京都市電 伏見・稲荷線 全停留場紹介 ⑦勧進橋 | レールは、こころをつなぐ道。

先日開催の「そうだったのか!伏見を走った路面電車」会場で展示された資料と、福田静二氏の全19停留場紹介写真を始め多くの提供画像を交えて沿線の解説を連載します。

 

前回の④大石橋⑤札ノ辻⑥十条通 ↓

 

 

 

鴨川に架かる勧進橋を渡ると南区から伏見区となり、伏見線は棒鼻まで竹田街道東側の併用軌道となる。

勧進橋北詰から伏見方向

 

「勧進橋」は各地に存在

「勧進」とは社寺などの建立や修理のために寄付を募ることで、渡り賃を取られる「勧進橋」は各地にあり、松原橋(旧五条橋)は清水寺の勧進橋だった。

 

 

この勧進橋は伏見稲荷大社の改修費用に充てる渡り賃を取られた私有の橋だった。

 

高度経済成長期、モータリゼーションが急速に普及してきた頃、勧進橋を南へ渡ると市電と南行車両のバトルが…

当時の「市電廃止議論」が聞こえて来るようで…

(京都の鉄道・バス 写真データベースより)

 

 

勧進橋を渡り南行自動車と入れ替わり竹田街道の東側を走ると、約200mで稲荷線と分岐する勧進橋電停がある。

 

⑦勧進橋(かんじんばし)

伏見線京都駅方面行電停は竹田街道上!

稲荷線京都駅方面行電停は上写真左に人が居るカーブ上

 

京都駅方向からの電車は両線共通で分岐手前の京電時代の名残の待合所の屋根が有る停留場で乗降。

 

 

 

 

勧進橋を渡る京都電気鉄道初期型(7枚窓)車両

一本の橋で歩道部両側には柵がある

(京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』より)

 

大西友三郎氏の勧進橋付近の新旧線比較図

単線で開通した伏見・稲荷線は鴨川手前で西側へカーブしてほぼ直角に渡り、川沿いに折れ南へ走り土手沿いに稲荷線との分岐があり勧進橋電停の待合所もあった。

川沿いだった伏見線は一旦深草下河原町付近で現竹田街道とほぼ同じ位置の旧街道を竹田久保町の手前まで走る。

 

鴨川沿いだった大和街道(竹田街道)は、1911(明治44)年に新大和街道として勧進橋から棒鼻まで現在の直線ルートで開通し、伏見線も翌年に複線化移設され、これも東側寄り併用軌道だった。

 

鴨川の勧進橋から水鶏(くいな)橋間の、逆向き「くの字」だった流路は昭和10年の大改修で水色の直線に付け替えられた。

以前は南へ流れてから西へ流れていた。

 

1953(昭和28)年の都市計画図では勧進橋南端から鴨川沿いに黒色で流路付け替え前が、茶色で付け替え後が描かれている。

 

勧進橋電停跡付近のストリートビュー

右へ伏見線、進入禁止標識の方向へ稲荷線が分岐していた。

 

京都電気鉄道伏見線開業の1895(明治28)年2月1日の前日に、それまでは本町通(伏見街道)からしか行けなかった伏見稲荷へ、勧進橋電停から直角に進む稲荷新道(稲荷参詣道)が完成し約900m歩く必要は有ったが、以前よりも便利になったので大勢の参詣客で賑わった。

当時の官営鉄道東海道線は稲荷~大岩街道経由で大津に向かっていて稲荷駅はあったが運転本数が少なかったため、便利で安い京電を人々は利用した。
 

稲荷新道は大阪の実業家土井柾三の寄附により整備して造られ、「稲荷さんけい道」道標も彼の手で建てられた。

稲荷新道は、竹田街道から東へ進み、当時まだ形もなかったが京阪電車ルート(1910年開通)沿いに南へ進み現伏見稲荷駅南側の参道へと続いた。

 

 

稲荷新道を挟んだ南側には「稲荷新道」碑がある。

この碑は建立時は終点側の琵琶湖疏水の稲荷橋西北詰にあったが、のちに撤去され行方不明だったが、2002年に再発見され欠落した下部を強化プラスチックで再現し、2004年に現在地に再設置された。

 

京都電気鉄道は当時水上交通が盛んだったので伏見京橋経由で、淀川汽船で大阪八軒屋浜(天満橋)への連絡切符を、七条停車場に加え稲荷新道からも販売した。

「稲荷新道」と言う呼称が使われているが後の路線図では「勧進橋」と記載されている。

(京都の鉄道・バス 写真データベースより)

 

 

勧進橋から稲荷新道を歩かなくても伏見稲荷に参詣できる伏見線は稲荷新道の南側に9年後の1904(明治37)年に開通した。

 

つづく