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新津章夫 Official Blog 《迷宮の森》

謎に満ちた迷宮のギタリスト、新津章夫のオフィシャル・ブログ。迷宮の森 《Forest in maze》

 またまた復古版です。


 最初の頃の新津章夫の音楽性を紹介した記事にこんなのがあります。


 エッシャーのだまし絵、クラインの坪やメビウスの輪、シンメトリーとパラドックス、そして、アンチクライマックス、回文、円周率…。視覚や論理、言葉など、あらゆるものの中に、平気な顔をして混じり込んでいる座敷童子(ざしきわらし)のような「不思議」が大好きでした。そんな、新津章夫の音楽は、可能性と挑戦、そして、実験に満ちた音の科学式のようなもの、なのかもしれません。もっとも本人は「まやかし音楽」と呼んでいました異常なまでの照れ屋であるがゆえの照れ隠し的表現に他ありません。

 エッシャーのだまし絵というのは、例えばこれですね。


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 これらの視覚的な「不思議」を集めた名著があります。坂根厳夫さんの「遊びの博物誌」という本です。1977年に発刊されたものですが、Amazonではあいかわらず古書として人気があるようです。


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当たり前のことですが、アーティストと作品との関連性については、そのアーティストが幼少期にどんな育ち方をしてきたかと密接が関係があります。新津章夫は我が家にあった「玉川こども百科」という、30冊くらいから構成されている百科事典が大好きでした。暇があればそれを眺めておりました。小さい頃からピアノやバイオリンに親しんでいたというタイプではなく、耳からよりも目から入る刺激が彼の音楽の基本となっていたわけです。

皆さん、あけましておめでとうございます。今年も当Blogをよろしくお願いします。心を入れ替えて、月に2回は更新したいと思っています。


かれこれこのBlogも足掛け6年目、2011年は7年目になりますが、Blogはホームページと異なり、前に書いた記事ってなかなかさかのぼって読むってことも、よほど好きにならない限りはやりませんよね。平面で見せられずに時系列で動いてしまうのが良いところでもあり悪いところでもあり。


ご存知のようにこのBlogは新津章夫が書いているわけではありません。当然です。死んでますから。実弟である新津隆夫が書いてます。


なもんで、当人なら性格的に絶対にやらないだろうけど、過去の記事を掘り返してきて、書き直して載せてみようかなって思ってます。最近、このBlogの読者になってくれた方もいるだろうし、僕自身も何年か経過して、ああ、あれ、こういうことだったじゃん、とか新津章夫の知人、友人、スタッフ、そして、ウチの家族から新たに教えてもらった事実ってこともありますしね。


ま、「もうそれは知っているよ」っていう人も、そういわずに読んでください。


というわけで、今回は1回目に書いた記事。


新津章夫の略歴

http://ameblo.jp/petstep/archive1-200509.html

これの補足をします。付け足しといっても、死んだ人間のプロフィールが増えることはありませんので、写真だけ(新年早々、物騒な写真ですみません…)。

これです。


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これがいわゆる新津章夫がプロのミュージシャンになろうとしたきっかけとなった自称“フライング・ホンダ”事件? ま、自爆の事故ですけどね。免許取立ての友達と旅行をしていて谷底におっこちたわけです40㍍も。そのときのことはガードレールを飛び越えて着地するまで、克明に記憶していたといいますが、ううむ、どうなんでしょう? バウンド回数も覚えていたようだけど。

新津章夫はこう懐述してますね。

大学3年の時に友人と軽自動車ごと40㍍崖下に転落したものの九死に一生を得る。そして「せっかく生かされた命、好きなことをやろうと」、自分の音楽を突き詰めるため作曲から編曲、演奏、エンジニアリングまで一人で行うことを決意。

富田勲さんとの対談でも吹聴しておりましたね。

http://ameblo.jp/petstep/entry-10132421621.html

ちなみに、この事故で新津章夫は大腿骨骨折などの重傷を負って1ヶ月以上長野県の病院に入院をしておりました。よく生きていたものだと思います。

新津章夫は中学時代、千代田区ではちょっと知られた長距離の陸上選手だったので、身体を鍛えておいたのが良かったのかも?

この惨状で生きていたのはたしかに奇跡かもしれません。


新津章夫 Official Blog 《迷宮の森》-sankaku


この図形はつい最近、ツィッター上で話題になったもの。ま、お暇なときに、なんでこうなるのか考えてみてください。


新津章夫はこういうものが大好きでした。不思議なもの。しかも、自然に存在するものよりは科学的な不思議さ。彼の音楽はまさに、こういう概念を音にしたものといっていいでしょう。


その象徴といえる曲が「I・O」の1曲目、最初から聞いても最後から反転させて聞いても同じに聞こえる「オレンジ・パラドックス」ですが、それ以外にも、曲の中にちりばめられた不思議。


ま、この図形の謎でも考えながら、新津章夫の音楽を聞くのも一興でございます。


※ 2年ほど前に書きかけて放置していた記事がありました。



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↑第一期のライブ風景。自作のマイナスワンのテープを使って主旋律をメインに弾くスタイル。ライブに限ってグレコのGOシリーズのダブルネックを使っていた。見栄えがいいからね。



 新津章夫の場合、幸せなことに、非常にコアなファンが多いのです。新津章夫をOne of themでは扱えない? 人々にとても愛されました。本当に幸せなことです。ゆえに、あれほどマイナーなミュージシャンなのに、死後もこんなにも支持されている。


 生前から、新津章夫はそういう人でした。彼を好きになる人は、徹底的に彼を好きになってくれるのです。でなければ、あんな気難しがり屋の、唯我独尊な、変わり者がレコードを出したり、テレビ、ラジオに出たりするなんてことは考えられません。


そして、それは職業や年齢や国を超えて、そうあったのです。「I・O」のジャケットデザインを担当していただいた横尾忠則さん、Bridgeレコード代表の伊藤洋一さん、音楽ライターの岩田由記夫さん、元ジャパンレコードの三浦光紀さん…。


 その中でも忘れられない方がいます。


 病的な照れ屋で人前に出ることも写真を撮られることすら大嫌いな新津章夫がライブ演奏をやっていた時代がありました。1980年代初頭のこと。当時、話題になりはじめたカフェバーのひとつ、旧防衛庁前(六本木)にあった「インクスティック」に出演しておりました。


「インクスティック」のオーナーは、松山勲さんという方です。カフェバーブームを作った人、ともいわれていて今や伝説となっている霞町の「レッドシューズ」の創業者です。


 その松山さんが、新津章夫の音楽性をとても気に入ってくれて、当時、2部制でやっていた「インクスティック」のステージに、新津章夫を引っ張りだしていたのでした。


 しかも、「ファンクラブ」まで結成していただき(活動実態は不明…)。


 新津章夫が音楽活動を休止しようとしていた1984年頃、僕はライターとして取材で松山勲さんにお会いしたことがあります。その時はお店についての話だったのですが、帰り際、「良かったら、お兄さんに、もう一度、ライブをやってくれないか、聞いてもらえないか? なんとか口説いてよ」と頼まれたことがありました。


 そのことを新津章夫に伝えると「もうライブでできることはやったからいいよ」とそっけない返事でした。


 後日、松山さんに電話をすると…。


「そうだろうね。それでもう一度ライブをやるなんて人じゃないよな。わかっていたけど。ありがとう」


 その頃は、僕も自分の仕事が忙しくて新津章夫とはあまり密な関係を持ってはいなかったので、新津章夫がなぜライブをやめたのかも、松山さんがわかっていてなぜまた誘ったのかも想像すらできません。僕も何度か見に行ったけど、出演者が誰であろうと(!)客足が途絶える店ではなかったし、新津章夫の日はデザイナーとかクリエイターとか、そういう人が多く見に来ていて、それなりに独特の雰囲気を作っていたと記憶しております。


「インクスティック」でのライブがどういう形態で行われていたかについては、またおいおい。


オマケ/リハの音だけでもどうぞ。ちなみに、ピアノは第二期のライブで競演していた橋本和夫君。僕の中学の同級生で、新津章夫のアシスタントを勤めていてくれた人です。

http://www.youtube.com/watch?v=JMB9rPaJHB0

気がつけば2ヶ月間も更新しておりません。自分のBlogにかまけておりまして、不精をお詫びします。近々、更新します。

そういえば、帰国中に借りていたトランクルームを引っ越したので、荷物を整理していたらいろいろ新津章夫の資料が出てきた。自筆の譜面とか、かつて出演したNHKの「日本の響」という音楽番組のプログラムとか。


しかし、残念ながら今回は持ってこられなかったため公開は10月以降。それまで見捨てないでね、このBlogも。

更新が滞っていて申しわけありません。いろいろ考えていることはあるのですが、実行できなくて…。


今回は新津章夫についてではなく、ワタシ(新津隆夫)の話。


もう言い尽くされていることではありますが、インターネットって本当に素晴らしい。かつては興信所や探偵にでもお願いしなければわからなかった、音信不通の友達を簡単に見つけ出せたりしちゃう。本当にありがたいことです。


佐原一哉さんは1980年代に非常にコアなファンを持っていたザ・ノーコメンツという“日本初の”とよく謳われたスカ・バンドのリーダー(当時のニックネームは会長)です。僕は佐原さんの東京の友達を経由して、ザ・ノーコメンツのメンバーチェンジ前の最後のライブを原宿のクロコダイルで見て、ライブ後に佐原さんと一緒に食事に行った記憶があります。


ザ・ノーコメンツは京都をベースに活動していましたが、佐原さん自信は博多の出身ということもあり、派手なステージングの印象とは異なり、九州男児らしい? 男っぽい、生真面目な人というのが第一印象でした。


その後、今度は僕が京都に新生ザ・ノーコメンツのライブを取材に行ったりと交流を続けてきました。


東京ガール/ザ・ノーコメンツ  (YOUTUBE)

↑こんなバンド。この曲のアレンジは大村憲司さん。中央のオレンジと黄色の服の人が佐原“会長”です。


バンド解散後は河内音頭の菊水丸のバッキングをつとめて遠くはイラクまで活動の場を広げていましたが(お土産にフセインのバッジをもらいました)、僕も音楽から離れ、日本からも離れていたため音信不通となっていましたが、ひょんなことからネット上で佐原さんの名前を発見。20年ぶりにコンタクトすることができたのでした。


佐原さんは現在、元「ネーネーズ」の古謝美佐子さんと音楽活動を続けており、CDを何枚か送っていただいたのですが、実に丁寧な音作りをしています。


ぜひ一度聴いてみて下さい。


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廻る命/古謝美佐子

上海万博の公式曲が日本のアーティストの楽曲のパクリだとの一件から、かねてから言われていた中国や韓国の様々なパクリ問題に火がついている。音楽に限らず、自動車のデザイン、テレビ番組などなど。


こと音楽については、日本も偉そうなことは言えない。ぜったいに言うことなどできない。60年代、70年代の歌謡曲を知るものならば、それは説明するまでもない。


しかし、パクリなのか、いや、これはオマージュ、リスペクト、インスパイアなのかという違いについては、つねに曖昧模糊としたグレーゾーンに指定されている。


新津章夫の曲に「天気雨」(I・O)、及び「星たちのラグタイム」(無印良品BGM)というのがある。これは、新津章夫が大好きだったアントン・カラスの「第三の男」の“オマージュ”である。


パクリとオマージュは何が違うのか?


一言でいうと、作者というフィルターをしっかり通っているか、だと思う。そのフィルターとは、作者が元曲に対して、どれだけの研究、分析をしているか、憧れ、尊敬をしているか、さらに、元曲の持つ魅力をどれだけ「解釈」しているかだと思う。


ユーミンがアイドルのために書いた曲で、「まちぶせ」という名曲がある。何度もカバーされている。


http://www.youtube.com/watch?v=u40LvYJZLWA


この曲は、ユーミンが大好きだったフランスの歌手、フランスワーズ・アルディの「さよならを教えて」のオマージュである。


http://www.youtube.com/watch?v=nkmSdP7WmMc&feature=related


いわゆる「譜割」は一緒だけどメロディーは違う。あくまで、「さよならを教えて」的な世界を描きたかったというのがわかる。


オマージュ、リスペクトと、単なるパクリの違いは、そういう部分にあるのだと思う。

 俗にギターは40年間値上がりしていない特殊な耐久消費財だと言われる。僕がギターを始めた1970年代初め、当時ようやく産業として成り立ってきた国産エレキギターの業界で、一大ブームとなったグレコEG-360と いうレス・ポールのコピーモデルは、その商品番号が示すとおり1本3万6000円だった。


 しかして、当時の大卒初任給は10万円にも満たなかった。調べてみると、1970年が約5万円、1975年で約9万円。つまり、国産のギターが今に例えればUSA製のフェンダーやギブソンと同等の価値があったのです。


 実際、1970年代の日本のプロミュージシャンでも、フェンダーやギブソンを2本も3本も持っている人は珍しく、サブギターはグレコやフェルナンデスというのが常識的だった時代。


 そんなわけで、1970年代初めに新津章夫が初めて作った2CHのオープンリールデッキによる多重録音でのデモテープでは、ベースは所有しておらずギターの5、6弦部分を使ってベースラインを演奏しておりました。


 彼のデモテープに本当のベース音が入ったのは1973~1974年ごろで、僕の友人から借りたMOZZというメーカーのSGタイプのベースから。ちなみに、写真のベースはグヤトーンが作っていたジャズベースのコピーモデルで、これもMOZZもショートスケールです。このグヤトーン製は70年代半ばにやはり僕の友だちから譲り受けたもの。その後、フィリップス・レコードに渡り、メジャーデビューのきっかけとなったデモテープでは、このベースが多く使われております。


 ギターの話しでも書きましたが、凡そ“弘法筆を選ばず”を地で行く人で、「チューニングさえあえばなんでもいい」とばかりにベースにもこだわりはなかった人です。ちなみに、レコードの演奏ではHSアンダーソン製のプレシジョンタイプののフレットレスベースを使っています。おそろしく重たいベースで座って弾かないと肩こりまくり。フレットレスであることは「コズミック・トレイン」(I・O)を聴いていてもよくわかります。



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「西武有楽町店 年内にも閉鎖へ」


そんなニュースを見ました。有楽町西武は1984年にオープン、食品売り場を持たないファッションに特化した働く女性のための百貨店という、当時としては斬新なプロジェクトでした。


さらに、有楽町西武が斬新だったのは、従来の有線などのソフトミュージックをBGMとせず、オリジナルで「買い物が楽しくなる音楽」を流そうとしたこと。


その試みに、白羽の矢が立ったのが新津章夫でした。


口当たりならぬ“耳当り”はソフトだけれど、しっかり印象に残る音楽。ちょうど2枚目のアルバム「PETSTEP」を発売し、六本木インクスティックのライブなど、クリエイターやデザイナーの人々の間で新津章夫の名前は少しづつ知れ渡っていって頃でした。


実際には、オリジナル曲の提供までは結びつかなかったのですが、このプランはその後、「無印良品BGM」となって日の目を見ました。



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