JMB9rPaJHB0