実録大長編「2014年 - 発達障害と診断された“夜明け”の年」 (1) | オタントニオのブログ

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趣味は車、レース観戦、ラノベ、アニメ、小説、ゲームなど。発達障害当事者で、当初ADHDだと思われていたが後になって「特定不能の広汎性発達障害」と判明。

はじめに

 

昨年末、結局2013年どうするのが正解だったのか論という記事で、2013年に俺の身に起きたことを書いた。

 

だが、本当に書き残しておきたいのは、その翌年…2014年のことである。

 

2014年は、俺にとって生涯忘れることのない貴重な経験をいくつもした、激動の一年といっても過言ではない。

 

7月まで休職して、ほとんど実家で過ごしたにも関わらずである。

 

この記事では、2014年に経験したことを可能な限り事細かく記録する。

 

そうすると、おそらく一冊の本にできるほどのボリュームになるだろう。

 

相当長くなると思うが、ご容赦願いたい。

 

まず、「うつ病。1ヶ月以上の休養が必要」という診断書が出て、突然休職が決定した直後から書き始めよう。

 

なお、執筆の都合上、俺の苗字は仮に斉藤としておく。

 

2013年12月 - 休職、実家への帰還

 

2013年12月27日、休職。

 

その日のことはブログに何度も書いているが、より詳細に書くと、俺は席に戻ってその日が締め切りだったパッケージCDを焼く仕事を再開しようとした。

 

すると上司が周りに「止めろ、止めろ」と言い始めた。

 

周りが俺に仕事を止めるよう言ってきて、「いやだってこれ今日中だし、これもあるし…」と言う俺を見かねて、上司が「とりあえず、斉藤君の荷物を!」と他の人に言った。

 

近くの席の人が俺のカバンを持ってきて、上司がそれを持ってエレベーターホールまで、俺の袖を引いて連れて行った。

 

そして、カバンを渡されてエレベーターに乗せられた。「後のことは僕に任せろ。今は休むことが仕事だと思って、ゆっくり休め!」とだけ言われた。何か言おうとする前に、エレベーターのドアが閉じた。

 

何故そこまで言われたかと言うと、2013年8月から数ヶ月に及んで続いていた食欲不振、真っ青な顔、繰り返すケアレスミス…そして極めつけは栄養の点滴を受けながら会社に来て、午前中で限界を迎えたりしていたからである。

 

周囲から見ればおかしいことは明らかだったが、俺自身は自分の状態を正常だと思い込んでいた。昼休みに弁当を食べる先輩に、「えーっ!ご飯を食べれるんですか!こんな仕事をしてるのに!!」なんて驚きながら聞いてたほどである。こういう仕事をしていたら誰しもが食欲を無くし、食べられないのが普通だと思っていた。

 

さて、エレベーターのシーンに戻ろう。俺はその時、理由はわからないが会社をクビになると思った。ビル1階に着いてコンビニの光を見たときは「一生懸命やってきたけど、もうここに来るのは最後かもしれない」とも思った。

 

やり残した仕事を心配し、病人を見るような目で俺を見てきた同僚のことを憤慨し、そして先輩のあるまじき姿を見たであろう1年目の新人のことを憂いながら、いつも通りの家路についた。

 

部屋に着くと、いつものことだが、どうしようもなく散らかっていた。クビになって実家に帰るなら、この船橋の部屋ももう最後だ、と思って写真に納めた。

 

 

休職1日目、2013年12月28日は、とりあえず実家に戻る準備から始まった。当時、俺はR33スカイラインGT-Rという愛車を所持していた。

 

 

こういう感じで賃貸マンションの駐車場に泊めてあったが、その日は車を今後どうするかまで考える余裕は無かった。

 

とりあえず、実家に戻るのなら愛車とは当面お別れだと思って、その日の午前中は船橋市街を軽くドライブした。そして午後、地元の京都府舞鶴市に新幹線で帰った。

 

親にはSMSで「休職になったからしばらく(実家に)居る予定だよ」と送ったが、2013年はずっと親に転職や退職の相談をしていたので、特に驚かれず「そうか。帰ったら詳しく聞かせて」とだけ返ってきた。

 

実家に着いて、いつもの帰省中と同じような時間が流れ始めた。年末の特別番組を見て過ごした。うつ病で食欲不振の症状が強かったので、親が作ってくれたご飯も少ししか食べれず、こういう状態になってとても情けないと感じた。

 

2013年12月30日の朝、目が覚めたところで、F1チャンピオンのミハエル・シューマッハがスキー事故で重体というニュースが飛び込んできた。

 

休職と直接の関係は無い話だが、ミハエルは、中高生でF1に熱くハマった俺にとっては、当時のスーパースターだった。

 

 

2013年当時は引退していたが、最も成功したF1のレジェンドして、悠々自適の余生も見せてくれるもんだと思っていたし、その彼が今や生死の境を彷徨っているなどとはすぐに信じられなかった。

 

しかし、事実としてその事故のニュースが流れ続けてるので、俺はつくづく痛感した。何か起きたら、そこから時は巻き戻せないのだ、と。

 

さて、ここまで時間をかけて思い出しながら書いたが、まだ2014年に入ってすらいない。ここからが、激動の1年の始まりである。

 

2014年1月 - 断捨離

 

2014年1月5日までは、世間のほとんどの会社(製造業)も冬休みなので、「まだみんなも休んでるし」と思って、安心して休めた。

 

会社を辞めたら次の仕事をどうするか、漠然と考えていたが、当時あちこちで流れていたYouTube広告の金髪起業家ヒカルから本気で商材を買おうとしていたくらいなので、正常な判断はできない状態だった。元気だったら、そんな買い物は絶対にしない。幸い、親が止めてくれたので、商材を買うことはなかった。

 

そして、1月6日、本年最初の月曜日が来てからは今までと違った。俺の会社も、世間の会社も、勤務が始まった。それなのに、俺だけが休み続けていた。

 

休職したことがない頃は、休職うらやましい、小中学校の夏休みみたいなもんやん、くらいに思っていた。しかし、いざ休職してみると、世間が頑張っているのに自分だけが休んでいるという事実、そして働きたくても止められるという事実は、実際は目を背けたいものであった。

 

あと、お金がないという焦りもあった。

 

休職するまで、給料はほとんどGT-Rに注ぎ込んでいたので、貯金なんかしていなかった。26歳で休職することなんか予期できなかったし、当分今の会社で働き続けて、離れるときはステップアップだとしか考えてなかった。

 

実際は傷病手当金があるし、当時の生活資金なんてどうにでもなったのだが、うつ病による不安定な精神状態では、貯金がないという一面にしか目が行かなかった。

 

どうにかしなければ、とコタツの中で1日中悩み抜いた俺は、1月7日にある決断を下した。

 

その内容は、5年前、俺は大事な決意をしたという記事で書いたが、愛車のGT-Rを売ってお金を作るという決断だった。

 

GT-R以外にも、当時持っていたものはどんどん売って断捨離し、安心のためにお金を作って、何もない状態から再スタートしようと考えた。

 

1月13日、通院と部屋の片付けのために、一旦船橋の部屋に戻った。

 

通院して、プレステ3などお金になりそうなものを次々ヤフオクて売って、売れないものは次々捨てて、それ以外の時間はカイジやデスノートなどの懐かしいアニメを見て、コンビニ飯を食べて過ごした。

 

1月19日、舞鶴の実家へ。1月24日、再度船橋の部屋に戻って通院。

 

1月26日、断捨離の成果あって、やっと船橋の部屋が綺麗になった。1ヶ月前とは大違いである。

 

 

1月27日、会社に電話して休職延長の申請をした。この時はまだ体制の立て直し真っ最中で、復職なんてまだ考えられなかったし、復職させてもらえるとも思っていなかった。一言返事で休職延長となった。

 

そして1月28日、いよいよGT-Rを売る日になった。その当日、GT-Rと一緒に撮った、最後の写真である。

 

 

GT-Rの存在は、当時は生き甲斐そのものだったし、会社でどんな扱いを受けても、GT-Rに乗っているというプライドが俺を慰め、加速させ、支えてくれていた。

 

その唯一無二の心の支えを、今後のために手放すという重大な決断を下した。

 

ただ車を売るだけの話なんだが、俺にとっては今考えても、これは人生を一変させる重大な決断だった。

 

2014年に起きた「数々の激動」の1つ目である。

 

それから、売却先の車屋を検討したが、結局GT-Rを購入した店が最も高い引き取り価格を出してきたので、そこに売ることにした。

 

最後のドライブ。店が近づくにつれて、GT-Rと一緒の時間も終わってしまうと思うと、大粒の涙が出てきた。

 

37万5000円。これが、給料を注ぎ込んだGT-Rの売却収入であった。

 

2014年2月 - 転院、発達障害の診断

 

2月に入り、断捨離が一通り済んだところで、次は通院先を実家近くの病院に変えようと考えた。

 

通院のたびに新幹線で船橋に戻っているようだと、当たり前だがあっという間に金が底を尽きるからだ。

 

なので、1月24日の通院の時に紹介状を書いてもらっていて、それを持って2月7日、実家近くの「こころのクリニック」を受診した。

 

紹介状に加えて今まで起きたことを医師に話した。

 

すると、もっと大きな病院の精神科を受診することを勧められた。

 

「俺の精神状態はそこまで悪いのか!」と思って聞くと、こう言われた。

 

「正直に申し上げると、斉藤君には大人の発達障害、特にADHDが疑われる。一通りの検査を受けてみて欲しい」と。

 

ADHD。何処かで聞いたことはあったかもしれないが、自分には縁がないと思っていた単語だった。

 

そこでふと思い出した。小学校の道徳の授業で、学習障害などの障害が出てきたことがあった。

 

そこで先生がADHDの説明をした時、クラスの奴らが「それまんま斉藤のことやん!」と騒ぎ出し、俺は1週間ほどADHDと呼ばれたのだった。

 

待て待て、ADHDは子供の時の症状で、大人になったら治るんじゃないのか。俺は大企業で普通に働いていた--

 

当時の俺には「自分は至って普通で、周りが自分の感覚に合わせてくれないだけ」という確固たる思いと自信があった。

 

なので、休職になった理由もほとんど会社のせいにしていたが、医者が言うならと従ってみることにした。

 

2月17日、総合病院で検査を受けた。

 

WAIS-IIIに加えて、電話を受けた母親も病院に来て、俺の子供の頃の様子を医者に説明したりと、半日に及ぶ長丁場の検査であった。

 

そして下った診断…それが「ADHDおよび広汎性発達障害」だった。

 

27歳になる9日前に受けた、初めての発達障害の診断だった。

 

親は「ADHDの子供の取扱説明書とDVD」を医師からもらい、俺はストラテラを処方された。ものすごく高額な薬だった。

 

正直、自分が障害者だと言われても、すぐには受け止められなかった。

 

家に帰ってから、ADHDと発達障害について徹底的に調べた。

 

その症状は俺にピタリと当てはまっていた。俺の場合、特に不注意の症状が目立っていて、財布やカードを無くす頻度は普通の人とは明らかに違っていた。

 

普通の人と発達障害の違いを読んで、「普通の人ってこんなにすごいことを当たり前に出来るのか!」と、あらためて思ったくらいである。普通のことが、俺には超能力にしか思えなかった。

 

自分が発達障害(と診断される側)であることは、その段階でスッと腑に落ちた。

 

が、障害がわかってほっとした、安心したなどと言う人も多いが、俺はそうではなかった。むしろ、自分の頑張りを認めてもらえず、障害と扱われたことに対して、強い憤りを覚えた。

 

そして、普通の人が当たり前に出来ることを努力でカバーししてこれから頑張っていこうなんて考えも、毛頭浮かんでこなかった。

 

むしろ、自分は今までの人生で学校にも会社にも通い、これだけ自分らしく素晴らしいことをやってこれたんだから、これからも自分に出来ることを大事にして、増やして、より自分に合った方法や環境を探すなりして、ずっと自然体で生きていきたい、と。

 

数字の記憶や、一部への驚異的な集中力など、他の人より得意とすることもいくつかあったので、健常者とは対等な人間であると最初から思っていたし、障害を治すのではなく、障害なんてどうでも良くなるくらい、自分にできる他のことを高めようと考えたのである。

 

この考えを話したら、開き直りだとか、周りの人は迷惑するとか言われたこともある。しかし、障害を治したって結局なんらかの形で迷惑をかけるのだから、結局治すか治さないか、どちらを選びたいかに過ぎないのである。俺にとって、治さない(活かす)というこの選択をしたことは、結果的に大正解だったと思う。

 

2月18日、ADHD当事者としての感覚を発信するサイト「imacala.com」を勢いのままに立ち上げ、それまでの半生と、治すんじゃなくありのままで生きていきたいという想いをそこに書き綴った。2020年現在、そのサイトはもう跡形もないが。

 

折しも翌月の3月14日、「ありのままの」のフレーズで爆発的ヒットを呼んだ「アナと雪の女王」が劇場公開されたのだった。

 

 

しかも執筆中、まさにこの瞬間、聴いてるラジオで「Let it go」が流れ始めた。奇跡的である。この歌は俺の人生と深くリンクしているのかもしれない。だが当時は、この歌が嫌いだった。歌が、というより、大流行したことが嫌いだった。みんな「この歌はいい!」と流されるまま大絶賛してるくせに、俺みたいな発達障害が「ありのままで生きたい」なんて言っても、絶賛どころか歩み寄ろうとさえせんだろ、と。

 

それでもありのままの自分で生きようと強く思っていたので、職場に発達障害の診断を隠す気は毛頭なかった。必要と感じた時には言うし、それで偏見を持たれるようなら、その人とはそれまでの関係だと思っていた。

 

2月24日、会社に再び休職延長の申請をした。その時、上司にも電話をかけ、ADHDと診断されたことを素直に伝えた。

 

この頃は休職中で、まだ視野が狭く、ネガティブ思考に陥っていたところもある。が、発達障害を公にしていくという姿勢自体は、2015年に障害者手帳を取ってオープン就労枠に切り替えたり、2017年に障害を告知した上で転職した時も含めて、今まで終始一貫していた。

 

もちろん、理由がないのに突然「僕、発達障害です!」とは言わない方がいいが、理由があるなら早めに言っといた方がいい、という考え方だった。

 

2014年3月 - 新しい趣味、復職か転職か

 

さて、3月に入ると、以前は食べられなかった量のご飯も食べれるくらいに回復してきて、減り続けていた体重も増え始めた。ちなみに、身長181cmで元々71kgあった体重が食欲不振で63kgまで落ちていたが、丁度このころ元の体重へと戻った。

 

日中はずっと実家にいて、午前4時に寝て午後0時くらいに起きていたが、運動不足を解消するため夕方には毎日1時間ほど散歩に行っていた。

 

しかし、断捨離も終わってひたすら暇だった。かと言って療養中なので、将来のための勉強とか副業なんてことは考えない方がいいと思った。

 

当時細々とやっていたドラクエ10というネットゲームがあったが、何となくその公式番組DQXTVを見た。

 

そして初心者大使の配信にハマっていったことは、つい先日の記事で最後に書いたことなので、今回は簡単に触れる程度にしておこう。

 

3月はそのドラクエ10の配信や、ラブライブ!など過去に撮り溜めたアニメを毎日見て、夕方になったら散歩に行っていた。

 

そんな中、毎年見ているF1が開幕した。俺は年明けからずっと休んでいるが、世間は絶えず動き続けている、そうあらためて痛感した。

 

あと、それだけでは無かった。3月11日、地元でのUターン就職説明会があった。

 

散歩ついでにそれを見かけた俺は、地元の会社に転職する絶好のチャンスだと思って、その会場の門をくぐった。

 

そして、他の参加者と違って準備してないしスーツなんかもちろん着てなかったが、ただの様子見だし大丈夫だろう!と思っていくつかの会社の話を聞きに行った。

 

農業マシンの組み立て、運転手など、いずれも異業種ではあったが、地元で転職できるなら手段は選ばないし、27歳の若さだから何とかなるだろう、と思って各社にエントリーを出そうとした。

 

しかし、今の会社には在籍中だということを言うと、どの会社も「今の会社との契約をどうするか決めてから来てほしい」という風に言ってきた。まぁ当然である。

 

俺自身にも、今の会社が俺をどうしたいのかはわからなかったが、この頃の俺は地元での転職に傾いていた。

 

しかし、あまりに異業種で、かつ収入ダウンという点が気になった。

 

もうちょっと良い会社を地元で探そう、と考えて3月はハローワークの求人広告を見たりした。

 

希望に合うような会社は1社も無かったので、あとは自分で「嫌な仕事でもいい」と諦めをつけられるかどうかだった。

 

諦めがつかないまま、日々が過ぎていった。

 

ある日、居間で昼寝をしていてふと目が覚めたとき、両親の話し声が耳に入ってきた。

 

母「これからどうするつもりなんやろ」

 

父「小学校に進めんかもしれんって言われとった子なんやで、5年も働いたんやし上等や。もう、しばらく休ませてやろうや」

 

これを聞いた時、いつまでも実家で休み続けるわけにはいかないと思った。定年近い両親への負担もあるが、一番は「俺はこんなところで終わるような器じゃない」という、自分への自信だった。

 

3月25日頃、また会社に休職延長申請を出すタイミングになったが、体調はもう回復していたし、転職先もすぐには決まりそうになかった。

 

なので、今回は一度復職して時間をかけて転職活動する方向にシフトし、復職申請の方を選んだ。

 

2014年4月 - 復職面談

 

4月15日に復職面談を受けることになったので、4月9日、約2ヶ月ぶりに船橋の部屋に戻った。しかしその道中、定期入れと財布、処方された薬を全て失くした。

 

失くすこと自体は別に珍しくもなんともないが、失くした量が厄介だった。免許証や各カードの再発行で、無駄に忙しくなってしまった。

 

また、薬はもう飲まなくてもいいだろうと気にもしなかったが、4月11日から一気に体調が悪くなった。吐き気が止まらず、休職前みたいに何も食えなくなった。

 

耐えられず、以前通っていた病院に助けを求めて回復したが、薬無しでは体調を保てないことが判明してショックを覚えた。本当の意味で断薬できるのはいつになるのか、と途方にくれた。結果的に断薬できたのは、2016年12月頃だった。

 

さて、そんな心に余裕のない状態で迎えた4月15日の復職面談。それでも俺は、復職しないといつまでもお金がないので、一旦復職するしかないと思っていたし、復職できると思って面談に臨んだ。

 

かつての同僚に見つかって声かけられないかと、ビクビクしながら会社に行った。恥ずかしいというより、声をかけられて色々聞かれるのが面倒だった。今年に入ってから全く働いてないなんて、情けないという気持ちもあった。

 

案の定エレベーターで1年後輩の女性と遭遇したが、目を逸らして他人の振りをし続け、なんとか本社12階の健康管理室に辿り着いた。

 

前の面談が終わっておらず、保健師が気を遣って「桜は見ましたか?」などの雑談を振ってきたが、休職中は桜なんてつまらないものにしか見えなかったので、適当にかわした。

 

そして、面談の部屋に通された。そこは、警察の取り調べ室みたいな、二畳半ほどの狭い部屋だった。

 

保健師、人事部からそれぞれ1名と、当時の上司がそこにいた。そして、50代後半くらいの色縁眼鏡、白髪の産業医。

 

主治医から貰った意見書を産業医に読ませ、体調や日々の過ごし方の確認。そこまでは事前に想像していた。

 

ところが、主治医の意見書にADHDのことも書かれていたので、これから復職相談という段階で、産業医は「ADHDを専門に見ている病院に通うこと」を復帰の条件としてきた。

 

その専門の病院として、当時通ってたのは地元の病院だった。船橋に戻ると、新たに探すことになるし、それが近くに無いことはわかっていた。転院と長時間通院は、うつ病を治すには余分なストレスだと思った。

 

そもそも発達障害は治すのではなく、発達"個性"として受け入れるつもりだった。当時から障害は個人ではなく、人と人の間に“差”として生じるものだとは何となく感じていたし、個人が通院して治すうつ病なんかとは分けて考えるべきだ、と思っていた。

 

休職に至った個人理由は発達障害ではなくうつ病なんだし、病院はうつ病のためだけに通うつもりだ、と主張した。

 

しかし、産業医は一切聞く耳持たず、ADHDを薬でコントロールしなければ復職は認めない、薬は君の人生を豊かにするものだろう、と迫ってきた。まるで、ADHDであることが悪いかのような言い草だった。

その上、うつ病についても、夜の寝つきの良さを聞かれたので、「いい日もあれば、悪い日もある。身体を動かしていないと疲れていないから寝れないが、身体に負荷を与えた日は眠れる。だから仕事を始めて、ほどほどに疲労するようになったら寝れるだろうから心配ない」と正直に答えた。

 

あるいはこの時、ただ「よく眠れます」と言えばよかったのかもしれない。が、俺は医療的な判定を受けているのだから、症状を隠さず詳細に伝えるべきだと思っていたし、医者であることを信頼して、詳細まで言った。なのに、それで治っていないと判断された。

産業医曰く、健常な人は寝つきの悪い日なんて1日も無く、身体を動かして無くても寝れると言うのである。

 

おかしな話だと思った。健常な人でも、疲れていないと目が冴えて眠れないなんてことはザラにあるし、何かに悩んで眠れない日もある。精神状態が健常か病気かの判定が、「夜眠れない日が1日たりとも無い」なんて馬鹿げた基準になるはずがない。

 

仕事に打ち込んだ日はスヤスヤ眠れるけど、家で日中ゴロゴロうたた寝なんてしてたら、夜眠れないのは当然である。産業医は「1日の何処かで眠れるか」ではなく、「夜眠れるか」と聞いてきたのである。

 

これは、俺の将来を決める大事な面談である。産業医が自分のおかしな経験則に当てはめ、訳のわからない屁理屈を言い始めたのは明らかだが、その挑発に乗ったら、俺の今までの治そうとする努力や意見書がパーだ。だから睡眠についてはそれ以上反論せず、言われたまま頷き、相手にしないことにした。

次に、復帰してやっていく自信があるかどうか聞かれて、俺は「今は長期間休んでいるから自信は喪失している、自信は職場復帰してから徐々に取り戻していきたい」という答えをした。これも、当時の正直な気持ちだった。

 

会社の判断で有無を言わさず休むことになり、仕事から遠ざかり、数ヶ月経って突如として自信満々で戻ってこれるわけがない。「初日から自信満々!」なんて無責任なことは言えなかった。

さらに、原則として休職前と同じ環境での復職だが、今の状態が再発しないと約束できるかと聞かれて、「それなら約束できない。自分が再発しないように工夫していくのは当然だが、会社側も再発しないよう環境を変えて欲しい。部署移動だってありだと思う。チームとして適材適所、より良い環境を探っていこうってのが職場復帰だ。復帰者1人が再発の責任を全て背負うみたいな、そんな一方的な約束には従えない」とキッパリ答えた。

 

これについては、俺の前にも過去1年間で4人も休職していたという経緯があって、職場の環境も問題視しろと、正義感のようなものが芽生えてそういう言い方をしたし、産業医の言いがかりに我慢ができず、少し感情的になりすぎた面もある。今ならもう少し違った言い方をするかもしれない。

 

ただ、いずれの言動も、俺がムキになって反抗したという話ではない。正直な意見を言っただけで、逆にああいう尋問をしてくる相手にイエスマンで居ると後々痛い目に遭うと考えた。産業医と意見が異なることは、俺の病状とは何にも関係ない。むしろ、復職できるかどうかは主治医の意見書でGOが出ている以上、問題ないと思っていた。

 

だが、結局、俺の全ての言動がNGだと判定され、再発する恐れが少しでもあるなら復帰するな、3ヶ月延長!の一言で面談は終わった。

 

ここでお互いに信頼関係を損なった産業医には、6月には更に攻撃的で、パワハラまがいな言い方をされたのだが、それは6月の話で書こう。

 

それにしても、産業医とこれだけの大問答を繰り広げたのに、上司や保健師、人事部の使いに至るまで何も喋らず、淡々と聴き続けるかメモを取るだけで、何のフォローも説明もなかった。

 

産業医の言ってることは明らかにおかしいと感じたし、俺以外に1人くらいは反対の意思を示してくれると思っていた。しかし途中から、俺対産業医の戦いで、他が審判なら、上司はわからないが他は会社側に付くに決まってるじゃないか、と気づいた。そこからは、まるで1人で多人数を相手に戦っているような感覚だった。

 

その唯一期待できそうな上司は、休職突入時も発達障害カミングアウトの電話でも理解を示してくれていたのに、ここでは掌を返したように産業医に頷き、産業医の「復帰は難しい」に対して「僕もそう思う」とだけ同意していた。

 

面談後も何のフォローも無く、事務的に延長手続きが行われただけだった。帰り道は12月27日と違ってまだ明るかったが、1階のコンビニを見たときの気持ちはその日と一緒だった。

 

帰宅してからはカチキレていた。「変な言いがかりをつけるなよ、ハッキリ辞めろって言えよ!こっちが4,200円も払って書いてもらった主治医の意見書に一切従わず、患者に余計なストレス食らわせて説教タイムかよ!もうこっちから辞めてやるよ!今日でキッチリ諦めがついた!」と、当時のVlogに言い残していた。

 

また、自分の思い込みについても多少反省した。産業医は患者ではなく、会社の味方だった。会社は体調に異変をきたした従業員に寄り添うことはなく、むしろ産業医をコントロールして退職を決意させようとしてきた。そう思わなければ、あの態度や屁理屈の説明がつかなかった。

 

これから誘導されて自主退職するとしても、あの面談で「頑張ります、お願いします!」と心にもないことを言うよりマシだと思った。

 

翌4月16日からしばらくは、カード紛失や産業医面談のストレスを一切忘れて、思いっきりパーっと遊ぼうと決めていた。

 

 

大好きな秋葉原に行って、ゲームセンターで貯金をばらまいて、巨大スクリーンに流れるラブライブ!の映像に熱狂して、自宅では久しぶりに絵描きに没頭して…と、3日間好き放題過ごした。

 

4月19日、また実家に帰省した。それから間もなく、地元での企業訪問を1社取りつけた。

 

親のコネで来た話で、業種も何をしてるのかもよくわからない会社だったが、その時は焦る気持ちがあり、転職の手段を選んでいられなかった。訪問日は5月1日に決まった。

 

4月25日夜、風呂に入っていたら急に10日前の面談のことを思い出し、あまりの腹立たしさに、大声で叫んでしまった。母親に「どうしたんや、あかんのちゃうか?本当に病気、治ったんか?」と心配された。「病気かもしれんなあ。でもそれは、会社と合わんかったからや。もう辞めるから大丈夫や」と答えた。「辞めてどうするんか?」という質問には答えられなかった。

 

4月27日、父親の車で近所の山に連れてこられた。と言っても、揉めたわけではない。あまりに思い詰めて家に閉じこもる俺の様子を見かね、自然に触れさせて元気付けようとしてくれたらしい。両親だけは、当時の僕の味方だった。

 

標高200mほどの山だったが、久しぶりに登山して、企業訪問前に色んな気持ちを吐き出せた。ほどよく疲れて、その日はグッスリ眠った。

 

2014年5月 - 開き直り、当事者会

 

5月1日、父親と一緒に、先述の企業を訪問した。軽く会社説明と面談を受けて、これ以上自分に合ったいい会社は地元ではなかなか見つからないだろう、と感じた。

 

しかし、だから面接を受けてみよう、には繋がらなかった。むしろ「地元にこだわらなくていいんじゃないか」「もっと視野を広げて探そう」という気持ちになった。

 

そして同時に、今は休職期間を謳歌しよう、という「開き直り」に近い気持ちも芽生えてきた。今すぐ復職や転職を考えなくても、休職は、最長で後1年もさせてもらえるのである!

 

先月、会社で復職の意思を伝えて、それでも休職が続いているのだから、もう「復職しなければ」と自分1人で頑張ったり焦るようなフェーズは終わった。

 

これからの進路は流れに任せて、しばらく今この時を楽しんで、人生を楽しんで、与えられた時間をフル活用しよう、と。

 

そんなことを考え始めた5月2日、在籍中の会社から留守電が入り、一気に意識を引き戻された。かけ直すと人事部長で、先日の産業医面談で誤解が色々あっただろうから、説明をしたいので会社に来て欲しい、ということだった。

 

もうとっくに地元に戻っていたが、5月は東京でも色々活動をしてみようと思っていたし、会社に対してこれ以上失うものも無いと思ったので、5月13日に再び会社に行くことにした。

 

その東京でやってみたい活動というのは、ADHDや発達障害の他の当事者と会って話すことだった。

 

より良い工夫を見つけるために、発達障害の情報は毎日収集しており、「当事者会」にとても興味があった。もしかして自分と同じような人生、努力してるのに何故かって感覚を持ってる人が、他にもたくさんいるんじゃないかと思いつつも、どんな人が来るかわからないからと様子見していた。

 

5月5日から2日間、ニコニコ動画でひだまりスケッチの一挙放送を見ていた時、急に「行ってみないと何もわからないじゃないか!」と思い立ち、翌週開催の当事者会「プレイス」にエントリーした。

 

そして5月9日、再び東京に戻った。5月10日、久々の外行きジャケットに袖を通し、会場のある田町駅へと向かった。

 

西船橋から、東京メトロ東西線を日本橋で乗り換え、都営浅草線へ…その日出かける際の光景は、不思議なくらい鮮明に脳裏に焼きついている。久々の外界との触れ合いで、かつ、今日を境に何かが変わるような気がしていたからだ。

 

会場で、斉藤道岐左だと名乗ると、だだっ広い和室に案内された。そこには、50人もの「当事者」が居た。司会の数名も当事者だと言うが、自信満々に話して場を取り仕切るその様子は、同じ当事者だとは思えぬハツラツとした感じだった。

 

参加者は、本当にいろんなタイプの人がいた。一言では言い表せない。その2時間で、俺は「自分と同じ診断を受けて、自分とは違う特性を持つ人」とばかり知り合った。

 

つまり、診断が一緒なら性格も特性もだいたい全部一緒だろう、という期待は良い意味で裏切られた。

 

そして、そのうち数名とLINEグループを作り、勢いで翌日カラオケに行く約束までした。休職しているのに、今やカラオケである。会社が申し訳ないという気持ちは既に通り越し、会社が会社なりの判断で俺に与えた「追加の休職期間」を将来の糧にするため、今はしたいことをするんだという開き直りに至っていた。

 

それまで大嫌いだったカラオケだが、経験の幅を広げたいという一心で参加した。慣れないカラオケをぎこちなく過ごし、行ったことなかったサイゼリヤで2次会。彼らは当事者の先輩で、年齢的にも少し上だったので、彼らのそれまでの人生や診断を受けてからの過ごし方をひたすら聞き、新人当事者としてはたくさんの気づきがあった。

 

また、同じタイミングで診断を受けて初参加という同い年の青年もいた。この当事者会初参加で出会った人達とは、以後長らくの交流を持つことになるが、特性が違えど、それぞれと何処かで似た部分もあり、そして人生を通して戦ってきたことも一緒で、心地よい時間だった。

 

5月13日、本社で先日の産業医面談について説明を受けた。一言で言うと「産業医面談はストレス耐性チェックなので、強い口調で揺さぶることもあるが、復職したいなら耐えて欲しい」という内容だった。

 

当時も書いたが、強い口調については別に問題視していない。そんなことより、主治医の意見書を無視して独断の変な線引きで復職判断をしているのがおかしい、と訴えていた。

 

なので、人事とも誤解どころか全く噛み合いそうになかったし、今の段階でこれ以上は話しても話さなくても変わらないと感じた。この面談を復職希望者みんなが受けてると思うと、後続を生まないよう何とか変えてやりたいと思ったが、そんな力も権限も休職中の自分にはないし、自分と立場が違う会社側の人間がこうせざるを得ないことも、理解しなければならないと思えた。

 

なら、俺個人はこんな無駄なことにずっとこだわるんじゃなく、復職なら復職、退職なら退職でバッサリ決まった方がいい、だから今は休んで流れに任せるんだ、と決意した。

 

5月16日、先月失くした免許証の再発行を受け取り、紛失物対応はようやく一段落した。

 

5月19日頃、また実家に戻り、以後は復職まで先のことは考えず、実家でゆっくり過ごすことにした。

 

英語の教材を買って、昔のまんまの学習机で勉強していると、まるで学生の頃に戻ったような気がした。

 

 

そして、母親がご飯だと呼びに来て、両親とリビングでご飯を食べる。また子供部屋に戻って、やりたいことをする。学生の頃は当たり前の毎日が再びやってきたが、もう学校には通わなくていい。もしかして、今はとても貴重な、二度と訪れない幸せな人生の休み時間なんじゃないかと思えた。

 

2014年6月 - 決意

 

6月に入っても休職ぶりは変わらなかったが、この頃は日常生活のビデオを撮っていた。昔懐かしい道を散歩したり、考えてることや今やってることを部屋でカメラに向かって話したり。今しかできない気がしたので、そうしていた。その予感は正しかった。2020年になると、たまに当時の映像を見て、この頃を懐かしく思い出す。本当に束の間の、後で恋しくなるような人生の休み時間だった。

 

月末に休職半年を控えて、会社からどうするかを聞かれた時は、後1年休むと返答するつもりだった。しかし、念のため就業規則を読み返していたら、休職後半年間は「欠勤期間」で、人事査定や退職金には影響しないが、その後の1年間は「休職期間」で、それらにハンデを受けることを知った。

 

人事査定なんて今さら知ったこっちゃなかったが、退職金に影響というところで、ふと思いとどまった。もし傷病期間があるからと言って、退職金に不当な係数を掛け算されて金額を減らされちゃ、たまったもんじゃない。あの産業医面談をする会社ならやりかねないし、後1年なんて贅沢言わず今すぐ復職するか、もしくは今すぐ辞めた方がいい、と考えた。

 

とりあえず、次の復職面談を目下最短で予約可能な6月17日に設定した。そして、そこで出す退職届を準備した。

 

「今度こそ辞めて、部屋も引き払って、帰ってこよう。その後のことは、後でゆっくり考えればいい」

 

実家の最寄り駅に向かう母親の車で、そう思っていた。

 

駅に着いた。いつもなら、特に何も言わず車を降りて東京に行く状況なのに、この日は見送り際に母親が口を開いた。

 

「辛くなったらまた帰ってきな、親は子供が帰ってきたらまた育てるつもりで、待っとるから」

 

俺は一瞬ポカンとしたが「わかった、また帰ってくるわ」と返事して、京都行きの特急に乗った。しかし、その一言はズッシリと脳裏に残り続けた。
 

5月から感じていた「これは貴重な貴重な、人生の休み時間かもしれない」という気持ち、そして父親が山登りに連れて行ってくれたり、就職先探しに奔走し、母親が食欲のない俺にご飯を出し続けてくれたことも思い出した。

 

25歳で東京に巣立つまで、自分の部屋の片付けもできず、両親に片付けてもらっていた。27歳になっても、大学生までに親が買ってくれた服を着続けていた。物凄く手のかかる子供だったであろう。

 

休職期間のみならず、今までの人生を振り返って、俺はこの日まで本当の意味での自立がまだできていなかったし、ずっと先送りにしていた。

 

両親はもうすぐ60になろうとしている。その両親に、大きくなった子供の面倒をまだ見させるというのは、過酷すぎるんじゃないかと思った。一方で、せっかく親が健在なんだから、地元に居た方が親も安心するし、発達障害のある俺は支援を受け続けた方が良いんじゃないかという気持ちもあって、大きく揺れた。

 

特急が綾部を過ぎ、亀岡あたりに達した頃、その気持ちの揺れは1つの大きな決意へと変わっていった。

 

これ以上親には頼らない。ここからの自分の道は、自分で切り拓く。自分の家庭を築くんだ!

 

2014年6月9日。特急の座席でそう心に決め、拳を堅く握りしめた。拳は大粒の涙で濡れていた。

 

翌日、復職条件を満たすために千葉での通院先を見つけた後、ららぽーとTOKYO-BAYで、初めて自分用の服を買った。SNAPと書かれた無機質なTシャツと、黒のパンツだけ。馬鹿にされるだろうが、小さな小さな第一歩だった。店員が話しかけてくるのが嫌だなんて、言ってられなかった。

 

6月15日、自分で決めて行った当事者会で、学校や会社の繋がりを超えて知り合えた友人達と、素晴らしい江ノ島観光を楽しんだ。

 

6月16日、夕方。俺は先週と同じららぽーとTOKYO-BAYに来て、ベンチで休んでいた。沈み行く夕日を眺めた。それが俺の、休職生活最後の1日だった。

 

 

いったんここまでで投稿しようと思う。座り過ぎて尻が痛い。続きは(2)からだ。