3階建ての豪邸で、母親の愛を求めて泣き叫ぶ子供は、きっと幸せではない。
気になったので、少し書きます。
『2歳児遺棄:10日食事させず放置死 29歳母逮捕 埼玉
2歳の次男を約10日間放置して食事をさせなかったなどとして、埼玉県警吉川署は15日、同県三郷市早稲田2、無職、島村恵美容疑者(29)を保護責任者遺棄容疑で逮捕した。次男は発見時に既に死亡していた。県警は司法解剖して死因を調べ、保護責任者遺棄致死容疑でも捜査する。
調べでは、島村容疑者は今月3日から13日までの間、以前住んでいた市内の別の住宅に次男の健太ちゃんを放置し、十分な食事や入浴をさせなかった疑い。家の3階で▽健太ちゃん▽長男(6)▽健太ちゃんと双子の長女(2)▽祖母(77)の5人で暮らしていたが、3日に引っ越した際、子供3人を置き去りにした。3階には7部屋あり、別室の祖母とは疎遠で、夫とは離婚しているという。
14日午後3時過ぎ、島村容疑者から「家に行って子供の様子を見て来てほしい」という電話を受けた両親が3人の子供を発見、同署に通報した。健太ちゃんは布団の上で死亡しており、衰弱していた長女は病院に運ばれた。長男は健康上問題ないという。島村容疑者は「育児ノイローゼだった」などと供述しているという。毎晩のように午前1~2時ごろ「ママあけて」「ごめんなさい」と泣き叫ぶ、長男(6)とみられる声を聞いていた。【西田真季子】毎日新聞3月17日』
この事件、一見ほかの幼児虐待と同じようだが、他とは際立って違う点がある。この容疑者の母親が半端ではなく裕福だということ。実家はかなりの資産家で、子供はこの実家で死んでいたということ。この母親は、子供らを残して、一人でマンション暮らしをしていたということだ。かなり特殊な事例だと思う。
ただ、事件が起こった後で、「なんでそんな女が3人も子供を作ったのか」とか、「他の親類は何をやっていたのか」とか、「そんなに金があるなら保育する人でも雇えばよかったのに」とか、「児童相談所はかなり前から虐待があったことを知っていたのに何をしていたのか」とか……いま、いろいろ言っても仕方ない。
そして、こういったことは、今は置いておく。
同じような年ごろの子供を持つ私にとって、「お金=幸せ?になるのか」といったことを考えさせられたのです。

写真を見ても分かるように、自宅は3階に7部屋もあるような家で、庭に孔雀を飼っていたという。番組によれば、近所では金持ち一家として有名であり、コーヒーを数本買ってお釣りがいくらか分からない(気にしない)というほど、金銭感覚がマヒしていたというのだ。
さて、こんな家庭に生まれた彼女の子供らは、金銭的に困ることはなかっただろう。
だが、決して幸せではなかった。
3階建ての豪邸で、母親の愛を求めて泣き叫ぶ子供は、きっと幸せではないことだけは確かだ。
お金持ちの家に生まれながら母親から愛されない子供と、お金がない貧困な家庭に生れながらも親から愛されている子供では、一体どちらが幸福なのか。
それに、人は何をもって幸せだというのか。「金か、愛か」そういった根本的なことまで考えさせられてしまった。
この事件を聞いて、思い出したのは、数週間前に描いた「金子みすゞが別れた夫へ宛てた遺書」のことだった。そのときの記事http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-263.html
「あなたがふうちゃんを連れて行きたければ、連れて行ってもいいでしょう。ただ、私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから、母が私を育ててくれたように、ふうちゃんを母に育ててほしいのです。どうしてもというのなら、それはしかたないけれど、あなたがふうちゃんに与えられるのは、お金であって、心の糧ではありません。」
別れた夫(事業が成功して金持ちになっていた)が、3歳の娘を取り上げようとした前日の晩に、みすゞは自殺した。
自分の子を守ろうとして、自らの命を絶った母親。(みすゞにはそれしか選択の余地がなかった)
一方では、母性のかけらもなく、子供を死に追いやった、お金だけは有り余っている母親。
母性とは何なのか。善と悪を分けるものは何なのか、そして、残された子供らにはこれからどういった将来が待っているのか……などなど、
とても考えさせられる事件だった。
「新田義貞」で新聞広告!?
読売新聞の広告欄に載っていた通信講座の広告。その中で「凄いもの」を見つけました。(私的にですけど)
『密教運命占術で歴史上の人物を鑑定してみると…
新田義貞の宿星は悲劇者の「翼宿」。足利尊氏は実力者の「尾宿」。後醍醐天皇(権力にこだわる「女宿」)から見れば、新田義貞こそ共に栄える良い関係でした。ところが、尊氏の「尾宿」が盾となり、不幸な結果を招いたのです。また、武田信玄はサムライの「虚宿」、父親の信虎は名誉を重んじる「昴宿」。仕事を共にすると父親を克する運命にあり、事実歴史は、子が親に反逆するという悲劇を迎えました。このように、史実も密教運命占術の鑑定力を物語っているのです』
何と、歴史上の人物の例として「新田義貞」を挙げているじゃないですか。
驚きです! こんなところで「新田義貞」の名を見るなんて……、しかも「悲劇の武将」ってしっかり書いてある…。(たぶんこんなことで喜んでいるのは、私だけでしょうが…)
こういうのって、信長、秀吉、家康とか有名どころじゃないと、新聞広告を出す意味がないと思うんですが…。例えとしては、余りにもマイナーな「南北朝時代」を取り上げ、しかも足利尊氏や後醍醐天皇まで例に出しているけど、南北朝時代のことを知らないと何のことだか全く伝わらないんじゃないのかな。それでも、あえて「ここは、新田義貞でいきましょう」なんて会議で決まったのか、「南北朝時代」好きの人がいて、その人の独断で決めたんですかね。
まあ、もともと「南北朝時代」に興味のあるなんて人は「密教」とか「運命」とか好きそうだし、「密教・運命呪術伝授」なんて言葉を見て、「おっ」と反応するのは「南北朝時代」好きの人かもしれない。
まあ、ちょっと例を挙げてみても、後醍醐天皇は「真言立川流」なる怪しげな呪法を信奉していたし、天狗や怨霊など魑魅魍魎の数々も登場するし、聖徳太子が書いた予言の書「未来記」を楠木正成が見たとか、そんなのが次々出てくる。まさに「南北朝時代」は神秘に満ちていますからね。
と、興奮状態のまま、この講座を取り扱っている「がくぶん総合教育センター」を検索して、そのホームページに行ってみた。結構、有名なところらしい。「日ペンの美ちゃん」「服部幸應先生の食育インストラクター」なんてのもある。
というわけで早速「運命占術講座」をクリックして、無料資料を請求してみた。
まあ、中身はちと怪しそうですけど……。
果たして、どんなものが来るやら……。
追記…これじゃ、まるで宣伝しているように見えますが、私この通信教育と何の関係もありません。ただ「新田義貞」の名を見て、勢いで書いてしまいました。
「ケネディ暗殺番組を平然で放送した日テレ」と「これをインチキだと書いた週刊新潮」
週刊新潮「3月20日」号のワイド記事で「鳥越俊太郎まで加担した日テレ『ケネディ暗殺』インチキ番組」という記事が出ていた。
番組は「大統領は私が撃った! JFK事件45年目の衝撃」。
番組内容は、そのとき私が書いたものがあるので、まずはそこから読んでください。
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-255.html
さて、週刊新潮では、この番組がインチキであると指摘している。
自分もこの番組を見てすぐに書いたが、疑問点も多く、やはり「嘘臭い話」だった。そのときも書いたが、どうして今さらこんな告白をしたのか(嘘だとしても)、という疑問が残る内容だった。番組では肝心なところは、曖昧な答えしかなかった。
では、週刊新潮が「インチキ番組」だと指摘している部分を書き出してみましょう。
①この告白VTRは、アメリカではDVD化され、販売もされているもので、世界未公開のスクープ映像ではない。
②アメリカ現代史研究家・奥菜秀次氏の意見として、「紹介されていた警察無線テープは、証拠認定を却下されたもので信用がない。証人として紹介された「赤いスカートの少女」もスタッフが発見したように放送されていたが、他のアメリカ番組ですでに指摘されていたこと。
③城西国際大学・土田宏教授の意見として、「ファイルズの証言が嘘だというのは研究家の間では定説となっていること。また発見された薬きょうの歯型も本人のものとは証明されていないということ」
まあ、全体的にインチキ臭いということだ。
さて、ここまではいいでしょう。
変なのは、こうした疑問点を、新潮の記者は、番組にゲスト出演していた鳥越俊太郎氏にぶつけてみたということだ。鳥越氏は「このようなことは知らなかった」とし、視聴者にこれが本当だという風にミスリードしたことになるだろう、とも言った、と書いている。
しかし、そんなことを鳥越氏に言っても仕方あるまい。
彼はただ番組に呼ばれて、見たものの感想を言うだけの役目であって、番組内容に直接関わっているわけではないのだから。
しかも週刊新潮は「仮にもジャーナリストである。視聴者をミスリードし、インチキに加担した」と言って鳥越氏を非難している。
これでは、怒る矛先が違うんじゃないのか。
週刊新潮が、文句を言うべきは日本テレビであり、この番組を作った制作会社だろう。
見ていた視聴者からしてみれば、どうしてこんな番組を放送したのか、その経緯が知りたいのに、そこを週刊新潮は追及していない。私はそんな突っ込んだ記事が読みたかったのに。
となると、新潮もこの番組と同じで、読者(視聴者)の要求に答えていないということか。
となると、日テレも週刊新潮も、言う方も言われ方も、「どっちもどっち」ということなのか。
そして残る最大の疑問は、「だれがケネディを撃ったのかよりも、どうして、これを日本テレビが今さら、放送したのか」でしょう。
ある意味、そっちの方が、ミステリーかもしれない。
週刊「歴史のミステリー」第8号から 源頼朝事故死の真相
源頼朝の死については、多くの謎があるという。週刊「歴史のミステリー」8号ではこの謎を検証していま

す
①「幕府の正史に空白があるのはなぜなのか?」
通説では、1198年(建久八年)12月、源頼朝は相模川の橋供養に臨席した帰路に落馬して、それが原因で翌年1月13日に死去した、と伝えられている。
この頼朝の死に関して、不審なことが多いといわれる。
1、「吾妻鏡」には、頼朝の死から前後3年間が欠落している。鎌倉幕府が編纂した正史「吾妻鏡」に、初代将軍の死にまつわる記録がなくなっている(またはもともとない)というのは、あまりにも不自然であるという。
2、頼朝は、落馬が原因で死んだと「吾妻鏡」に書かれたのは、死後13年も経った後のことである。
3、武家棟梁が落馬で死んだとなれば、大変な不名誉となるため記載されなかったという説もあるが、それならば、なぜ13年あとに書かれた記述も削除しなかったのか。
4、頼朝が死んだのは落馬してから、17日もたった後であった。しかもその期日もはっきりしていない。1192年3月2日に「故将軍四十九日の御仏事なり」という記述から計算して、1月13日に死去したことが分かるというもので、その死因についても全くわからない。
②「頼朝は本当に事故死だったのか?」
そこで、頼朝は本当に落馬で死亡したのかという疑問がわく。
そこでは、各説を列挙している。
1、「脳卒中説」 明治時代の医学史家・富士川游氏などの説脳血管の障害により突然意識を失い、手足が麻痺したというもの、突然これに罹り、落馬したのではという説。
2、「糖尿病説」 頼朝の死後5日、関白・近衛実家の日記に『前右大将頼朝卿、飲水に依り重病』とあり、これも脳卒中と同じような症状。
3、「亡霊説」 頼朝に殺された源義広、義経、行家などのほか安徳天皇の亡霊が現れ、その祟りで病気になって死んだ。(保歴間記)
4、「誤認説」 愛人のところへ忍んで行こうとした頼朝が、曲者と間違われ斬られた。
5、「溺死説」 「盛長私記」によれば、橋供養の際に亡霊が現れ、驚いた馬が走りだして川に落ち、落馬して河原の石に頭を打った。また川に落ちて水を飲み溺死した。これは2の「飲水に依り重病」ということにもなる。
6、「刺客説」 橋供養から帰る頼朝を兵士の残党が女装して待ち伏せし、突然斬りかかったため、頼朝が落馬した。
7、「北条政子下手人説」 妻の政子が頼朝の浮気に怒って殺害したという説。「常山紀談」「見聞私記」など。
5、7は本文にはない。いまは、落馬が直接の死因ではなく、病気による死去が、どうやら有力らしい。または、これらの説が合わさった複合説もある。
③「頼朝の朝廷工作は成功したのか?」
ここでは頼朝の朝廷への工作が、自身の死に影響しているのかを考察している。
1185年に頼朝の朝廷改革に着手し、親幕派の九条兼実を関白にする。1190年に上洛した際には、丹後局や土御門通親(ここでは源通親となっている)と接近し、頼朝の娘・大姫を入内させようと、工作する。しかし親幕派の九条兼実は失脚、親幕派の一条能保は死去したため、頼朝の朝廷工作は失敗した。頼朝が不審な死をするのは、この直後であった。
結果として、北条時政や政子は、頼朝の政治能力を見限った。鎌倉幕府の将来を見据え、北条氏にとっても「頼朝不要」となったのではないかと、この本では見ている。
④「将軍をとりまく人々との関係」
頼朝と北条政子との関係を記載。また北条一族が頼朝を利用していたことを記載している。
⑤「相次いだ誅殺事件の真相とは?」
頼朝の死の前後多くの者が死んだ。頼朝の長女・大姫、親幕派の一条能保、高保親子の死。畠山重保、梶原景時、稲毛重成と頼朝を取り巻く人々が死んで行く。この後も頼朝の弟・阿野全成、源頼家、比企一族と次々と滅ぼされていき、実権は北条氏に移っていくことになる。
⑥「鎌倉幕府をわが物にした北条氏」
「週刊歴史のミステリー」では「頼朝暗殺説」を採り『相模川の橋供養に臨席した頼朝は、そこで毒を盛られた。実行犯は稲毛重成。暗殺計画の首謀者は北条時政であり、協力者は北条政子であった。幕府の公式記録「吾妻鏡」にはこのあたりのことが記載できずに3年間の空白期間ができてしまった」と結論つけています。
さて、頼朝暗殺事件などを詳細に書いた本となると、
奥富敬之著「源氏三代、死の謎を探る」 (人物往来社)となります。

「歴史のミステリー」で書かれていることは、ほとんどここから採っているとみていいでしょう。
少し補足すれば、頼朝の死には、朝廷内の親幕派と反幕派の激しい対立が影響していたという。頼朝の死の3年前に反幕派の土御門通親が、政変を起こして親幕派を一掃してから不可解な事件が頻発しているというのだ。
土御門通親が、頼朝の娘・大姫の病気回復を祈るために験者を鎌倉に派遣した直後、大姫は死んだ。そして親幕派の一条親子が相次いで死ぬと、ここで頼朝が不可解な死を迎えた。この変事に、親幕派が土御門通親を暗殺しようとしたが、失敗。(三左衛門ノ変)。
また、幕府は頼朝の次女・三幡姫を入内させようとしていたが、土御門通親の遣わした医師の薬を飲んで急死してしまった。
また、藤原定家の日記「明月記」には、土御門通親は、頼朝の死去の知らせを聞いていたにも関わらず、天皇、上皇らにそれを報告せず、自分の都合のいい閣僚名簿を作り任命までしてから、そこで初めて頼朝の死の報告を聞いて、驚いたふりをした。そして、自分の邸に引きこもると、門を閉めて閉じこもったというのだ。そこに三左衛門ノ変が起こるのだから、事件をあらかじめ予測していた節があった、と書いているという。
それに鎌倉の梶原景季、大江広元も土御門通親の後押しで出世した人物だった。
これらのことから、頼朝暗殺首謀者は、土御門通親ではないのか、という結論だ。
だが、土御門通親は、頼朝の死んでから、3年後に急死してしまう。頼朝の死後、実権は北条氏に移っていく。やはり「頼朝の死」で最後に得をしたのは北条氏ということになるのか。
作家・楠木誠一郎氏によれば、「吾妻鏡」の欠落した部分を廃棄したのは「大江広元」ではないかと推測している。つまり自分らに都合の悪いところは、正史といえども捨てられて、真実は隠されてしまうということになる。
太平記にも巻二十二がない。これも権力者・足利氏にとって都合の悪いことが書かれているということで、焼却されたというのだ。権力者に不都合なことは、やはり消されてしまう運命だ、ということか。
追記 「歴史のミステリー」の中で「曾我兄弟の仇討は頼朝暗殺未遂だった」という記事も出ていた。曽我兄弟の仇討が「王殺し」「源氏王朝滅亡」の物語であるといったことを書いたのは、丸谷才一の「忠臣蔵とは何か」だ。ここで、これに絡めていこうとしたが、長々となるし、主題から外れていきそうなので、やめました。他にも曽我兄弟仇討の真相を書いたものがあったはずなので、思い出したら、後で書きます。
週刊「歴史のミステリー」第8号

目次
歴史検証ファイル 源頼朝事故死の真相
十字軍遠征は聖地奪還の聖戦だったのか?
遺跡に眠る謎 ストーンヘンジ(イギリス)
疑惑の真相 豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった!?
芸術の裏側 「エリーゼのために」べートーヴェン
語り継がれる伝説 「天岩戸」
人物再発見 ラウル・ワレンバーグ 10万人のユダヤ人を救った外交官
「源頼朝事故死の真相」は別項で
「十字軍遠征は聖地奪還の聖戦だったのか?」
十字軍……11世紀末期から13世紀の間、ヨーロッパ諸国のキリスト教徒が聖地エルサレム回復のために起こした大遠征軍。 セルジューク期のキリスト教巡礼者に対する迫害(実際にはこのような事実はなかったが、西欧では事実と認識されてたともいわれる)と、その侵入に悩むビザンツ帝国皇帝の救援を機に、1096年~99年、教皇ウルバヌス2世の勧告(クレルモン公会議)で送られたのが始まり(第1回十字軍)。その後、1270年までの間に計7回行われた。(諸説あり8回とも)
第1回のとき聖地を回復してエルサレム王国を建てたが、他はすべて失敗に終わった。インノケンティウス3世の提唱による第4回十字軍は、地中海商業の覇権をめざすベネチア商人に操つられ、コンスタンチィノーブルを占領、ラテン帝国を建てた。これ以後、純粋な信仰的動機よりは、しだいに征服欲や利益追求の傾向が強まった。十字軍は失敗したが、これによって教皇・教会の権威の失墜、封建貴族階級の没落、王権の伸張、東方貿易による北イタリア諸都市の発展、貨幣経済の進展による荘園制の崩壊、ビザンツ帝国・イスラム諸王朝などの東方文化の移入によるルネッサンス的機運の醸成など、中世ヨーロッパに大きな影響を与えた。(世界史辞典より)
週刊「歴史のミステリー」では、「十字軍遠征が聖地奪還とはかけ離れたものであった」という説についての検証が行われている。
①「エルサレムはどのような状況だったのか?」
十字軍遠征を要請したのは、当時の東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世であった。エルサレムでキリスト教徒が迫害を受けているということであったが、そんな事実はなかった。
②「十字軍は正義の軍隊だったのか?」「どのような戦いを繰り広げたのか?」
十字軍の多くは戦闘経験のない貧民や農民だった。これらが「異教徒は堕落した悪魔の奴隷だ」という名目のもとに残虐的行為を繰り返した。
十字軍は「大義に隠された権力者の思惑」で始まった、という。
1、「東西に分裂したキリスト教会の統一を目論んだもの」 東方正教会(東ローマ帝国)とローマ・カトリック教会の統一の糸口のために十字軍を要請したという。
2、「教皇と国王の権力争い」 教皇ウルバヌス2世が十字軍を提唱した理由は、教皇のリードによって各国の国たちを動かし、兵を動員すれば、「王権に対する教皇権は強まる」という思惑で始まったものだったという。しかし、結果的には王権が強まり、教皇・教会の力は弱まった。
3、「ベネチア商人に利用された十字軍」 第4回十字軍では、聖地回復という目的から離れ、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻めるということなった。兵士の多くが「出稼ぎ」のような経済的目的ためであった、これをうまく利用したのがベネチア商人であった。東ローマが持っていた地中海貿易の覇権を奪ったベネチアは、貿易の利益を独占し、繁栄の基礎を作った。(この富がやがて、ルネッサンス文化となるわけか)
4、「権力者が煽った残虐行為」 「聖地奪還」の大義のもとに立ち上がった民衆の多くは、貧民や農民であった。彼らは土地を求めていた。その心理をうまく利用し、「遠征に加わる者には、贖罪の特権が与えられる」という名のもとにエルサレムに向かわせたのであった。そんな彼らは、行く先々で「異教徒を倒す」という目的により、虐殺、略奪、強姦を繰り返したのである。
「歴史のミステリー」では、最後に、「十字軍」について『東ローマ帝国の皇帝によって出された援軍要請をローマ教皇が政治的に利用し、そこにベネチアの権力者が群がった。こうした構図によって拡大した十字軍遠征は、数え切れないほどの悲劇と犠牲者を生んだのである。』と結んでいます。
ネット検索すると、「2000年には当時の教皇ヨハネ・パウロ2世が十字軍について謝罪した。」という記事もあるくらいなので、ヨーロッパ、イスラム、中東では、今でも大きな傷跡が残っているようだ。
「ストーンヘンジ」
「大草原にそびえたつ神秘の巨大環状列石」で、場所はイギリスのロンドンから南西へ90キロ行った、ソールズベリー平原にある。先史時代の紀元前1900~1700年に建てられたものだと推定されている。ただ、何のために、だれが作ったのかが全く分っていない。
今号の「歴史のミステリー」では、6ページにわたり解説。画像、図解も豊富なので興味のある方にはいい資料になりそう。
「豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった!?」
「子宝に恵まれなかったと豊臣秀吉が、やっと授かった後継ぎ秀頼。しかし、その懐妊については当時からよからぬ風聞が流れていたという。淀殿密通の噂は、真実なのだろうか?」ということで、秀頼はだれの子なのかを検証しています。
10人もの側室がいた秀吉だったが、子供ができたのは、淀殿だけであった。最初の子は1589年の5月で、男児、名を「捨」(すて)と付けた。後の鶴松。しかしこの子は2年後に亡くなった。悲嘆にくれた秀吉であったが、1593年8月に再び淀殿は、男児を産んだ。名は「拾」(ひろい)で、後の秀頼となる。
秀頼が秀吉の子ではない、という疑いは当時からもあったようだ。理由としては、1、秀吉があまりのも高齢だったということ。子ができたとき秀吉は54歳、次が56歳だった。2、懐妊したのが淀殿だけであった。しかも2人も。 3、秀頼が秀吉にあまりにも似ていなかった。秀吉の身長が151cmほどに対して、秀頼の身長は196cm(? 他の本では180cmくらいだと書いてある)もあったという。秀吉が猿のような容貌であったのに、秀頼は色白で美男子であったという。
そこで、秀頼の父親は、「誰か」ということになる。ここでは四人挙げている。
①、石田三成。淀殿とは昵懇の仲。②片桐且元。豊臣家筆頭家老 ③大野治長、秀頼の近侍、大坂城落城の際は秀頼・淀殿とともに自刃した。④名古屋山三郎。出雲阿国の愛人、蒲生氏郷の小姓。
この4人を挙げているが、ほかに珍説としては、徳川家康説などもある。
この中で一番疑わしいのは「大野治長」だろう。治長は、淀殿の乳母・大蔵卿局の息子にあたり、淀殿とは幼なじみの仲である。この本では「明良洪範」の中から「淀殿は多淫にして秀頼の実子にあらず、大野治長と密通し捨君と拾君を生す」という部分を載せている。
また実子疑惑説を喧伝したのは「家康」であったのでないか、という説を載せている。大坂の陣を前にあらぬ風聞を流し、豊臣方に揺さぶりをかけたのではないか、ということだ。
この本以外の説としては、「鶴松(捨君)の父親は、石田三成であり、秀頼の父親は大野治長である」という説もある。石田三成と淀殿との関係はかなり親密であり、ともに近江の出身。三成の家の主筋は浅井家に仕えたもので、浅井氏の血を引く淀殿に特別の親しみを持っていたという。それに、鶴松が生まれたころは、三成は近江水口城主であり、五奉行の一人として、なにかと淀殿のいる淀城に行く機会が多かったというのだ。説としては、ここで密会があったのではないかという。だが秀頼の父親となると、これは三成ではない。このころ三成は朝鮮にいたからである。
ということで、秀頼の父親は大野治長ではないかといわれるのだ。
秀吉死後に、毛利家臣の内藤隆春は、国許の毛利家重臣の宍戸元家に書状を送っている。その一節の中に「お拾様の御局の大蔵卿には、大野修理という御前のおぼえがめでたい男がいる。この修理がこともあろうに、お拾様の御袋様と密通するという事件が起こった。修理は討たれるところを、許され、宇喜多家に引き取られた」といった記述がある。治長は淀殿と密通したことがばれて成敗されそうになったが、宇喜多秀家のとりなしでことなきを得たというのである。(歴史と旅、平成四年九月号から引用)
つまり、大野治長と淀殿の密通はかなり前から行われていたのではないか、ということだ。
家康が豊臣家を潰そうと思ったのは、秀頼と対面した後からだった。それまでは、豊臣家を一大名として残そうと思っていたという。通説では、秀頼が堂々とした態度、大きな体であり、このまま生かしておいては徳川家にとって脅威であると感じたからだ、といわれる。 しかし、家康が秀頼を見て、「これは秀吉の子ではない」と確信したのではないか。秀吉の血が流れていないと分ったからこそ、執拗までに豊臣家を潰したのではないか。どうもそう思えてならない。
「天岩戸」 天照大神がもたらした世界の闇
天の岩屋の戸。日本神話で天照大神がスサノウノミコトの棒状を怒り、天の岩屋に籠ったため、天地が常闇となった。群神が相談して種々の物を飾り、アマノコヤネノミコトが祝詞を奏し、アマノウズメノミコトが舞ったところ、大神が出てきて、世が再び明るくなった。北半球で冬至に太陽の力が弱まり復活する型の神話 (広辞苑、天の岩屋戸の項から)
①古代日本で発生した2年連続の皆既日食が、この神話の真相ではないか、ということ。「日食神話」は世界各地で残っていて、メルヘン・フェルヘン著「日本―カルフォルニア」の説から、日本神話と世界の神話の類似性を示した。天文学的には西暦247年と248年に皆既日食が発生していることが分っているので、この現象が神話化したのではないかということだ。これによって、247年という年号から、天照大神と卑弥呼が同一人物ではないかという説が出てくるという。
②また、「天岩戸」を冬至にまつわる鎮魂祭の起源とした説を載せている。「日食説」に対して、天岩戸伝説は「冬至」を神聖視したものだというのだ。岩戸に隠れたアマテラスを誘い出すためにアメノウズメが裸同然になって躍るというエピソードが、鎮魂祭の神事に符号する。
これを読んで思ったのが「陰陽道」。確か同じような記事があったと思って、「学研・陰陽道の本」を開く。
「芸能に関する陰陽道」のページから引用してみる。
『芸能発生の現場を記紀に求めると、天照大神が天の岩戸に姿を隠した際、天鈿女命(アメウズメノミコト)が神憑りとなって手振り足踏みなどして踊ったのが、最初といわれる。シャーマンとしての天鈿女命の憑霊現象が芸能のルーツというわけである。これを受けて、芸能の鎮魂の儀式と唱えた民俗学者がいる。折口信夫の説で、それによれば、天鈿女命が槽を伏せて、手には桙(ほこ)を持って突きながら踊ることから、その所作が精霊を抑えて鎮める鎮魂儀礼に通じるというものである』
この「足を踏みならしながら踊る」という所作に呪術が組み合わさり、反閇・禹歩という独特な呪術的行為となるわけだ。これが後に、能楽・猿楽・歌舞伎に通じていく。そして、相撲の四股を踏むという動作につながるわけだ。だから相撲は呪術的神事だといえるわけだ……。
とまたまた本題からずれていきそうなので、それは相撲の記事の方で。
ということで②は、「天岩戸」を民俗学的アプローチしたというわけです。
③「岩隠り」とはアマテラスの崩御だったのか。
つまり、天岩戸とは、アマテラスの死を意味しているという説だ。「貴人の死」は直接的に言わず、「岩隠れ」などと言う。となると、岩戸の前で行われていたのは葬式の儀式ということになる。しかし伝説では、アマテラスが再登場することになるが、これに対しては、アマテラスの性格が一変していることから、権力者が変わったことを意味しているということだ。「卑弥呼=アマテラス」説では、岩隠れ以降は卑弥呼の親族・壱与が後を継いだということだ。
結論 アマテラス=卑弥呼説、邪馬台国論争とともに「天岩戸伝説」は重要だということだ。
「歴史検証ファイル 源頼朝事故死の真相」については次回書きます。
