柏木むつきです。
(YOUKYOUカフェに込めた想いはこちらです)
以前も一度、記事にしたことがあると思うのですが。
「働いている時に気づけて良かったこと」ランキングをつけるとするなら、
確実に5本の指に入る気づきはこれ。
たとえ子どもが「変わった!」と思っても、
それは教師がエライのではなくて、
その子どもが「変わろう」と思ったからであって。
エライのは教師ではなく、その子ども自身だということ。
子どもが変わったのは、私の手柄でも何でもない。
ということ。
新任当初(から数年の間)、
私は本気でこんなことを考えていました↓
・「根気強く言えばこの子は変わるに違いない!」
・「この子を変えることができるのは私だけだわ!」
・「いい方向に変えてあげなきゃ!」
・「子どもを変えてこそ教師!」
そんな風に考えていた私は、
「教師としての使命感」をもって、
鼻息荒く、子どもを頭ごなしに指導していたように思います。
その使命感も、
「(子どもたちのことを)変えなきゃ」
と自分が勝手に立てた使命感です。
でも、一回言ったところで変わりません。
何度言っても変わりません。
「どうして変わらないんだろう!?」
と思った私は、
①自分が教師として指導力がないから
②その子がダメな子だから
③周りが協力的でないから(理解してくれないから)
のどれかで判断して、「誰か(自分も含め)」のせいにばかりしていました。
本当、今思えば、
なんて自分勝手な教師だったんでしょう苦笑
(苦笑どころかその頃周りにいてくれた人たちには謝りたい気持ちしかありません)
今だから思うのですが、
「何回言ったら分かるの!?」
って、いやいや、何回も言うているの、私のエゴですよね?!
「どうして変わらないの!?」
って、いやいや、自分が誰かをコントロールできると思っているんですかね!?
「なんで周りはこんなに頑張っている私を理解してくれないの!?」
って、いやいや、何言うてまんねん…(もうツッコミすらする気力もない)。
「誰か(何か)を変える(変えられる)」をゴールにしていたり、
そういう力があることが「できること」だと思っていたり。
それって結局、
自分も周りもしんどくなるだけだな、と思います。
どこかで一度は聴くような、
「変わる(変えられる)のは自分」
が腑に落ちている今は、
「どうしてあの時あんなに、自分以外を変えることができると思っていたんだろうか…」
と不思議にさえ思うほどです
(とはいえ、その頃は「子どもを変えられることができたら、周りからも「力のある教師」って認められる」って思っていたんだろうなぁ…)。
今でも時々、
誰か(何か)をコントロールしてしまいそうになる時があります。
そんな時に思い出すのは、
神学者のニーバーの言葉(どこかで紹介していると思いますが)。
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
誰か(何か)をコントロールしてしまいたいときこそ、
自分で自分を「コントロール」しなければならない時なんだろうな、と思います。
結果としてそれが「変わる」ことなんだと思います。
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