「ひなまつり」と「金子みすゞ」と「アフガニスタンの女性たち」
3月3日はひなまつり。
ひな壇飾りにひなあられ。
桜餅見て、思い出す、
金子みすずの最後の晩。
金子 みすゞは、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳にみすヾは勧められるままに宮本啓喜と結婚し、やがて女児をもうけたものの、夫婦の仲や生活は荒んでいた。夫は家庭を顧みず、遊郭通いにあけくれ、彼女は夫の放蕩によってもたらされた病気(淋病)の苦しみと戦っていた。ついには、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、投稿仲間との文通さえも禁じた。さらに病気、離婚と苦しみが続き、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。
(金子みすゞ記念館http://www.city.nagato.yamaguchi.jp/misuzu/index.html から)
金子みすゞが自殺する夜が、余りにも切ない。
その夜、みすヾはいつもより時間をかけて、3歳の娘のふさえを風呂に入れた。そして、ふさえの体を抱きかかえるようにして洗いながら、たくさんの童謡を歌った。「テルさんは今夜はずいぶんと気持がいいのね。あんなにたくさん歌っている」と、居間にいた母のミチは松蔵(父)に声をかけたという。
そして、風呂から上がると、四人で桜餅を食べたという。
「今夜の月は、きれいだから、うれしいね」とみすヾは一度だけ口にした。
みすヾの最後の言葉は、娘の寝顔を見つめて言った、「可愛い顔をして寝とるね」だった。そのあと、みすゞは自室にこもり服毒自殺した。夫が子どもを引き取りに来る前日のことだった。
みすゞは、遺書を3通残す。
その中に別れた夫へ宛てた遺書があった。
「あなたがふうちゃんを連れて行きたければ、連れて行ってもいいでしょう。ただ、私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから、母が私を育ててくれたように、ふうちゃんを母に育ててほしいのです。どうしてもというのなら、それはしかたないけれど、あなたがふうちゃんに与えられるのは、お金であって、心の糧ではありません。」
最後の一文が心に沁みます。
また、母に宛てられた遺書には「今夜の月のように私の心も静かです」と書き記し、薬を飲み、幼い子を残して死を選ぶことになった。夫から移された病気が悪化していたことも、一因になっていたことでしょう。
自分の命を掛けて守ろうとした娘が、その後どうなったのかが気になって、ネット検索してみた。
その中で2007年1月の記事にいいものがあった。
『NHKの『ラジオ深夜便』2月号が、「母、金子みすずを想う」という対談を載せている。金子みすずは3歳の一人娘を残して自殺した。その子は祖母に託すように遺言した。「(父は)あなたに与えられるのはお金だけで、心の糧は与えられません」と。祖母は「自殺した娘の子を育てるので」「いじけないように、のびのびと育ててくれた」と語っている。しかし、中学生のときに「遺書」を読んで、自分だけを残して死んだ母を許せないと思った、それが自分も子どもを持ち、孫を持つようになってから、「母は私の命を大事にしてくれたのだ」と思えるようになったと。』http://ameblo.jp/iwanabe/archive1-200701.html(岩辺対泰吏の午後の歩き方より)
こういうことになっていたので、安心した。この子が悲しい人生を進んだとしたら、みすゞのした行為は報われないことになる。娘さんは今もご健在のようであり、また、子、孫と続きいていく様が、みすゞの血脈が受け継がれていく感じがして、とても救われたような気がする。
みすゞの詩の中に母子を詠んだものがある。
こころ
『おかあさまは
おとなで大きいけれど、
おかあさまの
おこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。
わたしは子どもで
ちいさいけれど、
ちいさいわたしの
こころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。』
さて、追い詰められた金子みすゞには、「自殺」しか選ぶ道がなかったのか。
そういった批難もあるという。
ただ、私は、「時代がそういう行為へ向かわせたのだ」と思う。
かつての日本では、男尊女卑が常識としてまかり通っていた時代である。親権は男親に優先されていて、みすゞの夫のように、「娘を渡さない」と言われれば、それに従うことしかできなかった。法的にも、世間的にも、それが常識だと認識されている時代だった。参政権が女性に与えられるのは第二次世界大戦後のことで、みすゞが生きた大正時代では、まだまだ女性の地位は極めて低かったのである。
そこで、みすゞが残した代表作に『私と小鳥と鈴と』が深い意味を持つ。
『私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)は速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。』
「みんなちがって、みんないい」という最後の一文が有名だが、こういった考え方など許されないかった時代だろう。
女は女らしくあることが求められ、夫婦となれば、妻は夫に隷属することが普通であった。他と違ったことをすれば奇異に見られた時代だ。夫に詩作を禁じられれば止めなければならないし、娘を渡さないと言われれば、それに従わなければならないのだ。
女性に「個性」はあまり必要とされなかった。
だからこそみすゞは、こういったことに疑問を感じ、その思いを詩に残したのではないだろうか。
さて、あるときテレビで、NHKのBS・世界のドキュメンタリー「アフガニスタン 忘れられた“女性たちとの約束」という番組を見た。(2月25日朝10時からの再放送)
その中で、妻が詩人で有名になったことを妬み、夫が妻を殺害した事件を紹介していた。この妻は20代だった。しかし夫は、一旦は逮捕されたものの、数ヶ月ほどで釈放されたという。釈放後は普通に生活し、インタビューにも答えていた。余り罪の意識はないようだった。この夫は、妻を殺す前に、詩を作ることを禁じ、手紙を書くことさえ許さなかったというのだ。まるで、金子みすゞの夫がしたような仕打ちだった。殺された妻の母親が、生前の写真を前にして泣きじゃくっていた。それがアフガンの女性の悲しみを訴えているようだった。
アフガニスタンは、依然として男性の優位の社会で、女性の権利が低く、離婚する権利は夫の側にしかないという。
NHKホームページでは番組内容を解説では
「アフガニスタンでは、戦争で夫を失った女性の数は150~200万人に上るが、職もなく、住む場所もなく、タリバン時代の遺物である青いブルカに身を包み、物乞いをするほか生活の道はない。灯油をかぶり、女性が焼身自殺をはかった事件の件数は、この2年で倍増したという。
病院を訪ね、身の上話を聞くと、家庭内暴力や性的虐待、人身売買にも等しい強制結婚から逃れる唯一の道が、自殺しかないという現実を目の当たりにする。家族の許しがないと女性が病院にさえ行けないアフガンでは、30分に1人の女性が、出産時に命を落としている。……
(http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/080218.html から)
アフガニスタンは決して遠い国の話ではない。現在でも起こっていることなのだ。
ここまで酷くはないが、日本でも、女性の地位が低かった時代はあって、それも遠い過去の話ではない。
ここで、みすゞの詩を一つ。
不思議
『私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかつてゐることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉食べてゐる、
蠶が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいぢらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑つてて、
あたりまへだ、といふことが。』
「あたりまえだ」「常識だ」と人々が思っていることは、その時代や場所によって違う。
「女は男につき従うこと」と思うことが普通だという時代があった。みすゞはその時代に生きていた。感性の鋭い彼女には、世の中で「当たり前」だといわれることに対して、大いに疑問を感じていたのだろう。
「不思議」という詩には、そういった意味が込められているように思える。
もし、みすゞ本人が、現代に生まれ、客観的に自分を見たなら、「自由に詩作することができない時代に生まれた彼女」を生まれてくる時代を間違えた、と思うだろうか。
もしアフガンの女性が、違う場所に生まれ、客観的に自分を見つめたなら、「生きていくことさえ儘ならないところ生まれた彼女」を生まれてくる場所を間違えたと、思うだろうか。
だが残酷なことに、人は生まれてくる時代も場所も選べない。
まして、どんな運命があるのか「本人」に知ることはできない。
置かれている状況が「あたりまえ」だと思ってしまえば、それっきりで、そんなこと「不思議」にさえ思わない。
生まれた場所や時代が違えば、自分だって、妻の才能に嫉妬して殺してしまう夫や、みすゞの夫のように酷い仕打ちをしても、余り罪を感じない人となってしまうのだろう。
生まれた時代や場所によって、人生は左右されることになるのか。それとも、そういった人生を歩む運命はすでに決まっていることなのか。
ただ、人はいまある現実でしか生きられない。
とすれば、この土地に、今の時代に生まれた娘は、幸せなのだろうか。
ひなまつりの今日、
娘と桜餅を食べながら、そんなことを考えた。
答えなど出るはずがないのに……。
ただ、桜餅は甘くて、塩漬けされた桜の葉が塩っぱいということだけは分かった。
金子みすゞが死を決意し、最後に食べたという桜餅。
それを考えると、「ひとの人生」を感じて少し複雑な味がした。
ひな壇飾りにひなあられ。
桜餅見て、思い出す、
金子みすずの最後の晩。
金子 みすゞは、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人。
『赤い鳥』、『金の船』、『童話』などの童話童謡雑誌が次々と創刊され、隆盛を極めていた大正時代末期。そのなかで彗星のごとく現れ、ひときわ光を放っていたのが童謡詩人・金子みすゞです。
金子みすゞ(本名テル)は、明治36年大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)に生まれました。成績は優秀、おとなしく、読書が好きでだれにでも優しい人であったといいます。
そんな彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃からでした。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾ったみすゞは、『童話』の選者であった西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるなど、めざましい活躍をみせていきました。
ところが、その生涯は決して明るいものではありませんでした。23歳にみすヾは勧められるままに宮本啓喜と結婚し、やがて女児をもうけたものの、夫婦の仲や生活は荒んでいた。夫は家庭を顧みず、遊郭通いにあけくれ、彼女は夫の放蕩によってもたらされた病気(淋病)の苦しみと戦っていた。ついには、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、投稿仲間との文通さえも禁じた。さらに病気、離婚と苦しみが続き、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去ってしまいます。
(金子みすゞ記念館http://www.city.nagato.yamaguchi.jp/misuzu/index.html から)
金子みすゞが自殺する夜が、余りにも切ない。
その夜、みすヾはいつもより時間をかけて、3歳の娘のふさえを風呂に入れた。そして、ふさえの体を抱きかかえるようにして洗いながら、たくさんの童謡を歌った。「テルさんは今夜はずいぶんと気持がいいのね。あんなにたくさん歌っている」と、居間にいた母のミチは松蔵(父)に声をかけたという。
そして、風呂から上がると、四人で桜餅を食べたという。
「今夜の月は、きれいだから、うれしいね」とみすヾは一度だけ口にした。
みすヾの最後の言葉は、娘の寝顔を見つめて言った、「可愛い顔をして寝とるね」だった。そのあと、みすゞは自室にこもり服毒自殺した。夫が子どもを引き取りに来る前日のことだった。
みすゞは、遺書を3通残す。
その中に別れた夫へ宛てた遺書があった。
「あなたがふうちゃんを連れて行きたければ、連れて行ってもいいでしょう。ただ、私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから、母が私を育ててくれたように、ふうちゃんを母に育ててほしいのです。どうしてもというのなら、それはしかたないけれど、あなたがふうちゃんに与えられるのは、お金であって、心の糧ではありません。」
最後の一文が心に沁みます。
また、母に宛てられた遺書には「今夜の月のように私の心も静かです」と書き記し、薬を飲み、幼い子を残して死を選ぶことになった。夫から移された病気が悪化していたことも、一因になっていたことでしょう。
自分の命を掛けて守ろうとした娘が、その後どうなったのかが気になって、ネット検索してみた。
その中で2007年1月の記事にいいものがあった。
『NHKの『ラジオ深夜便』2月号が、「母、金子みすずを想う」という対談を載せている。金子みすずは3歳の一人娘を残して自殺した。その子は祖母に託すように遺言した。「(父は)あなたに与えられるのはお金だけで、心の糧は与えられません」と。祖母は「自殺した娘の子を育てるので」「いじけないように、のびのびと育ててくれた」と語っている。しかし、中学生のときに「遺書」を読んで、自分だけを残して死んだ母を許せないと思った、それが自分も子どもを持ち、孫を持つようになってから、「母は私の命を大事にしてくれたのだ」と思えるようになったと。』http://ameblo.jp/iwanabe/archive1-200701.html(岩辺対泰吏の午後の歩き方より)
こういうことになっていたので、安心した。この子が悲しい人生を進んだとしたら、みすゞのした行為は報われないことになる。娘さんは今もご健在のようであり、また、子、孫と続きいていく様が、みすゞの血脈が受け継がれていく感じがして、とても救われたような気がする。
みすゞの詩の中に母子を詠んだものがある。
こころ
『おかあさまは
おとなで大きいけれど、
おかあさまの
おこころはちいさい。
だって、おかあさまはいいました、
ちいさいわたしでいっぱいだって。
わたしは子どもで
ちいさいけれど、
ちいさいわたしの
こころは大きい。
だって、大きいおかあさまで、
まだいっぱいにならないで、
いろんなことをおもうから。』
さて、追い詰められた金子みすゞには、「自殺」しか選ぶ道がなかったのか。
そういった批難もあるという。
ただ、私は、「時代がそういう行為へ向かわせたのだ」と思う。
かつての日本では、男尊女卑が常識としてまかり通っていた時代である。親権は男親に優先されていて、みすゞの夫のように、「娘を渡さない」と言われれば、それに従うことしかできなかった。法的にも、世間的にも、それが常識だと認識されている時代だった。参政権が女性に与えられるのは第二次世界大戦後のことで、みすゞが生きた大正時代では、まだまだ女性の地位は極めて低かったのである。
そこで、みすゞが残した代表作に『私と小鳥と鈴と』が深い意味を持つ。
『私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)は速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。』
「みんなちがって、みんないい」という最後の一文が有名だが、こういった考え方など許されないかった時代だろう。
女は女らしくあることが求められ、夫婦となれば、妻は夫に隷属することが普通であった。他と違ったことをすれば奇異に見られた時代だ。夫に詩作を禁じられれば止めなければならないし、娘を渡さないと言われれば、それに従わなければならないのだ。
女性に「個性」はあまり必要とされなかった。
だからこそみすゞは、こういったことに疑問を感じ、その思いを詩に残したのではないだろうか。
さて、あるときテレビで、NHKのBS・世界のドキュメンタリー「アフガニスタン 忘れられた“女性たちとの約束」という番組を見た。(2月25日朝10時からの再放送)
その中で、妻が詩人で有名になったことを妬み、夫が妻を殺害した事件を紹介していた。この妻は20代だった。しかし夫は、一旦は逮捕されたものの、数ヶ月ほどで釈放されたという。釈放後は普通に生活し、インタビューにも答えていた。余り罪の意識はないようだった。この夫は、妻を殺す前に、詩を作ることを禁じ、手紙を書くことさえ許さなかったというのだ。まるで、金子みすゞの夫がしたような仕打ちだった。殺された妻の母親が、生前の写真を前にして泣きじゃくっていた。それがアフガンの女性の悲しみを訴えているようだった。
アフガニスタンは、依然として男性の優位の社会で、女性の権利が低く、離婚する権利は夫の側にしかないという。
NHKホームページでは番組内容を解説では
「アフガニスタンでは、戦争で夫を失った女性の数は150~200万人に上るが、職もなく、住む場所もなく、タリバン時代の遺物である青いブルカに身を包み、物乞いをするほか生活の道はない。灯油をかぶり、女性が焼身自殺をはかった事件の件数は、この2年で倍増したという。
病院を訪ね、身の上話を聞くと、家庭内暴力や性的虐待、人身売買にも等しい強制結婚から逃れる唯一の道が、自殺しかないという現実を目の当たりにする。家族の許しがないと女性が病院にさえ行けないアフガンでは、30分に1人の女性が、出産時に命を落としている。……
(http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/080218.html から)
アフガニスタンは決して遠い国の話ではない。現在でも起こっていることなのだ。
ここまで酷くはないが、日本でも、女性の地位が低かった時代はあって、それも遠い過去の話ではない。
ここで、みすゞの詩を一つ。
不思議
『私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかつてゐることが。
私は不思議でたまらない、
青い桑の葉食べてゐる、
蠶が白くなることが。
私は不思議でたまらない、
たれもいぢらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。
私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑つてて、
あたりまへだ、といふことが。』
「あたりまえだ」「常識だ」と人々が思っていることは、その時代や場所によって違う。
「女は男につき従うこと」と思うことが普通だという時代があった。みすゞはその時代に生きていた。感性の鋭い彼女には、世の中で「当たり前」だといわれることに対して、大いに疑問を感じていたのだろう。
「不思議」という詩には、そういった意味が込められているように思える。
もし、みすゞ本人が、現代に生まれ、客観的に自分を見たなら、「自由に詩作することができない時代に生まれた彼女」を生まれてくる時代を間違えた、と思うだろうか。
もしアフガンの女性が、違う場所に生まれ、客観的に自分を見つめたなら、「生きていくことさえ儘ならないところ生まれた彼女」を生まれてくる場所を間違えたと、思うだろうか。
だが残酷なことに、人は生まれてくる時代も場所も選べない。
まして、どんな運命があるのか「本人」に知ることはできない。
置かれている状況が「あたりまえ」だと思ってしまえば、それっきりで、そんなこと「不思議」にさえ思わない。
生まれた場所や時代が違えば、自分だって、妻の才能に嫉妬して殺してしまう夫や、みすゞの夫のように酷い仕打ちをしても、余り罪を感じない人となってしまうのだろう。
生まれた時代や場所によって、人生は左右されることになるのか。それとも、そういった人生を歩む運命はすでに決まっていることなのか。
ただ、人はいまある現実でしか生きられない。
とすれば、この土地に、今の時代に生まれた娘は、幸せなのだろうか。
ひなまつりの今日、
娘と桜餅を食べながら、そんなことを考えた。
答えなど出るはずがないのに……。
ただ、桜餅は甘くて、塩漬けされた桜の葉が塩っぱいということだけは分かった。
金子みすゞが死を決意し、最後に食べたという桜餅。
それを考えると、「ひとの人生」を感じて少し複雑な味がした。