レールは、こころをつなぐ道。

42年前の1978(昭和53)年9月30日は京都市電最後の日だった。

 

惜しまれながら、東山線を烏丸車庫へ向かう最後の市電

この最終電車の後ろを多くのバイクが追走していた

 

京都市電の前身「京都電気鉄道」(私鉄)は1895(明治28)年 日本最初の電気鉄道として開業

 

京都市電は、遅れること17年、1912(明治45)年に日本で3番目の市営電車として開業し、1918(大正 7)年に京都電気鉄道を買収して事業拡大し、1978(昭和53)年9月30日の全線廃止まで通算83年間庶民の足として親しまれた 

 

 

 

京都市交通局のあゆみは京都電気鉄道開業から始まっている

 

 

京都市電カレンダー

 

 

 

京都市北区の大宮交通公園に展示されていたN電。

1895(明治28年)日本最初の電気鉄道として開業した京都電気鉄道の後期型車両として1912(明治45)年に作られ1918(大正7)年に京都市電に吸収されN電と呼ばれ、1961(昭和36)年北野線廃止後は大覚寺に展示され、1969(昭和44)年の大宮交通公園の開園に伴い移設された。今回、公園の再整備に伴い、ハピネスパーク交野霊園など3つの霊園を運営する「西鶴(さいかく)」へ譲渡された。

 

 

 

その電車の搬送作業のニュース動画

 

 

 
ハピネスパーク交野霊園入口横に設置

 

まだ改修作業などは進んでいない様子だが手前側が高いのはバリアフリーとするためで霊園には法要施設がないため法要施設となる

 

コンセプトは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」や井上ひさしの「イーハトーボの劇列車」や「銀河鉄道999」や「千と千尋の神隠し」などから、「ここから旅立つ」と言う事で前方のレールは大空へと向かっている。

 

♪ 旅の終わりがここなら、旅の始まりもここから…

関口知宏 列島縦断鉄道12000㎞ 最長片道切符の旅 主題歌

 

通称「黒谷(くろだに)さん」

京都人は「黒谷さん」なら分かるが、「金戒光明寺」?……状態。   

 

金戒(こんかい)光明寺HP ⇒ こちら

 

以前のブログ記事

 

 

螺髪(らほつ)がかぶさるように大きな髪型が特徴の五劫思惟(ごこうしゆい)の阿弥陀仏横の石段の上には文殊塔

 

その文殊塔のそばにある高木家の墓所

訪米視察の成果で日本最初の電気鉄道を設立した高木文平と…

 

高木文平と田辺朔郎の訪米視察で得た水力発電と電気鉄道のノウハウを日本で、京都・伏見で開花させた京都電気鉄道

 

我が国の電気鉄道のルーツは、ここから始まりました

 

今では歴史に埋もれてしまった、先人の偉業に感謝です。

「京都の市電 昭和を歩く」「京都市電が走った街 今昔」の著者、福田静二さんの協力を頂き、四季折々の京都の街と市電の風景の「京都市電ロマン カレンダー」をお届けしています。

 

京福電車(現:叡山電車)元田中交差点(叡電交差)

簡単にカレンダーが作れるテンプレートはこちら  

 

今月は「鉄道カレンダー」とのコラボ企画として、約45年の時を超えて東大路通元田中交差点(叡電交差)北東の同じ位置から撮影。

 

叡山電車三陸鉄道カラーの運転は間もなく終了

当時交差していたのは京福電車で、昭和61(1986)年に叡山電車に譲渡された。

この交差点から京都市電が左画像のように京福電車山端(やまばな)駅(昭和29(1954)年に宝ケ池駅に改称)まで乗り入れていた事などは、こちらの↓記事を参照。

 

元田中交差点の京福電車と横断者の足元の渡り線の痕跡 (交差点南東側から撮影)


※「⽴命館⼤学アート・リサーチセンター(略称 ARC)所蔵(提供)」kimr2_570 より

 

現在のストリートビュー

信号機の有る踏切は徐行でいいのだが一旦停止する車が時々…

 

最後まで残った路線の廃止

 

京都市電  1978(昭和53)年9月30日全線廃止

 

京都市電ギャラリー ⇒ こちら

 

*** 福田静二さんの著書 ***

 

 

 

 

京都府道143号四ノ宮四ツ塚線の山科方向から蹴上(けあげ)浄水場付近で仁王門通りと三条通に分かれるその中央部分に有る、わが国最初の電気事業用水力発電所 蹴上発電所の現在の外観。

↑南側 ↓東側     ※自家用の水力発電は既に存在していた

 

高木文平と田辺朔郎技師がアメリカ視察でデブロー氏から余すところなく得た完成したばかりのアスペン発電所の仕様を基に発展完成させた蹴上発電所は、帰国後2年の1891(明治24)年にわが国最初の電気事業用水力発電所として完成した。

 

発電にはベルトン水車と発電機を長いベルトでつなぎ、開業時は各2基であったが、1897(明治30)年の1期工事完成時には水車20基、発電機19基が設置された。

(画像は琵琶湖疏水記念館地階の、水力発電用ペルトン式水車(左)とスタンレー式発電機)

 

京都市が建設した蹴上発電所は1912(明治45)年に隣接地の第2期発電所が、そして1936(昭和11)年に現在の第3期発電所が完成し、1942(昭和17)年に関西電力の前身の関西配電へ引き継がれた。

 

関西電力HP 蹴上発電所見学会 & PDFパンフレットダウンロード

蹴上発電所の歩み ⇒ こちら

蹴上発電所構内マップ ⇒ こちら

蹴上発電所周辺散策マップ ⇒ こちら

 

仁王門通の入口を入ったところには水力発電事業発祥之地の記念碑がある。

 

 

記念碑左側にある碑文(上は日本語、下は英文)の内容は…

『 この地は、わが国最初の電気事業用水力発電所が建設されたところです
 琵琶湖から水をみちびき、これを舟運、灌漑および水力に利用しようとする琵琶湖疏水は、当時の京都府知事北垣国道氏により計画され、明治23年(1890年)竣工しました。この疏水の設計者田辺朔郎博士と、京都市疏水常務委員高木文平氏が、アメリカの利水施設を実地調査した結果、発電所を併設することが得策であることが提案されました。そこで明治23年(1890年)1月に建設工事がはじめられ、翌年の明治24年(1891年)5月には、早くもエヂソン式80キロワット直流発電機2台で発電を開始する運びになりました。これはアメリカで最初に水力発電所が建設されてから僅か2年後のことです。
 それ以後順次発電機を増設し、明治30年(1897年)5月には、大小とりまぜ19台の発電機で発電出力1,760キロワットの第1期工事の完成をみました。その位置はこの記念碑のすぐ後方、放水池のところでした。その後2回にわたって拡張工事が進められ、昭和11年(1936年)1月には現在の位置に出力5,700キロワットの第3期発電所が完成しました。このように蹴上発電所はその生いたちと規模およびわが国の電気事業の歴史のうえで、画期的な工事であり、また都心にある水力発電所として、世界でも珍らしいものです。この発電所の建設によって、京都の産業と文化は、大きく発展しました。
 ここに先覚者の優れた着想と努力を讃え、あわせて由緒ある地を永久に記念するため、この碑を建立しました。
              昭和37年(1962年)12月 関西電力株式会社

 

しかし碑文には「デブロー氏」も「アスペン」の文字も見当たらない…

 

つづく

 

 

 


 

この記事は祖父の高木文平が残した小冊子に興味と疑問を抱いた孫の高木誠が、高木文平と田辺朔郎の明治21(1888)年の渡米視察の足跡を尋ねて平成8(1996)年に旅をした後、平成12(2000)年に出版した著書「わが国水力発電・電気鉄道のルーツ - あなたはデブロー氏を知っていますか」を参考にしています

発売時この本に施されていた帯には「電気王と呼ばれた明治の田舎侍・高木文平は、なぜデブロー氏に深い謝意を表したのか?」「訪米調査でわかった新事実とは。」とあります。

 

Wikipediaより

第3代京都府知事 北垣国道(きたがきくにみち)⇒ こちら

1836(天保7)年~1916(大正5)年

幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家

琵琶湖疏水工事計画
高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任


 

土木技師 田辺朔朗(たなべさくろう)⇒ こちら

1861(文久元)年~1944(昭和19)年

土木技術者・工学者 琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行うなど、日本の近代土木工学の礎を築いた 

北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手した

1890(明治23)年第一疏水完成後、北垣国道の長女と結婚

 

 

実業家 高木文平(たかぎぶんぺい)⇒ こちら

1843(天保14)年~1910(明治43)年
丹波国北桑田郡神吉村(現・京都府南丹市)の豪農
明治維新後、地元で学校教育の指導などを行っていたが実業界に転じ、1882年には京都商工会議所の初代会長
1888年には米国視察を経験し、電気鉄道を目の当たりにし、日本でもこれを実現すべく奔走し「京都電気鉄道会社」を立ち上げ、自ら社長に就任
府議会議員、市議会議員として活躍