北の守護神の‘攻城記録’-花倉:土橋


北の守護神の‘攻城記録’-花倉:土橋



北の守護神の‘攻城記録’-花倉:空堀




築城:室町時代初   今川氏

形態:山城

説明:

14c後半に今川範氏が詰城として利用していたとされる。16c前半に今川氏輝が死亡すると今川義元(梅岳承芳)と今川良真(玄広恵探)による家督争いの花倉の乱の拠点となった。玄広恵探は花倉城に籠るが敗れ、瀬戸谷の普門寺で自刃した。

現在は藤枝市の指定史跡としてハイキングコースとなっていて、本曲輪と二の丸、その間の空堀、土塁が残っている。

感想:

過去の山城の中でも一二を争う車道の細さ、大手から本曲輪までの急斜面のきつさがあります。特筆すべきはこの登りにくさです。それも山城の一つの醍醐味と行ってしまえばそれまでですが。私事ですがこの日はバスケの試合(バスケットマンでもなんでもないんですが。)をやった後なのですごくきつかったです。その登るまでのきつさを考えると、遺構はいたって普通です。本曲輪と二の丸の間の空堀はきれいに見て取れました。景色も藤枝と焼津、駿河湾が見えましたが両側に山が迫っているので見渡せるというほどではないです。

行き方:藤枝バイパス薮田西ICから北上、葉梨小を左折、2本目の橋を渡る前を右折、しばらく行って池を左折。この道?!って急斜面の道を行って、茶畑とミカン畑の間をひたすら進む。後はハイキングコースの指示通り行ってガードレールのある三叉路を左に行って突き当れば、案内板と駐車スペースがあります。とりあえず小さい車がおすすめです。車高の低い車はNGです。私はミニバンでギリギリでした。

おすすめ度:★★☆☆☆

撮影:2012.2/19 (①本丸 ②土橋 ③空堀)


北の守護神の‘攻城記録’-朝日山:入口



北の守護神の‘攻城記録’-朝日山:神社



北の守護神の‘攻城記録’-朝日山:空堀


築城:室町時代初?  岡部氏

形態:山城

説明:

潮山の支峰である朝日山に築かれた詰城。一の曲輪から東に向けて階段状に曲輪が配置されている。

現在、二の曲輪には朝日稲荷神社があり、竪堀沿いに階段で上がることができる。曲輪と土塁、竪堀をみることができ、竪堀は深さが4mと大きなものとなっている。

感想:

私の行った時期は第二東名との連結道路の工事中で迂回路を行きましたが、逆に朝日稲荷神社の方向が案内されていたのでわかりやすかったです。階段で稲荷神社がある二の曲輪まで行けますがあえて遊歩道を通って竪堀の淵を歩くのもいいです。竪堀は幅、深さとも見事ですが、それ以外は特筆することもなく曲輪と土塁があるのみです。立地的に南曲輪から景色がよさそうでしたが木が邪魔で全然でした。ちなみに三の曲輪から南曲輪までの茶畑の道はすごく急です。

行き方:藤枝バイパス内谷ICから10分ほど。静清高校から静大農場を目指して北へ向かい、朝日稲荷神社の駐車場を利用。

おすすめ度:★★☆☆☆

撮影:2012.2/19 (①入口 ②神社 ③竪堀)



北の守護神の‘攻城記録’-蒲原:石碑



北の守護神の‘攻城記録’-蒲原:物見櫓


北の守護神の‘攻城記録’-蒲原:景色



築城:14c?  今川氏?




形態:山城




説明:

今川氏の東の備えとして東海道を見渡せるこの地に蒲原氏によって築かれたとされる。しかし特定の城主はおらず、城番が置かれたとされる。その後は今川・武田・北条による争奪戦が繰り広げられ、1582年の徳川家康の駿河侵攻の際に落城した。

現在、大手などは高速道路などにより消失しているが、本曲輪や善福寺曲輪はきれいに保存されていて、特に善福寺曲輪には物見櫓・逆茂木・木柵が復元されており、当時の様子を想像することができる。




感想:

史跡として駐車場もあり、電車でも新蒲原の駅からすぐ(傾斜はめっちゃきついですが。。。)なのでわりと行きやすいです。本曲輪から富士山・駿河湾・東海道が一度に見られ、天気がよければ伊豆半島も見える抜群の眺めです!夜景とかいいかもなぁなんて妄想したのですが、とても残念なことに本曲輪の木が台風か何かの影響で全部根こそぎ倒れていてひどい有様なのでロマンチックさのかけらもありません。山城としては曲輪の状態もよくて見やすく、物見櫓や逆茂木などの復元により曲輪の存在意義が分かりやすいところになっています。ただし、物見櫓兼便所の施設は階段がボロボロになっているのがこれまた残念なポイントです。というか水洗便所とか水道があるので水道を引いたのですかね?


行き方:JR新蒲原駅から西に行き、2つ目の信号を右折。そのまま道沿いに上がっていくと左手に駐車場がある。


おすすめ度:★★★☆☆


撮影:2011.12/29 (①石碑 ②物見櫓 ③景色(駿河湾と東海道))

北の守護神の‘攻城記録’-興国寺:石碑

北の守護神の‘攻城記録’-興国寺:土塁



北の守護神の‘攻城記録’-興国寺:空堀



築城:15c後半 今川氏




形態:平山城




説明:

愛鷹山の山裾が張り出した尾根を堀切で断ち切り、周りは浮島沼という湿地という要害に加え伊豆と甲斐を結ぶ交通の要衝であったこの土地に築かれた城。室町中期には築城されたとされ、『北条五代記』によると1487年に今川氏の客将であった伊勢盛時(のちの北条早雲)が今川氏の家督争いの活躍によって与えられて旗揚げしたとされる。盛時は韮山城に移り関東へと勢力を伸ばしたが、その後は北条・今川・武田が奪い合った。武田氏滅亡後は松平氏が支配したが家康が関東に移封すると豊臣家臣の中村一氏が入城、関ヶ原の戦い以降は天野康景が入封するが改易となったため1607年に廃城となった。

現在は国の史跡として指定され、本曲輪やその周りの土塁、天守台とその裏の大堀切などが保存されている。




感想:

車だと国道一号線から曲がって突き当り、電車でも原駅からまっすぐ北上するだけという非常にわかりやすい位置にあります。当時はおそらく本曲輪から東海道を見ていたのでしょうね。現在は観光しやすいように整備もなされているし、土塁や空堀の大きさはなかなかのものです。大手とは反対側の北側は昔湿地帯だったようなので防備はすごいなぁという感慨にふけりたいところですがすぐ近くを新幹線が頻繁に通るので落ち着いて静かに回ることができないのが残念です。



おすすめ度:★★★☆☆



撮影:2011.12/29 (①石碑 ②土塁 ③空堀)












行き方:JR原駅の1本東側の県道165号を北上、突き当り。

○日本100名城



北の守護神の‘攻城記録’-広島:天守

北の守護神の‘攻城記録’-広島:門

北の守護神の‘攻城記録’-広島:水路





築城:1589年  毛利輝元



形態:平城   天守:複合連結式望楼型55



説明:

毛利元就の孫の輝元が太田川の河口に百二十万石にふさわしい城として聚楽第を参考に築城。関ヶ原の戦いで減封された輝元に代わって、城主となった福島正則により改築が行われる。その改修が江戸幕府への無断改修とみなされて1619年に正則が改易されると浅野氏が入城、250年間居城として使う。その間、内堀・中堀・外堀のある約1km四方の広大な城であった。明治維新後の1894年には日清戦争のために大本営がおかれたため、現在でも縄張り内に大本営跡が残っている。1911年に外堀が埋められ、1931年に旧国宝に指定されるが1945年の原爆で建物は倒壊、瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になった。

現在は復元天守が建っていて、平櫓・多聞櫓・太鼓櫓や二の丸表御門などいくつかが木造で復元されている。



感想:

広島駅から歩くとけっこう距離がありますが、私みたいに路面電車が珍しい人は路面電車で行ってもいいかもしれません。外観復元天守なのですが、外壁が木造なのが何とも言えずいいですね。他にも二の丸表御門や多門櫓などが木造復元されていて、櫓の矢狭間からは外を覗くことができます。その二の丸表御門の南側の地下道の壁に内堀と中堀をつないでいた水路跡が保存・展示してあります。昔はこれが水位を調節していたのですね。周りに観光地が多いので城好きの連れではなくても一緒に観光できる城です


おすすめ度:★★★★☆


撮影:2010.1/9 (①天守 ②二の丸御門 ③地下水路跡)

○日本100名城



北の守護神の‘攻城記録’-天守


北の守護神の‘攻城記録’-石垣


北の守護神の‘攻城記録’-忍者

築城:


形態:平山城


説明:

1585年に筒井定次が大和郡山から伊賀上野に転封され筒井城を築城。もとは平清盛によって建立された平楽寺。そのあと滝川雄利が砦を築く。1608年に筒井家がお家騒動で改易となると藤堂高虎が伊勢・伊賀20万石で入封し、豊臣秀頼の包囲の一角としての防御のため大改修に着手して上野城が建てられた。1608年から藤堂高虎によって筒井城を大改修して建てられた。改修は豊臣討伐に備えて濠を深く、石垣を約30mとし、南には二ノ丸も構築した。新規に層塔型の五層天守を建設した。しかし竣工をひかえた1612年に嵐で天守は倒壊、その後、豊臣氏の滅亡と武家諸法度により再建されることはなかった。

現在は模擬天守が建っており、西側水濠にある打込はぎの高石垣(水面から30)は有名。周りの小学校も城に合わせた造りとなっている。


感想:

平山城にしてはなかなか高低差があります。鉄筋の模擬天守というのはイマイチですが、中に入ると柱のところに忍者がいるあたりはさすが伊賀!途中、天守があるところよりも一段高い曲輪があり、立ち寄ってみると筒井城天守跡という石碑がありました。おそらく一番の見どころは高石垣。上から見ると怖いです(笑)公園を出てぐるっと回って西にある学校側から高石垣を見るとこれがまた迫力があっていいです。車以外になかなか行きづらいはずですが、好きな人は行ってみてください。


おすすめ度:★★★☆☆


撮影:2011.1/5 (①天守 ②石垣 ③忍者)

北の守護神の‘攻城記録’-大垣:天守


北の守護神の‘攻城記録’-大垣:門

北の守護神の‘攻城記録’-大垣:虎口

築城:1535年  宮川氏

形態:平城  天守:複合式層塔型3層4階


説明:

牛屋川を外濠に取り入れた平城。土岐家臣の宮川安貞が城郭を築き、斎藤家臣の氏家卜全が改修。1585年に一柳直末によって天守閣がつくられる。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の本拠となったため壮絶な攻防戦が繰り広げられたという。江戸時代は戸田氏が入城。総構で広大な縄張りをしていて1936年に旧国宝に指定されるが戦時に焼失。

現在は石垣や曲輪が残っていて、天守と櫓、門が復元されている。



感想:

大垣駅から徒歩で行けます。あるいていると商店街からひょこっと出てくる感じで見えます。天守の外観などは画になりますし、石垣・曲輪などもありますが、これといって特異なものはない気がします。城と全然関係ないのですが、お城の石垣に洪水の跡が残っていて説明も書いてあります。


おすすめ度:★★★☆☆


撮影:2011.8/30 (①天守 ②復元門 ③虎口)

北の守護神の‘攻城記録’-大高:石碑


北の守護神の‘攻城記録’-大高:広場



北の守護神の‘攻城記録’-大高:石垣

築城:室町時代後半  花井氏


形態:平山城


説明:

1550年頃、ここを居城としていた水野氏が今川氏から織田氏に寝返ったことにより今川氏が攻め取り、鵜殿長照が入城した。1560年の桶狭間の戦いのときに松平元康がこの城に兵糧を運び入れることに成功したが今川義元が織田信長に討たれたことにより元康は岡崎城へのがれ、後に独立する。その後は拠点の重要性がなくなったため廃城となった

現在は本曲輪・二の曲輪が残っていて、本曲輪には稲荷神社が建っている。


感想:

大高駅から細い路地をクネクネと曲がりながら行くため、案内板なしではおそらく辿り着けません。史跡指定がされているため案内板があったのですが、指定されているほどの良さは感じず、むしろ8月だったせいか鬱蒼としていて薄気味悪い感じすらしました。曲輪自体はきれいに見て取れます。


おすすめ度:★☆☆☆☆


撮影:2011.8/31 (①石碑 ②二の曲輪 ③石垣)



北の守護神の‘攻城記録’-小牧山:天守

北の守護神の‘攻城記録’-小牧山:入口


築城:1563年 織田信長


形態:平山城


説明:

織田信長が美濃攻略のため丹羽長秀を奉行として、濃尾平野に孤立する小牧山山頂に築かせた山城。信長が岐阜城に移るまでの4年間だけ居城とし、その後使用されなくなった。小牧長久手の戦いの際には徳川家康が改修を行い本陣として使用しているがその後はまた使用されずに廃城となった。

現在は小牧山公園として整備され、山頂部には模擬天守が建設されて資料館となっている。


感想:

模擬天守で小牧駅からかなり歩く立地なのでイマイチだと思って行ったらビックリ、案外いい城です。まず駅からけっこうな距離を歩き、公園として整備された小牧山を近道の案内のもと一気に登るとかなりの運動になります。犬山と名古屋の間なので眺めも良いです。さらに、模擬天守の信長資料館も侮ることなかれ!子供にも分かりやすいような映像やジオラマなどの視覚的な説明が多く、もちろん大人にも配慮した造りになっています。展示は名古屋や岐阜よりよっぽどいいです。もともとそんなに期待していなかった分、いい印象を持った城でした。


おすすめ度:★★★★☆


撮影:2011.8/30 (①天守 ②史跡案内板)

○日本100名城

北の守護神の‘攻城記録’-岐阜:天守

北の守護神の‘攻城記録’-岐阜:石垣


北の守護神の‘攻城記録’-岐阜:石碑


築城:1201年 二階堂行政


形態:山城  天守:望楼型3層4階


説明:

鎌倉時代に二階堂氏が稲葉山に砦を築いたのが始まりで、15世紀の中頃になって斎藤氏が居城としたことにより稲葉山城となった。斎藤道三が息子の義龍によって敗死、義龍も急死すると龍興が城主になるが、竹中重治らに落城させられるなど抗争が続いた。そして1567年に木下藤吉郎が墨俣城などを利用して攻略、織田信長が入城すると岐阜城と命名し天下布武を唱えた。しかし織田秀信が関ヶ原の戦いで西軍に味方したため東軍の福島正則らに攻められ落城、徳川家康の命令により1600年に廃城となった。

現在は復興天守が建てられて、石垣の一部や土塁・井戸などが残っている。城が建っている金華山までは登らなくても山頂までロープウェイで行くことができる。また、山麓には信長の館跡が発掘調査されている。


感想:

信長がここから天下を目指したのがよくわかる眺めで、濃尾平野を見渡して東海道を東西に見ることができます。ロープウェイで登れば時間はかからないですが、その車内からでも途中の傾斜のきつさなどは見ればわかります。この城がなぜ都合7回も落城したのか不思議だし、逆に落とした竹中半兵衛などのすごさも実感することができるはずです。ただし、城自体は復興天守で展示物も特異なものはないので、地形や縄張りを楽しんでほしいと思います。もしくは金華山のハイキングを楽しむのもありですね。金華山までは岐阜駅からバスで行けます。

2007年に行ったときには気付かなかったのですが、ルートを変えると違った遺構がみられるので行きと帰りのルート(山頂駅~天守までの)を変えることをお勧めします☆


おすすめ度:★★★★☆


撮影:2011.8/30 (①天守 ②山麓石垣 ③信長居館跡石碑)