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この時期売れる意外な物は?

今日は6月16日、雨が降ったり、急に暑くなったり、ジメジメした嫌な時期ですね。スーパーやコンビニに行ったら何を買いますか?

さっぱりした麺類、ジュースやビールなどのドリンク類、サラダやカップフルーツなどが、この時期の売れ筋でしょう。

では、タイトルの意外なものとなると何が浮かびますか?ドカーンとや山積みしているようなものではありません。

それは意外や意外、カップの味噌汁、インスタントの味噌汁が案外売れているんですね。

もちろんバカ売れではありません。売り場の棚に一杯あったものが、いつの間にか少なくなっているといった程度ですが。ただ梅雨時期に売れるはずがないものが売れている、この意外性に、どうしてかと頭を捻りました。

こうゆうことは、やはり主婦の方々に聞くのが早い。そこで何人かの主婦に聞いてみました。その答えは意外に簡単なものでした。

「そりゃ、作るのが面倒くさいし、インスタントは簡単だから」

えっ、答えになっていないって。

いえ答えは出ています。

つまりこういうことです。

この時期は、家庭で作るほどの量はいらないし、作っても気温が上がると余って、結局捨てることになる。だけど梅雨時期は急に肌寒くなったりして、そうゆう時は妙に飲みたい。だけど作るほどではない。それに本格的に暑くなれば、味噌汁なんて飲もうと思わないから、やはりこの時期だけはインスタントやカップの味噌汁は必要とのことらしい。

うーん消費者心理は奥が深い。

こうゆう話もある、中華まんは、2月より、9月の方が売れる。

中華まんは冬の食べ物という印象がある。9月はまだ残暑があって暑いだろう、2月の方が寒くって売れるはずだろう。(2月の方が日にちが少ないからではなく、売れ数の日割り計算しての話)

しかしこれも、予想と反して、気温の高い9月の方が売れるのだ。これは、人間(日本人かな)の初物心理で、その季節で初めて出たものに飛びつく傾向があるかららしい。おでんのパックなんかも気温の高い8月には店頭に並んで、しかもバカ売れしたりする。これもパック(お湯に入れてあたためるタイプ)というのがミソで、作りたくはないけれど、ちょっと食べてみたいという心理だろう。

となると、梅雨時期に売れるインスタントみそ汁と同じということになるかな。

「東国原知事ってどうよ?」の批判コメントにコメントする。

東国原知事ってどうよ?」の記事に早速批判コメントが来ました。(ライブドア版の激闘編に来ました)それに対してコメントします。このコメントは東国原知事擁護派の意見をほぼ代表しています。
要点をまとめれば一点目「休日返上して頑張っているんだから、応援してやれ」といった内容、二点目「テレビに出演するのは、政治に無関心な国民に興味を持たせるためと、宮崎県のPRのため」、三点目が「過去のことを掘り返すな」といったことに集約されるでしょう。

まず知事になった以上、休みなく働くことは、覚悟しなければならないことで、ほか多くの県知事の方も、休日なく知事としての仕事をしております。「知事は県政をしっかりこなしている」とコメントがあるが、知事が県政をしっかりと行うのは、当たり前のことで、しかも知事の仕事は「こなす」のではありません。これでは県政がやっつけ仕事で、テレビに出るのが第一、知事の仕事はその次みたいなニュアンスになります。
また知事としての苦悩があるといったことをホームページに書いているが、これを解決、克服していくことこそが知事の仕事でしょう。そこにこそ県政の問題があるわけで、そこをおろそかにして、テレビ(バラエティー番組)出演、パフォーマンスに重点が置かれていることに、私は不信感を抱くわけです。
私の住んでいる群馬県の県会議員の方や落選した市会議員の方のホームへージを見ても、地域のために政策を発表し、休日なく活動しています。こういった活動こそが、地方の政治家のすることであります。彼の目は東京に向き過ぎていて、それにそって行動しているのではないかと、疑問を持ってしまうのです。
それに休日返上の無茶をして、テレビに出たからといって(これを使命感といわれては……)、本当にいい政治ができるのでしょうか。俺はこんなに頑張っていると主張するのは、別段構わないが、体に無理をしてまで、テレビ(バラエティー番組)出演することが知事の仕事だとしたら、他の都道府県の知事もそうしなければならなくなるだろう。
私は、別にテレビ番組に出ること自体を否定してるのではない。彼が「俺はテレビに出るのが好きだ。マスコミに取り上げられるのが大好き」だと表明しているのなら、彼が知事だとしても国会議員だとしても、それが趣味であるなら、私は非難しようとは思わない。これは、石原都知事が忙しい身でありながら、小説を書いたり、文学賞の選考委員を務めたりすることに異論がないことと同じだ。私は彼がテレビに出るのは、宮崎のPRだということ、政治に無関心な国民の目を向かせるためと称して、とんねるずの食わず嫌いにでたり、笑っていいともに出たりすることは、全く違うことだ言っているのだ。私には、彼の政治(地方政治)に対する仕事の方向性のずれが気になるのだ。

それは、彼がテレビで出演している番組の中に見て取れる。今まで彼を下に見ていた人々までに「知事、知事」と持ち上げられて、それに対してヘナヘナと笑っている姿や、嬉しそうな表情は、タレント時代にはなかったものだ。彼も、今までのそのまんま東としては味わえなかった「大物ぶり」に酔っているのだろう。その姿が、私には空虚にみえるのだ。これが宮崎県のPR、国民の目を政治に向かせるということではない、というのは明白だろう。

有名人知事として前長野県知事・田中康夫氏がいます。私は、彼を作家(ペログロ日記みたのを書く作家は最低)としても、過去の下半身の問題を含めて、好きではありません。しかし田中氏の県知事として、政治家としての仕事ぶりは評価しています。
田中氏の知事時代に行ったこと(ダム問題、空港問題など)、県知事としての県政の役割、政治に対する姿勢は良いと思っていました。(ただし主義、思想は別)。特に長野を行動の拠点として、マスコミとの関係、中央・東京と地方との距離の取り方などは、有名人知事として相当なものです。
彼は知事時代にもTBSラジオ「アクセス」に毎週出演し、県政を熱く語っていました。これこそ新しい県知事の姿かと思ったものです。この番組は夜10時からの地味な番組であったが、自分の意見を主張することは大切だと、感じました。この点が東国原知事との違いだと思っているのです。「マスコミは地味な公務は取り上げない」という彼の意見、これは間違っています。県知事の仕事とは地味な公務の積み重ねなのです。
マスコミに取り上げられたければ、彼は国会議員になるべきです。無知で無関心な馬鹿な国民を政治に目を向けさせたければ、県知事ではなく、国政選挙に出るべきなのです。
それに彼が宮崎県知事選に出たのは、まず政界進出の第一歩としてではなかったと、見られる節があります。知事選で善戦して、自民党(たぶん)のお声が掛かるのを待つといった地図を描いていたと思います。しかし、彼は当選してしまいました。これは世間の誰もが、驚いたことであり、本人が一番驚いたことでしょう。
ただ知事となった以上、知事の仕事をすべきで、彼は観光課の課長ではないのです。

それに東国原知事の件に関して、問いたいことは、マスコミ側にもあります。
現状の知事の持ち上げ方に異常なものを感じているのは、私だけではないとはず。
マスコミの彼の取り上げ方は、もうタレントや知事といったものを越えて、時代の寵児的なノリで煽り立て、世間を焚きつけているようだ。これに便乗するかのように、些細な行動までもが取材合戦のタネにされてしまっている。この状況は全盛期のホリエモンや亀田兄弟などに似ていて、今までこのように祭り上げられた人々は多くいるだろう。彼は、持ち上げられるだけ持ち上げられて、ブームが去ったり、問題を起こしたときに、一気に突き落される。東国原知事は今こうゆう状態にあるのだ。全盛期はいい、マスコミに好意的に取り上げられている間はいいだろう。しかし一旦、何か事を起こせば、持ち上げられている分、落とされる度合いも大きくなる。ホリエモンが時代の寵児だと担ぎ上げられたときの記事を読んでみると面白い。そこは、彼にへつらうような記事のオンパレードで背筋が寒くなるほどだ。それが事件後の記事といえばマスコミ総攻撃の袋叩き。マスコミは褒め称えた裏で、何かあったら叩き潰してやろうと手ぐすねを引いて待っていることを忘れてはならない。それに気づかず、マスコミに乗っかってしまうと、あとで大変なことになるということだ。(しかも彼はいま乗っかり過ぎている)
しかも、彼はいまタレントではなく、知事なのだ。だから問題を起こせば、それは命とりになるだろう。しかも迷惑のかかるのは、彼個人ではない、県民なのだ。

さて、私のブログの記事の批判に「どん底から政治学を学んで、知事になったのだから、過去を掘り返さずに応援してやってください」といったことが、書かれていたが、
私が彼に寄せる不信感は、かなり以前からあったということなのです。
私は三十代後半ですが、学生時代は、ビートたけしとその軍団の全盛期で大ファンでありました。当時はたけし軍団の番組が多くあって良い意味でも、悪い意味でも影響を受けたのです。それだけに、軍団のことはよく見てきたつもりです。そのまんま東に関しても「ビートたけし殺人事件」「明石屋さんま殺人事件」などといったミステリー小説(?)を読んだものでした。その、そのまんま東ですが、彼の下半身の事件が起こるたびにガッカリしたのを覚えています。ビートたけしや高田文夫氏がそのたびに遠まわしのお詫びのコメントをラジオで言ったり、雑誌に買いていたのを覚えています。私はたけしさんのファンのひとりとして、このとき大変失望したのです。しかも彼は忘れたころに何かをやらかすといった性癖があるようで、何度もがっかりしたのをいまでも思い出します。そして、彼はタレントとしての活動とは関係のないことをして、何やってんの、と思い続けていました。だから、県知事といわれても、どうにも釈然としないのです。それに彼のどん底とは、自分の起こしたことの結果による不幸で、これこそが因果応報ではないでしょうか。それは本当の意味での「どん底から這い上がる」といったこととは、ちょっと違うのです。私が彼に思うのは、また何かやらかしちゃうのではないかということです
それにこの私に対する批判コメントでは「(知事)が火だるまになるのを期待するのではなく、彼の手腕を信じて応援してください」と結んでいます。
私は知事が火だるまになるのを期待しているのではなく、<span style=font-size:large>火だるまになるだろうと予測しているのです。</span>この点を間違えないで下さい。とても重要なことなので。

それに、私は彼に何も期待していません。私が危惧しているのは、パフォーマンス優先の政治家が増えるのではないか、資質のないタレント知事が全国に蔓延してしまうのではないかということです。(今度の国政選挙にその傾向が出ている。さくらパパに何ができる?)

以上。反論、批判受付けます。


最強の赤ちゃんはだれ?

私がひそかに興味を持っている赤ちゃんがいます。ニコニコ

それはジャガー横田とその夫の子供です。


なぜって……。


考えてみてください。ジャガー横田の体力と、東大医学部を出た夫の頭脳を掛け合わせた子供ですよ。どんな大人になるか、想像してみてください。これって考えられる最強の組み合わせじゃないですか。

きっと将来の日本を救ってくれるスーパーマン!!のような存在になるかもしれません。


でもジャガー横田の頭脳で、夫のように弱々しい性格の方を遺伝してしまったら……、まあそれはそれで面白いですけど。

美智子さまと新田源氏と徳川家康

いま話題の本に「美智子さまの恋文(橋本明著。新潮社)というものがある。

皇后さまが天皇陛下へ宛ててお書きになった2通の手紙が掲載されている。ご成婚前の昭和34年初頭のものと、皇太子をご懐妊中の昭和35年に書かれたものが収録されていて、当時の皇后さまの心情のほかに、皇室の内情を知ることができる内容となっている。

さて、では「美智子さまと新田源氏と家康」の本題へと入りましょう。

皇后さまのご成婚が決まったときに、かなり綿密に調査されたことがある。

それが皇后さまの出自についてのことだった。

皇后さまは旧姓を「正田」というが、ここでまず正田家の歴史を簡単に解説しておきましょう。

正田家の祖先は、平安時代に、源義国に付き従いて上野国新田荘に移り住すみ、正田(庄田)隼人と称したことに始まる。源義国は、八幡太郎義家と呼ばれた源氏の直系の子にあたり、義国の長男が新田氏の祖である新田義重となり、義国の次兄が足利氏の祖である義康とつながっていきます。(詳しくは小説「東毛奇談」で)

この時代から既に正田氏は、新田一族と共にいたことになります。そして、正田氏は新田義重の子・世良田(徳川)義季に仕えて徳川郷に居住していた。徳川(世良田)氏がこの地を去った後も当地に残り、徳川氏の館跡に居住し、その地の有力な家柄となっていたという。

徳川!徳川!徳川!そうあの徳川ですよ

ポイントは正田氏→新田一族→世良田氏(徳川氏)→徳川家康となります。

徳川家康が新田源氏を名乗った経緯は、このブログでも「斉藤祐樹君は新田源氏の生まれ変わりか?」の項目で書きました(詳しくは小説「東毛奇談」で…と小説の紹介ばかりですが…)が、ここでは、正田氏と家康の接点だけを記します。

1590年のこと、家康は関東を統治することになった。そのとき正田氏の当主である義豊が家康に呼び出され、新田徳川(得川)系図を提出した。代わりに徳川郷の名主に任じられ、江戸時代を通じて代々この役を世襲したという。

ではなぜ正田家は系図を提出したのか。

  家康は、祖先の出身地である新田氏の関係者と接触して何を得たのか。

それが歴史ミステリー小説「東毛奇談」の前半の核となっています。

ではその後の正田家を簡単に紹介しておきましょう。

 江戸中期に、新田徳川郷に残る家と、館林へ分家していく家の二家に分かれます。分家した家は文右衛門を襲名して米穀商を営んだ。明治維新後、醤油醸造業に転じ、「正田醤油」を興す。また正田貞一郎は1900年に、後の「日清製粉」となる館林製粉を興した。貞一郎の三男・英三郎が日清製粉を継ぎ、その長女・美智子は昭和34年皇太子・明仁親王の妃となる。

さて、ここで美智子さまの登場となります。

 昭和34年のこと。ご成婚となる前に、正田家は新田源氏の流れを組む家系ではないかと、かなり調査された。しかし、確証となるものは遂に見つからなかったというのだ。だが、正田家は新田氏系である可能性はかなり高いといわれています。

これは、伝承といったレベルではなく、かなり信憑性の高い説だと私は考えています。

新田荘には多くの新田一族がいて、その中で、結束を固めるためにも姻戚関係を築くことは重要である。正田氏は新田氏始祖の時代から新田荘にいて、新田氏(世良田氏)とかなり深い関係にあるので、この正田氏が新田氏の流れを組んでいたという説は以上十分にありうることなのである。

では、なぜ証拠が出ないのか、

それは、家康、徳川家がその証拠を消したからでしょう。

家康は新田徳川の系図を手に入れたばかりか、正田家は新田氏の一派であることも消し去ったのだ。それは、世良田氏と深い関係にある正田家が徳川郷にいて、新田の血を受け継いていたら、かなり煙ったい存在になるはずだからだ。

家康、徳川家は、源氏であるからこそ、征夷大将軍となることを、朝廷から承認され、そこから初めて幕府を開くことができる。(詳細は「東毛奇談」で順次解説していく)

家康が新田源氏であることを偽称しているのは間違いなく、そこに、新田(世良田)源氏のことを、知っている者、書いてある物、本物の世良田氏が存在していては、それはとてもまずいことになるはずでしょう。

では、正田家が新田源氏の流れを組む家柄だとすればどうなるでしょう。となれば、自然、美智子さまは新田源氏の流れを受け継いだことになる。

ということは……、皇太子さまは、秋篠宮親王さま、愛子さまは、悠仁親王さまは……。いや、この辺で止めておきましょう。

では最後に謎をひとつ。

正田家がいた徳川郷には、満徳寺という、幕府が百石も寄進した大きな寺がある。(現在復元され内部は歴史博物館となっている。そこに、正田家が使用した駕篭が展示されている)

徳川氏発祥の地である幕府にとって、とても縁起のいい土地にある寺の御利益とはなんでしょうか。

大願成就、家内安全、商売繁盛、厄除け、いや違う。交通安全、学業成就、それも違う。

満徳寺のご利益は縁切りなんですよ



縁を切るって。何の?

謎だと思いませんか。実はその辺に徳川家の秘密がありそうです。

では、次回……。


歴史ミステリー小説「東毛奇談」はhttp://pcscd431.blog103.fc2.com/ に載せてあります。


「消えた二十二巻」名前の由来

このブログのハンドルネームは「消えた二十二巻」といいます。

なんとも奇妙な名前ですが、その由来は太平記にあります。

太平記は三部構成の四十巻もある大長編で、鎌倉幕府滅亡前後から室町幕府三代将軍足利義満が就任するまでの約50年間に起こった出来事が書かれている軍記物語です。

実はその中間部分である巻二十二が全く存在していないんです。不思議ですね。

いまある太平記には、巻二十二はありますが、それは前後期間にあった出来事をつなぎ合わせ、無理やり作り直して、丸々一巻分を増やしているんですよ。だから元にあった巻二十二には何が書かれていたのか、それに各地にあったはずの太平記の巻二十二がどこに消えたのかが、全く分かっていない。

また一説によると巻二十二には足利尊氏・直義の一代悪逆が記されていたので、足利幕府が回収して焼却させたという説があります。(ということは、かなり早い時代から太平記二十二巻はなかったということになります)

太平記には、血なまぐさいことがかなり書かれていますし、足利直義も護良親王を殺害しているから、それよりも悪逆的なことといっても今さら想像も付きません。

よってこの説に私は否定的です。足利氏が悪逆なことをした、と書いたとしても、回収焼却までするだろうか、と私は疑問に思っています。

いやそれよりも、そこには、もっと、室町幕府を揺るがすようなことが、いや日本を根底から覆すようなことが書かれていたのではないかと、考えているんです。

南北朝時代は天皇が2人いて、年号も2つあったという、特異な時期です。日本が二つに分かれていたということは、後にも先にもこの時にしかありません。この特異性は、境界線を引いて国を2つに分裂していたという単純なことではなく、天皇を互いに立てて、そのイデオロギーで対立していたから、その争点もあいまいだった。しかも昨日の敵は今日の友といった具合で、離合集散を繰り返していた。

だから、太平記巻二十二には、戦や争いや、事件などといった単純なことではなく、きっと天皇や朝廷に関わるような重大なことが書かれていたのはないかと、私はにらんでいます。

太平記「消えた二十二巻」に日本の歴史を覆すような大きな謎が秘められているような気がしてなりません。

その謎に近づけるようにと付けたのが、この名前というわけです。