「東国原知事」どうなんでしょうか?
では、今日の話題は「東国原知事」です。どうなんでしょうか?
私は彼のことを認めていません。 「笑っていいとも」「とんねるずのみなさんのおかげです」などバラエティー番組に出まくって、宮崎にほとんどいないで、県政をしっかりと行っているのでしょうか。彼いわく、テレビに出ることとは、宮崎県のPR、国民を政治への関心を引かせるためと言っているが、本当にそれが県知事としての仕事なのだろうか。私には「そのまんま東」のタレントとしての活動にしか見えない。「知事」という責務はほかにあるはずで、彼の行っていることは市役所の広報係、観光課長ぐらいのレベルだ。宮崎県民も今は、彼が全国的に注目されているから、文句も出ないだろうが、ブームが去ったあと、きっと彼に政治的手腕や資質に欠けていることに気づくだろう。(まあ、そのときにはもう遅いけど) マスコミに踊らされ、持ち上げるだけ持ち上げといて、最後に突き落として、落ち目になったら、足蹴にするような事態は今まで何度も見てきたはずだ。ホリエモンしかり、亀田3兄弟しかり……。ただのスポーツ選手やタレント(ホリエモンは活動がタレント並み)ならそれでもいいだろうが、県知事となれば話は別だろう。 それに彼が「そのまんま東」という芸名であったころは、どうだろう。彼が犯した下半身の犯罪はいかんともしがたいし、それに私は彼がタレントとして気の利いた面白いことをいったのを聞いたことがない。彼のネタは内輪の芸能人の話や、ナンパの話ばばかりで、芸人としての才能は全くなかった。彼が生き残れたのはタケシ軍団の最古参だというだけだろう。彼のことを「楽屋では最高に面白いが、本番はダメだ」とほかの芸人が評価していた。彼は今、県知事という最高に面白いネタを手にいれ、それを食い物にして、タレント時代することができなかった「テレビ出まくり」を行っているのだ。 今、私は宣言しよう「東国原知事は今に何かやらかして、火だるまになる」と。この記事を、数か月か1年後ぐらいあとに読んで、当たっているかどうかは分かるだろう。 読んだ方感想を……。
斎藤佑樹君は新田源氏の生まれ変わりか?のつづき
5月8日に生品神社で、鏑矢祭がありました。鎌倉幕府を攻め落とした新田義貞が挙兵したといわれるこの日、毎年恒例となった祭りが行われました。斉藤祐樹君の出身小学校でもある生品小学校から、6年生男児60名が新田氏の旗印の「大中黒」を染め抜いたはちまきを巻いて、袴姿で登場。南西の方角(つまり鎌倉の方向)に向かって弓を引き「エイエイオー」と元気よく気勢を上げる。これは、義貞が討幕の兵を挙げる際に矢を放って吉凶を占ったという故事にちなんでいます。
私の家族は毎年恒例の初詣に行きますが、いつもの年に比べて、今年は斉藤佑樹君の影響か幾分参拝客は多かったように感じられました。
私はいつも、新田義貞が稲村ケ崎で竜神に黄金の太刀を投げる場面を図にしたもの(太平記の名場面の一つ)を買います。確か500円ぐらいのものです。毎年恒例みたいなもので、それによってツキが良くなったというほどではありませんが、宝くじの小額が当たったり、懸賞品が郵送されたりといった小さな幸せを味わうことができました。
まあ、お守りひとつで御利益が一挙に上がるといったものではないでしょうが、運が良かったと感じたとき、いいことがあったときに、あのときに買ったお守りがよかったのかなと思い出せば、そのお守りの存在価値が上がるのでしょう。
斉藤佑樹君も地元のお守りを持って甲子園で戦ったのかな?
まあ、太田市、旧新田町は新田義貞やその一族ゆかりの神社仏閣が多い(というより新田氏に関連していない神社、お寺を探す方が難しいくらい)ので、きっと初詣や七五三などには「義貞お守り」を買ったりしただろう。(無意識の内にでも)
前回でもいったように、今の活躍の陰に新田一族の魂が込められているのかもしれない。というわけで、斉藤佑樹君ファンを自称する方は、新田義貞のお守りを買ってみては……。(俺は地元観光係か、とツッコミを入れつつ) 武運や勝負ごとにいいかもしれませんよ。
といっても、生品神社の社務所はいつも閉まっていて、イベントがあるときにしか開いてないので、お守りも買えませんが、太田市周辺の大きな寺院でなら買えるでしょう。例えば太田の大光院(子育て呑龍)、世良田東照宮など。
以前書いた斎藤佑樹君のブログを読んでくれた友人からメールが来ました。
それによると、生品神社で行われる「鏑矢祭」は、生品小学校の6年生の男児全員が参加するそうです。(鏑矢祭の由来、行事内容な検索すれば出てきますよ。)
ということは<span style=font-size:x-large>この行事に斎藤祐樹君も参加したことになります。</span>
新田義貞が挙兵したときの模様を再現したんですね。
やっぱり、<strong>斎藤祐佑樹君は新田源氏の魂を受け継いでいますよ</strong>。絶対に!
「ハンカチ王子」なんて愛称で呼ばないで、これからは「新田源氏を受け継いだ者」というキャッチコピーを付けてください。
斎藤佑樹君は新田源氏の生まれ変わりか?
早稲田大学優勝しましたね、連日のマスコミの斎藤祐樹君の報道にはすごいものがありますね。
さて、その斎藤投手の出身地は群馬県太田市である。生品保育園、 生品小学校、中学校と進み、早稲田実業に入学した。
この生品地区は、斎藤祐樹君が中学校に通っているころまでは、「新田町」と呼ばれていた。しかしここ数年全国的に行われている地方自治体の合併運動に押されるように、新田町も太田市に吸収される形で合併した。結果、由緒ある「新田」という地名も失われました。
なぜ「新田」という名が重要かといえば、南北朝時代に活躍した新田義貞を始めとする新田一族が本拠としていたからだ。同じ時代に、新田一族のライバルとして戦った足利一族の地名が「足利市」という地名として今も残り、16万人の人口を抱える地方都市として栄えている。(それも太田市と隣接している)それに対して、覇を争って敗れた新田の名前は消えたのだ……。(あまりにも残念)
地名が消えるとともに、突如として現れたのが斎藤佑樹君だ。甲子園を沸かせた去年の夏以来、連日マスコミが、旧新田町にやってきて、斎藤佑樹君の生い立ちを取材していた。(本当に、生品保育園、小学校、中学校の辺りは凄かった)
どの地方にも、地元の英雄というものはいるものだが、この地域から全国的に有名になったのは、新田義貞以来となるわけだ。それだけに、斎藤佑樹君と新田義貞を重ねてしまうのは私だけでしょうか。
太田市、旧新田町の新田義貞に対する感情にはどこか哀感的なものがある。それは、義貞を含め新田一族が悲劇的な末路を辿ったからだろう。鎌倉幕府を倒し、武家の棟梁として全国制覇(これは比喩)する直前まで迫ったのに、その夢は無残に敗れた。しかも宿敵足利氏にその宿願を奪われたのだから、なお一層それを感じてしまうのだろう。
そこに登場した斎藤祐樹君は甲子園で全国制覇を果たしたのだ。
実は斎藤佑樹君こそは新田一族の生まれ変わりだと私は思っている。(真剣ですよ!)
この意見は「斎藤佑樹・青春の軌跡」(高部務著・東邦出版)の中にも、斎藤佑樹君が新田源氏の魂を受け継いでいるといった内容のことを書いている。筆者の高部務氏はスポーツライターとして有名な方らしく、ネットで検索するとかなりの著作があり、「オシム主義」「中田英寿」などといった著作をみると、個人に焦点を合わせ、その生い立ちから、何から影響を受けてその個人が成り立っているのか、その業績はどこから端を発しているのかを追究している。その著者が太田市の現地取材を敢行した結果に、斎藤佑樹君が何からその力を得たのか、感じ取ったのではないだろうか。
斎藤佑樹君が通った保育園のすぐ近くには、生品神社がある。この神社は新田氏の産土神(生まれた土地の守り神)で1333年5月8日、新田義貞が後醍醐天皇より、鎌倉幕府討幕の綸旨を受けて、この境内で旗揚げをし、戦勝祈願をした場所である。このとき鎌倉目指して進軍していった義貞ら新田軍は150騎しかいなかった。だが南下していくうちに北条軍を次々に打ち破り、味方を増やしながら快進撃を続けた。そして遂に稲村ケ崎から鎌倉に侵攻して、150年続いた鎌倉幕府を滅ぼした。後醍醐天皇は、十年、二十年の歳月を費やしても鎌倉を征討するのは難しいと考えていたものを、義貞は旗揚げから14日で攻め落としたことになる。
斎藤佑樹君も当初無名に近い存在であったが、去年の甲子園で勝ち進んでいくうちに、その実力を発揮し、偉業を達成し、名声を得たわけだから、やはり新田義貞と重なるものがある。(この辺はまた次回以降で……)
斎藤佑樹君ファンを自称する方々は、一度「生品神社」を見に行かれていかがでしょうか。本当に殺風景な、寂れた神社です。それだけに、新田一族の無念さが味わえて、感慨深いものがありますよ。