「ひなまつり」と「金子みすゞ」と「アフガニスタンの女性たち」
ひな壇飾りにひなあられ。
桜餅見て、思い出す、
金子みすずの最後の晩。
金子 みすゞは、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳にみすヾは勧められるままに宮本啓喜と結婚し、やがて女児をもうけたものの、夫婦の仲や生活は荒んでいた。夫は家庭を顧みず、遊郭通いにあけくれ、彼女は夫の放蕩によってもたらされた病気(淋病)の苦しみと戦っていた。ついには、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、投稿仲間との文通さえも禁じた。さらに病気、離婚と苦しみが続き、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。
(金子みすゞ記念館http://www.city.nagato.yamaguchi.jp/misuzu/index.html から)
金子みすゞが自殺する夜が、余りにも切ない。
その夜、みすヾはいつもより時間をかけて、3歳の娘のふさえを風呂に入れた。そして、ふさえの体を抱きかかえるようにして洗いながら、たくさんの童謡を歌った。「テルさんは今夜はずいぶんと気持がいいのね。あんなにたくさん歌っている」と、居間にいた母のミチは松蔵(父)に声をかけたという。
そして、風呂から上がると、四人で桜餅を食べたという。
「今夜の月は、きれいだから、うれしいね」とみすヾは一度だけ口にした。
みすヾの最後の言葉は、娘の寝顔を見つめて言った、「可愛い顔をして寝とるね」だった。そのあと、みすゞは自室にこもり服毒自殺した。夫が子どもを引き取りに来る前日のことだった。
みすゞは、遺書を3通残す。
その中に別れた夫へ宛てた遺書があった。
「あなたがふうちゃんを連れて行きたければ、連れて行ってもいいでしょう。ただ、私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから、母が私を育ててくれたように、ふうちゃんを母に育ててほしいのです。どうしてもというのなら、それはしかたないけれど、あなたがふうちゃんに与えられるのは、お金であって、心の糧ではありません。」
最後の一文が心に沁みます。
また、母に宛てられた遺書には「今夜の月のように私の心も静かです」と書き記し、薬を飲み、幼い子を残して死を選ぶことになった。夫から移された病気が悪化していたことも、一因になっていたことでしょう。
自分の命を掛けて守ろうとした娘が、その後どうなったのかが気になって、ネット検索してみた。
その中で2007年1月の記事にいいものがあった。
『NHKの『ラジオ深夜便』2月号が、「母、金子みすずを想う」という対談を載せている。金子みすずは3歳の一人娘を残して自殺した。その子は祖母に託すように遺言した。「(父は)あなたに与えられるのはお金だけで、心の糧は与えられません」と。祖母は「自殺した娘の子を育てるので」「いじけないように、のびのびと育ててくれた」と語っている。しかし、中学生のときに「遺書」を読んで、自分だけを残して死んだ母を許せないと思った、それが自分も子どもを持ち、孫を持つようになってから、「母は私の命を大事にしてくれたのだ」と思えるようになったと。』http://ameblo.jp/iwanabe/archive1-200701.html(岩辺対泰吏の午後の歩き方より)
こういうことになっていたので、安心した。この子が悲しい人生を進んだとしたら、みすゞのした行為は報われないことになる。娘さんは今もご健在のようであり、また、子、孫と続きいていく様が、みすゞの血脈が受け継がれていく感じがして、とても救われたような気がする。
みすゞの詩の中に母子を詠んだものがある。
こころ
『おかあさまは
おとなで大きいけれど、
おかあさまの
おこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。
わたしは子どもで
ちいさいけれど、
ちいさいわたしの
こころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。』
さて、追い詰められた金子みすゞには、「自殺」しか選ぶ道がなかったのか。
そういった批難もあるという。
ただ、私は、「時代がそういう行為へ向かわせたのだ」と思う。
かつての日本では、男尊女卑が常識としてまかり通っていた時代である。親権は男親に優先されていて、みすゞの夫のように、「娘を渡さない」と言われれば、それに従うことしかできなかった。法的にも、世間的にも、それが常識だと認識されている時代だった。参政権が女性に与えられるのは第二次世界大戦後のことで、みすゞが生きた大正時代では、まだまだ女性の地位は極めて低かったのである。
そこで、みすゞが残した代表作に『私と小鳥と鈴と』が深い意味を持つ。
『私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)は速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。』
「みんなちがって、みんないい」という最後の一文が有名だが、こういった考え方など許されないかった時代だろう。
女は女らしくあることが求められ、夫婦となれば、妻は夫に隷属することが普通であった。他と違ったことをすれば奇異に見られた時代だ。夫に詩作を禁じられれば止めなければならないし、娘を渡さないと言われれば、それに従わなければならないのだ。
女性に「個性」はあまり必要とされなかった。
だからこそみすゞは、こういったことに疑問を感じ、その思いを詩に残したのではないだろうか。
さて、あるときテレビで、NHKのBS・世界のドキュメンタリー「アフガニスタン 忘れられた“女性たちとの約束」という番組を見た。(2月25日朝10時からの再放送)
その中で、妻が詩人で有名になったことを妬み、夫が妻を殺害した事件を紹介していた。この妻は20代だった。しかし夫は、一旦は逮捕されたものの、数ヶ月ほどで釈放されたという。釈放後は普通に生活し、インタビューにも答えていた。余り罪の意識はないようだった。この夫は、妻を殺す前に、詩を作ることを禁じ、手紙を書くことさえ許さなかったというのだ。まるで、金子みすゞの夫がしたような仕打ちだった。殺された妻の母親が、生前の写真を前にして泣きじゃくっていた。それがアフガンの女性の悲しみを訴えているようだった。
アフガニスタンは、依然として男性の優位の社会で、女性の権利が低く、離婚する権利は夫の側にしかないという。
NHKホームページでは番組内容を解説では
「アフガニスタンでは、戦争で夫を失った女性の数は150~200万人に上るが、職もなく、住む場所もなく、タリバン時代の遺物である青いブルカに身を包み、物乞いをするほか生活の道はない。灯油をかぶり、女性が焼身自殺をはかった事件の件数は、この2年で倍増したという。
病院を訪ね、身の上話を聞くと、家庭内暴力や性的虐待、人身売買にも等しい強制結婚から逃れる唯一の道が、自殺しかないという現実を目の当たりにする。家族の許しがないと女性が病院にさえ行けないアフガンでは、30分に1人の女性が、出産時に命を落としている。……
(http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/080218.html から)
アフガニスタンは決して遠い国の話ではない。現在でも起こっていることなのだ。
ここまで酷くはないが、日本でも、女性の地位が低かった時代はあって、それも遠い過去の話ではない。
ここで、みすゞの詩を一つ。
不思議
『私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかつてゐることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉食べてゐる、
蠶が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいぢらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑つてて、
あたりまへだ、といふことが。』
「あたりまえだ」「常識だ」と人々が思っていることは、その時代や場所によって違う。
「女は男につき従うこと」と思うことが普通だという時代があった。みすゞはその時代に生きていた。感性の鋭い彼女には、世の中で「当たり前」だといわれることに対して、大いに疑問を感じていたのだろう。
「不思議」という詩には、そういった意味が込められているように思える。
もし、みすゞ本人が、現代に生まれ、客観的に自分を見たなら、「自由に詩作することができない時代に生まれた彼女」を生まれてくる時代を間違えた、と思うだろうか。
もしアフガンの女性が、違う場所に生まれ、客観的に自分を見つめたなら、「生きていくことさえ儘ならないところ生まれた彼女」を生まれてくる場所を間違えたと、思うだろうか。
だが残酷なことに、人は生まれてくる時代も場所も選べない。
まして、どんな運命があるのか「本人」に知ることはできない。
置かれている状況が「あたりまえ」だと思ってしまえば、それっきりで、そんなこと「不思議」にさえ思わない。
生まれた場所や時代が違えば、自分だって、妻の才能に嫉妬して殺してしまう夫や、みすゞの夫のように酷い仕打ちをしても、余り罪を感じない人となってしまうのだろう。
生まれた時代や場所によって、人生は左右されることになるのか。それとも、そういった人生を歩む運命はすでに決まっていることなのか。
ただ、人はいまある現実でしか生きられない。
とすれば、この土地に、今の時代に生まれた娘は、幸せなのだろうか。
ひなまつりの今日、
娘と桜餅を食べながら、そんなことを考えた。
答えなど出るはずがないのに……。
ただ、桜餅は甘くて、塩漬けされた桜の葉が塩っぱいということだけは分かった。
金子みすゞが死を決意し、最後に食べたという桜餅。
それを考えると、「ひとの人生」を感じて少し複雑な味がした。
そこに「徳川埋蔵金」はありません。(多分)「ハローバイバイ関暁夫の都市伝説」から。
去年の12月に、「埋蔵金」という言葉でfc2サイトに入ってくることが異常に多くなった、という記事を書いたことがありました。
その時期に中川元官房長官の「埋蔵金」発言があって、ただの勘違いで来ているのかとも思った。しかし、不思議にも「徳川埋蔵金」「埋蔵金伝説」という言葉で来ている方も異様に多いので、「どこかで埋蔵金をネタにしたテレビ番組でもあったのかな~」と、問いかけてみた記事でした。
そこに、『「ハローバイバイ関の都市伝説」という本がベストセラーになっていて、その中に「徳川埋蔵金」を書いた記事があるので、そこから検索した人がやって来ているのではないのか』という情報をメールで頂いた。
「なるほど」と思い、早速本屋へ行き、その本を見つけ、「徳川埋蔵金伝説」のところを読んでみた。記事は数分で読めるほどの短い内容だった。買うほどのものでなかったので、立ち読みで済ませました。
まあ、徳川埋蔵金に関していえば、「それはないだろう」と思わず突っ込みたくなるような「トンデモ説」でした。(ほかのネタはどうかは分かりません) まあ、大したこともなかったので、このことも忘れていた。
そこに、今週号の「歴史のミステリー」で徳川埋蔵金の記事を読んで、「あっ、そういえば、都市伝説の本でも読んだな」と思い出したのです。それじゃついでに、これをネタにでもしてブログを書こうと思った、という次第。
そこで、ネット検索。
どんな内容かは、テレビの公式サイトhttp://www.tv-tokyo.co.jp/yarisugi/backnumber/050805/index.htmlからの引用してみました。
「徳川埋蔵金のありか」 By ハローバイバイ 関
徳川の埋蔵金は、3ヶ所に分けて埋めてあるという。
そのうちの2ヶ所はダミーで、本当に埋まっているのは
1ヶ所だけ。
その埋蔵金のありかを示す暗号が、「かごめかごめ」
の歌詞にあるんだとか・・・。
かごめ(篭目)= =徳川ゆかりの寺を結んでできる図形
かごの中の鳥=日光
夜明けの晩に=朝日 を示しているんだとか。
実際、朝日に照らされて影が差す方向に徳川の墓、鶴と亀の銅像があり、その後ろにある祠には籠目 のマークがあり、これはその下に埋蔵金が隠されていることをあらわしているそう。
国がこの事実を知っておきながら、その埋蔵金を掘り起こさないのは、
ここを掘り起こすことで、歴史が変わってしまう恐れがあるからだという・・・。
今回は、ウソかホントか分からない、闇のウワサに迫る、「芸人都市伝説!」
「服部半蔵の正体」 By ハローバイバイ 関
天下を取る人というのは、
世界で何かを最初に成し遂げるという。
では、徳川家康はなにを成し遂げたのか・・・
それは、「特殊部隊」だという・・・。
家康は、世界で最初の特殊部隊、
「忍者の里」を作り上げた。
その長をしていたのが、服部半蔵だという。
家康が天下をとった際に褒美として半蔵に与えたのが、
「半蔵門」という地名だったんだとか。
半蔵は、さらにもう1つ、「身を自由にすること」を褒美として家康に求めた。
こうして自由の身になった半蔵は、日本中を旅して回ったという。
この時半蔵が使った偽名が、「松尾芭蕉」だったんだとか・・・。
あの時代、1日400キロもの距離を移動するのは、忍者ででもなければ不可能だった。家康から全国の通行手形をもらっていた半蔵だからこそ、
なしえたことだという。
こうして書かれた「奥の細道」であったが、実はこの旅の目的は
俳句を書くことではなかったそう。
半蔵は、全国に「かごめかごめ」の歌を暗号として残していったんだとか・・・。
要点はこんな感じで、本の記事の方では、もう少し長く書いてあった。
なぜ「芭蕉がかごめかごめの暗号を残した」のかというと、徳川幕府にはそれだけの財力があるというのを暗に全国の大名らに広めることによって、反乱を抑えるという意図があったということ。それに徳川家に「何らか」の思惑があったなどということも書いてあった。まあその辺りがぼかして書いてあったけど、そこが何なのかが物凄く知りたいんですけどね。
そして、この本では「日光東照宮に埋蔵金が今でもある」と断言してました。
というわけで、
「忍者の里」って何?
「半蔵門の名前を家康が褒美で与えた」って何?
「半蔵が身を自由にするのを求めた」って何?
「家康から全国の通行手形を得た」って何?
大体「服部半蔵=松尾芭蕉」ってどういうこと?
という感じで、本来ならここから、これらをネタにしてネチネチと書いていくわけなんですが……、
なんか書いているうちに、
だんだん、
何でこんなことに真剣になっているんだろう、って思い始めた。
それに「徳川埋蔵金伝説」についても、今まで書いていることの繰り返しだと気がついた。
同じこと書いても仕方ないし、
童謡「かごめかごめ」と埋蔵金伝説は関係ない、というのを、また振り出しに戻って書くのも億劫になってきた。
また「いいじゃん、都市伝説なんだから」って言われそうだし、そんなタレント本みたいなものに真剣にならなくてもいいじゃん、ともいわれそう。(実際にそういうコメントも来る)
でもね~、この本、80万部を超えるベストセラーだっていうじゃないですか。
いいですね、ネタを集めて大儲けですか~。(結局は、羨ましいということか)
ただネット検索すると、この本を読んで「徳川埋蔵金」がそこにあると信じている人が、かなりいることも分りました。中には「日光東照宮の家康廟を掘って埋蔵金を掘り当てちゃおう。」といった、おっちょこちょいな記事を書く人もいたが、これは可笑しかった。
まあ結局は「信じるか、信じないかはあなた次第」(関の決めセリフ) ということなのか。
というわけで、このネタは「放棄」ということで……
で、最後はグダグダ。
徳川埋蔵金伝説を検証する。「週刊 歴史のミステリー」第6号から、
デイアゴスティーニ「歴史のミステリー」第6号の「語り継がれる伝説」から「徳川埋蔵金伝説」が取り上げられていたので、ここでは少しだけ検証していきます。
ページ数にして、3ページ。項目は4つとなっています。
1、「徳川埋蔵金伝説」のあらましから説明しています。
『1858年、日米修好通商条約を締結させた井伊直弼は、日本の金銀が海外に流出することを恐れ、これを一時的に疎開させることにした。この命を受けたのが小栗忠順である。1864年ころから江戸城開城の1868年までの間に、小栗は幕府御用金を持ち出すことに成功した。このころ現群馬県渋川市あたりの利根川から、大きな荷物を運び出す武士の姿が見られようになったという。これが徳川埋蔵金伝説となる』ということは、小栗忠順首謀説を取っていることになります。
2、「江戸城金蔵から消えた御用金」
幕府に金があったのか、なかったのかを検証しています。
伝説では、総額360万両(現在の金額で100億円)が埋蔵金として隠されているといわれている。しかし当時、幕府にそんな大金が残っていたとはおもえない。では、通説のとおりに江戸城開城時に御金蔵には1両も残っていなかったとなると、これもまた疑わしい。
この本では、「大坂城の御用金」「金座・銀座の貨幣および金銀地金」「慶喜が水戸に運んだ2万両」「町奉行などの塵金」などを挙げて、江戸城に全くお金が残っていなかったということはないだろう、としている。となると、それらの金はどこに消えたのか、という疑問が残ることになる。
3、「本命の赤城山麓は穴だらけ」
赤城山埋蔵説の解説。幕末から昭和までの伝説の経緯を載せている。
またこの本では、某番組の地元出身コピーラーターが云々と書かれていますが、これは当然、TBSテレビの番組「ギミア・ぶれいく」赤城山埋蔵金伝説シリーズのことであり、糸井重里ということなる。
「ほとんど土木作業となっている」と糸井本人が言っているほどで、その様子は本人のホームページに出ています。

で、本がこれ、糸井重里著『あるとしかいえない』 (集英社)。
この本の中では「徳川埋蔵金」をテレビでやる切っ掛けとなったのが、「酒飲み話から始まった」という驚がく的事実が書かれています。
以下引用。
『……1990年6月に放送されたもので、最初は超能力者が徳川埋蔵金を探すという内容だった。当時のチーフPだったS氏は、アメリカの有名な超能力者を起用して特別番組を手掛けていたが、スプーン曲げ以外のやり方で超能力を表現できる番組はないかと考えてたのだ。「超能力を使って埋蔵金を探すという話は、PだったK氏と一緒に飲みに行ったときにたまたま思い付いたことなんですよ。まあ飲み屋での馬鹿話っていうか、そういうのって面白いじゃなかというたわいもない話でね。でもK氏がそりゃいけるかもしれないってTBSのS氏に提案したんです」と番組制作会社のDが言ったというのである。この埋蔵金の企画が、六本木のミニクラブで酔っ払いの思いつきで始まったのは、いまでも有名な逸話である。しかも赤城山を選んだのも埋蔵金を掘っている話を聞いていてこれも思いつきに近いという』
まあ、こんな感じで始まったテレビの徳川埋蔵金シリーズなので、「ないとしかいえない」。
4、「最終埋蔵地は赤城より北方か?」
ということで、まず「赤城山埋蔵説」を否定したあとに、埋蔵金研究の第一人者・畠山清行の説を載せています。
「赤城山より北の旧三国街道(国道17号)や旧沼田街道(国道120号)沿いあたりの永井宿跡で、発掘調査をした結果、90mの横穴を見つけた。このことから、そこに埋蔵金が隠されているのではないかと推測している。
また、他に日本トレジャーハンティング・クラブや埋蔵金研究家が注目しているのは、猿ヶ京周辺、旧子持村上白井の山林、片品村北部の金井沢金山跡などである。これらがすべて、群馬県北部となっているのが特徴。
で、今号のネタ本は「謎解き 徳川埋蔵金伝説」八重野充弘著(二見書房)であり、すべてがこの本にあるものです。
この本、「徳川埋蔵金」のことが詳しく載っていて、「赤城山埋蔵伝説」の経緯などは、私も参考にさせていただきました。画像の本もよく見るとボロボロです。
で、私の説となるわけですが、もう何回も書いているので、ここでは割愛。
書いたのは、「デマ、噂の真相シリーズ」。ここでは、「徳川埋蔵金」と「木村拓哉の太田市に引っ越してくる騒動」とを無理やり結びつけて、「群馬英語アカデミー」や「英語教育」を批判した記事を書いています。これは徳川埋蔵金伝説のダイジェスト版。
それより詳しく書いたのが「東毛奇談 第6章・徳川埋蔵金のこと」です。
なぜ埋蔵金伝説が広まったのか、徳川御用金はどこに行ったのかを超詳しく書いております。「徳川埋蔵金」についてのブログ等では一番多い文量だと自負しております。
興味のある方はどうぞ。
でも、これ、一言でいえば、「徳川埋蔵金伝説の大元が「勝海舟」であった」という説。
この説を出しているところは他には見かけないので、かなり異説であることは間違いないでしょうが……。(ただしトンデモ説ではない)
というわけで、次回は、「ハローバイバイ関の都市伝説」の中にあった徳川埋蔵金伝説を検証します。
「歴史のミステリー」第6号

目次
歴史検証ファイル 日本を襲った元寇の真実
ナポレオン病死の真相
遺跡に眠る謎 イースター島・モアイ像
疑惑の真相 坂本龍馬暗殺の黒幕は薩摩藩だった!?
芸術の裏側 「叫び」エドヴァルド・ムンク
語り継がれる伝説 徳川埋蔵金伝説
人物再発見 ヘンリー・フォード
『日本を襲った元寇の真実』
概要「日本が被った最初にして最大の国難といわれる「元寇」。その勝因は「神風」によるものだったのか」を検証。
元寇……高麗を完全に征服した元は日本をも服属させようと企図し、元の世祖(フビライ=ハン)は数次にわたって使を日本に派遣し入貢を求めたが、時の執権・北条時宗に拒否されたため、征東行省を設け、1274年(文永の役)と81年(弘安の役)の2回九州に来寇した。前者は高麗兵、後者は南宋征服ののち、中国の降兵を利用したが、九州・四国の武士の激しい防戦と台風にあい大敗した。3回目は、フビライの死によって中断された。特に第2回目は、農具等を多く積んでいたことなどから、日本への移住を考えた作戦であったとも推察されている。
<世界史辞典より>
この本では「日本来襲の目的は何だったのか?」「北条時宗は元寇を想定していたのか?」「文永の役で元軍が敗れた理由は?」「弘安の役で日本軍はいかに戦ったのか?」「日本軍の勝利は神風によるものだったのか?」を検証している。
結論としては、元軍の大敗は、台風などの気象現象よりも、元軍側の諸問題にあったということです。
「神風」については、国威発揚を狙ったもので、大正時代から盛んに言われるようになったということである。
歴史ミステリーというほどのものは載ってませんでした。元寇を手堅くまとめた内容。
『ナポレオン・病死の真相』
「ナポレオンは胃ガンを患わっていたのか?」「体調が突然悪化したのはなぜか?」「検出された砒素が物語る真実とは?」「ナポレオンの死を望む人物はいたのか?」これらからナポレオン暗殺説を検証しています。
ナポレオンは胃潰瘍で死亡したという説が通説となっていますが、毒殺されたのではないかという説が根強くある。
中でも「ヒ素による毒殺説」が主流です。この本ではステン・フォーシュフットの説を載せている。
また、桐生操著の「ナポレオンは殺された」、ルネ・モーリ著「ナポレオン暗殺」、「ナポレオンの謎は解けた」、倉田保雄著「ナポレオン・ミステリー」などから、ナポレオンに毒を盛って殺したのは、モントロンという上流貴族である、と結論付けている。
またナポレオンの遺体はすり替えられているという説もあり、ここではレティフ・ド・ラ・ブルトンヌ著「イギリス人よ、ナポレオンを返せ」の説を紹介している。
また今号には載っていないが、去年のニュースに、この件に関連する記事が出ていた。
『ナポレオンのデスマスクは偽物?実は執事長では 時事通信2007年8月19日
「18日付けの仏紙リベラリオンは、パリ市内の軍事博物館に展示されているフランス皇帝ナポレオン1世のものとされてきたデスマスク(死亡時の顔の像)が実は偽物で、ナポレオンで執事長のものだった可能性があると報じた。
歴史家ブリューノ・ロワアンリ氏もAFP通信に対し、1947年~73年にロンドンの博物館にあったデスマスクが本物で、それはその後行方不明になり、2004年にニューヨークで競売に付され、人手に渡ったと話している。
同士によれば、1815年のワーテルローの戦い後、英国人画家が描いたナポレオンの肖像画には、左のほおに傷跡があるが、軍事博物館のデスマスクには傷跡がない。ロンドンの博物館には傷跡があったという。』
また、今埋葬されている遺体は、ナポレオン自身ではないという説が研究者の間で囁かれているという。その中でも突飛な説は、「ナポレオンはセントヘレナ島で死んだのではく、似た人物を代わりに見立て、生き残っていた説」もあるというのだ。
この他にもまだまだ、「ナポレオンの死」に関しては多くのミステリーがあるようです。
『坂本龍馬暗殺の黒幕は薩摩藩だった!?』
「歴史のミステリー」の中では、タイトル通り「龍馬を殺したのは薩摩藩であった」という説を解説しています。
「武力で討幕を進めたい薩摩・長州藩にとって、龍馬が掲げる大政奉還が実現すれば、両藩の大義名分が立たない。龍馬の存在が邪魔になった薩摩藩が見廻組を動かして、暗殺させた」という説だ。
では、人物往来社編の「龍馬暗殺の謎を解く」から事件のあらましを
『坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺したのは、新撰組といわれ、その当時、誰も疑うことはなかった。近藤勇が流山で囚われたとき、土佐の谷干城は、龍馬殺しを自供させようとして、拷問に掛けようとしたほどである。それが見廻組らしいとわかったのは、箱館戦争後、維新政府の軍事裁判にかけられた新撰組残党に龍馬暗殺の鞠問(きくもん)があり、その供述からである。同じく囚われていた元見廻組肝煎、衝鉾隊(しょうほうたい)の副隊長であった今井信郎が、龍馬、慎太郎殺害の嫌疑により、兵部省事務局糾問所で取り調べられ、その供述によって、はじめて見廻組の犯行と分かった』
龍馬を斬った実行犯は見廻組であったというのが大方の意見ですが、では「誰が」となると確定されていない。見廻組だとすれば今井信郎、佐々木只三郎、桂早之助などのいずれかの者となる。また、他の説となると、新撰組の原田左之助、富山弥兵衛、薩摩藩の中村半次郎、紀州藩の三浦休太郎、などが挙げられる。またその他に、雇われた刺客ではないか、という説を取れば、誰が龍馬を斬ったのかますます分からないでしょう。
ではそれを指示した「黒幕」となると、これも諸説あって、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、土佐藩の後藤象二郎、公家の岩倉具視、紀州藩、または薩摩藩と見廻組を結び付けた元新撰組参謀・伊藤甲子太郎などが挙げられている。
だが、近年ではこの本のように、「薩摩藩・西郷隆盛黒幕説」が有力となっているようだ。
いくつか、サイトを探してみたが、「坂本龍馬暗殺ミステリー検証」http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/8361/honmei/riyhoumaansashu.html がまとまっていた。
また、中岡慎太郎の暗殺が主で、坂本龍馬が巻き添えを食ったという説もあったが、これも検討の余地がありそうだ。
さてユーチューブで「龍馬暗殺の場面」の映画、ドラマが多数あった。その中でアニメの「お~い竜馬・最終回」が、雰囲気が出ているので、載せておきます。
そして、問題の『徳川埋蔵金伝説』です。
この「歴史のミステリー」では、赤城山埋蔵説を否定し、更に北の三国街道沿いの永井宿あたりにあるのではないか、という説を載せていました。
おっ、そう、来たか!
ふ~ん。まだ「ある」と信じているんですね。ただ「赤城山」から場所を変えただけの説ですけどね。
さてさて、この「徳川埋蔵金伝説」は、別項でじっくりと検証します。
「歴史の話なんて全部ウソ、司馬遼太郎の話もや」島田紳助の暴言に激怒
これは酷い。
テレビを見て激怒しました。
島田紳助が言ったことはあまりにも許せない。
番宣にはこうある。
『2月25日にスタートした、日本テレビ系「人生が変わる1分間の深イイ話」(月曜後9・0)は、聞けばものの見方、考え方が変わるかもしれない「中身が深い話」「いい話」、略して「深イイ話」を1分間にまとめ、VTRで紹介するバラエティー。取り上げる話は、雑学、名言、感動エピソードなど。紹介後、スペシャルコメンテーターの島田紳助や10人のゲスト審査員、司会進行の羽鳥慎一アナが「深イイ話」かどうかを判定し、各自が独自の解釈を加えたりしてトークを繰り広げる。』
私が怒ったのは、この番組の中で「石田三成・処刑寸前のエピソード」を取り上げたときのこと。このとき島田紳助が「これは嘘くさい話だ」といって、これをネタにして笑い話にしていた。「石田三成が干し柿を食べるか」とか「介錯する侍が干し柿なんか持っているか」とかいって、散々話を膨らまして、最後は面白話にすり替えてしまいました。
そして「司馬遼太郎の話や歴史の話は全部ウソだから信用できん」と言い放った。
これは許せん。
まず、この逸話どこかおかしいと思って調べてみたら、
『三成は処刑される寸前、喉が渇き護衛兵に水を求めた。しかし水はなく、代わりに柿で我慢しろと護衛兵は答えた。
三成は柿だと腹を壊すと言い、柿を拒む。御衛兵は、これから死ぬ人間が腹を壊す壊さないなど関係ないと言って嘲笑った。
すると三成はこう言い放った。死ぬ直前まで家康の命を狙ってるのに、もし腹を壊せば、殺せるものも殺せなくなると』
番組では「三成が水を求めるところ」が省略されて紹介されていた。だから唐突に干し柿が出てくるとおかしな話になってしまうわけです。
それに、島田紳助は「干し柿」が戦国時代の武士の保存食だと知らずに話を進めているから、もっとおかしなことになっている。隣にいた進行役の局アナ(おまえはお飾りか) からも、そのあたりの説明がないので、どうしてそれが「いい話」なのかが全く伝わってこない。
で、ここで「干し柿」の説明
『16世紀には、城の回りに柿の木を植えて、干し柿を作り、兵糧攻めにあったときなどの武士の保存食として用いていました。ところで、世の中が戦乱に明け暮れた戦国時代。 武士たちの携帯食には「干し柿」がよく使われていました。甘味があって力の源になる上、長い間保つからです。 しかも、戦(いくさ)が長い年月にわたる場合は、武士たちは柿の穂木を持って戦地におもむき、戦の合間に接ぎ木して育て、干し柿によい品種を増やしたといいます。』
(柿にまつわるおもしろ雑学より)
http://archive.mag2.com/0000061969/20040110050000000.html?start=40
つまり「戦時」であり、武士たちは懐に干し柿を持っていた、ということになる。このくらいの説明がないと、なぜ「干し柿」なのかが分からないでしょう。
それに、「なぜ三成が死ぬ間際になってそんなことを言ったのか」という解説もない。
それがないと、ただのアホな話になってしまう。だから、歴史的知識のないタレントたちには、どこがいい話なの、って首を傾げられることになってしまうのだ。
私的に解釈すれば、生き残った豊臣方の武士たちに、不屈の意志を示したということなる。「俺は死ぬが、家康打倒の精神を受け継いでくれ」というメッセージが込められているはずなのです。
テレビ番組の作家ならもっと上手い表現が書けるはすです。こういった解説がないから説明不足になっているのです。
また司会者ならそのくらいのコメントがあるべきですが、島田紳助本人に「歴史ものの逸話はすべて嘘だ」という意識がある以上、それを求める私の方が間違っているのかもしれませんが…。
でも、島田紳助の歴史の逸話に対する認識は間違っていると思います。
逸話として後世に伝わっているものは、残るだけの意味がそこに秘められているからなのです。歴史の逸話というのは、その人物が何を言った、何をしたという表層的なことだけではなく、なぜそんな言動をしたのかという深い真意を読み取ることが重要なはずなのです。
この番組で行っているように、すべてを面白話に転換することではないはずです。「干し柿を持っているのがおかしい」とか「みんなが見ている前で干し柿は食わない」とか低レベルまでに次元を落としてしまうのは、この逸話の真意を見抜いていないからです。特に、歴史の逸話を取り上げるときは、そのくらいの読みがなければ「深イイ話」なんて出来るはずはない。
本来、それをするのが司会者の仕事であるはずでしょうが、島田紳助にそういったことができるはずもない。だったら、番組内容を変更してヘキサゴンみたいにおバカの相手でもして、アイドルの品定めでもさせおいた方がいい。
また、この後に、ロバート・ケネディの逸話が紹介されていたが、これもゲストのコメディアンらの頓珍漢なコメントばかりで、いい話もぶち壊しとなっていた。
それに、他のエピソードでは「富士山を登山する人の気持ちが分からない」「山登りのどこが面白いんだ」って言い始めた。これはまずいと感じたゲストタレントが、フォローを入れたが、「フン」って鼻で笑い、アホかって感じで「分からへんな」って続けた。
まあ、金儲けの話にしか興味のない島田紳助にとっては、「登山者」の崇高な気持ちなんて分からないでしょうよ。
すべてが、こんな感じで、いい話も自分のフィールドに持っていって、自分にとって都合のいい面白話にしてしまうのだ。
これじぁーいい話でも深い話でもない。「いい話」も島田紳助のトークのネタでしかないんですよ。まあいってみれば「深い話」ではなく、「不快話」になっている。(念のため、「ふかい」を掛けています)
以前にも書いたけど、歴史上の人物をこういったバラエティで取り上げると、必ずこういったお茶らかしに使われるのが、どうも許せない。関連記事
やるんだったら、「歴史物」を抜いて下さい。
それに、司馬遼太郎をウソつき呼ばわりする奴に、歴史を語って欲しくないですね。
まあ、あまりにも耐えきれず、すぐにチャンネル替えましたけど。
あと、アンパンマンの歌の歌詞が深いといったこともやったらしく、早速、「アンパンマン考」にアクセスが来ています。どうぞアンパンマンがどれだけ深い話かを読んでください。
ちゃんと歌詞も載せてありますので。
大体1分で、深い話なんてできませんよ。