柏木むつきです。
(YOUKYOUカフェに込めた想いはこちらです)
11月もあっという間に1週間。
「クリスマスケーキ予約開始」とか、
「おせち予約開始」とか見るたびに、
「もうそんな時期なの!?」
ってびっくりするほど今年は1年が高速。。。
(私としては前回の記事から10日も経っていることも
自分の理解が追い付いていない(笑))
5年前に書いた記事が上がってきていて、
その中でこんなことを書いていました
(文体自体が若いな~…と思って読み返していました(笑)
30代前半だもんな、この時。若い(笑))。
私は、
「"養護教諭"であって"養護教諭"な自分」
も好きでしたが、
「"養護教諭"であって"養護教諭"ではない自分」
も受け入れた方が、
「自分のままで"養護教諭"になる」
ことができて大好きだった
この時はこの部分に対して詳細に書いてなかったので、
今回、5年経って思うことを書いてみようかな。
今思うのは、
学校で養護教諭として働いていると、
「"養護教諭"であって"養護教諭"な自分」
であることを求められたり、
自分も「そうでなければならない」という責任感を抱いていたり、
これまでの養成段階でもそのことを沢山言われてきているから、
それ自体を「理想」と思う場面が多いけれど
(そしてそれ自体は決して間違いではない)、
時に学校では、
「"養護教諭"であって"養護教諭"ではない自分」
が立ちあらわれたり、その必要性が出てきたり、
その方が「うまく」いったりすることもある。
必ずしも「養護教諭で在る」必要がない場面というか。
むしろ「人間」として試されているというか。
(そしてここからがややこしい言い方になるんだけど)
その「"養護教諭"であって"養護教諭"ではない自分」
の瞬間に
「"養護教諭"であって"養護教諭"な自分」
で在ることを強く認識することがある
(それは良くも悪くも)。
その事実に「葛藤」して、
「存在意義って何や」とか、
「専門性って何や」とか、
「養護って何や」ってもがくのだと思います。
↑これ自体を当時働いていた時の私は「言語化」できなかった。
だから私も悩んだし、しんどかった。
私は、
「"養護教諭"であって"養護教諭"な自分」
も好きでしたが、
「"養護教諭"であって"養護教諭"ではない自分」
も受け入れた方が、
「自分のままで"養護教諭"になる」
ことができて大好きだった
↑だから「受け入れた方が」ってこの時も表現したんだと思う。
そう簡単に「受け入れ」られるものではないし、
むしろ、開き直ったとか、諦めた、とか、
そういうものだと思って抵抗するのをやめた、
という表現の方が今ならしっくりくる。
でもそれは決して
「"養護教諭"であって"養護教諭"であること」
の責任を放棄したわけでは絶対に、ない。
大事なのは、
「"養護教諭"であって"養護教諭"であること」
を「自分」がどう考えているのか、ということと、
無条件に「良いこと」だと思わないこと
(それ「だけ」が良いことだと信じてしまうとそれ「以外」の可能性がなくなってしまうから)、
「"養護教諭"であって"養護教諭"ではないこと」
に対して「自分」はどう在りたいのか、ということと、
果たしてそう思っていることは「本当」なのか、と問うこと。
今の私はそんな風に考えます。
そしてそれが「スタート」なのだと思っています。
…5年経ってようやくちょっと「言葉」にできた^^
(秋晴れの一日^ ^)
YOUKYOUカフェ→先行案内はメルマガから
YOUKYOUプライベートカフェご希望の方はこちらです
インスタグラムはこちらです