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新津章夫 Official Blog 《迷宮の森》

謎に満ちた迷宮のギタリスト、新津章夫のオフィシャル・ブログ。迷宮の森 《Forest in maze》

音楽ライターであり新津章夫のスーパーバイザーである岩田由記夫さんのおかげで、あのカタブツもレコード制作以外にもそれなりに楽しい仕事をさせていただきました。そのひとつが、ラジオのCMです。

1970年代はFMラジオの音楽番組をエアチェック(要するに録音ですね)するのが一大ブームでして、FM放送の番組表とオーディオ雑誌を兼ねたような媒体がたくさんありました。FMレコパルは小学館から発行されていた雑誌です。

糸井重里さんがDJをやっていた番組だったと思いますが、そこで流すラジオCMの制作を担当したことがありました。

といっても音楽担当ではなく、SE…、今時はエスイーというとシステム・エンジニアのことですが、当時はコンピュータなどはまだ一般には普及しておらず、SEといえばサウンド・エフェクトを指しました。

CMには音楽も入っていますが、これは新津章夫の物ではありません。最後に♪え~ふえ~む、れっこぱーる、というジングルが入りますが、このメロディーとエンジニアリングは新津章夫の物です。♪レコパール、ではなくレッコパールと促音にしてあるところがアザトイですね。

歌声は女性の歌手の方の物ですが、加工してあるのでヴォーカロイドのように聞こえます。デジタルとアナログの境目にあった時代が感じられます。

FMレコパル ラジオCM
http://www.youtube.com/my_videos_edit?ns=1&video_id=65qB8UrTLUU
しばらく間を空けてしまいました。すみません。

1973年のデモテープはまだまだ音源がたくさんあります。準備ができ次第、アップしていきます。

今回は「ドイツの印象」です。ダラダラBlogを書きなぐっているため、これについて以前にも書いたかどうか、だんだんわからなくなってきておりますが、YOUTUBEの新津章夫のページには2テイクあります。

ひとつは、プロデビュー前に浅草にある某楽器店のスクールでギターを教えていた頃に、他の楽器の先生たちと一緒にバンドを組み、同店が楽器フェアに出展した際に出演した時のライブ音源と、その元となった多重録音のテイクです。


「ドイツの印象」(多重録音テイク)

http://www.youtube.com/watch?v=wy1dzW5i8g0

「ドイツの印象」(ライブテイク)

http://www.youtube.com/watch?v=dgR0RsCjm2U

1973年当時なので、新津章夫は21歳くらいですかね。早熟な演奏ですね。

YOUTUBEの欄にも書いてありますが、多重録音の音源はSONY製の4トラック2チャンネルのオープンリールを使ってピンポン方式で録っています。Eギター、Eベース、シンバルとスネアだけのリズムによる演奏で、最終的に「ドイツの印象」はアルバム化もマルチトラックを使った録音もされませんでした。
以前紹介した「未来永劫」のもっとも早い時期の音源です。別テイクと同時期の録音。

「未来永劫」 デモテープ音源(1976年)
http://ameblo.jp/petstep/theme-10046742372.html

大きな違いは途中のバロック部分で、個人的にはうまくまとまっている別テイクよりも、おそらく計算外に速く細かくなってしまっているこちらの方が好きなんですけど…。レコードでは、別テイクを採用したようですね。

未来永劫・初期テイク
http://www.youtube.com/watch?v=2FJ3m_tNfyQ
前回同様、新津章夫が多重録音を始めるきっかけとなったSONYの4トラック2チャンネルのオープンデッキでピンポン方式で多重録音した音源から。

高校時代はもっぱらマイケル・ブルームフィールドばりのブルース一辺倒だったが、高校末期からバーニー・ケッセルやウェス・モンゴメリーなどのジャズギターに傾倒した。4つ、5つの音をフリークエンスするだけのシンプルな曲だが、メロディーはオクターブ奏法、途中のソロパートはケッセル風あり、ウェス風あり。一人でいろいろなキャラクターのソロを弾き分けるテクニックは、のちに「I・O」の「天気雨」などに昇華していく。

新津章夫「Octave01」1973年のデモテープより


前回同様、新津章夫が多重録音を始めるきっかけとなったSONYの4トラック2チャンネルのオープンデッキでピンポン方式で多重録音した音源から。

「India01」と同じころに録音された曲。ギター、ベース、ボンゴによるシンプルな曲。途中からのミュート気味のバッキング(新津章夫曰く、三味線ギター)は「迷宮の森」で後半の和風な展開になってから聞こえる琵琶ギターの元となったもの。ギターはテレキャスターで、たぶん、ブリッジのところにスポンジを挟んでいたと思う。「India01」ではプラスチックの下敷きを挟んでシタール風、「India02」ではスポンジ。アナログ時代ならではのアイディア。終盤からのジャンジャカジャンジャカの三味線ギターも聴きものです。

新津章夫「India02」1973年のデモテープより

気が付けば半年も放置してしまいました。申し訳ありません。

早いもので新津章夫が亡くなって10年が経ちました。今年は没後10年、生誕60年のCDを発表する予定でしたが、もしかすると来年にズレこむかもしれません。

そのお詫びといってはなんですが、これから定期的に面白い音源をアップしていく予定です。

まずは、新津章夫が多重録音を始めるきっかけとなったSONYの4トラック2チャンネルのオープンデッキでピンポン方式で多重録音した音源から。曲名はなく、当人はインド風と呼んでおりました。まだ音数は少なくギ­ターを3、4度重ねた程度のシンプルなもの。全音モラレスのセミアコースティック・ギターのチューニングを落として、ブリッジ付近にプラスチックの下敷きを切った物をはさ­んでシタール風の音を作ったものです。「I・O」制作への最初の一歩というべき作品です。

テープには1973年とありますから20歳か21歳かな? 


新津章夫「India01」1973年のデモテープより
http://www.youtube.com/watch?v=UYK8SHExjy8&feature=g-upl
12月21日は、前から読んでも1221、後ろから読んでも1221で「回文の日」なのだそうです。

音楽の回文といえば、やっぱり新津章夫の「オレンジ・パラドックス」。

ニコニコ動画で、これを検証してくれている方がいます。本当に前から聞いても逆回転させても同じなのかと。

それでは、ぜひ聞いてみてください。アカウントを持っていない方もこの際にぜひ!



PS/きんさん、多謝!

YOUTUBEにレコードデビューのきっかけとなった1976年のデモテープの音源を載せました。




新津章夫 「未来永劫」 デモテープ音源(1976年)





「I・O」に収録されている「未来永劫」ですが、シンクロ機能のない4チャンネルデッキで作られた音です。音質の問題を除けばレコードとほぼ変わりありません。しかし、これを作る手間はプロ機材によるレコード音源の何倍もかかります。この前に2チャンネル(普通のステレオ)デッキを使ったテイクもあり、こちらはピンポン録音(片チャンネルづつ重ねて録音する。先にとった音はどんどん劣化していくため録音する楽器の順番を考える必要がある)で作ったものなので、さらに気が遠くなるような作業です。こういったテスト録音と試行錯誤の上に「未来永劫」は完成したわけです。

久々にニコニコ動画を見たらなんとなんと「新津章夫」のタグができていました。びっくり。しかも2010年に作られていたようで、これまで気が付きませんで失礼しました。Blogなどで取り上げられた場合は極力お礼の連絡をさせているのですが…。


ニコニコ動画のIDを持っていらっしゃる方なら見られると思います。


http://www.nicovideo.jp/tag/%E6%96%B0%E6%B4%A5%E7%AB%A0%E5%A4%AB


今後ともご贔屓のほど宜しくお願いします。


追伸/ニコ動の「模型のつばめや」のCMが新津章夫のタグにくっついていますが、このCMと新津章夫は無関係ですよ。念のため。



8月の末に南ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヒェンという町に行ってきました。生前、新津章夫が愛した場所で、大学時代にここを中心に欧州貧乏旅行をした経験が、その後の彼の創作活動の、ほぼすべての原動力だったと言っていもいいかもしれません。




この町はガルミッシュとパルテンキルヒェンという2つの村が合わさってできた町です。1936年、時のヒットラーの命で合併が行われ、冬季オリンピックが開かれました。ナチス党時代のドイツではベルリンで行われた夏季五輪ばかりが有名ですが、この冬季五輪には当時12歳の日本人フィギュアスケーターが初出場をし、そののちの荒川静香や浅田真央、安藤美姫らの活躍の礎を築いたり、日本とも縁がある大会でした。




周囲を山に囲まれ、自然豊かな町。しかし、五輪がなければ目立つこともなかったと思われ、なぜ新津章夫がこの町を旅の第一歩として選んだのか、今となっては知る由もありません。おそらくバッハと同じくらい政治活動以外のヒットラーについても関心を持っていたことと関係があるのかもしれません。




新津章夫はこの地にあるペンションに長逗留をしておりました。そのときのパンフレットが僕の手元にあったので住所を尋ねてみましたが、残念ながらペンションはすでになく、近隣の人々も誰もオーナーの消息を知りませんでした。ちなみに、件のオーナーはヒットラー・ユーゲントだったそうです。




以下は新津章夫が見ただろう風景です。




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↑ここが1976年、新津章夫が泊まっていたペンションのあった場所。建物はすっかり変わっておりました。件のペンションにおいては、新津章夫は初めての東洋人宿泊者だったそうで、玄関に迎えに出たオーナーは驚いた顔で出迎えたとか。