ネットで正義感を振りかざしてしまうメカニズム | オタントニオのブログ

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趣味は車、レース観戦、ラノベ、アニメ、小説、ゲームなど。発達障害当事者で、当初ADHDだと思われていたが後になって「特定不能の広汎性発達障害」と判明。

先日、Twitterでこのようなツイートをした。

 

「久々に過激な記事(とそのコメント合戦)を読んだんだが、ネットの記事なんか相手にしちゃいけないとわかりつつも、正直、読んだだけでムカつくことってあるよなァ。 つまり、勝手に読んで勝手にムカつくくらいなら、最初から読まなきゃよかった」

 

別にバズったわけでも何でもないが、この内容を少し掘り下げたいと思ってこの記事を書いている。

どんな記事にムカついたのか

まず、俺がムカついて、怒りまかせに投稿者にメールを書きかけた記事は以下である。

 

心の絆に価値を置かない「新人類」は約3割いる

 

この記事、それなりにキャリアのある精神科医が書いたらしいが、かなり過激な内容だ。鬱やADHDと30年も関わってきたと誇らしげな割に、結論が「それらは現代の生活スタイルが生んだ奇病だ、人類滅亡への道である」では全くなんにも救われない。現代に合った生きやすさを模索し、患者に寄り添おうという精神科医に必要なハートが微塵も感じられない、ましてITツールが根源だと言い始めるくだりは完全に「八つ当たり」である。

 

それをなんとしても執筆者に伝えないと気が済まないと思った俺は、この記事への反論と記事削除を要望するメールを勢い任せに書いた。そして、その途中でハッと我に返った。

 

この執筆者と俺はもちろん面識ないし、主治医でもない。そんなどうでもいい相手に、俺は何故ここまで怒りを覚えているのだろう、と。そもそも、こんなことに時間を使ってるなんて勿体なくないか、と今さら気づいて、すぐに無駄なメールを書くのをやめたのである。

正義感を振りかざすのは、過去の嫌な記憶を思い出すからではないか

それまで、ニュース記事を読んで電話やメールをしようなんて思ったことは一度もない。Twitterに意見付きでリンクを貼ったことはあるが、それは自分のアカウントに自分の意見を書き込んだにすぎない。何を見てどう感じたか、それを書く場所がSNSだと思っているので、誰かに伝えて具体的にどうしたかったってわけではない。
 
執筆者を攻撃しようと思ってしまったのは、新人類の記事が最初で最後である。それは、この記事が俺にとって「特別な条件」を満たしていたことに他ならない。すなわちそれは「過去の嫌な記憶」との照合だ。
 
このブログで繰り返し書いたことがあるが、前職で休職中、産業医の言動に追い詰められた時期がある。そのことは未だに根に持っているし、一時的に忘れることは容易だが、きっかけがあればすぐ思い出す。当時の怒りまでリアルに蘇るし、しかもタチ悪いことに、あれで再休職や退職をした社員は他にも何人もいたので、泣き寝入りした仲間達の分まで怒ろう!なんて正義感まで湧き出してくる。
 
新人類の記事は、執筆者が「それなりにキャリアのある精神科医」であること、さらに主張が極論であることが、その産業医との共通点だった。だから、最初に「精神科医は患者に寄り添ってくれる」という期待を裏切られるところから、最後に自分の仕事ぶり(記事ではITツールのこと)を批判されるところまで、この記事を読んだだけでキッチリ追体験してしまったのだ。
 
ではどうすればよかったのか。瞬間的な記憶の追体験を予測し、予防することは簡単ではない。最も簡単なのは、自分にとって害のある記事は読まないこと。読まなきゃよかった、の一言に尽きる。
 
が、これは決して俺だけの問題とは思えない。ニュース記事とかネットの書き込みとか、芸能人がテレビで言った一言にまで、怒りを覚えて発言者を淘汰しようと「正義感を振りかざして」しまう人はよく現れる。だからネット炎上が起こる。炎上には必ず「正義感の振りかざし」が付きまとっているのである。
 
見知らぬ人の一挙手一投足にいちいち噛みついてもしょうがないってわかっていれば、炎上なんて起きないはずである。もちろん普段、頭ではわかっている。でも何かの拍子に、つい我を忘れてしまう。それは、その人が過去に経験した何かを瞬間的に追体験し、「新たな被害者を生んではならない」「間違いはここで正さなきゃいけない!」と、コントロールできない正義感という爆発的感情を引き起こしているのではないか、と思うのである。