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城郭模型製作工房

城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

岡山城の本丸模型は、現在、延々と石垣を彫っています。


当初石粉粘土での石垣を構想していましたが、石の数が恐らく万の桁に達するので、腕への負担を考えてスチレンボード製にしました。


300分の1と小さいスケールなので、石の彫り込みは動画のようにシャープペンシルを使っています。

最終的に隅石と天端は粘土で処理して、表面には全面にモデリングペーストを擦り込み、石の質感を出すことになります。

岡山城は時期によって石垣の積み方が大きく3種類あります。

本段の南側や下の段の内堀沿いは一番古い宇喜多時代。大納戸櫓下など中の段南側がその次の小早川時代。月見櫓など中の段の北側は一番新しい池田時代となります。

内堀沿いの石垣。

大納戸櫓下。
丸みの強い石を使った野面積みです。


池田時代は切石を使った整然とした積み方になります。

当然勾配も違います。奥の新しい石垣は立ち上がりが急で曲線を描きます。

本段はまだまだこれからですが、この辺りは宇喜多時代の石垣で、下の方は大きく孕み出し、現物を見ると崩れないかと不安になるほどです。
その孕み出しの下地を粘土で盛っています。

まだしばらく石垣彫りが延々と続きます。






岡山城本丸の模型です。

地形の芯がほぼ完了しました。


まずは台を製作。

約1メートル四方と巨大なため、念入りに台を組み立て枠を取り付けました。この作業に丸一日を要しました。
このくらいのサイズです。

細部は発掘調査のデータを重ねて微調整していきました。

カッターで削って石垣の斜面を造成していきます。

場所によっては航空写真のデータも活用しています。

宍粟櫓と旗櫓のある張り出しの曲輪内部は、発掘調査の結果、御城内絵図とは規模の違う建物跡が見つかりました。

これは御城内絵図の書き起こし(黒線)と航空写真の書き起こし(赤線)です。
御城内絵図の精度の高さがよく分かります。

この蔵群は微妙に建物が斜めに配置されているので、書き起こしデータを直接切り抜いてガイドとして位置を決めていきます。

基礎を並べたところです。

地形の芯はざっくりとした造形ながら、最後まで影響する大切な工程です。このあと石垣表面を覆う素材の厚みなども計算して造形しています。今回はデータ量が膨大でしたので、頭が疲れました。

表御殿の基礎を置いてみました。中の段、本段ともにぎっしりと建物で埋まっていることがよく分かります。

視点を下げてみます。

俯瞰。

旭川側から。

一山超えました!



そして同時進行で豊臣大坂城の天守。
これは、とあるドラマで素材として使用されるということで急遽作っています。

見える部分しか作りません。

用途の関係上、版権のある既存の復元案は使えないため、完全オリジナルです。
図面引きから。
ポイントはどんな復元案も参考にしないことです。七尺グリッドを引いて、ゼロから作図していきます。一目見て豊臣大坂城と分かる外観になるよう意識しました。
当初はこんな感じでしたが修正を加えました。


模型ならではの臨場感が出せればと思っています。
拡大するとさすがに苦しいです。細部の修正が大変そう…
自分で設計しておきながら屋根が交差しまくりで塗装しながらでないと組み上がらずとても作りにくいです(切実)。

撮影時の自然光マジックに期待します。


更新が滞っていました。
曲輪の造成に入っています。

まずイラストレーターで作成していた原寸データを出力しました。

本体サイズは95センチ×110センチです。A4の紙で20枚になります。このサイズになると工房から出せません。

このあと台を製作して板を張り、標高データをもとにスタイロフォームで曲輪を造成しました。

現在、そこに発掘調査のデータを重ねていっています。

より正確な地形が作成できそうです。

内下馬門の枡形です。

そうそう、天守も塗装を進めています。塗装はまとめて記事にします。

このところ更新が滞っていたのは、とある雑誌の作例が入っていたのでした。

これは最終的に締め切りギリギリになり、郵便局の窓口にあとちょっとのところで間に合わず、編集部持ち込みに。日帰りで東京。

そのちょっと前は熊本城へ取材に。この日は調査研究センターへの用事もあり、その場へ福山城研究家さんをお連れしていました。

ちょうどその直前には雨で元太鼓櫓が倒壊したというニュースが流れていました。これがその元太鼓櫓の様子です。


この次の日は福岡城を案内しました。
おそらく20年ぶりくらいかもしれない…

改めて今見るとなんと立派な天守台。12間×11間と豊臣大坂城の天守と同じ規模!です。

これはフェイクの入り口。この先は小さな天守曲輪のような枡形閉鎖空間に至りますが、天守への入り口はありません。もう1つの埋み門を抜けたら天守へ至るか!と思いきや、天守の反対側へ出るだけです。しかもそちら側からは天守へ入れないという…
天守の入り口は中天守(!)台と小天守台の間にあります。

天守の穴蔵です。礎石がきれいに並んでいます。

初めから建てなかったのか、文書にあるように崩して徳川大坂城の部材に提供したのか…

現存の多聞櫓。切妻の多用と頬杖の感じは広島城にも通じますが、個人的には肥前名護屋城の影響だと思っています。




岡山城の天守、造形がひと段落しました。

 

動画のように地味で地道な作業を繰り返してどうにかここまできました。 

 

エッチングパーツの完成で一気に進みました。 


最上階がちょっとつぶれて見えますが、これはおそらく仁科氏の実測では測りきれなかった数値があることを感じました。  
 

全景模型は上から見下ろすものなので、屋根は特に綺麗に見えるように配慮しました。  
 

鬼瓦の数は今作った部分だけで43。同じ数の鳥衾もあり、これがなかなか大変な作業ですが、あるのと無いのでは雲泥の差です。  
 

最初に組み上がった段階がこうだったと思うと 
 

いかに破風と棟が建物の印象を作り上げているかがよく分かりますね。 
   

窓は塗装後に取り付けます。 
 

塩蔵ができればいよいよ岡山城天守の全貌が模型になります。  



週末、福山城研究家の野毛(のも)さんのお誘いを受け、福山城へ行ってきました。

福山城は2022年に築城400年を迎えます。そのプレイベントが9日と10日に行われたのです。


9日は内堀の現地説明会。
そのあと野毛さんと二人で城内探索。
これは鐘櫓の鐘が鳴る瞬間の貴重な映像です(野毛さん撮影)。城好きの二人が少年に戻っとる。

scene 1


この晩は深夜まで城談義となったのですが彼が生粋の備後弁じゃけえ、うつってしもうてのぉ。


2日目はイベントのメイン、石引き。小学生でも引けた!石工さんの貴重な解説も聞くことができました。


今回の福山城での学びは、天守前面の付庇と小天守(付櫓)について。
つなぎ目が変なんです、ということで。窓が….
こっちも…

気づかなかった。
そして見つけたのが石垣!小天守と付庇の台の石垣は大天守の石垣と1つも噛み合っておらず、被さっているのが分かります。多分増築の石垣です。

焼失前は付庇内部に向かって、大天守前面の窓が並んで開いていたそうで、正保城絵図にも天守は独立で描かれているとのこと。

もっと細かくいうと、古写真を見るとこのつなぎ目で付庇側の垂木幅などを細かく調整したあとが見られるそうで、付庇と小天守は後世の増築の可能性が高いようです。

ちなみに、福山城は研究が進んでおらず、このことを根拠をあげて指摘した方は誰もおられないとのことで。
(野毛さんと。)

野毛さんは福山城の古写真も大量に所蔵されており、とにかく細かく細部の寸法を調べ上げておられる最中です。恐らく、焼失前の福山城に今一番接近しておられるのでは、という印象を受けました。

彼の監修で模型を作る日がくるかも??

そのまま私は広島に立ち寄り

宮島。

千畳閣。

その小屋組。

千畳閣は秀吉により建てられ始めますが、途中で秀吉がこの世を去ったため未完成のままです。近年の修復時に軒瓦には金箔が押されました。もうだいぶ剥落して下地の朱漆が見えています。

そして帰ってくると岡山城のエッチングが完成して届きました!

天守がようやく完成に向けて動き出しました!