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そして人となる・・・・NO 11     13年10月

弱い者いじめの現実 3 終わり



不条理な現実に向き合うには、笑顔こそが力となる!

その豊かな心と笑顔こそが!未来への希望となるのだと思う。

旧騎西高校から、車で3分ほどのところに「ふれあいセンター」がある。ここは、地域の人たちが中心になって、双葉から避難してきた人々の交流場所が作られている。

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そこで昼食をとることにした。騎西高校では、弁当が続いていた時、安くて温かい家庭の食事がここで作られている。双葉の人たちにとっては、いろいろな相談ができ、情報を得ることができ、何よりも地元の人たちと触れ合う貴重な場所だ。


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10月5日、「騎西高校がやってきたin浦和・よりそいコンサート」があった。このコンサートは本当に心豊かに、あったかくなるものだった。その時に「ふれあいセンター」の代表である富沢トシ子さんに会っていたので、すぐに打ち解けた話が出来た。そこにいた人たちとは、もう前からの知り合いのような気持ちだった。おいしいお昼ご飯をごちそうになった。笑顔があふれていた。厳しい現実であるからこそ、それに向きあうのには笑顔が似合う。

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10月5日のコンサートで、双葉の女性達が作っている「ニコニコがっしょうだん」が素敵な歌を披露してくれた。その後座席に戻った彼女らの席に会いに行った。そこに一人の女性が持っていたプレートには「ニコニコ合笑団」と書いてあった。「あ!合唱団のしょうは、笑なんですね!」というと、そこにいたみんなが一斉に「そうよ、私達平均70歳以上だから、もう何があっても笑うんですよ!」。みんなの顔には、これまで生きてきた人生がしっかりと刻まれている。でもその笑顔は、なんと素敵なことか!


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かつて、カンボジア内戦が激しかった1970年前半、大宮に移住してきたラオスの人たちが住んでいる

アパートに招かれたことがある。ラオス難民の彼らはなれない日本での生活、大宮での生活で苦しみながら頑張っていた。彼らの集会所の壁を見たとき一つの日本語の言葉が張ってあった。「苦しいとき、悲しいときにも笑顔を忘れずに」とあった。クメール民族である彼らのクメールの仏像は、いつも穏やかな笑みが漂っている。あの彼らの笑顔と、福島からの避難民である、双葉の彼女たちの笑顔が私には重なった。

たおやかな笑顔こそが未来を作る。どんなに絶望的であっても、未来を見つめることが出来れば、笑顔になる。一人でも心を寄せ合う人がいる限り、人は自然と笑顔になるのだと、私は確信している。

そして人となる・・・・・2013.10  NO10

 弱い者いじめの現実  2


   忘れる人、忘れようとする人、忘れさせる人、

       そして忘れ去られようとしている人達がいる。

           私たちは、どの人になるのか?



 災害は平等に来る。しかし被害は必ず不平等に立ち現れ、弱い立場の者をさらに過酷に追いやる。力のある者(財産・健康・年齢など)が早く立ち直り、そうでない人は、立ち直りから取り残され、追い詰められ、忘れ去られていくことになる。

これは「被害の階級制・階層性」という「災害学」の常識だ。だからこそ、政府による手厚い配慮が、弱い立場の人たちに必要なのだ。それによってのみ、「被害者」への平等性が可能となる。

 学生ホールで待っていてくれたのは、Sさんだった。彼は、双葉町の原発被災者であると同時に、双葉町で唯一の津波被災者だった。津波の巨大な波に飲み込まれた時、それまで手を握っていた母親とばらばらに流され、泥の海の中で死を覚悟したが、偶然に負傷しながらも助かった。母親はとうとう見つからず、双葉町での唯一の行方不明者となっている。彼が騎西高校の避難所に来るまでも、簡単なことではなかった。語りだされる話の一つ一つが、あまりに不条理で怒りと悲しみに満ちているにも関わらず、Sさんの表情は本当に柔らだった。学生ホールの片隅でインターネットを駆使して、様々な情報を発信し、ここにいる人たちのために活動している。最後の一人が行き場所を見つけるまで、この避難場所を離れないと、穏やかに、きっぱりと語ってくれた。不条理の果てに、何が一番大切なのかを身に着けた素晴らしい人だった。

 話していると、70過ぎの男性も参加して来た。早く自分の店を持つのが夢だという。理髪店を双葉町で開いていたけど、そのまま残して来たのだという。彼の願いが実現することはもうないだろう。双葉には戻れないし、新しい店を開くには年齢が高すぎるのだ。「いったい、これからどうすればいいんですかね・・」「ここから出て行けというけど、私たちは、どこに行けばいいんですか!」、話しながら、みるみる彼の目から涙が溢れた。

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 原発の避難者や、地震・津波の被災者対象の避難所はすべてなくなっている。この避難所は、日本で現在残っている唯一の場所だ。しかし、今ここに居る人たち~一人暮らしの高齢者や病気を抱えていたり、事情を抱えている人達~にとって、知らないところで生活することはどんなに大変なことか!今、ここに居る人たちは、同じ双葉町の人たちが、一緒に暮らせる復興住宅をこの騎西町に作ることを求めている。しかし、避難者たちのこうした切実な願いを福島県そのものが認めようとしない。埼玉県の騎西に住んでいても、彼らは福島県民である。他県に住む避難者が、他県の中で復興住宅を建てて生活することは、その県の人口の流出にもなるからだ。また埼玉で福島の被災者の復興住宅を作る費用は一体だれが出すのかなど、確かに解決しなければならない問題は多い。しかし、被災者や避難者の側の立場に立った切実な願いから、なぜ考えないのだらうか!不条理に故郷から追い出され、流転している人たちの立場に立った政策がなぜできないのかと、腹立たしいばかりだ。

そして人となる・・・・・2013.8  NO8

9月22日 反差別東京大行動

  「一緒に暮らそうよ!」「一緒にいきようよ!」「すべての人が一緒にいきよう!」そんなスローガンのデモが22日、新宿西口の都庁そばの中央公園から東口をとおり、職安通り、歌舞伎町、区役所、そして西口まで行われた。アメリカで行われた有名な差別撤廃の大運動1968年のワシントン大行進をイメージした行進だった。

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当時歌われた「we shall overcome」を演奏するブラスバンドを先頭に、少数民族・韓国・朝鮮だけでなく、同性愛者などのマイノリティーなども参加したもので、風船を持ち、積極的に周囲に「共に生きる」ことを求める行進で、とても楽しく明るいものだった。参加者は1200人以上2000人近くの行進となった。

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 最近、この新宿で人種差別・民族差別を公然と叫び、「殺せ!」「死ね!」「首つれ」などと、あまりにもひどい言葉やプラカードで行進する団体がいるのだ。それに対する行動だった。

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 私は「交わりは豊かさを生み、憎しみは悲しみを生む」ということを言い続けてきた。だからこそ、行動を起こさねばならないと感じていたので、すぐに参加。仲間達も10人近く参加した。黙って見ていぬふりをすることは、悲劇を拡大するだけだから。そのことは歴史が証明している。可能な人が、少しでも可能なことを自らが行うことが大事だ。

 青空のもと、私は朝鮮の打楽器演奏サムルノリのチームに参加。銅鑼を持って演奏しながら歩いた。沿道からたくさんの拍手と笑顔をもらった。平和でなくてはならない!笑顔があふれる街・社会でなくてはならない!としみじみ思ったのだった。

 
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そして人となる・・・・・2013.8  NO8




8

3日昨日、宮古の崎山仮設の子ども達、宮古ヨットハーバーに集う高校生・青年たちに花火大会を実行するための資金支援コンサートを行いました。パンフルー・10弦ギター・津軽三味線・ウクレレなど、多彩なミュージシャンが参加、また会場からの友情出演もあり、、宮古の被災者のみんなに喜んでもらおうと心を一つにしすることができました。帰り際に、「一緒に行けないけど、私たちの心も届けてくださいね!」と何人もから、言われました。ありがたいです。

いろんな出会いがありました。特に卒業してから声楽・オペラで頑張っている田中由佳さんが、急なお願いにも関わらず、素晴らしい歌を披露してくれました。会場中に美しい声が響き渡りました。本当にうれしかったです。ありがとう。


 会場のなかで、東京大空襲で家族を失い、今はもう80歳近くになり病で全身創痍の女性が、「辛さに耐えるのではなく、辛さをそのまま受け入れる。そしてありのままに痛いことは痛いと表現するようにして、今を生きている」と語ってくれました。彼女は、与えらえた状況の中で一生懸命に生きていました。その姿に感動をしたので、話してもらいました。


 今、津波や原発の被災者の皆さんに、「我慢しろ、耐えなさい」と、耐えること、あきらめることを要求しているのではないでしょうか?! その声はきっともっともっとこれから強くに違いない。やがて「いつまでわがままをいっているのだ!」と叱責する声が出てくるだろう。阪神大震災の被災者にも投げつけられました。何も言えない中で、独居死や、自殺者が800名前後起きてきたのです。同じ過ちを繰り返させてはならない!これが宮北会の活動の基本テーマです。


 宮古で、美しい花火大会を開いてきます。ご支援ありがとうございました。

あらためて書きます。 


夜空に上がる打ち上げ花火は亡くなったみんなのために

手元にともる花火は 友達のために


そして

手に持つ線香花火は

私のお母さんお父さん弟のために


だから

花火をするのです。


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そして人となる・・・・・2013.7  NO7

沖縄修学旅行への想いー大宮北高校での実践ー (2)

  ふるさとの海が どこまでも 青いのは
  あなたの心が どこまでも深いから
  海の青さ それは あなたの心
  あなただけが知る 深い色

私の好きな歌の一節だ。八重山諸島の海の色が今でも私の心に沁み
こんでいる。西表島、黒島の人々、何度も訪ねた鳩間島、祭りの原
点を見た小浜島、竹富島、石垣島、そこの人々と共に生活したこと
から、風景の奥にある厳しい歴史と人々の心に触れることが出来た
。きらきらと輝くエメラレルドグリーンの海の中に、苦しみと悲し
みと喜びを溶け込ませながら生きている現実を感じとることができ
た。
 一つの場面が今でも心に深く残っている。黒島でしばらく生活し
てなじみになった島のおじさんが、家に招いてくれた。2月だった
と思う。小さな島の家の座敷に真ん中におじさんがそしてその右隣
に男の子が座っていた。精一杯のごちそうが並んでいた。い...つもと違う雰囲気に驚いていると「今日は、よく来てくれました。
こんど息子は本土に就職します。大和の人だから、どうかこの子ど
もたちが無事に過ごせるように一緒に祝ってください」。おじさん
は深々と頭を下げた。私は本土、大和の代表になっていた。いつも
一緒に遊んでいた子どもの一人だったのだ。当時の私にはその親の
気持ちを理解したつもりであったが、子どもを持ち育てた今は、親
としてその切実さが涙がでるほどわかる。あの子は、その後どうな
っただろうか。 しかし、今も就職の厳しさは変わらない。高卒で
の就職率は50%以下である。
72年の3月には石垣島から本土に向かう島中の中卒生徒の集団就
職の船に一緒に乗った。埠頭には石垣中の中学校からブラスバンド
と在校生が見送っていた。にぎやかな演奏とみんなの見送りに甲板
から修学旅行にいくような陽気な姿があふれていた。そのうち船の
銅鑼がなり、蛍の光の演奏が流れてきた瞬間、本土に就職する甲板
の卒業生が号泣し始めた。考えてみても、本土はあまりにも遠い。
見も知らぬ地に行く彼らの心細さ、不安はいかほどであったことか

船が離れていく。色とりどりのテープが切れながら青い海に落ちて
いく。埠頭の在校生たちが堤防に向かって走りだし手を振り、指笛
を鳴り響かせた。長い埠頭と堤防の方から聞こえてくる指笛と、甲
板から今にも落ちそうに身を乗り出して鳴らす指笛がエメラルドグ
リーンの海の上を、姿がみえなくなってもいつまでも行き通ってい
た。
こうした場面に高校生が出会うことはないだろう。しかし、風景、
人々の姿から見えるものがある。見ようとさえすれば見ることがで
きる。その体験をしてもらいたかった。
「沖縄には行けない」と決めていたが、高校生たちに沖縄の姿を見
てもらうためならいいだろうと自分に言い聞かせ、23年ぶり沖縄
に行ったのだった。続く