今村夏子という小説家
映画を見る・本を読む同じように得るものがあるが能動性がより必要になるのが小説を読むという行為だ。映画は、正直疲れたときに垂れ流ししても良い。小説は、そうはいかない。自分的に。頭や感情が、映画以上に動きやすい。だから疲れる。小説家としては、今村夏子がすごい。言うまでもなく芥川賞作家だが今村夏子に外れ無し。あまりに凄すぎる。感覚が以上に鋭い。「こちらあみこ」「あひる」「星の子」「むらさきのスカートの女」「白いセーター」や「せとのママの誕生日」などの短編全て余りにも今村夏子的であり独特で独創的である。「あみこ」や「あひる」は初心者向け多幸感に溢れ受賞作「むらさきのスカートの女」は途中から異常性が増し少し怖い。特に「せとのママの誕生日」は何故、こんなに怖い話を描けるのかどの感覚がそうさせるのか不思議でならない。ブラックユーモア的というそんな短絡的なモノではなくあきらかにすべての作品は「ユーモア」ではあるのだが松本人志の全盛期の「そこの感情を笑うのか…」みたいな人には備わっている感情の中の抽出している場所が絶妙で鬼才なのだと思う。1つ具体的に「せとのママの誕生日」に絞ると場末間の強いスナックせとのママはたぶん老婆でママの誕生日の夜に3人の元従業員が集う。その3人の元従業員が、廃墟のようなスナックの片隅の居住スペースで全く起きない「ママ」への思い出話から、次第に狂信的な感情を吐露するようになり最終的には、、見たことのない(今まで1度も映像化されていない)または、言語化されていない感情からある行動をとり変なラストを迎える…といった内容。感じる事はできるのだが、あまりに前例のない、ベタではない行動の為文字にすると「意味不明」「謎」などになってしまうのだがそんな可笑しな結末をどうやって頭に思い浮かべるのだろうと不思議になる。基本的に、登場人物がみな異常でツッコミ不在の世界観が今村夏子なのかもしれない。1番イカれた奴が基本的に1人は最低いてその横にいる人物は、一見マトモそうだがその異常に全く突っ込まない、冷静に現場をさばかない。その奇異な空気が「圧倒的オリジナリティ」を生んでいるのだと感じる。現代、SNSなどが蔓延し皆「異常」なモノには過敏となっている中今村夏子の小説のようにスルーして、あるいは受け入れシュールな「ツッコミ待ち」状態でゴールを迎える寛容さが今後、必要になるのかもしれない。日本映画やドラマは、つっこみありきのありきたりな笑いしか生み出せない低俗エンターテインメントとなり下がったが小説の世界は、いまこんなに世界が広がっている。全く新しいタッチが今村夏子にはある。