実録大長編「2014年 - 発達障害と診断された“夜明け”の年」 (2) | オタントニオのブログ

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趣味は車、レース観戦、ラノベ、アニメ、小説、ゲームなど。発達障害当事者で、当初ADHDだと思われていたが後になって「特定不能の広汎性発達障害」と判明。

はじめに

 

この記事では前回に続き、2014年に起きたことを振り返る。

 

今回は6月から12月にかけて。復職の戦いから、徐々に自信を取り戻し、大切な人生の「財産」を得るまでの話。完結編だ。

 

実は数日前にも一度投稿したが、あらためて最後まで書き上げた。

 

2014年6月 - 出勤練習開始

 

6月17日、予定通り復職面談が行われた。今回は、産業医が何を言っても復職優先で「はい」と受け流すつもりでいた。その代わり、後で然るべき行動に移せるよう、全ての発言をメモすることにした。だから以下の発言は、全て正確なものだ。

 

面談が始まるなり、「いやー君と話すのはいつも大変なんだよねぇ」と、明らかな挑発を受けた。そして、

 

「僕なんか君と違って休んだことも遅刻したこともないんだよ?医者になる前の研究では2徹も3徹もしたもんだ。でもこの通り、すこぶる健康。それに比べて、君は一体何してるんだ?」

 

と来た。俺は、人生で初めて自分の健康自慢をしてくる医者を見た。診察に来た患者に「僕は健康なんだよ」なんて言う医者、聞いたことがなかった。と言うか、今もない。

「君が休んで会社には迷惑がかかってんだ。二度とこうならない自信はあるのか?」

 

どんな理不尽な尋問でも、はいというしかない。感情を押し殺した。しかし、復職後の環境が以前と同じ部署だという話になった時、さすがにそれは受け入れるわけにいかず反論した。

 

「主治医の意見書には『環境を変えよ』と書いてある。4200円も出して折角書いてもらったんだから、その意見を重視して欲しい」

 

そしたら返ってきたのがこの一言である。

 

「僕は会社で就労できるかどうかを判定するのだから、生活できるかどうかレベルの主治医の意見は参考にならない」

 

無茶苦茶だった。主治医だって生活ではなく就労に関する意見として「復職に関して環境を変えよ」と書いたのだし、社外の人間だってことなら産業医も会社に呼ばれてる立場なんだから同じだ。産業医の理屈は筋が全く通っていなかった。

 

そして、また同じ部署と何故勝手に決めるのか、と。上司が言うならまだしも、社内事情をよく知りもしない人間に勝手に決められたくないと俺は憤慨したが、これ以上自分で反論するのは悪手と考え、周りの傍観者に委ねることにした。

 

しかし、相変わらず同席している保健師も、人事担当も、上司の代わりに出席した担当部長も、産業医のおかしな物言いについては何一つ味方してくれなかった。

 

俺は、これは会社の暗部だと確信した。今まで何人このやり方で、退職を迫られてきたのか。そう感じた時、やりきれなさと怒りが同時に滲み出てきた。そして、俺は必ず復職して、正攻法で戦うと決めた。

 

それ以降、とにかく反論を避けた。産業医は「僕の言うこともわからなくて本当に大丈夫か」と休職延長させる気満々だったようだが、担当部長から「彼は休職前に一定の成果は出せていた。復職したらまた戦力になりうる」という意見が出て、産業医がしぶしぶ折れ、翌日からの復職が決まった。

 

しかし、3週間の出勤練習で経過観察するという条件付きだった。その間、会社に来てただ座っているだけ。遅刻や欠席は一切許されず、無給で、通勤代は全額自腹。しかも、毎日どう過ごしているかを担当部長がレポートに書くという、監視対象扱いだった。

 

それは産休や育休、介護休明けの人も同じ扱いなのかというと、もちろん違う。傷病だけが特別、まるで悪者扱いのペナルティだ。全く納得できなかったが、復職さえすれば、お金を稼ぎさえすれば後はどうにでもなると思って、復職を決めた。

 

ただし、そのルールには若干甘いところがあり、最初の1週間は半日出社で良いとのことだった。俺は即決で半日出社を希望した。

 

6月18日、復職1日目。遅刻を避けるため、余裕を持って30分前に会社に着いた。足取りは重かった。フロアも自席の位置も、変わっていなかった。

 

迎えてくれたのは新人のN君だった。12月27日に起きた、俺の壮絶な休職劇のとき彼はまだ入社していない。従ってアレは目撃していないし、この時が初対面だった。安心して挨拶し、打ち解けた。

 

実はこのN君、とても良いヤツで、復職直後のプロジェクトを一緒に頑張ってくれたばかりか、退職した後も俺の結婚式の受け付けを快くやってくれたり、彼女と付き合うかどうかって時にもキューピット役を見事に果たしてくれた。そして、今でも良き友人として繋がりを保っている。

 

少し肩の荷が降りたところで、いよいよあの日の顛末を知る同僚が続々出社してきた。俺は覚悟を決めて、1人1人に「今日から戻りました。ご迷惑おかけしました」と、挨拶をした。

 

意外にも、みんな好意的に接してくれた。中には、突進して抱きついてきたおじさん社員もいた。とはいえ、俺が愛されているなどとは思わなかった。みんな自分のことで精一杯、他人の休職を気にしたり根に持つ暇なんか無いんだ、と繰り返し自分に言い聞かせていたが、それを確信できた瞬間だった。

 

しかし、最後に出社してきた当時のプロジェクトリーダーに挨拶に行くと、「あ、斉藤君も会社に来るんだ」と、まるで関心のない他人事のようだった。やはり直接関わった人には、腹に抱える何かがあるのだろうと思った。

 

出勤練習中は無給で、業務をするわけにいかないので、その日は半年分のWindows Updateと、休んでいた間に届いた9800件のメールを20%くらいだけ読んだら昼になったので、退社した。

 

自宅に着くと、久々の出社で気を使いすぎたのか、すぐに眠りに落ちた。それから1週間、午前中だけ出勤練習するという単調な日々が続いたが、帰ったら数時間の「寝落ち」をしてしまうのも変わらなかった。フルタイム勤務をできる自信は、木っ端微塵に吹き飛んだし、出勤練習があって助かったとさえ思った。

 

もっとも、それは5ヶ月働いてなかったんだから当然だった。言わば寝たきりだった人間が、突然ヒョイヒョイと歩き始められるわけがないのだ。その自信を回復するのは出勤練習中、そして正式復帰後しばらくの間で良いと思った。

 

2週間目の6月25日からは、朝から定時までの出勤練習になったが、この頃になると大量のメールや人事異動なども読み終えてしまい、座ってるだけで何もすることがなく、かと言って以前の業務の勉強をするのも癪に障ったので、全然関係ないHTML5の本を買って、色々作ったり勉強していた。

 

しかしとにかく眠かった。そして運が悪いことに、フロアの入り口に最も近い席に居るので、常に誰かしらが周囲を通行しているような状態で、元々同じプロジェクトだった同僚にも「いま暇?」とか「何の勉強してるの?」とか頻繁に話しかけられた。

 

そんなこんなで、働かず座ってるだけなのに定時にはもうクタクタ。帰りついたらすぐ横になった。定時まで持ち堪える自信は多少湧いたが、休職前は毎日のように22時、23時まで残業していたなんて信じられなかった。

 

6月26日、同じ部署の1つ下の後輩、T君とランチをした。T君も俺の半年前に突然の休職を経験しており、休職あるある話や、俺がいない間の日々のことを色々話してくれた。同じ経験をした人が他にもいるというのは、当時の幸運の1つだった。そして、いざ目を背けていた仕事の話を聞くと、細かい部分は色々変わっていて、5ヶ月間タイムスリップしたような気分にも陥った。

 

そして、午後には産業医面談があった。とはいえ、この日は先日の劣悪産業医とは別の医者で、目的はカウンセリングと助言だった。例の医者ほど理不尽な物言いはして来なかったが、ADHDの特性をどうにかしないと就労を続けるのは難しいという意見に終始していた。ストラテラの投薬治療を強く勧められたが、あまりに高額で、かつ薬の効き目にも疑問を感じていたので、当面は行動療法でカバーしていくと断言した。

 

しかしその日、あろうことか薬を家に忘れていた。薬を飲んでいないと吐き気・食欲不振の症状が出るので、爆弾を抱えたような1日だったが、なんとか晩飯まで無事食べることができて、吐き気もなかった。家での晩飯後にはすぐに薬を飲んだが、薬を手放せない身体であることと、忘れ物はそう簡単になくならないことも思い知らされた。

 

だが、俺に効くのは薬ではなく工夫なんだ、という考えは揺るがなかった。頑張っても出来ない事は仕方がないと割り切り、今の自分の状態を受け入れ、その状態で出来る小さなことを見つけて楽しむのが、今の俺に一番効くと信じていた。

 

6月28日、土曜日。この日は発達障害の当事者会「プレイス」2回目の参加だった。だが、行ってみるとこの会は今回で最終回、これで解散だと聞かされた。理由は新参者には明かされなかったが、まぁボランティアでやってる会ならいつ終わっても不思議ではなかろう、と特に気にしなかった。

 

この日は運営部屋とその他部屋の2部屋に分かれていて、多くの人が閉幕のゴタゴタに興味があるのか、運営部屋に行っていた。その他部屋は7人だけだった。主な話題は恋愛だったが、この時点で恋愛経験のなかった俺は、黙って聞いているしかなかった。とはいえ、そこで不貞腐った態度を取っていたのが以前の俺だが、今の俺は違う。これからはできるだけ人の話に興味を持つ、第2の人生の俺なんだ、と心がけながら話を聞いた。

 

6月29日、日曜日。気晴らしになるかと思って、成田空港近くまで電車で行ってみた。1994年、家族で関西国際空港に行って以来、20年ぶりの空港だった。今はうつだとか復職だとか、ちっぽけな世界で戦っているけど、いつかは俺も海外へ行ったり、広い世界でポジションを見つけて活躍するんだと思いながら、飛び立つ飛行機を何機も見送った。

 

2014年7月 - 復職

 

出勤練習も折り返しを過ぎた。以前働いていた時は慢性的に疲れていたのであまり気づかなかったが、満員電車による出勤疲れが意外に大きいことに気がついた。

 

前日しっかり眠っても、満員電車1時間でかなりフラフラになり、会社のデスクにつく頃には心地よい眠気が襲ってきた。出勤練習中は遅刻厳禁なので、余裕を持って30分前に着くようにはしていたが、始業までの30分間で眠りに落ちることも少なくなかった。

 

始業後も仕事こそ無いが、担当部長には観察されているので、居眠りは厳禁だった。眠気と1日中格闘し、だだ長い時間を耐えしのいで、ようやく帰る日々。クタクタの身体に帰りの満員電車がとどめをさし、部屋に着くとグッスリ翌朝まで昏々と眠る。帰宅直後から遅刻寸前まで眠る、「キタチコ」という単語が生まれたのもこの頃だ。

 

毎日定時に帰っているのにここまで疲れるものかと思ったが、半年休んだリハビリに多少時間がかかるのは仕方がない、今は免疫を獲得する時期だ、とも思った。

 

7月3日、人事部の幹部から産業医面談についての説明を受けたが、産業医の面談はストレス実験を兼ねてるとか、5月に受けた説明と全く同じ話に終始して、新しい展開は何一つ無かった。

 

ムカついたので、何かでストレスを紛らわそうと思った俺は、帰りの電車で秋葉原に向かった。そして、スマホ「Xperia Z1 SOL23」を購入した。機種変更だ。なぜ突然そんなものを買ったかというと、通勤電車内の無駄な時間を今後は有効活用したいと思ったからである。いいスマホを買って、ゲームにでも打ち込めば、今のストレスフルな生活の心の支えになるんじゃないかと思った。

 

しかし、家に帰って開封すると、運悪くタッチパネルが全く反応せず、翌日も秋葉原に行って交換してもらう羽目になった。とことんついていないと思った。

 

それからしばらく、ラブライブ!スクールアイドルフェスティバルというゲームにハマっていた。ゲームだけでなく、ラブライブ!はこの年何度も繰り返し観ていて、気晴らしには欠かせないコンテンツだった。

 

7月6日、ゲームに一区切りつけた俺は、気分転換に懐かしの「としまえん」に1人で行った。ここは2005年、若かりし俺が人生初のナンパを試しに行き、翌年にもネトゲのオフ会をした思い出の地である。

 

 

 

ナンパやオフ会にいい思い出はあまり無いが、プールで泳いだ後のインドカレーが、格別に美味しかったのは記憶に刻まれている。この日プールには入らなかったが、あじさい園を散策した後で久々に食べたマサラのカレーは、当時と変わらぬ思い出の味だった。

 

7月7日、3週間の出勤練習最後の日。産業医面談で、あの問題の医者と三たび相対した。しかしこの時の産業医の態度は、今までとは打って変わって穏和だった。「これなら大丈夫そうだね、僕が言うことはもう何もないよ」と、ほんの10分ほどで面談は終わり、正式に復職が決定した。

 

無遅刻無欠席の記録と、担当部長の観察レポートが揃っていたからだが、それにしても産業医の態度が今までと違い過ぎて不気味だった。もしかして俺の代わりに新しいターゲットを見つけでもしたのか、そんな憶測さえしていた。

 

27歳の俺は、今と違って汚いものを真正面から汚いと感じていたし、とにかく血気盛んだった。早速労働組合の会議に自ら出席して、先月の面談メモを片手に、産業医の言動について相談した。そして、組合の出方を見たが、時系列を無視して結論だけ話すと、何も変わらなかった。

 

労働組合に出しても揉み消されるような会社の暗部。残された告発先は、労働基準監督署しかなかった。だが、そこまで来て気力が尽きてしまった。産業医を下ろすことは確かに大仕事だが、リハビリ中の俺がそこまで無理してやることではない。メモは残っているし、来年でもいつでもチャンスはあるわけだから、その前に自分の体調と状況の安定が優先だと思った。

 

さて、正式に復職してからの仕事はと言うと、難易度Easyなプロジェクトにアサインされた。新人のN君と、育休明けのSさんとの3人プロジェクトだった。

 

3人ともが働くカンを取り戻す目的もあって充てがわれたもので、これも結論を言うと「誰も使わない隠し機能の開発」と言う、なんとも悲しい仕事だった。しかし、このプロジェクトをしていた3ヶ月間、ほとんど定時に帰ることができたし、前職時代では最も平穏な時間で、リーダーのSさんも優しく、自信を取り戻すには最適な仕事だった。2020年の年明けに、N君とSさんとの3人で久しぶりの再会&新年会をしたが、このプロジェクトの思い出にも花を咲かせた。

 

7月18日、1ヶ月半ぶりに実家に帰った。そこで、飼い猫クラムの弱った姿を目撃した。

 

実はクラムは、6月末に調子が悪くなって病院に連れて行かれ、余命3ヶ月と診断されていた。俺が14歳の時に飼い始めた猫で、12年間病気知らずだったが、13年目に片足が腫瘍ができ、それがだんだん大きくなって足が動かなくなった。そこで病院に行ったら悪性だったというわけだ。この頃は3本足で必死に歩いていた。

 

そして、祖父母宅に行くと、祖母にも休職のことが伝わっていて心配された。それはありがたかったが、やがていつもの話題になり、早く結婚しなさいと言われ始めた。

 

確かに田舎住まいだと27歳は結婚してても自然な年齢だし、80を過ぎた祖父母が早く孫の結婚を見たいと思う気持ちもよくわかった。俺とて家系を継ぐという責任は常々感じていたし、それが数年以内に、自然な形で実現したら理想的だった。

 

しかし、当時の俺には結婚など想像もできなかった。復職直後で、うつ病闘病中で、発達障害で、貯金ゼロ、恋愛経験ゼロ。職場も同性ばかりのIT。追い風は無く、逆風だらけである。そんな状況じゃ、果てしなく遠い目標に感じるのは必然だし、早くても祖父母が生きている間には実現しないだろうなと思った。

 

しかし、結論を言うと実現してしまった。翌年好きになれる人と突然出会い、全てがトントン拍子で進み、2018年に結婚できた。祖父の認知症は進んでいたが、報告をした時、言葉は無くても涙を流してくれた。祖母はしっかりと元気な状態で妻に会えた。今も90歳で元気である。人生は、どこで何があるか全くわからない。

 

さて、時系列を戻すと、病床のクラムを抱き、最期の別れを告げて、2014年7月21日、実家を後にした。

 

 

結局9月にもクラムは持ち堪えていて、もう一度再会できたのだが。

 

7月28日、街祭りが開かれた。近所のファミリーが参加するような規模の祭りで、1人で来るような人はあまりいなかったが、俺は1人で出かけ、楽しそうな人々を遠目に見て幸せをもらった。

 

7月30日には、会社で去年の新人の成果発表会があった。俺は休職するまで、その新人のトレーナーという役割を任されていた。その後は他の人が引き継いだようだが、成果発表会には俺が出ることになった。

 

2014年に入ってから、自分の仕事も満足に出来てないのに、後輩の1年間の成果を言わなきゃならないという皮肉な役割だったが、みんなと違って定時までしか働けない今の自分には、小さな「できること」の1つだと思って引き受けた。しかし、大勢の前に出るのが久しぶりすぎて、すこぶる早口になり、3分の持ち時間を半分も余らせてしまった。

 

2014年8月 - 自信の回復

 

8月に入ると、薬を飲んでいるのになかなか食欲が湧かず、やる気も低下した。夏バテもあるだろうし、定時までとはいえフルタイムで働いているわけだから、自然な推移だと思っていた。

 

8月2日、DQXTVの夏祭りを観覧しに、渋谷のアイア シアタートーキョーに行った。休職中は地元で放送を見ていたが、ついに東京に来て、演者たちを生で見れるようになった。それが嬉しかった。1人で行ったし誰かと会話することは無かったが、たくさんのDQファンと共に、興奮と熱気に包まれた1日を過ごした。

 

8月8日、いつもの通院先で食欲低下と左半身の痛みを相談したところ、胃の内視鏡検査を勧められた。実は俺は2008年に十二指腸潰瘍になった既往歴があり、最後に胃カメラを飲んだのが2009年だったので、数年に一度は検査しといた方がいいという主治医の勧めだった。

 

この日は精神科から受診し、いつも手放せない薬…食欲の出る抗うつ薬「ドグマチール」を処方された後、消化器内科をはしごして、9月5日に胃カメラの検査予約をして帰った。

 

そして同日夜、自宅にいると突然目まいがして、立っていられなくなった。ベッドに横になると、天井がグルグル回転していた。強い不快感と戦い、なんとかベッドを這い出て外の風に当たろう(&倒れても誰か助けてくれる)と、夜の街をフラフラ歩いた。後で知ったが、これはメニエール病の症状だった。幸い、この日から2020年に至るまで一度も再発していないが、その症状が出たことは俺の自信を更に打ち砕いた。

 

ただ、この頃になると、自信とは異なる新しい気持ちも芽生えてきた。うつ病はれっきとした脳の病気で、気持ちでなんとかなるものではない、と言うのは経験した者にしかわからない。つまり、俺はすごく貴重な体験をできたのではないか、と。発達障害もそうだが、これらと向き合う経験を今できていることは、将来大切な「財産」になると、前向きに考え始めたのだ。

 

そして、会社に行くという日課に対しても、考えを思いっきり飛躍させた。今はあくまで夏休み。昼間は都内のパソコン研究部に遊びに行ってるんだ、と。シュタインズゲート風に言えば、そこはガジェット研究所だ。思い切り痛い言動をして、面白おかしく過ごしてやろうじゃないか、と。

 

これが思いのほか大当たりだった。今は夏休み中だと錯覚し始め、同僚と会うのも部員のメンバーとして会っていたので、とても充実した気分だった。ランチタイムに積極的に部員を誘っては、話に花を咲かせたり、さながら部活動を楽しむリア充と化して、1週間を満ち満ちと過ごすことができた。食欲などの体調も、徐々に上向いてきた。

 

勿論あれこれ説教されたり、うまくいかないこともあったが、それも人間関係を彩るスパイスの1つだと思えば平気だった。土曜日になって、部屋で1人になると物足りなくなり、「ああ、もっと誰かと話したい!」と、新設された当事者会にエントリーしたくらいだ。もしかすると、今も時々プレゼン大会などで発揮される「話し好きな俺」は、この頃に誕生したのかもしれない。

しかし、この考え方には唯一、決定的な弱点があった。浮かれているので、仕事の進みが確実に遅いということだった。それまで余裕だった開発スケジュールは、夏休み思考のせいで少しづつ遅れ始めた。

 

8月23日、先述の当事者会「サピア」に初めて行った。そこで出会った面々は、以前の会にもいた人たちだった。発達障害あるある話は、当時の心の支えだった。そんな貴重な話ができる友達を、この会でたくさん見つけることができた。それまで関東で友達といえば会社の同期数名ほどだったのだから、この会は休日の自分の居場所だと強く感じるようになった。

 

8月27日、この日はなんの変哲もないただの水曜日だった。1日かけてプロジェクトの設計書を作っていたと思うが、前日までとは段違いに効率よく作業が進んだ。夏休み気分で遅れていた作業も、少し取り戻せた。

 

そして定時を迎えたとき、急に「やりきった!」という気がした。帰り支度をして、誰もいないエレベーターホールに行き、足取り軽くエレベーターに乗ったシーンは、今でも強烈に覚えている。

 

昨年12月27日、上司にエレベーターに押し込まれた日から、丁度8ヶ月の日でもあった。復職後はじめて、1人前の仕事ができる状態に俺は戻ってきた、と感じられた大切な瞬間だった。

 

8月31日、各地のセガのゲーセンでラブライブ!の等身大パネルが飾られていることを知って、巡礼の旅をした。旅といっても、ほとんどの店舗が秋葉原にあったのだが。

 

 

 

 

 

ラブライブ!は当初、アニメやソシャゲとして楽しんでいたが、やがて歌にもガッツリハマり、この年知り合った友人達とも話せる貴重な話題となった。

 

アニメ放送(2期)は6月に終わってしまったが、ファンとして楽しめるコンテンツは尽きなかった。誰の推しか、次のシングルは誰がセンターだ…などと、ネットで毎晩語り明かした。

 

さながらアイドルグループを追っかけてるようだったが、ハマっている間は今の自分の難しい状況を忘れることができたので、大事な時間だった。

 

2014年9月 - 晴天から曇り空へ

 

9月5日、予定通り消化器内科を受診し、予約していた胃の内視鏡検査を受けた。

 

胃カメラを飲んだことは過去に2度あったが、カメラが喉を通過する際の吐き気が半端ない思い出があったので、数年ぶりの当日は憂鬱だった。

 

加えてうつ病や夏バテによる吐き気も時々あるし、その状態でカメラのパイプなんか突っ込まれたら、確実にリバースということで恐れを期していた。

 

睡眠薬を投与することを提案されて、ぜひと即答したが、いざ点滴を受けてもなぜか全く効かず、結局意識がはっきりした状態で胃カメラを飲むことになってしまった。

喉に麻酔をかける手順は3回目とあって慣れたものだったが、久々に見た胃カメラのホースは「こんなに太いのか!」と感じた。

 

しかし今更逃げようもないので、マウスピースをはめられなすがままにカメラを突っ込まれ、案の定すぐに嘔吐したが、前日夜から何も口にしてなかったので、胃からは何も出ずすぐに苦しい状態を抜けた。

 

カメラの先端が喉を通過さえすれば、後は安定期だと知っていたので、抜けるまでの間は得意の鈴鹿サーキットを走るイメージトレーニングをして乗り切った。

 

検査結果は、十二指腸潰瘍の跡こそあれど、幸いにも問題なしとのことだった。ピロリ菌検査も陰性。これで向こう5年は検査しなくてもOKだ。

 

喉は少し痛んだが、スッキリ病院を後にし、消化にいい物を食べよということだったので、讃岐うどんを食べに行った。その後自分へのご褒美として、セガ池袋にいるエリチカに会いに行った。

 

 

そして、詳しい日付は忘れたが多分この頃であろう、いつも通り仕事をしていたら、急に事業部長から予期せぬメールが飛んできた。

 

客先でとある講演会があるので、斉藤君は忙しくないだろうし、来ないかというのである。

 

俺以外にももう1人誘われていて、事業部長の誘いなら断れないと言うので、そう言われたら俺も行くしかなく、渋々向かった。

 

講演会では、日本代表の女子アスリートになった人が出てきて、私はどのように努力を続けて、目標を達成したかと、夢を持つことの素晴らしさについて説いていた。

 

俺はその内容が心に響いたし、普段の生活で接することのない人の話を聞けて、これは貴重な機会をもらえたと前向きに考えていた。

 

しかし、その後で事業部長が飲みに行こうと言い出したので、嫌な予感がした。

 

居酒屋に入り、最初は娘の写真を見せてきたりとご機嫌だったが、酔いが回るといつもの調子で豹変し始めた。

 

俺が異動してきた当初は所属部署の部長だったし、この人の性格はよく知っていたが、機嫌の良い時と悪い時で全く人が変わり、悪い時は典型的なパワハラ上司だった。

 

そして始まったのは、先ほどの講演会に対する愚痴だった。

 

「あんな話聞かされてさァ、どうしろっちゅーのよ。どこの馬の骨か知らんけど、最近の若いのと一緒で頭お花畑だよな!!」

 

まァ、中年から初老になろうって時期に若い人に夢を持てとか言われたら、そう思いたくもなるわな、と心の中で笑ってしまった。だが、そこから話題は、その場で一番若い俺のことに移っていった。

 

「君さァ、Y課長から色々聞いてるよ。せっかく呼んだのに大阪に戻りたいんだって?そんなに戻りたきゃ戻してやるから、ママのおっぱい舐めてろよ!」

 

「でも戻したとして、大阪に仕事なんか二度と振ってやんないよ」

 

俺は、立て続けにこう言われて作り笑いを続けるしかなかったが、ただの冗談なのか、それとも俺が大阪支店に戻ったら本当に社内政治を仕掛けてくるのかわからず、この圧力のかけ方は汚い!と憤慨した。

 

万が一出世しても、こんな上司には絶対ならないぞ、とも堅く誓った。もっとも、その会社で出世する気はゼロだったが。

 

そんなことがあってから、俺の心を反映するかのように、ジメジメした天気が続いた。

 

2週間連続で雨が降り、通勤にも不便を来たしたので、俺は常に不機嫌だった。Twitterで「天気いい加減にしろ!!!」と、どうしようもない怒りのツイートを毎日してたくらいだ。

 

9月13日から15日にかけて、敬老の日を含む3連休だったので、2ヶ月ぶりに実家に帰省した。そこで、6月に余命3ヶ月と診断された病床のクラムに再会した。元気だった頃の姿は見る影もなく衰弱していたが、なんとか生きていた。

 

クラムとは、中学生の時に生後3ヶ月で迎え、大学進学までを共に成長し、それからは実家に戻るたびに遊んでいた。今年の休職中でさえ、居るのが当たり前だった。

 

 

9月15日、16時過ぎ。クラムと、最後のお別れの「握手」をした。そして、いつも通り母親の車で駅へ向かった。

 

それから毎日、父親からのメールでクラムの食欲がなくなったとか、歩かなくなったとか、2日ぶりに歩いたとか、そんな話ばかりが伝わってきた。

 

9月20日、ネットニュースで東京ゲームショーがやっていることを知り、気分転換にふらっと遊びに行った。

 

 

どんなゲームを見て体験したかはあまり覚えていないが、この頃になると2万歩くらい歩いても疲れなくなっており、働いていても休日を楽しめる身体になったんだと、喜びを感じ始めた。

 

その帰りに浮かれ気分で撮った写真は、今まで撮った中で最高の1枚である。

 

 

9月21日は、サピアだった。俺にとって4回目となる発達障害の当事者会だ。

 

しかしこの日は、いつものような雑談会とは違って、とある発達障害当事者の青年とその母親が、当事者の生い立ちで経験してきたことを講演してくれるという内容だった。

 

この青年は、俺と同い年で、5月に仲良くなった人だった。やはり彼の特性は、同じ診断であっても俺とは色々違った。

 

彼の早起きやルーティンは、俺には真似できるものではなかった。逆に俺のような適当さや、俺自身が「物事追行障害」と呼んでいるような中途半端さは、彼は持っていなかった。しかし、良かれと思って取った行動が、奇怪に思われて理解されにくいというのは、2人ともが抱える共通の問題だった。

 

発達障害とは、具体的にどういう行動を取る人とかじゃなく、要するに世間の少数派なんだ、と気付き始めた。

 

彼の母親ともそこで初対面だったが、友人の家族と会ったことで印象が変わったし、より友人を深く知れるきっかけになると思った。俺は今まで、友人の家に遊びに行くという経験をほとんどせず育ってきた。でも過ぎた過去を惜しんでも仕方ない。今後は、こういう機会を度々作りたいと思った。

 

実際、2015年から毎年彼の家でBBQを楽しんでおり、家族とも何度も会っている。ひょんなことから求めた居場所が、俺に足りなかった経験の穴を埋めてくれた。

 

2014年10月 - 限界を探る日々

 

復職から携わっていた緩やかなプロジェクトは9月で終わり、10月からは休職前の製品開発プロジェクトに再度アサインされた。つまり環境は復職前とほぼ同じになって、耐えられるのかという心配が生じた。

 

しかし、ストレス源が何なのかまだはっきりしないし、他の未経験の仕事を勉強しながら始めるような心理的余裕もなかったので、受け入れるしか無かった。

 

10月3日夜、俺は近所のイエローハットでレンタカーを借りた。車はトヨタのファンカーゴ。

 

 

目的は車中泊だった。車の中で大の字に寝る、という一度やってみたかった憧れを、ささやかに叶えることにしたのだ。

 

 

宿泊場所は鈴鹿。つまり、F1の日本グランプリ観戦も兼ねていた。チケットは福島に住んでいる友人が取ってくれていて、現地で合流した。

 

2014年のF1日本グランプリは、予選は晴れていたが、決勝日には台風が直撃する予報だった。前夜にイオンに雨合羽を買いに行き、大混雑の銭湯で一服し、駐車場に泊まった。そして朝はコンビニ飯と、まさに絵に描いたような車での一人旅だった。

 

しかし徐々に雨足強くなり、サーキットに着くと気温も低かった。風が強くて傘はさせなかったので、雨合羽だけ着たが、凍える雨に打たれながら観戦した。

 

レースは大雨の中スタートが切られ、序盤は見応えあったが、やがてクラッシュが相次ぎ、ジュール・ビアンキの事故によってレースが中断した。悲劇の週末だった。ビアンキは、このクラッシュで昏睡状態に陥り、翌年7月に亡くなった。

 

その時はビアンキの安否と、そして渋滞を心配しつつ、暗くなる前に鈴鹿を離れた。

 

渋滞は心配していたほどには無かったが、悪天候によって帰りの400kmは、生涯で最も運転しづらい洪水道だった。船橋に到着する頃には、もはや道ではなく、川を走っていた。

 

 

GT-Rを手放してから9ヶ月ぶりの運転だったが、よくミスなく走りきったと我ながら思う。だが、休み休み走って翌日の明け方に戻ってきて、レンタカーを返しに行く必要もあったので、会社には当日休みの連絡をした。

 

10月10日、去年の新人が飲み会に誘ってくれた。同じ事業部の若手だけの飲み会で、事業部長に誘われるよりも百倍嬉しい誘いだった。

 

その店に向かう道中、父親からSMSが届いた。クラムが危篤だ、と。でも、東京に居てできることは何も無かった。

 

飲み会であったことは覚えていない。気がついたら翌日で、自宅のベッドの中だった。

 

実家からの電話の音で目覚めた。電話が来るということは、クラムが死んだんだ…と悟った。そして、予想通りだった。土曜の朝、両親が起きてくるのを待ってから甘えるように数回鳴き、そして旅立ったらしい。


10月12日は、母校の大学で学祭があった。事前にOB訪問の招待が届いていたので、参加する予定だった。

 

 

 

懐かしのキャンパスで、しばし時を忘れて過ごした。大学時代の友達は少ないので、懐かしい顔ぶれには1人も会えなかったが、研究室に行くと当時お世話になった助教授には会えた。Twitterで繋がっているので、近況は全て筒抜けだったが、特に恥ずかしいとは思わなかった。それが今の、人に見せれる等身大の自分だ。

 

10月21日、会社帰りに大江戸温泉物語に行ってみた。

 

 

温泉とテーマパークが一体になったような施設で、色々見所があって気に入った。すれ違う人もみんな楽しそうで、俺も充実した気分を味わえた。いろんなお風呂に入ってさっぱりし、仕事で気分が落ち込んだらここに来よう、と決めた。

 

そして、仕事で気分が落ち込むことは徐々に増えていた。やはりこのプロジェクトは、長年の経験の利はあるがどうも合わない。残業時間は長いし、物事を良しとする際の考え方も、俺と周囲とでかなり剥離していた。

 

やはり何よりも残業があると身体がもたない。休みは取れるが、それも寝て過ごすようになってしまい、10月31日、上司のY課長に「もう無理です」と口頭で相談した。

 

そして、残業しないようタスク量を調整してもらった。みんな頑張れてるのに、自分だけが特別扱い。積み重ねてきた自信は、ここに来てまた揺らいだ。

 

2014年11月〜12月 - 夜明け

 

11月に入ると、自信の揺らぎを支える決定的な何かが欲しい、と思い始めた。

 

ラブライブ!のような1コンテンツではなく、本当に心から好きで、そのために労働も惜しまないようなもの。俺にとってそれは、車しか無かった。

 

生活口座に貯金はほとんど無かったが、労働組合の口座に、積立金代わりに200万ほど貯めていた。

 

そのお金を全て使ったとしても、車のためにまた仕事を頑張って、将来給料が増えれば良いんじゃないかと思った。

 

また、口座で眠っているお金を、一時的に車という資産に変えて、必要なくなったら売ってまたお金に戻せばいい、という考え方もした。

 

どうせ後々売るのなら、新車で買って大事に乗った方がいい。そう考えた俺は、新車のカタログを1週間ほど読み漁り、候補をHONDAのフィットとN-ONEに絞った。

 

11月8日、隣町のHONDAディーラーに行き、両方見せてもらった結果、一目惚れでN-ONEの購入を決めて契約した。

 

初の軽自動車だが、ターボモデルの最上級グレード「プレミアムツアラー」を選んだ。クルーズコントロールやパドルシフト付きで、GT-R時代とは違った街乗りドライブを楽しめそうという理由だった。

 

翌日、ディーラー宛に総額206万円を振り込んだが、これでついに貯金が底を尽きた。お金がないという不安は今年ずっとつきまとっていたが、本当にスッカラカンになると、むしろスッキリしてお金がないという不安は吹っ切れた。

 

11月14日、先々月と同じ場所でまた1枚の写真を撮った。

 

 

今度は夜明けのような1枚が撮れた。実際は夕方である。

 

でも、これを見て俺は、2014年が俺にとって「夜明けの年」になるだろうと思った。翌年からの飛躍に向けて、小さなことを積み重ねてきた年だったんだ、と。

 

11月23日、ニコニコ本社にDQXTVの公開生放送を見に行った。夏祭り以来だった。これからも数ヶ月に一度は、こうして楽しい空間を見に来ようと思った。

 

12月は何も変わり映えなく過ぎていった。当事者会には以前にも増して参加するようになり、私用ではほとんど行かない埼玉にも、当事者会とあっては積極的に足を運んだ。LINEやFacebookの友人の数は、休職前の10倍以上に増えていた。

 

当事者会だけでなく、仕事の技術面や趣味でも人脈を作りたいと思い始め、会社で募集していたOffice Specialist(MOS)の講座に申し込んだり、プランドハップンスタンスという講座に参加したりした。

 

もっとも後者は、会社で27歳になったら半強制的に受講させられていた研修で、自発的に行ったものでは無かったが、そういう機会に出会った人とは、以前とは違って積極的に交流していた。

 

12月19日には、会社の同期の忘年会に参加した。半分くらいが既に辞めた人だったが、在職入社6年目にもなると、研修時代の懐かしい話や仕事の愚痴だけに留まらず、お互いの等級や収入を比べて優劣を競うような話も飛び出してきた。

 

参加者の中で、等級と年収が最も低いのは俺だった。もちろんダイレクトに言われて気持ちの良いものでは無いが、そこにこだわるつもりはなかった。

 

むしろ、等級が高い人にはそれなりの責任や激務が付きまとっていたし、それを拠り所にしないと彼らは潰されそうなんじゃないか、と話を聞きながら心配してしまったほどだ。

 

幸い俺は、今の給料こそみんなより少ないかもしれないが、そのぶん気楽にやらせてもらっている。翌年は障害者手帳を取得し、残りの会社人生を障害者雇用にしてもらおうとも思っていた。

 

そして会社にぶら下がりつつ、東京でいろんな情報に触れてみて、自分に合った環境を探す。会社に休職した分の借りを返せたと思ったら、そこまでで会社を辞めよう。そんな考えに至っていたので、昇格なんてとっくに気にすることじゃなくなっていた。

 

12月には、毎週のように何らかのイベントに出ていた。実家で寝てばかりいた今年前半からは、到底考えられないような進歩だ。

 

そして、この頃はN-ONEの納車が待ちきれず、早く走りたい気持ちでいっぱいだった。そして12月20日、ついに納車された。

 

 

 

この車が、これからしばらく働くモチベーションであり、心の支えでもあるパートナーだ。大事に乗っていこうと思った。

 

12月26日は、2014年最後の出勤日だった。嫌でも1年前のことを思い出した。それでも今年は、キッチリ仕事納めをして、事業部の打ち上げに参加した。

 

そこで先輩から「去年は斉藤君のことがあって大変だった」と休職のことを蒸し返されたが、それは仕方ない。休職歴は会社を辞めるまでずっと、十字架のように背負うことになるだろう。そう割り切った。

 

そして12月27日、冬休み初日。楽しみにしていたN-ONEでの初遠出。銚子に行き、地球が丸く見える丘で景色を楽しみ、海鮮丼を食べ、充実した1日を過ごした。

 

 

旅やお祭りの楽しさを、誰かと分かち合いたいという気持ちもある。でも、今は1人で、やりたいことを全力でやる。欲張るのは、まだもうちょっと先でいい。

 

12月31日、実家に帰って年越しの準備をした俺は、こんなツイートで1年を締め括った。

 

「今年は本当に大量の貴重な経験ができたし、交友関係も広まった。胸を張ってリア充と言える状態に持って行けたと思う。いい1年だった」

 

こうして激動の2014年が幕を閉じた。

 

ベストじゃなくてベターでいいとか、ひとつひとつ小さなことを積み重ねるのが大切。そんな考え方を会得したのも、この年の経験のおかげだった。

 

たまたま今日「ツレがうつになりまして」という映画をPrimeビデオで見た。夫の休職とうつ闘病を、妻や義母が見事に支える内容だった。

 

俺も復帰への長い道のりの間、周りの人の理解や支えが、絶対に必要だったなと感じた。そうさせてもらえる状況で休職できたことに、感謝してもしきれない。

 

そして、休職中の自分自身は何もできないかもしれないが、焦る必要はない。玄関まで這っていくのがやっとだった1月の俺が、2年8ヶ月後にシンガポールに行けるなどとは思いもしないだろう。転職して、スペシャリストとしてCTOに認められることも。初めて彼女ができて、結婚することも。

 

休職中は、その間経験したこと全てが、後の自分にとって財産となる。実際にそう考え、翌2015年から少しづつ出来ることを増やして2020年まで生きてきた俺が、そう強く保証する。