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酒が飲めないのに、酒売り場担当。

私は酒が一滴も飲めません。「仕事から帰ったあとに飲むビールは最高!」といったことも経験がありません。

でも、新製品やどれが売れているといったことは良く知っています。お客さんに聞かれたときは、まず売れ筋を勧めます。これで大体だいじょうぶ。でも味とか、どれが一番旨いかと聞かれるとちょっと困ってしまいますが……。

まあ会社勤めしているとこんなことよく起きますよね。

では小ネタを一つ。

清酒を補充しているとき、不覚にも、1升瓶を落としてしまって割ってしまいました。清酒が床一面に広がり、辺りにはあのいい香りが……。

そのとき騒ぎを聞きつけて店長が現れた。

クンクンと匂いを嗅ぐ。

そして「これは久保田だな」と一言。

見事正解。

匂いだけで品目を当ててしまうとは凄すぎ。

それに、酒で床を汚したということよりも、高価な酒を割ってしまってもったいないといった感じであった。もし、店長という立場でなかったら、床に酒をばらまくくらいなら、俺に飲ませろと、「店の中心で、酒をくれと叫ぶ」くらいの勢いがあった。

この店長は酒好きとして、社内では有名であったが、ここまでとは、酒豪おそるべし。

酒の飲めない私にはとても出来ない技です。


NTTドコモの反撃の仕方はどこか違うと思いません。

「そろそろ反撃してもいいですか?」というNTTのCMはカッコよかった。


auやソフトバンクの攻勢に押されていた、ドコモが遂に、と思わせるCMだった。


しかし、その後のCM展開や、サービス内容といったら、肩透かしの連続。

人気のある俳優、女優をとりあえず集めてドラマ仕立てにしてみました、みたいなCM。

直観ゲームに、テレビ付きなんて今更でしょう。


一方、auのCMにヴァン・へーレンの「ジャンプ」を使うあたりは、80年代に青春を過ごした私にガツンときた。


それにソフトバンクのCMの選曲は凄いね。センスがいいというか、そこから持ってくるか、みたいのがあって、イメージ戦略はうまいと思う。


しかし私の携帯はドコモ。


がんばれドコモ。


そして、通話料金安くしてくれ!

徳川家康の改姓問題

歴史ミステリー小説「東毛奇談」をfc2ブログで公開していますが、現在第3章まで掲載しております。

そこで前半の核となる、徳川家康の改姓問題の部分を抜き書きしました。

ここは主人公の真船がこの問題をレーポトとしてまとめた部分となっています。

『一五六六年十二月二十九日、松平家康は朝廷の勅許を得て、徳川家康と改姓した。

この改姓申請は、最初朝廷から拒否された。その理由は、この改姓が実は復姓申請という過去に前例がなかったことと、系図自体があやふやであったことからであった。

そこで家康は、三河国誓願寺の慶深が関白の近衛前久と交友があったことを知ると、誼みを通じて多額の献金をしたのである。それを受けた前久は仲介役となって神祗官吉田兼右を動かした。そこで吉田兼右は計略を用いた。偶然にも万里小路家から先例となる記事を見つけるという形をとったのである。それを前久が、正親町天皇に申し上げたところ、家康の改姓を許可する勅許が下りたのである。

この時期家康は、三河一向一揆を平定し、三河国の統一を果たしていた。そこで家康は三河一国の支配者として朝廷より認定された「三河守」という官職が何としても必要となった。しかし松平家という低い家格ではまず任命されることはない。三河守の官職は位階が従五位下に相当し、この官位を得るためには、源氏・平氏・藤原氏・橘氏のいずれかでなければならない。そこで家康は、近衛前久や吉田兼右に多額の献金をして家格を上げることに成功し、翌年に従五位下三河守に任官したのである。しかしここで認められたのは藤原氏を名乗ることであった。徳川家は本来、源氏であり、これが二流に分かれて藤原氏になった、という部分が認められたに過ぎなかった。家康が本来求めていたのは清和源氏新田流である。

当時の書状は藤原家康で書かれていたが、私的な書状には源家康と署名している。一五八六年に里見氏に宛てた手紙には「徳川家と里見家は同家の新田(源氏)の出である」と家康自身が新田源氏だと公言している。つまり従来いわれているように家康が征夷大将軍になるために源氏を名乗ったというものではなく、かなり早い段階から源氏を名乗っているという事実がある。これは重要な点で、しかも家康が新田源氏に執着している節があるという点も無視できない。

このあと家康は、吉良家から源義国以来の系図を入手して、神龍院梵瞬が系図を調えて徳川家は系図上、新田源氏になることができた。「御湯殿上日記」には、征夷大将軍就任の返礼として上洛した家康が、朝廷から「新田殿」と呼ばれていたという。このことで家康は上機嫌であったと伝わる。数ある源氏の中から、なぜ新田にこだわったのか。その理由は、実は、家康の祖父・松平清康にあったといえる。

松平清康は、松平家七代目で武勇が高く、慈悲深い人物であったと伝わっている。清康の功績は譜代家臣の構成、城下町の形成を行い、西三河をほぼ平定した。しかし清康が二十五歳のとき、松平宗家の内紛が起こり家臣に刺殺されてしまった。世にいう「守山崩れ」という事件である。

そして清康が名乗っていたのが新田源氏の一支族・世良田氏である。世良田氏は、後に家康が名乗ることになる徳川(得河)氏と同系である。つまり家康が新田源氏を名乗る以前に、清康が新田源氏を自称していたことになる。

また松平家の菩提寺の大樹寺では、清康は世良田次郎三郎清康と記されている。これらが示すことは、松平家は新田源氏についての情報をなんらかの形で知っていたということを示しているのではないか。大樹寺は松平家の本拠地とした岡崎にある。一四七五年松平四代目親忠が創建したもので、松平家八代が眠る寺である。ここで問題なのが『大樹』という寺名だ。大樹とは将軍を意味する言葉であり、寺名としては珍しい。この寺が建てられたのは、家康が将軍になる百三十年も前のことであった。将軍という名を持つ寺を開基したのは親忠の代で、松平家が将軍になるというにはほど遠い一土豪に過ぎなかった。そう考えればなぜこんな大層な名前を付けたのかという疑問が残る。

ただ分かるのは、松平家は将軍になりたいという大望があり、新田一族にも将軍=武家の棟梁になりたいという宿望があった。その大きな希望が新田源氏という名前で結びついたということだ。

ではここで新田源氏を名乗り、将軍になった家康について考察する。徳川改姓問題は、家康が朝廷に清和源氏新田流であることを認めさせて、松平家の家格を上げるという単純なことではない。家康は「とくがわ いえやす」という氏名になるまで改名、改姓を何度か行った。戦国武将がこうゆうことを行うのは別段おかしいことではない。しかし家康の場合は事情がだいぶ異なるのだ。それは、家康が自分自身で名前を一文字、一文字変えていった点にある。

通常、武士が氏名を変えるのは、本家から分家に移る、朝廷・将軍・主君から姓・氏を戴く、または一字賜う、養子に行くなど様々ある。だが家康の場合は、どれにも当てはまらない。徳・川・家・康、と自ら一字ずつ変えているのだ。それではどのような経緯で変えていったのか見てみよう。

まず、「徳川」からであるが、松平宗家の家康が朝廷に願い出て変えた姓氏は、「新田」でも「世良田」でもない「徳川」であった。この徳川は上野国新田荘の得河(川)郷からきている。では三河にいた家康はどのようにして得河(川)郷のことを知り得たのだろうか。そして、それを新田源氏と結びつけるという発想はどこから得たのだろうか。すべてが疑問であり、だれもこの点について明確に説明をする人はいない。

では家康が自分自身で氏名を付けたなら、その文字、漢字に意味があるはずである。そこから考えてみよう。

「徳」……関白近衛前久がその子信尹に与えた書状に「徳川は得川、根本此字で候、徳之字は子細候ての事候」と(得)の字を(徳)の字にわざわざ変えているのが分かる。()の字に深い意味があるとみて間違いない。中国では戦乱を終わらすには「徳」が必要であるといわれ、また太平記の序文には「国の安泰と危殆の由来を考えるに、すべてを覆ってあますところのない天の徳というものであり、明君は、この徳を身に備えて国を治める」とある。つまり家康は戦国時代を治め、天下統一の意志を表明しているのではないか。

「川」……川の意味は、穿つと同系で低いところからうがつように通る川のこと。「河」という字は大きなかわを意味する。(例 黄河、運河) 徳川郷は、得川とも得河とも表記されどの字を当てるかはとくに決まっていなかった。しかし家康は「川」の字も指定していたのである。徳川が徳河と表記されることは絶対にないからだ。そこで、川という漢字が意味するところは、松平家が低い家格から草創していることを示しているのではないかと推測したい。

「家」……住居という意味以外に代々伝えてきた家または、そう見立てられるもの。先祖から受け継がれる血族集団。家名、家業、芸術、武術の流儀、または代々仕えてきた主君の家筋。といった意味がある。

一五六三年(徳川への改姓三年前)に松平元康から家康へと改名している。元康の「元」の字は、今川義元から一字与えられたもので、今川義元が織田信長に討たれ、今川家より独立するためにも改名が必要であった。では「家」の文字はどこから持ってきたのか。通説では松平家直系では「家」のつく人物は少ないが、形原松平家や桜井松平家などに「家」の名をもつ人物が多いのでそこから取ったという説である。しかしこれはおかしい。なぜならば松平宗家の家康がわざわざ庶流の名前を自分で付けなければならない意味が分からないからだ。

そこで注目したいのが、源義家にあやかって付けたという説だ。源義家は東国武士において武門の誉れが高く、武家の棟梁である。八幡太郎義家とも呼ばれ、その系列から源氏宗家、新田家、足利家を出す清和源氏の名門である。家康が新田源氏を名乗ることを考えると、元康から家康へと替えたのは、これからの布石と考えても良い。

「康」……危なげない、丈夫、太い道、または筋が通っているなどの意味がある。

家康の幼名は竹千代であったが、十四歳のときに元服、そのときに松平次郎三郎元信とした。この時期家康は、今川義元の人質状態となっていた。一五五七年初陣の際に祖父の清康の武名にあやかりたいと、今川義元に申し出て、元信から元康に改名した。そして家康はこの清康を大変尊敬していた。その清康こそが新田源氏である「世良田」氏を名乗っていたのだ。

家康は自ら氏名を付け、系図を買い、家格を清和源氏と結びつけた。この行為がかなり早い時期から行われていたことが重要である。家康が徳川へと改姓したのが、将軍になる37年も前に行われていたことでも分かる。このことが、家康にとってどれほど役立ったか計りしれないからだ。

この点を、他の天下を狙った武将と比べると分かりやすい。まず織田信長は、平氏を名乗り、前例のない平氏の将軍職を認めさせようとして、朝廷と数年にわたり争ったこと。豊臣秀吉は天下統一後から出自対策をして、結局は武家の棟梁である将軍職につけずに方向転換したこと。また秀吉は、室町一五代将軍足利義昭の養子にしてもらうことにより、源氏になろうとした。しかし落ちぶれた義昭にさえ拒否されてしまったことなど、家格を上げるために行った朝廷対策にいかに苦慮したかが分かる。

こう考えれば、家康の出自対策が非常に早い段階で行われたことになる。将軍職を得る37年前から、源氏であると広言し、行動して、世の中に浸透させたことも重要である。源氏→将軍職→幕府開府という一連の流れをスムースに行えたのも、すべては家康が源氏の名を手に入れたことに因る。

それでは、家康はこの発想をいつ、どこから入手したのだろうか。それとも家康の祖先から持っていたものなのかと、疑問がわいてくる。松平清康はいつどこで、埋もれていた新田源氏に関する情報を入手したのか、それになぜ新田源氏にこだわったのか疑問は尽きない』

ということで、家康は自分で名前、姓を変えた人物なのです。

斎藤佑樹くんゆかりの生品神社のお守り

6月18日、全日本大学野球選手権で、早稲田大学が優勝しました。
早稲田大学、33年ぶりの日本一となり、斎藤佑樹くんはMVPに選ばれました。

というわけで、またまた斎藤佑樹くんの話題を。

斎藤佑樹くんの地元である群馬県太田市(旧新田町)の生品神社のお守りについても問い合わせが、あったので、アップしておきます。(ゆうたくんのmamaさん、画像はこれです)


新田義貞のお守り

また、斎藤佑樹くんはサムライのような雰囲気がある、とコメントを頂いた鳥人さん、間違い箇所の指摘ありがとうございます。この場を借りて拝謝いたします。

斎藤佑樹くんは新田源氏の生まれ変わりか?の一連の記事、合わせて美智子さまと新田源氏の関係の記事は好評で、別ブログのコメント、メールなどでの賛同、不同意、問い合わせなど多くの意見をいただきました。誠にありがとうございます。まあ、生まれ変わりかどうかは別にしても、新田義貞の儀式に参加したこと、旧新田町民が新田源氏をかなり意識していることなどは、本当のことなので、回りの方々に話しても疑われる内容ではないと思います。(未読の方はこのブログに記事を載せてありますので読んでみたください)
また、早稲田大学の方や、スポーツ記者の方で斎藤佑樹くんに話を聞ける方がいたら、ちょっと訊いてみてください。全く否定はしないと思いますよ。

斎藤祐樹くんの不敗神話は伸びる一方ですが、あまり勝ち過ぎると、今度は負けるときが怖くなります。
野球は勝負ごとなので、ときに勝ったり、ときに負けたり、するものです。あまり気負ないように頑張ってもらいたいですね。(これは回りの人やマスコミの方にもいえます。負けが込んだり、スランプになったときにこそ、応援したいですね。自分を含めて……!!)

父の日には「たそがれ清兵衛」を、そしてオヤジは涙する。

6月17日は、父の日ですね。

私は、5歳の娘から似顔絵をもらいました。

そりゃ、絵がうまいんですよ。いや、感心するほど私にそっくりです。こりゃー娘は絵心があるぞーー。将来がたのしみだ、と叫んで、娘の頭を撫でながら、親バカぶりを発揮してしました。

父の日なんて誰が考えたかしらないが、これをやろうといった人は偉い。

父親が感謝される日が年に一度くらいあってもいいですよね。

私の娘はまだ小さいから、似顔絵を描いてくれたりして、感謝されますが、年ごろの娘さんを持つ父親の方々はどうなんでしょうか?。

娘が高校生ぐらいになっても感謝されているのでしょうか?そんなことを考えていると、今から少し心配になります。

では、映画の話を。今日は父の日なので「たそがれ清兵衛」をちょっと物語ってみます。確か4,5年前の映画で、真田広之や宮沢りえが出演し、監督は山田洋次でした。

見た方も多いと思うので、詳しいストーリー説明は省きます。

ここでは、この映画を見てなぜ感動するのか、おやじはなぜ涙するのか、ここに焦点を合わせます。

結論からいえば、娘からの視点で、父親を語っていることが、この映画の肝となっています。しかもそれは、映画を見た方は分かるでしょうが、主人公の清兵衛の娘が晩年になって、父親のことを振り返って回想していたというのが、ラストになってハッキリするという点です。それはラストで岸恵子が登場して初めて分かる構成になっています。冒頭でもナレーションが入り、まあ誰かの回想で映画が始まっているのだ、くらいの軽く示している程度です。ここが、おやじの涙を誘うミソとなっています。

主人公の清兵衛は、妻を亡くし、娘二人を育て、金もなく、寡黙で、無心で仕事に励み、生活にあくせくし、恋愛に不器用で、同僚には蔑ろにされ、上司にも蔑まれている人物。しかし娘の視線はあくまでも優しく、主人公を理想の父親だと思っている。この末娘のあどけない表情や行動が、観客を余計に物語の中に引き込んで、主人公と観客を一体化させているのです。それが、子を持つ親であればなおさらでしょう。そうなると、もうすでに観客は清兵衛と一体化となり、主人公(自分)を応援する。そして、ここで必要なのが娘の視線です。

この映画は、娘からの視点から父親を見ている物語である、と断言してよい。

人は誰しも、自分には欠点があり、他人より劣っている点がある、と思っています。(いや、俺は完璧だと思っている人がいたなら、それはそう思っている点が、その人の欠点です)

この映画での主人公の欠点は、妻を亡くし~上司にも蔑まれ、までと沢山あります。観客は自分の欠点と主人公の欠点を重ね合わせます。それでも主人公は好人物であり、娘に慕われる親だから、幸福になってもらいたいと観客は思い始める。

(娘を持つおやじはもうすでに清兵衛と同化している)、そこに登場するのが、宮沢りえ扮する役です。この登場が、物語上絶妙なんですよ。

そして、主人公との純愛を叶えてやってくれ、と観客は期待し、渇望する。この願いは、娘たちの願いと重なり、どうか、父親(自分)を幸せにさせてやってくれ、と観客を引っ張っていきます。物語では、二人は結ばれることになるが、おやじはここで、願っていたことが叶ってほっとすると同時に、歓喜の涙を流すわけだ。

そしてもうひとつ、この映画の肝となるのが、主人公が実は剣の達人だった、という設定である。私たちは、普通に暮らしていながらも、どこか他人と違う、どこか優れた点があると思っているものである。だが普段はそれを表に出さず、心ひそかに持っているのである(人は常に、心の奥にいろいろな感情を隠しているのです)

それを主人公は剣術を持って事を成すことになる。

実社会では、優れた能力を持って成功を収める人は稀である。ほとんどの人が、自分には隠れた才能があると思いながらも、成功せずに終わる。

それをこの映画の中では、清兵衛はすべての願望を叶えることになる。あのマイナスの要素を持つ清兵衛が、である。すでにおやじは清兵衛と化しているので、ここでカタルシスを味わうことになる。しかも、上司から責められ、体は傷つき 恋する人を失いそうになりながらも、結局は清兵衛は勝ち得るのである。

だがこれらのことは物語の中でのエピソードでしかない。

メインのストーリーは、父と娘との関係にある。  

それはラストに現れていると思う。娘が父の人生を語るっている、という点にこの映画のテーマがある。

この映画の批評でラストの回想シーンつまり娘が父親を回想する部分が不必要だという批評家がいたらしい。

その批評家は間違っているだろう。この映画は父親と娘の関係をテーマにしていることは明白である。

それから、ダウンタウンの松本人志氏はこの映画を見て、どこが泣けるのか分からない、とコメントした。そう松本氏には子供がいないから、この感動ポイントが分からないのだ。このコメントこそが、逆にこの映画のすべてを表しているといっていいでしょう。

しかも芸能界で成功し、年間ウン億円も稼ぐといわれる松本氏には、しがない親父たちが主人公に自分を重ねて涙する心境は決して分らないだろう。