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週刊「歴史のミステリー」第8号




目次

歴史検証ファイル     源頼朝事故死の真相
                十字軍遠征は聖地奪還の聖戦だったのか?
遺跡に眠る謎       ストーンヘンジ(イギリス)
疑惑の真相         豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった!?
芸術の裏側         「エリーゼのために」べートーヴェン
語り継がれる伝説     「天岩戸」
人物再発見         ラウル・ワレンバーグ 10万人のユダヤ人を救った外交官


「源頼朝事故死の真相」は別項で

十字軍遠征は聖地奪還の聖戦だったのか?」
十字軍……11世紀末期から13世紀の間、ヨーロッパ諸国のキリスト教徒が聖地エルサレム回復のために起こした大遠征軍。   セルジューク期のキリスト教巡礼者に対する迫害(実際にはこのような事実はなかったが、西欧では事実と認識されてたともいわれる)と、その侵入に悩むビザンツ帝国皇帝の救援を機に、1096年~99年、教皇ウルバヌス2世の勧告(クレルモン公会議)で送られたのが始まり(第1回十字軍)。その後、1270年までの間に計7回行われた。(諸説あり8回とも)
第1回のとき聖地を回復してエルサレム王国を建てたが、他はすべて失敗に終わった。インノケンティウス3世の提唱による第4回十字軍は、地中海商業の覇権をめざすベネチア商人に操つられ、コンスタンチィノーブルを占領、ラテン帝国を建てた。これ以後、純粋な信仰的動機よりは、しだいに征服欲や利益追求の傾向が強まった。十字軍は失敗したが、これによって教皇・教会の権威の失墜、封建貴族階級の没落、王権の伸張、東方貿易による北イタリア諸都市の発展、貨幣経済の進展による荘園制の崩壊、ビザンツ帝国・イスラム諸王朝などの東方文化の移入によるルネッサンス的機運の醸成など、中世ヨーロッパに大きな影響を与えた。(世界史辞典より)

週刊「歴史のミステリー」では、「十字軍遠征が聖地奪還とはかけ離れたものであった」という説についての検証が行われている。

①「エルサレムはどのような状況だったのか?」
十字軍遠征を要請したのは、当時の東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世であった。エルサレムでキリスト教徒が迫害を受けているということであったが、そんな事実はなかった。

②「十字軍は正義の軍隊だったのか?」「どのような戦いを繰り広げたのか?」
十字軍の多くは戦闘経験のない貧民や農民だった。これらが「異教徒は堕落した悪魔の奴隷だ」という名目のもとに残虐的行為を繰り返した。

十字軍は「大義に隠された権力者の思惑」で始まった、という。
1、「東西に分裂したキリスト教会の統一を目論んだもの」 東方正教会(東ローマ帝国)とローマ・カトリック教会の統一の糸口のために十字軍を要請したという。
2、「教皇と国王の権力争い」 教皇ウルバヌス2世が十字軍を提唱した理由は、教皇のリードによって各国の国たちを動かし、兵を動員すれば、「王権に対する教皇権は強まる」という思惑で始まったものだったという。しかし、結果的には王権が強まり、教皇・教会の力は弱まった。
3、「ベネチア商人に利用された十字軍」 第4回十字軍では、聖地回復という目的から離れ、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻めるということなった。兵士の多くが「出稼ぎ」のような経済的目的ためであった、これをうまく利用したのがベネチア商人であった。東ローマが持っていた地中海貿易の覇権を奪ったベネチアは、貿易の利益を独占し、繁栄の基礎を作った。(この富がやがて、ルネッサンス文化となるわけか)
4、「権力者が煽った残虐行為」  「聖地奪還」の大義のもとに立ち上がった民衆の多くは、貧民や農民であった。彼らは土地を求めていた。その心理をうまく利用し、「遠征に加わる者には、贖罪の特権が与えられる」という名のもとにエルサレムに向かわせたのであった。そんな彼らは、行く先々で「異教徒を倒す」という目的により、虐殺、略奪、強姦を繰り返したのである。

「歴史のミステリー」では、最後に、「十字軍」について『東ローマ帝国の皇帝によって出された援軍要請をローマ教皇が政治的に利用し、そこにベネチアの権力者が群がった。こうした構図によって拡大した十字軍遠征は、数え切れないほどの悲劇と犠牲者を生んだのである。』と結んでいます。

ネット検索すると、「2000年には当時の教皇ヨハネ・パウロ2世が十字軍について謝罪した。」という記事もあるくらいなので、ヨーロッパ、イスラム、中東では、今でも大きな傷跡が残っているようだ。

「ストーンヘンジ」
「大草原にそびえたつ神秘の巨大環状列石」で、場所はイギリスのロンドンから南西へ90キロ行った、ソールズベリー平原にある。先史時代の紀元前1900~1700年に建てられたものだと推定されている。ただ、何のために、だれが作ったのかが全く分っていない。
今号の「歴史のミステリー」では、6ページにわたり解説。画像、図解も豊富なので興味のある方にはいい資料になりそう。

「豊臣秀頼は秀吉の実子ではなかった!?」
「子宝に恵まれなかったと豊臣秀吉が、やっと授かった後継ぎ秀頼。しかし、その懐妊については当時からよからぬ風聞が流れていたという。淀殿密通の噂は、真実なのだろうか?」ということで、秀頼はだれの子なのかを検証しています。

10人もの側室がいた秀吉だったが、子供ができたのは、淀殿だけであった。最初の子は1589年の5月で、男児、名を「捨」(すて)と付けた。後の鶴松。しかしこの子は2年後に亡くなった。悲嘆にくれた秀吉であったが、1593年8月に再び淀殿は、男児を産んだ。名は「拾」(ひろい)で、後の秀頼となる。
秀頼が秀吉の子ではない、という疑いは当時からもあったようだ。理由としては、1、秀吉があまりのも高齢だったということ。子ができたとき秀吉は54歳、次が56歳だった。2、懐妊したのが淀殿だけであった。しかも2人も。 3、秀頼が秀吉にあまりにも似ていなかった。秀吉の身長が151cmほどに対して、秀頼の身長は196cm(? 他の本では180cmくらいだと書いてある)もあったという。秀吉が猿のような容貌であったのに、秀頼は色白で美男子であったという。

そこで、秀頼の父親は、「誰か」ということになる。ここでは四人挙げている。
①、石田三成。淀殿とは昵懇の仲。②片桐且元。豊臣家筆頭家老 ③大野治長、秀頼の近侍、大坂城落城の際は秀頼・淀殿とともに自刃した。④名古屋山三郎。出雲阿国の愛人、蒲生氏郷の小姓。
この4人を挙げているが、ほかに珍説としては、徳川家康説などもある。

この中で一番疑わしいのは「大野治長」だろう。治長は、淀殿の乳母・大蔵卿局の息子にあたり、淀殿とは幼なじみの仲である。この本では「明良洪範」の中から「淀殿は多淫にして秀頼の実子にあらず、大野治長と密通し捨君と拾君を生す」という部分を載せている。
また実子疑惑説を喧伝したのは「家康」であったのでないか、という説を載せている。大坂の陣を前にあらぬ風聞を流し、豊臣方に揺さぶりをかけたのではないか、ということだ。

この本以外の説としては、「鶴松(捨君)の父親は、石田三成であり、秀頼の父親は大野治長である」という説もある。石田三成と淀殿との関係はかなり親密であり、ともに近江の出身。三成の家の主筋は浅井家に仕えたもので、浅井氏の血を引く淀殿に特別の親しみを持っていたという。それに、鶴松が生まれたころは、三成は近江水口城主であり、五奉行の一人として、なにかと淀殿のいる淀城に行く機会が多かったというのだ。説としては、ここで密会があったのではないかという。だが秀頼の父親となると、これは三成ではない。このころ三成は朝鮮にいたからである。

ということで、秀頼の父親は大野治長ではないかといわれるのだ。
秀吉死後に、毛利家臣の内藤隆春は、国許の毛利家重臣の宍戸元家に書状を送っている。その一節の中に「お拾様の御局の大蔵卿には、大野修理という御前のおぼえがめでたい男がいる。この修理がこともあろうに、お拾様の御袋様と密通するという事件が起こった。修理は討たれるところを、許され、宇喜多家に引き取られた」といった記述がある。治長は淀殿と密通したことがばれて成敗されそうになったが、宇喜多秀家のとりなしでことなきを得たというのである。(歴史と旅、平成四年九月号から引用)
つまり、大野治長と淀殿の密通はかなり前から行われていたのではないか、ということだ。
家康が豊臣家を潰そうと思ったのは、秀頼と対面した後からだった。それまでは、豊臣家を一大名として残そうと思っていたという。通説では、秀頼が堂々とした態度、大きな体であり、このまま生かしておいては徳川家にとって脅威であると感じたからだ、といわれる。 しかし、家康が秀頼を見て、「これは秀吉の子ではない」と確信したのではないか。秀吉の血が流れていないと分ったからこそ、執拗までに豊臣家を潰したのではないか。どうもそう思えてならない。

「天岩戸」 天照大神がもたらした世界の闇

天の岩屋の戸。日本神話で天照大神がスサノウノミコトの棒状を怒り、天の岩屋に籠ったため、天地が常闇となった。群神が相談して種々の物を飾り、アマノコヤネノミコトが祝詞を奏し、アマノウズメノミコトが舞ったところ、大神が出てきて、世が再び明るくなった。北半球で冬至に太陽の力が弱まり復活する型の神話 (広辞苑、天の岩屋戸の項から)

①古代日本で発生した2年連続の皆既日食が、この神話の真相ではないか、ということ。「日食神話」は世界各地で残っていて、メルヘン・フェルヘン著「日本―カルフォルニア」の説から、日本神話と世界の神話の類似性を示した。天文学的には西暦247年と248年に皆既日食が発生していることが分っているので、この現象が神話化したのではないかということだ。これによって、247年という年号から、天照大神と卑弥呼が同一人物ではないかという説が出てくるという。

②また、「天岩戸」を冬至にまつわる鎮魂祭の起源とした説を載せている。「日食説」に対して、天岩戸伝説は「冬至」を神聖視したものだというのだ。岩戸に隠れたアマテラスを誘い出すためにアメノウズメが裸同然になって躍るというエピソードが、鎮魂祭の神事に符号する。
これを読んで思ったのが「陰陽道」。確か同じような記事があったと思って、「学研・陰陽道の本」を開く。
「芸能に関する陰陽道」のページから引用してみる。
『芸能発生の現場を記紀に求めると、天照大神が天の岩戸に姿を隠した際、天鈿女命(アメウズメノミコト)が神憑りとなって手振り足踏みなどして踊ったのが、最初といわれる。シャーマンとしての天鈿女命の憑霊現象が芸能のルーツというわけである。これを受けて、芸能の鎮魂の儀式と唱えた民俗学者がいる。折口信夫の説で、それによれば、天鈿女命が槽を伏せて、手には桙(ほこ)を持って突きながら踊ることから、その所作が精霊を抑えて鎮める鎮魂儀礼に通じるというものである』
この「足を踏みならしながら踊る」という所作に呪術が組み合わさり、反閇・禹歩という独特な呪術的行為となるわけだ。これが後に、能楽・猿楽・歌舞伎に通じていく。そして、相撲の四股を踏むという動作につながるわけだ。だから相撲は呪術的神事だといえるわけだ……。
とまたまた本題からずれていきそうなので、それは相撲の記事の方で。
ということで②は、「天岩戸」を民俗学的アプローチしたというわけです。

③「岩隠り」とはアマテラスの崩御だったのか。
つまり、天岩戸とは、アマテラスの死を意味しているという説だ。「貴人の死」は直接的に言わず、「岩隠れ」などと言う。となると、岩戸の前で行われていたのは葬式の儀式ということになる。しかし伝説では、アマテラスが再登場することになるが、これに対しては、アマテラスの性格が一変していることから、権力者が変わったことを意味しているということだ。「卑弥呼=アマテラス」説では、岩隠れ以降は卑弥呼の親族・壱与が後を継いだということだ。

結論  アマテラス=卑弥呼説、邪馬台国論争とともに「天岩戸伝説」は重要だということだ。


「歴史検証ファイル 源頼朝事故死の真相」については次回書きます。